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2012年10月の記事一覧

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今にもかもめが・・・・  

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かもめの羽ばたき

今にも飛び掛ってきそうなかもめですが・・・実は餌をねだってるんです
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category: 箸休め

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ここで大惨事が・・・・  

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殉難者供養塔
バス事故で19名焼死
[建立の趣旨] 昭和弐拾五年八月建立
昭和弐拾五年四月拾四日拾壱時三拾五分三崎行トレーラーバスが当地を通過の際、、乗客の喫煙後投じた燐寸より、他の乗客の携行せる瓦斯倫に引火爆発し、車内にて火災を起こし、不幸にして焼死者を出したことは誠に哀悼に堪えず、本碑を建立しその冥福を祈るものである。
発起人:京浜急行労働組合三崎班
後援者:京浜急行電鉄株式会社
    京浜急行労働組合有志
    その他有志

所在地:横須賀市自衛隊少年工科学校前

category: 横須賀市

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歯痛、頭痛にご利益  



粟田の地蔵さん20121027011.jpg
この地蔵尊は、粟田の地蔵様と申し、粟田街道を旅行く人々の道中安全や歯痛・頭痛その他諸願に霊験ありと敬れ、諸願成就のお礼には、貝殻を捧げる習わしがある。
強調文昭和46年粟田の土地開発で、やむなく田中家当主がここに御移祀申し上げた次第である。

昭和51年5月建立 田中義蔵

所在地:横須賀市野比1-27

category: 横須賀市

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姑にいびられて、死んだお松さん  

小松が池
小松が池
この大沼は、「小松が池」あるいは「お松が池」といい、古くから里人の間に、この沼にまつわる物語が語り継がれています。
むかし、この池の辺りがまだいくつかの小さな田に分かれていたころ、お松という嫁が一人田植えに励んでいました。
お松は、意地悪な姑に、一人ではとっても無理なほどの田植えを言いつけられていたのです。
すでに太陽は西山に隠れようととしているのに、田植えが終わらず、困りはてたお松は天を仰いで「あと半刻あれば田植えが終わるものを」と嘆き悲しみました。
すると不思議なことに、沈もうとした太陽がにわかに数尺も高く東へ戻り、おかげでお松は無事に田植えを終えることが出来ました。しかしそのとき、あたり一面は深い泥沼と変わりお松は水に飲まれてしまいました。
それからというもの雨が多い年がつづいて、やがてこの一体は池になったということです。

小松ヶ池水神へは下記の赤字をクリックしてください
松ヶ池水神

category: 三浦市

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天王さまと和田義盛の碑  

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天王さま(正式には八雲神社 祭神はスサノオノミコトで、行疫開運のご利益があるといわれる。
また別名牛頭天王ともいい、和田の里の鎮守として祭られた。
牛頭天王とは、本来は印度祗園精舎の守護神をいい、神仏習合の姿である。現在の本宮は真享4年(1867)藤原の朝臣大井甚五左衛門の勧請と伝えられる。
和田義盛の碑(写真右下
鎌倉武士の栄枯盛衰の典型的な例は和田一族であると言われています。一族を率いた和田義盛は、鎌倉幕府創建の功労者、(三浦)半島の剛勇三浦大介義明の孫に生まれ、当三浦市初声町和田を領したことから和田氏を名乗り、武勇はことのほか勝れ、弓矢にかけてはこの右に出る者がないほどであった。
頼朝挙兵に参加したとき、義盛は34歳であったが、以後大いに活躍、鎌倉幕府の大立者でした。この功により、最高職の侍所の別当に任ぜられ、頼朝・頼家・実朝の三代にわたって忠誠を尽くしたが、退潮する源氏に替わって天下を狙う北条氏とことごとに対立するようになり、ついに北条義時の挑発と策謀にのり、いわゆる「建保の乱」を起こしましたが、同志と信じていた同族の三浦義村の北条への寝返りもあって、建保元年(1213)5月4日
、鎌倉の由比ガ浜で北条氏のために滅ぼされてしまいました。
時に義盛67歳であった。

