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頼朝が禊(みそぎ)のために服をかけた石・・・枇杷島神社  

U6jS6CSB4LxNfze1419411196_1419411213.jpg枇杷島神社から瀬戸神社を望む
二つの神社の間を裂くように、国道が走っている。
vL7C5rnWvQFh1Cn1419411276_1419411291.jpg福石
源頼朝が、瀬戸神社参拝のため、枇杷島神社のある平潟湾で禊(みそぎ)をしたときに、衣類をかけた石なので「呉服石」または「福石」とも呼ばれています。
出典 横浜金沢観光協会

横浜金沢観光協会はここをクリックしてください。





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姫君と乳母の秘話  

美女石
数ある金沢(横浜市金沢区)の名所名物の中に金沢四石があった。
美女石と姥石は称名石境内の阿字ヶ池(上の写真)にあり、他の二石は枇杷島天神の福石と金龍院の飛石であるが、これらに就いては後日掲載の予定です。
金沢四石については、江戸時代初期の「巡礼物語」にでてくるので、古くから名物として知られていたらしいが、幕末ごろになるとほとんどの案内書に登場し、多くの絵図に描かれている。
美女石と姥石の秘話
その昔、北条の姫と乳母が称名寺の池の周りを散歩していたとき、姫が足を踏み外して池に落ちた。
乳母は姫を助けようと池に入るが、二人とも溺死しやがて石になってしまったという伝説がある。
またおぼれた二人を供養するために、その場所に二つの石を建てたと言う伝えもある。
この伝説には歌まで添えられている・
「称名の みのりの池の美女石も 姥もろともに 蓮のうてなに」
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
tpfvt1H4egDP_Ma1417161503_1417161521.jpg称名寺金堂






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鎌倉時代の名裁判官・・・青砥藤綱の墓  

青砥藤綱の逸話へリンクします。

今では馴染みのない名前であるが、正式には青砥左衛門尉藤綱。
鎌倉時代の執権・北条時頼に仕え、引付衆(ひきつけしゅう)を勤めた武将である。幕府の訴訟審理を担当し執権を補佐する役で現在の裁判官にあたる。
藤綱の人物を垣間見る逸話が「太平記」に出てくる・・・・上記のリンク先に逸話を紹介しています。
ただ藤綱については「吾妻鏡」など幕府の公式記録には名前が出ていないことから、実在に疑問がもたれている人物でもある。
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄

xKV6NL0UucmN50L1416993497_1416993511.jpg青砥産土社

yYJLwsDsNVtv8qM1416993600_1416993615.jpg青砥藤綱の墓





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江戸城三大刃傷の一を引き起こした父子の供養塔はここに・・・慶珊寺  

慶珊寺
横浜市富岡八幡宮に近いところに慶珊寺はある。
寺を創建したのは豊島秋重公。豊島公といえば武蔵国に一大勢力を張った豪族であったが、室町時代に大田道潅との戦いに敗れ、四百年以上にわたり支配した所領のすべてを失い没落していた。
かっての名門豊島氏に、ようやく日の当るときが訪れた。
後北条氏が滅亡し、家康が関東に入国して間もない文禄三年(1594)、秋重は家康から召しだされ旗本に列せられたのである。戦死した父頼重の戦功もあって富岡郷(横浜市金沢区)に千七百石の領地を賜った。時に秋重十六歳であった。
孝養心の篤い秋重は、両親の菩提を弔うため花翁山慶珊寺(かおうさんけいさんじ)を建て、また領内の繁栄を願って富岡八幡宮の社殿を造営するなど領民から篤い信望を得ていた。
そんな平和の続く寛永五年(1628)、降って湧いたような大事件が起こった。こともあろうに、秋重自身が江戸城内で老中・井上主計頭(いのうえかずえのかみ)を殺害したのである。
ことの怒りは、今をときめく老中・井上家の長男と、大阪町奉行・島田家の娘の縁談であった。仲人の労をとったのは秋重である。
ところが、いよいよ婚儀の日が近づいたとき、井上家側から今回の話はなかったことにする、と一方的に破談を申し入れてきた。
しかも井上家では山形の二十二万の大名・鳥居家の娘を迎えるというのだ。
仲人として面目は丸つぶれとなり、納まらないのは秋重である。井上を問い詰めるが「上意である」と言い逃れをするばかり。この裏には大奥で強大な権勢を振るっていた春日局(かすがのつぼね)の意向があったらしいのだ。
秋重は、武士としてあるまじき井上の二枚舌と、将軍の威光を傘に上意をかざす理不尽な横やりに激昂した。そしてある決意を固め、妻子にはひそかに意中を打ち明けてあった。
運命のときが訪れる。八月十日、秋重は西の丸殿中で井上に出会うや「武士に二言はないはずだ!」と絶叫し一気に井上を切り伏せた。城内はたちまち大混乱となる。
止めに入った小姓を振りほどき、秋重はもはやこれまでと太刀を逆さに持ち替え自分の腹を刺し貫いた。
その四日後、息子の継重(十四歳)も連座して切腹を命ぜられた。
ここに名門豊島家は断絶となったのである。
江戸城内での刃傷といえば、この豊島事件から五十六年後に若年寄稲葉石見守が、大老の堀田筑前守を殺害した事件、さらに十七年経った元禄十四年(1701)、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介にきりつけた松の廊下z件がある。
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
井上主計頭の墓については、本ブログリンク先「掛川市」を見てください
tK0WmQkESGPryUS1416822401_1416822411.jpg豊島父子の供養塔






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乱暴狼藉の男が寺を開創・・・光傳寺  

DIxhTNRViV6Gkpq1416469440_1416469470.jpg光傳寺
創建は天正元年(1573)と伝えられ、本尊は阿弥陀如来である。
この寺の十二世の慧通住職が次のような「光傳寺縁起」を書き留めている。
昔、六浦(横浜市金沢区)の地に長野六右衛門という恐れを知らぬ豪勇の男がいた。
各地を横行し、乗っている馬が疲れると、他人の馬を奪っては次々に乗り捨てる、という傍若無人の男だった。
ある夜、千葉の白浜を通っていたときのこと、乗っていた馬が立ち止まって進もうとしない。
と、そのとき、暗がりの中に怪しく光るものが近寄ってきた。六右衛門は馬から飛び降りるや、その光を一太刀で突き刺し、刺したままにしてその場を立ち去った。
翌朝、その場に行って驚いた。なんと阿弥陀様の御首が落ちており、自分の太刀が御首を突き刺しているではないか。
さすが蛮勇の六右衛門も仏罰の恐ろしさに身を震わせ、前非を悔いて御首を大切に抱えて六浦に帰った。
すぐに草庵を建て御首を安置し、やがて導師を招いて光傳寺を開創したという。
だがご本尊は御首だけ。どうしたものかと思案していた六右衛門は、夢のお告げで「鎌倉の二階堂に胴体だけの仏がある」ことを知る。
早速、その胴体を譲り受け、御首をのせ整えたのが現在のご本尊だという。
御首は春日の作、御胴体は三尺二寸の運慶作と伝えられる。

出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
eYlSG3vmcujJZbJ1416469502_1416469514.jpg鐘楼と厄除け地蔵尊





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