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中世のやぐらと「なきつるがさき」  

やぐらのある小さな公園

逗子市浄水管理センタ入り口の小さな公園の崖に、中世の岩ヶ谷(いわがやつ)やぐらがある。
ここは鳴鶴ヶ崎といって、裏山から縄文・弥生時代の土器片、土師器(はじき・・・素焼きの土器)の包含層や、近世の古銭寛永通宝、茶椀、陶器また鉄鍋をかぶせたと思われる年少者の人骨が発見されている。
出典 三浦半島の史跡みち 鈴木かほる

vazKTeTA8AG3dH81392200429_1392200443.jpgやぐら

なきつるがさき
昔は「泣きつらがさき」だといって通る人からいやがられたくらい道が悪かったのです。
「なきつるがさき」という名は源頼朝が鎌倉に飼っていた鶴が、ここまで飛んできてはよく鳴いたから「なきつる」と名前をつけたそうです。

出典 逗子の伝説 逗子教育研究会

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亡者の着物を剥ぎ取る鬼婆  

葬頭河の婆

浄土宗:海宝寺
中興開山は、大蓮社然誉音応和尚で、本尊は聖観世音菩薩像である。
寄木造り玉眼嵌入の漆箔の優美な像である。
せまい境内の一段と高いところに葬頭河の婆を中心に、無数の無縁塔が取り囲んでいる。
この鬼婆は、三途の川のほとりにいて亡者の着物を奪い取り、衣領樹の上にいる懸衣翁に渡す役割を演ずる鬼婆のことで、三浦半島ではここでしか見られない珍しい像である。
しなびた乳房はこの鬼婆の特徴でもあるが、堂々たる体躯はちと婆さんの像としては似つかわしくない。
ここに並ぶ無縁さまも、おそらくこの鬼婆に監視されたのであろうか憤怒よりも苦悩を表したような不可解なこの表示はなかなか異形である。

出典 三浦半島の古刹めぐり 松浦豊

3lWZJTLU_jjnz2S1392028554_1392028566.jpg海宝寺

UKKR52wtNnWpPwU1392030334_1392030348.jpg六地蔵

category: 逗子市

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鐙摺(あぶずり)の不整合  


ここは三浦半島で一番古い層の上に、これより若い逗子層が傾斜不整合の関係で重なっている露頭で、「鐙摺の不整合」として、古くから知られているところです。
右下方から左上方に向かって認められる凸凹に富んだ不整合面を境として、逗子層は北に緩く傾いているが、葉山層はほとんど垂直に近い傾斜を示していることから、葉山層堆積後、逗子層堆積前に大きな地殻変動のあったことがうかがわれ、関東地方の生い立ちを知る上で貴重な資料とされています。
不整合面のすぐ上には、葉山層の砂岩・泥岩などの礫から出来ている基底礫岩がみとめられ、ミウラニシキその他の貝化石が多数含まれています。

出典 逗子市教育委員会

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category: 逗子市

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「お・も・て・な・し」で幸せに・・・新箸の宮  

新箸の宮が合祀されている久木神社久木神社
y7Zequ3JHJpOxYw1387100955_1387100965.jpg久木神社
uBAzxD7xgodt1zk1387100997_1387101021.jpg MJeGI9GVGhWCy6h1387101080_1387101089.jpg