所在地:三浦市初声町和田2591

category: 三浦市

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勿論、主祭神は天照大神  

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この神社は、天照大神といい、勿論主祭神は天照大神である。

当社は、当地の口承によれば、江戸時代のお伊勢参りの盛んなとき、里人の三家(げんぜむ・きゅうぜむ・さんぜむ)が、長沢小字峯の通称お伊勢山のこの地に、伊勢の神宮より御分霊を勧請し、長沢の鎮守様として以来、祖孫・村人、相承け、朝に夕に広大な御神徳を仰いで、心の安まる神域として、人々の生活の中心として、共に歩んできた長い歴史を有しています。

category: 横須賀市

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泰平の眠りを覚ましたペリー  

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ペリー公園
写真は、ペリー上陸記念碑と落首

記念碑には「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれている。
また写真右下の碑には「泰平の 眠りをさますじょうきせん たった四はいで 夜も寝られず」
この中の四はいは、高級なお茶(ジョウキセン)と蒸気船をひっかけてある。

江戸幕府は、約二百年間にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策を取っていた。その日本に対し、突如として、泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦嘉永六年六月三日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀鴨居沖に現れ、同艦隊は六日後に久里浜に上陸した。この艦隊の指揮を取っていたのがペリー提督であった。
江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て驚き動揺した。
開国を促する黒船の来航に、幕府要人は勿論のこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。

その驚きを端的に表したのが写真右下の落首である。

1853年七月八日、M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は七月十四日、ここ久里浜の海岸に上陸し、アメリカ大統領フィルモアの新書を江戸幕府に渡した。
翌年、神奈川において和親条約が締結された。

category: 横須賀市

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新婚夫婦にはきつい庚申?  

庚申とはなんだ!

庚申塔は、十干十二支の組み合わせで「かのえさる(庚申)」の日とし、六十日に一度巡ってくる。
中国の道教の教えでは、人間の体内に三尸(さんし)の虫がいて、庚申の晩、人が寝付くと体内から抜け出して、天帝にその人の罪悪を告げ、命を縮める。
長生きを希望する人は、庚申の晩は身を慎み、徹夜をして三尸の虫が体外抜け出すのを防いだ。
村人が講を作り、輪番制で一晩中飲食を共にし、一夜を明かした。
これは新婚夫婦にとっては、かなりの苦痛を強いられたとも言う。

これを庚申講といい、一部の人たちで続けているところもある。

当時は各村の地境に建てられ、道の目印や隣接の村境とし、他の地区より悪霊や疫病の進入を防ぐのに建立した。



category: 箸休め

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参加者には赤飯(あかめし)を!  

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原稲荷社

所在地:横須賀市大津3-1
交通:京急堀の内駅または新大津駅から徒歩10分

原稲荷社の名は、この地を原と称していたことに由来する。
2月と10月に行われるお祭りは、現在では簡略化されているが、以前は「湯立て神楽」と「掻き湯」の神事が行われていた。
社前の一角の四隅に笹竹を立て、注連縄を張り、中央には大釜に湯をたぎらせながら、面をつけた神官が神楽を舞う。
終わると笹の小枝を、小さく束ねて湯に浸し、人々に振りかけて無病息災を願った。
続いて沸騰した湯を掻き回して渦を作り、その形で農作物の豊凶を占ったという。

今でもこのお祭りには、昔からの習わしで粳米(うるちまい)に小豆を炊き込んだ「赤飯(あかめし)」が参列者に配られている。

category: 横須賀市

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風邪引いたらこのお地蔵さん  

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風神地蔵
所在地:横須賀市大津4-7-10前
交通:京急新大津駅徒歩2分

風邪に霊験あるお地蔵様である。

横須賀市大津地区広域文化振興懇話会

category: 横須賀市

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猫地蔵菩薩  


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猫地蔵菩薩
清伝寺境内の、隅っこにたたずむ猫地蔵
この地蔵尊ニついては、製作年は分かりません・・・塔そのものは古くもなく新しくも新しくもありません。

category: 三浦市

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三浦にかっぱがいた!?  

