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優雅な琴の音  

海から出てきた観音様
2012112906.jpg琴音海岸

琴音岩は、江戸時代からすでに知られた磯で、「三浦古尋録」にも「此処ノ浜岩井口ノ琴音ト云ル磯有、此磯海中有テ、清水湧ク、是ハ昔シ法昌寺観音上テセ給ヒシ処ナリ云今其霊水湧出ス」とある。ある時、主君荒次郎の父である道寸が猟に出かけるというので重氏もお供をして出かけた。
ところが猟は思ったほどの獲物もなかったので一行はがっかりしながら、とぼとぼと岐路についた。
一行が南下浦の浜にさしかかると、どこからともなく美しい琴の音が潮風にのって聞こえてきた。
一日中走り回って猟に疲れた一行は思わず元気を取り戻して耳をすませ、あまりにも美しい琴の音に聞きほれた。
すると、だれからともなく、琴の音がする方向へ進んでいった。ところがそれは人家のある方向とはまったく逆の、渚の方向であり、さらに道寸は馬を進めると、その音は、琴の音ではなく、海中の磯の間から清水が湧き出している音であった。一行がおどろいて、こんこんと湧き出る清水と、その音に心を奪われているとき、不思議なことに一体の観音像が浮かび上がってきたのである。
みんなは突然のことに驚き、恐れたが、道寸がうやうやしく観音像の前にひざまずいたので一行もそれに習った。
すると道寸は観音像を取り上げて、猟の案内をつとめた菊名左衛門重氏にわたし、この地にこの観音像を祀るように申し付けたのである。こんなことがあってから、この磯を「琴音岩」と呼ぶようになり、この観音像は、法昌寺に安置されている。その後、菊名左衛門重氏は猟をすることをいっさいやめてしまったそうである。
菊名左衛門重氏関連の記事は次の赤い字をクリックしてください幼子を助けようと・・・・・


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category: 三浦市

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幼子を助けようと・・・・・  

菊名左衛門重氏碑
菊名左衛門重氏の墓
菊名左衛門重氏碑から見た菊名の海岸
海岸線は見えないが、畑の木々の下辺りが菊名の海岸である。

菊名左衛門重氏は、戦国時代に三浦道寸義同の武将として、ここ菊名を所領した武勇の勝れた人であり、同時によく領内の治世を行い、領民からその徳を慕われていました。そのころ伊豆に興った北条氏との戦いは、次第に激しくなり、永正のある年、たまたま義同の幼児虎王丸が敵の手にとらわれたので、重氏はその奪還をはかって、僅かな手兵とともに敵中に入り、大いに奮戦したが利あらず遂にことごとく討ち死にして果てました。後年、重氏の武勇と生前の遺徳をたたえる村民が、この碑からほど近い菊名の海岸近くに社を建てこれを祀り「浜の宮」とよんでいましたが、大正11年改めてこの地に移されたものです。

また菊名部落では、この碑が出来て以来毎年5月5日、この地に古老、部落役員、若者達が集まり、菊名左衛門重氏をしのぶ会がもたれています。
(三浦市)




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乳の出がよくなる湧水・・・水間神社  

2012112901.jpg水間神社

神社の真下から、こんこんと湧き出る水

この水を飲むと、乳の出がよくなると伝えられており、いまでも遠くから水汲みに来る人たちがいる。
昔、三浦半島の主領であった三浦義意の家臣で菊名左衛門重氏という武士が、菊名に屋敷をかまえていた。その重氏の娘に赤子が生まれたが母乳が出ない。泣きの思いの娘は山の中の小さな祠に願掛けをして、乳が出るように祈った。
娘は深く険しい山路を毎日通い続けた.
ちょうど百日目の満願の日、自分の館に帰る途中のどがかわいてあたりに泉を探した。
すると山道の杉の木の根元に小さな泉があって、こんこんと水をわかせていた。
娘はこんなところに泉が・・・と思いながらかわいたのどをうるおした。百日の願掛けを果たした
やすらぎが全身をかけめぐる思いであった。
館に帰った娘は乳を欲しがって泣く赤子に涙ながらに出ない乳房をふくませた。
不思議なことに久しぶりに母乳をおなかいっぱい飲んだ赤子は満足して母のふところに抱かれて
やすらかに眠った。
赤子を抱える母の喜びはこの上なく重氏家族の大きな喜びとなった。
この話はたちまち近郷に知れわたって、多くの若い母親たちは乳を求めてこの泉に集まった。
いつの頃からか小さな祠が建てられて「水間さま」「水間戸」と呼ばれ、水神として崇められた。
出典 「三浦半島の民話と伝説」 菊池幸彦著




