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政子の嫉妬は家をも打ち壊す・・・鐙摺(あぶずり:葉山町)  

旗立山
鐙摺(あぶずり:三浦郡葉山町)周辺は、三浦氏の重要な拠点の一つで、鐙摺城跡とされる。
日影茶屋前の丸山(上の写真)は軍見山、旗立山の名称が残り、物見台であったことが知られる。この近くに三浦一族の大多(田)和義久の館があり源頼朝の愛妾亀の前が匿われた出来事は吾妻鏡に詳しい。
頼朝には伊豆配流の頃からの愛人「亀の前」があり、鎌倉に落ち着いた寿元元年の春頃から小坪(逗子市)へ呼びよせて通っていたが、やがて飯島に移してしげしげと訪れるようになった。
このことを牧の方の告げ口で知った政子は大いに憤り、牧の方の父親牧宗親に命じて手勢を差し向け、飯島の家を打ち壊させた。
亀の前を預かっていた伏見広綱は命からがら亀の前を連れ、鐙摺の義久の館に逃げ込んだ。
頼朝は早速遊興に事寄せ、鐙摺へ出向いて、広綱と宗親を対決させる。
宗親は砂に額を擦り付けて謝ったが頼朝は許さず、その髻(もとどり)を切って恥を与えた。
宗親は面目丸つぶれで鎌倉に戻り、北条時政に訴えた。
愛する後妻の父を辱めたとして時政は兵をまとめて伊豆へ引き上げてしまった。
鎌倉中の大騒動に発展したこの嫉妬事件も、平家討伐前の大事の前にうやむやになってしまうが、なぜ「吾妻鏡」が、政子にとって不名誉とも思える事件を記述したのか不思議である。

出典 郷土誌さくらやま 桜山の昔を語る会編

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森戸神社と飛柏槇と千貫松  

森戸神社
ご祭神は大山祗命、事代主命
ご神体は良弁僧正が祀った鏡面に鋳出したと伝える束帯坐像
縁起によれば、源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に配流中、三島明神に源氏再興を祈り、治承四年(1180)八月、挙兵が実現したことから、ここにあった山王社に三島明神を分祀したと伝える。
「吾妻鏡」には杜戸で代々「七瀬(陰陽道)の祓え」を行っていたと記され、源氏はもとより、北条氏、足利氏の尊崇も厚かったようである。
この森戸岬は、鎌倉幕府御家人三浦氏の馬場であったことは確かで、頼朝、実朝、頼経などの歴代将軍も参詣の折り、騎馬の武事を行っていたようである。
岬は低い岩浜が沖の名島まで続き、そこに頼朝が別殿を建て、御殿原と呼んでいた。
今でも岩原にその柱跡や井戸跡が残るという。

出典 三浦半島の史跡みち 鈴木かほる

7AgmKfpc0zSBQPU1392362143_1392362158.jpg御殿原
左側に突き出た辺りが御殿原であり、赤い鳥居が建っています。

TwdDWBOgfHwmq2W1392362194_1392362205.jpg源頼朝公別邸跡の碑

_QbICA1tMKomEkB1392362048_1392362060.jpg千貫松
この松には頼朝にまつわる伝説がある。
養和元年(1181)、頼朝は三浦大介義明追悼のため、衣笠城(横須賀市)へ向かう途中この地で休憩した際、ふと傍らの岩松を観て「いかにも珍しき松よ」と褒めると、和田義盛は「我らはこれを千貫の値ありとて、千貫松と呼びて候」と答えたという。

出典 三浦半島の史跡みち 鈴木かほる

tmpLeyoT4PVn7sl1392362096_1392362108.jpg飛柏槇
はるか伊豆三島明神から飛んできた種子が発芽し、今日の大木となったという伝承がある。
幹周り3.4m、推定樹齢凡そ800年のご神木である