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当寺は、臨済宗建長寺派で金田山清伝寺と呼び、開山は建武年間(1334~1335年)桃源宗悟禅師の建立とされています。
ご本尊は、聖観世音菩薩であります。
寺の脇を流れている川を「すずの川」といい、昔はここまで潮がさして川渕で鱸(すずき)がつれたので、「すずき川」といいましたが、いつかこれが「すずの川」と呼ばれるようになった。その昔、この付近は濃い森に包まれ淋しい所で、すずの川に「かっぱ」が棲んでいて、夜となく昼となく里人を騙す悪戯をするので困っていたということです。
ある日農夫が馬を曳いて川に下り、傍らの杭に手綱を繋いで馬を洗い始めると、いつの間にか綱が解けている。結びなおして洗いはじめるとまた解けてしまう。これは「かっぱ」の悪戯と気づき、杭を固く縛って「かっぱ」を捕らえてしまったのです。そして普段から恨んでいた里人達がよってたかって「かっぱ」を虐めていると、騒ぎを聞きつけた和尚が見兼ねて止めに入り「かっぱ」を助けて、人を騙すようなことをしないように、良く訓したということです。
前非を悔いた「かっぱ」は侘証文を書いたということが寺にまつわる話として残っています。


category: 三浦市

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あの有名人も守った!?  

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海防陣屋跡
所在地:三浦市南下浦町上宮田字大芝原
交通 :京浜急行三浦海岸駅徒歩2分

弘化四年(1847年)徳川幕府が、当時の異国船渡来に怯えて、急ぎ江戸湾(東京湾)防備に着手した当時、三浦半島の警備を命ぜられた彦根藩主井伊掃部頭直弼が赴任にあたり、上宮田に三浦郡、鎌倉郡の軍政の本拠を置いたところを海防陣屋と呼びます。
浦賀・千代ヶ崎・鶴崎・千駄ヶ崎・箒山・大浦山・剣崎・安房ヶ崎・荒崎・八王子山(腰越)の9箇所砲台を構築しました。
また三崎の城山と原に陣屋の分営を設けて警備に当たりました嘉永6年(1853年)の長州藩が交代し、さらに安政5年(1858年)には熊本藩に代わり、その後は浦賀奉行所に移管されました。
この10年間にわたって、領地の行政官庁もここにありました。
規模としては・・・・総面積:9780坪(32274㎡)
建物面積:1515.5坪(5001.2㎡)
警備人数:彦根藩(2198人)、長州藩(約900人)、熊本藩(不明)
最初に警備に当たった彦根藩の頃は苦しい財政でしたが、長州藩にいたって善政が行われたため、熊本藩と交代の時は三浦・鎌倉両郡の名主・村役人から留任の願書が出されたほどであった。
明治維新で献身・活躍した桂小五郎(後の木戸孝允21歳のとき)や伊藤俊輔(後の伊藤博文16歳の時)はこの陣屋に勤めていたということです。

category: 三浦市

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白旗神社  

白旗神社
 白旗神社


祭神:天照大神 和田義盛

神明社は後に白旗神社と合祀されたもので、これを「神明白旗神社」と呼んでいます。
この神社の由来としては、鎌倉幕府侍所の別当であった和田義盛が、北条討伐の兵を挙げたが利あらず破れ、鎌倉の和田塚に一族ことごとく自刃したが、義盛の善政をしのび弘長3年(1263年)、和田の郷士がこの地に社殿を設け、白旗神社と称して祭祀をあつくして来たものである。

また白旗の名を得たのは、和田義盛が文治2年(1186年)平家討伐に出陣し大勝を収め、城内を開放して紅白の幟(のぼり)を建て、城内鎮護の八幡社に戦捷を報告したことに始まり、領民を交えた酒席での戦勝の舞「初声」を舞ったとされていて、「初声町」の名もそこから始まったとされる。

「相模風土記」によれば、神体は和田義盛の銅製の肖像で、本地仏は和田党93騎の守護仏でありますが、今では損傷してわずかに八体のみと記録されている。

なお、この境内は和田・入江新田・下宮田の田園風景が一望に眺められる.

