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鹿島大神  

鹿島大神
鹿島大神由緒沿革
祭神:武甕槌命(たけみかつちのみこと)
本神社は鎌倉時代、現在の鹿島田辺りに開墾に入った人々が、今日関東地方で広く知れ渡った鹿島神宮から勧請して創建されたと伝えられています。
やがて開墾が進み水田が出来上がるとこれを村の鎮守貸間大神に寄進した。のちに鹿島田の水田・・・・こうしていつの間にか「鹿島田」という地名が生まれたと言われています。
文献上に初めて鹿島田の地名が見えるのは、鎌倉時代で弘安九年十一月二十九日鶴岡八幡宮に寄進され「武蔵野国鹿島田郷」と記されています。
町名にも由来する鹿島大神は、昭和の始め頃までは「鹿島さま」といわれていて十二月には大きな市がたち、奉納相撲などもあり近隣の村々から大勢の人々が集まり大変賑わったといわれています。
mMfLIzPlatMkifr1418725683_1418725708.jpg鹿島田大神





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category: 川崎市

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赤穂浪士討入りの後に・・・  

この記事は、前号の「そろそろ赤穂浪士の時期ですが・・・」にリンクしています。
また銚子塚が、古墳という立場から取り上げられているブログもありますのでリンクします。
リンク先 「川崎の古墳 平間銚子塚」(カメさんと遺跡:Kame naokiさん)
oLbDj060656teDW1418550020_1418550035.jpg銚子塚

銚子塚
この塚は「銚子塚」と呼ばれ、「土人云塚の形銚子に似たれば名くと」と「新編武蔵風土記稿」にも記されています。
また、一説によると、江戸時代中期の赤穂浪士討入りの際、大石内蔵助の一行が平間に滞在し浪士の一人、富森助右衛門が大工の喜右衛門に送った銚子が、この塚の祠にまつられているといわれています。
出典 川崎市史他
noyxOqim6KDK1011418550068_1418550079.jpg銚子塚祠





category: 川崎市

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そろそろ赤穂浪士の時期ですが・・・称名寺  

若い人達は「赤穂浪士」を知ってるんでしょうか・・・・
今回は川崎市称名寺に伝わる「赤穂浪士」の隠れ家について紹介します。
GLLUzUk_wO7fSos1418376430_1418376458.jpg称名寺山門

VPYZ7ziTdolSJD01418376489_1418376498.jpg称名寺本堂

QbZoESvadlqWqLQ1418376526_1418376536.jpg山門脇の石碑
JR南武線(川崎-立川間)鹿島田駅から徒歩10分近くのところにこのお寺はあり、門前には写真のような碑があって、赤穂浪士の隠れ家の伝説がある。
元禄の頃、このあたりに軽部五兵衛がいた。
五平衛は、江戸の鉄砲洲にあった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の屋敷へ出入りして秣(まぐさ)を納めたり下肥をとったりしていた。
そして、堀部弥兵衛、大高源吾らと親しくなっていた。
元禄十四年(1701)三月十四日、かの殿中刃傷事件がおき浅野家は断絶、家臣は浪人の身となって投げ出された。
いく月かたった或る日、堀部弥兵衛、大高源吾、富森助右衛門が五兵衛に浪士の隠れ家を求めてきた。
五平衛は快く引き受けた。また五平衛と親しい平間村の大工、喜右衛門は浪士のために五両という破格の安値で家を建てた。
元禄十五年(1,702)十月七日、京都山科にいた大石良雄は、名を垣見五郎兵衛と変えて江戸に二十六日に五平衛の隠れ家に入った。
十一月四日夜、別れの宴が称名寺で開かれ、大石良雄は五平衛にひと振りの太刀を、富森助右衛門は大工の喜右衛門に銀の*銚子を贈った。

出典 神奈川の伝説 永井路子・萩坂昇・森比佐志
*銚子塚については、次回で紹介します。





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亀の恩返し・・・宗三寺  


残念ながら、本堂は工事中でした。
旧東海道川崎宿沿いの、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。
勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
「江戸名所図会」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。

出典 門前の案内板(川崎市)
寺伝による亀の恩返し
寺伝では十三世紀のころ、僧領室玄統が開山した宗三寺、玄統がまだ若く、諸国修行の旅に出たとき、この地を通ったが、しきりに水を求めていた。
そのとき小さな亀が現れて、玄統を池に案内し、水を授けた。
やがて大僧正となった玄統はそのとき亀を思い出し池に行くと大亀が現れた。玄統は亀の恩に報い一堂を建てた。
これが宗三寺のはじめという。
それから月日の流れたある年のこと、この堂が多摩川の氾濫で押し流されそうになったとき、大亀が現れ濁流に向かっていった、すると濁流は不思議に亀に押されるようにひいていき、堂は難を逃れた。
だが今までどんな旱(ひでり)でも涸れたことのなかった亀のいた池は、それから水のない池となり亀もいなくなったという。

出典 神奈川の伝説 永井路子・萩坂昇・森比左志

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守護猫?の怒り





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しょうづかの婆さん・・・平間寺(川崎大師)  

v8EuIOVfzktg4nW1413451729_1413451742_201410161840124fe.jpgしょうづかの婆さん
人は死後三途(さんず)の川を渡るという。
その川の奪衣婆(「だついば)すなわち「葬頭河(そうづか)の婆」が訛って「しょうづかの婆さん」と呼ぶようになったらしい。
その昔、品川のお台場にあったといわれ、「台場の久兵衛様」とか「歯のお地蔵さん」と呼ばれていたこともあったという。
昔から歯の痛みをいやし、容貌を美しくすると信じられ、その他にも健脚や諸願をかける人が多く、香華絶ゆることがない。

-平間寺-
UOrcC8F3TJWmwI71413452313_1413452323.jpgしょうづかの婆さん





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