新箸の宮の伝説
このお宮はもとは久木(逗子市)の名越旧道にあったが、今は久木中学校のそばの久木神社に合祀されています。
話は今から七百八十年ばかり前、治承元年(1177)七月二十六日、伊豆の蛭が小島に流されていた源頼朝が、三浦方面へ二度目のお忍びの旅をされたときのことでした。頼朝はこのとき三十才を少し越えたぐらいの年でした。
従っていた家来は真田余一義忠と、義忠の家臣柳川弥次郎の二名だけです。
鎌倉の八幡様におまいりして、山越しに逗子のほうへ出ようとしたとき、山道に踏み迷ってしまいました。
あちこちと道を尋ねたあげく、一軒の草家の前に出ました。かすかに機(はた)を織るおさの音が漏れてきます。
頼朝主従は馬をかたわらのモチノキにつないで、義忠が案内を請いました。障子をあけて一人の少女が出てきたので「山道に迷って困っておる者だが、暫く縁先に休ませてもらいたい」と頼みました。
少女は丁寧に会釈をして「見苦しいあばら家でございますが、どうぞお入りください」と長い黒髪を重そうに垂れて顔を赤らめながらわずかに答えました。主従三人は縁先に腰を下ろして眼の下に広がるすばらしい眺めに見入っております。遠くは伊豆、するがの山々、近くは鎌倉・三浦を一目に納めて、すぐ目の先には田越川が群青色に横たわっております。やがて少女は庭先に湧く清水を汲んで、門口につないである馬に飲ませ、急いで焚いた粟の飯に、かやの茎を切って作った新しい箸をそえて頼朝主従にすすめました。
頼朝は「これは源氏がやがて栄えるめでたいしるしである」と言って大変に喜ばれました。
景色も美しいし、粟飯は美味しかったし、もてなしてくれた少女の態度はいともしとやかに美しかったので、頼朝たち主従三人はすっかりうれしくなってしまいました。義忠が「そなたの名は何と言われるか」と訪ねますと「申し上げるほどの者ではございませんが、父は久野谷六大夫、私はその娘で機織りをしております広尾と申す者でございます。親子二人で貧しく暮らしております。」と遠慮がちに答えました。
床の間に立てかけてあるうつぼ(矢を入れて腰につける道具)とくつわに目をふれた義忠は「あのうつぼとくつわの由来をお聞かせください」と遅れて縁先に出てきた六大夫に尋ねました。
六大夫は「私は若い頃馬を扱う心得が少しばかりございましたので、源家の若殿義平様の沼間(逗子市)のお屋敷へ召されまして厩(うまや)につとめ、おおくらの合戦には義平様の馬のくつわをとってお供をいたしました。平治元年に義平様が京都へ上れますときには「私が再び京から帰ってくる日を待っておれ」とおおせられ、この品をいただきました。ところがご武運つたなく、ながのお別れになってしまい、わたくしはまたもとの卑しい身分になってしまいました。あの品は若殿様の記念として大切に保存しておる次第でございます。」と涙を流して物語るのでした。
頼朝もすっかり感激して「わたしは義平の弟の右衛門佐頼朝である。お前の主人を思う心にはすっかり感心してしまった。」とおっしゃったので六大夫父娘は平伏して頭を上げることもできないほどでした。
のちに頼朝が征夷大将軍として鎌倉幕府をつくってから六大夫をたずねて久野谷の名主にしました。
そして六大夫の願いを入れて将軍自ら仲人役をして柳川弥次郎を六大夫の娘広尾のお婿さんとしました。
和田義盛の代官として名を知られた久野谷弥次郎というのはこの人だといわれています。
村の人々が山の中に草家を記念としてお堂を建て「新箸の宮」といいました。
この新箸の宮はまた疱瘡ばあさまと呼ばれています。
種痘のなかった昔は、天然痘は大変恐ろしい病気でした。ところがここのお宮は疱瘡を治すのに大変霊験があらたかであったといわれています。

出典 逗子の伝説 逗子教育研究会国語部(昭和31年3月21日発行)

category: 逗子市

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掘り出された日蓮像と入定墓・・・妙光寺  

妙光寺山門
江戸時代の終わりごろに書かれた「新編相模国風土記稿」という書物の中には「室町時代のはじめごろ、今から五百六十年位前、松岡さんのご先祖は、鎌倉松ヶ岡に住む富永三郎左衛門という。
足利持氏(第四代公方。鎌倉市大町の別願寺に供養塔がある。)に仕える武士でしたが、長く続いた戦いが嫌になって武士をやめ、名を松岡富永と変え、久野谷(現在の逗子市久木)に移り住み、百姓の暮らしをするようになりました。
そんなある日、賢信という旅の僧が訪ねてきました。信心ぶかかった富永夫妻はこの僧を厚くもてなしました。僧は久野谷や柏原、山の根、池子などの村々をお経を唱えてまわり、松岡家の裏にある岩穴の中で修行しました。
ある夜のこと、富永の夢の中に、日蓮上人という偉いお坊様があらわれて、土の中に埋まっている自分の像を掘り出してまつってくれと頼みました。
目覚めた富永は不思議に思って賢信にそのことを話すと、賢信も地中から聞こえてきたお経の声のことを話しました。
そこで声の聞こえたあたりを掘ってみると日蓮上人の小さな像が出てきました。富永はこの像をお祀りするためのお堂を建てました。
富永夫妻が亡くなった後、子の雅楽之助は、父の法名法久と母の法名妙光をとって法久山妙光寺と呼ぶ新しいお寺を松岡家の地所に建てたといわれます。
掘り出された日蓮像は今も妙光寺にまつられています。

出典 逗子子ども風土記 逗子教育研究会調査部

EQ1U9MRNUKcNEnT1386756478_1386756489.jpg本堂

KWakkUOv8IMz3YD1386756550_1386756561.jpg鐘楼

山門を入って右側の墓地に一心坊墓碑があります。
一心坊は柏原村名主関家の向う山で入定された旅の僧と伝えられます(時未詳)
医薬等の乏しい頃、病にかかった人が願をかけ、治るとお礼に酒入りの竹筒をあげたので、祠の柱にはたくさんかけられていたそうです。

C182ZwB34EvrBKn1386756596_1386756606.jpg一心坊入定墓
入定塚(墓)については下記のリンクも見てください
1.生きながら仏になった入定様
2.ここにもあった入定塚

category: 逗子市

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