所在地:三浦市初声町和田1746

category: 三浦市

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今井の井戸  

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今井の井戸
この井戸は往時の三浦五井(長井、吉井、津久井、今井、大井戸)
一つで、今井の地名はこれより起こったと思われる。
当山の地蔵尊御詠歌のとおり、「てむけする いまいのしみずおとたてて・・・・・・」と、井戸の清水は滾滾と湧いています。
昔は、この井戸水を飲料水として使用していましたが、現在はお墓参り用の水として使われている。

所在地:三浦市南下浦町上宮田 三樹院内
交通 :京浜急行久里浜線三浦海岸駅徒歩10分

category: 三浦市

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神社なのに、鳥居がない!  

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八雲神社
祭神は須佐男命です。
この社の建物は、江戸時代のものです。
もとは大谷山満宝院八雲堂という、修験のお寺でしたが、明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが、建物はそのままで寺の形式であるお堂建築になっており、鳥居はありません。そして現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。
お堂の内部には、修験の護摩壇があります。
向拝(ひさし)には、漆喰で造られた龍が取り付けられ、長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられている。
東浦賀一丁目の鎮守様として、6月に祭礼が行われ須佐男命の乗った山車と狸々坊(厄除け人形)がでる。
住所;横須賀市東浦賀1-16
交通;京浜急行浦賀駅徒歩10分

category: 横須賀市

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砂坂地蔵  

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砂坂地蔵
所在地:横須賀市三春町4-25
交通 :京浜急行堀の内下車 徒歩10分

二体の石仏のうち、向かって左が砂坂地蔵尊で、社前の小さな坂を砂坂と言うので、この名がある。
またイボとりに霊験があるのでイボとり地蔵尊とも称する。
右はしらすがわ地蔵尊で、昔近くの白須川の川原を、家屋新築のために掘ったところ、鍬先が当たってこの
地蔵尊が発掘されたと言う。
川には清水が流れていて、大正時代まで満潮時には潮がこの先まで遡上した。
像の周囲に積まれている玉砂利は、まことこの地蔵尊にふさわしく、往時を偲ぶよすがでもある。

なお、この後に一石二段の六地蔵が設置され、最近は共に子育て地蔵としても、信仰去れている。

横須賀市大津地域文化振興懇話会

category: 横須賀市

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水のトンネル  

水のトンネル

明治33(1900)年、操業を開始した浦賀ドック(住友造船所)が、工業用水を確保するために、現在の横須賀市双葉二丁目にあった溜池から掘った全長約1000メートルの導水口の出口です。
この導水口は、浦賀ドックが独自のタービンを開発するために、冷却用の水を大量に必要としそのために造られた。

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category: 横須賀市

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ペリーは2番目?  

ピッドル広場から見る東京湾
ピッドル公園
ペリー来航(1843年)の7年前、ピッドル提督が来航し、この広場前に停泊したところから、この広場をピッドル広場と呼んでいます。
1846年(弘化3年)三浦郡野比村の海岸から数キロほどの沖合いに、アメリカ合衆国の東インド艦隊司令官ピッドル提督が率いるコロンバス号と、ビンセンス号の2艘が来航し停泊した。
来航の意図はアメリカ合衆国の公的施設として、日本国政府との通商を求めるものであった。
ピッドル艦隊は、武器・乗組員とも大船で、備えた大砲の数は、江戸湾に設置されたすべての台場の大砲の数よりも多く、台場もさほど効果がないことを思い知らされた。
幕府はピッドル提督の申し出を拒否したため、艦隊は野比海岸沖を離れました。
この事件は、徳川幕府による鎖国政策の根幹を揺るがすものであった。
この場所は、久里浜から三浦へ向かう海岸通にあり、小さな公園になっていて、「野比海岸美化活動 水仙の会」で維持している。

ピッドルについては下記の赤字をクリックしてください
ピッドルはペリー以前に来ていた

category: 横須賀市

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