出典 三浦半島の史跡みち 鈴木かほる

この神社は鎌倉諏訪神社と夫婦



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鎌倉での立教開宗の前に・・・本円寺  

本円寺山門と本堂
建長五年(1253)日蓮上人は、故郷房総の清澄山を降りて、鎌倉へ立教・開宗をなさんと、海を渡り横須賀の米ヶ浜に上陸し、衣笠から木古庭に差し掛かり、村人に教を広めんと、ここに草庵を結び滞在したと伝えられる。
そして法華の道場として本円寺の開基となり、延慶三年(1310)日蓮上人の弟子、日印上人によって開山となった。
本寺は朱印三石の由緒をもつ名刹で、日賢上人により再興されたが、大正八年に火災、現在の建物は大正十二年に再建されたものといわれる。
この寺から、池上方面に向って急坂(高祖坂)を登ったところに高祖井戸がある
リンク先はこのページ下にあります。
法塔

上行菩薩

文殊菩薩

普賢菩薩

高祖井戸へは、下記をクリックして下さい
高祖井戸



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枯れることのない井戸水・・・高祖井戸  

高祖井戸

これが日蓮上人ゆかりの高祖井戸である。
この井戸は、バス停から登る急坂の右側の、竹・樹木の生い茂る施米山道を少しおりて、竹林の続く斜面の奥に、ブロック造りの囲いに覆われた半円形の井戸で、上人の加持水、硯水の法人により、水はいつも枯れることなく、こんこんと湧出している。

出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

なお、この近くには本円寺がある。
高祖井戸への案内板
あまり目立たない案内板であるので、見落としのないように注意してください

右側竹林を見ながら歩くと、奥に井戸がある
案内板から入ると、右側竹林で、道は狭く注意して歩いたほうがいい
井戸脇に建つ法塔



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本円寺へは下記をクリックしてください  
本円寺

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三浦三不動のひとつ  

畠山次郎重忠公(1164〜1205)は不動明王の熱心な信者で、高倉天皇の折、衣笠城に三浦大介義明を攻めることになりました。木古庭の畠山という場所に城を築き、守り本尊の不動明王像を安置して戦勝を祈り、戦ったところ、御利益があって勝利しました。凱旋の後、重忠公が像をこの滝谷山に勧請すると、一夜のうちに山から清水がこんこんと湧き出で、一條の滝となったということです。この滝は100日の旱魃にも涸れる事無く、人々の飲料や田畑の用水として利用されました。また、江戸時代の宝永年間の大旱魃にこの不動明王に祈ったところ、湧き水の量が増し、収穫が出来るようになったので、この霊験に感激した領主が修復料と寄附証を贈ったという歴史があります。
この滝に打たれて病を治療する人も数多く、毎年正月、5月を縁日・8月中旬日曜日を大祭と定め、五穀豊穣・家内安全・無病息災・商売繁盛・交通案穏の加持祈祷があり、参詣者が多くあったと記されております。
出典 日蓮宗大明山本圓寺HPより抜粋
不動の滝
不動堂
畠山公一族顕彰慰霊塔

畠山重忠関連の記事は、下記の赤字をクリックしてください。
哀れ稚児を殺すとは・・
三崎海南神社
腹切の松

   
高さ:50センチ 長さ:35センチ 幅:21センチ 明和四年製作
「木古庭の鎮守」として古くから人々の信仰を集めているこの不動尊は、地域の嫁出し・嫁取りの時には必ず新婦が参詣して幸福を祈るという風習がありました。また、戦時中は応召者は必ず参詣し、帰還の折には無事の報告に詣でました。
不動明王像は木造で、身の丈32cm、腰回り25cm、火炎の高さ42cm、幅17cmの大きさです。お顔や身体は青紺色で、火炎は赤に彩色されています。
不動堂から50m位下ると不動の滝があります。この滝は三浦半島随一と称され、刈山の大楠山ハイキングコースにも組み入れられています。縁起中に「滝に打たれ衆病の治療せし者数ふるに遑あらず」とあり、実際に南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら、一心に水に打たれて念じる人が暫々見られました。
明治、大正の頃は、今日のような海水浴の風習がなかったので、夏の暑さを凌ぐためにも滝への参拝が多く、たくさんの茶店ができました。これらの家屋はいまだに残っていて、現在では人の住居となっています。
境内にある大きな紅葉はご神木で、この一帯は町の天然記念物に指定されており、里人の誇りとして、また憩いの場として親しまれています。
更に「畠山次郎重忠公一族郎党の霊」と書かれた供養塔があり、今でも重忠公の徳を偲んでお花や線香をお供えする方もおられます。
出典 日蓮宗大明山本圓寺HPより抜粋



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