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奉行交代儀式はこの寺で・・  

20121127007.jpg常福寺
浄土宗で、放光山延寿院と号する。
文明年間(1469~1486)に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、本陣(御用寺院)の役割をし、奉行交代の儀式を行いました。庫裏の築山泉水庭は唯一現存する浦賀三庭園の一つです。
当寺には、虫歯に良く効くという「珊譽女(さにょめ)」の位牌、狩野常信が描いた「地獄極楽之図」があります。墓地には奉行所与力合原家・佐々倉家の墓碑や遊女屋をやめて、遊女を解放し、後には僧深本(しんぽん)となる江戸屋半五郎の墓がある。
中庭の庭園や本堂内の鏝絵の見学は事前予約制となっており、当日の予約も出来ない。
046-841-0023
築山泉水庭
奉行交代のとき渡った石橋
この石橋は、常福寺への参詣道および、奉行の交代儀式で常福寺へ赴くための石橋である。


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category: 横須賀市

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奥津城観音・・・・真福寺(2)  

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観音堂

マリア観音

奥津城観音
奥津城(おくつき)観音様はあの世の暗闇の中でもがき苦しみ彼岸に辿り着けないでいる魂を白コウの輝く光で招き導き給える。
観音様の懐に抱かれた魂は蓮の花の上で遊び戯れながら心が安らぎ救われたり。

「浦賀行政センタ市民協働事業 浦賀探訪くらぶ」

category: 横須賀市

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マリア観音を祀る寺・・・・真福寺(1)  

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真福寺と両面地蔵3体(写真右下

本寺は創建当時のもの(1522)で鎧戸がある重厚な建築です。
浄土宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。
堂内には、幕末期に安房の彫師武志伊八が彫った見事な透かし彫りの両面欄間があります。三浦三十三観音の第十五番札所で、観音堂には聖観音像が安置され、午・丑の年に開帳されます。
前立ちの赤子を抱いた観音様は「マリア観音」と呼ばれ、キリスト教との関係を暗示しています。
格天井には、花鳥・魚などの絵が描かれ、北斎の作風と良く似た貴重なものです。
境内には眼病に効くと言われる「両面地蔵」が3体、墓地には浦賀の廻船問屋などの墓があります

「浦賀行政センタ市民協働事業 浦賀探訪くらぶ」


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天女の授けた水  

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天女水と碑
この碑は、「三浦古尋録」の著者で浦賀の文人加藤山寿が文化9年(1812)に建立したものである。碑には「高坂の弁天堂の近くの田の間から清水がこんこんと湧いており、日照りが続こうとも涸れず、そのお陰でこの辺り一帯の田はいつも豊作となり、豊作になれば家が富み、家が富めば幸福が訪れる。
この水は天女が我々に授けてくれたようなもの」と言うことが漢文で書かれています。かっては天女水から湧き出した水は、浦賀港に注いでおり、掘割は船の運送路として利用されました。
天女が浦賀の人々に与えてくれた恵みの水でした。

この案内板は、道路わきにあるものの、天女水及び碑は案内板から5メートルほど奥まったところにあります
くれぐれも汚すことのないようにしましょう。


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category: 横須賀市

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野良です・・・・餌を・・・・ください  

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category: 箸休め

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いまや荒地にひっそりと・・・・  

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光信寺跡記念碑
「松江山教覚寺略縁起」(第十三世釈乗空筆録)ヲ披キテ之ヲ按フルニ抑「光信寺跡」ト称スル此ノ地一帯ハ宗祖親鸞聖人ノ直弟カツ当山ノ開基タル光信房ガソノ晩年二及ビ仏法弘通ノ道場トシテ一草庵ヲ建立セシ遺跡コト歴然タリ。然ルニ本年ハ恰モ仝師ノ滅後六百五十年ニ相当スルヲ以て来ル五月初旬ノ候ツトシ、聊カ酬恩ノタメニ遠忌法要ヲ虔修スル事トナリシガ、偶々カカル縁由ノ浅カラザルヲ知リ茲ニ記念碑ヲ建設シテ之ヲ末代ニ伝フト日彌。
昭和十一年二月上浣
静岡市常慶町一番地
真宗本派 教覚寺



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category: 三浦市

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三浦半島唯一の名刹  

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鹿穴山 来福寺

この寺は、鹿穴山(または和田山ともいう)願生院と号し、浄土真宗東本願寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来を祀ります。当初は、天台宗で鎌倉名越に創建されましたが、市内和田に移し、さらにこの地に移されました。
またこの寺は、鎌倉時代の武将和田義盛の菩提寺でもあります。本堂は元禄十年の建立と伝えられ、間口九間(16.4メートル)、奥行き九間半(17.3メートル)の大きさと風格のある建物であり、それに本山免許の格式を持つ三浦半島唯一の名刹であります。そして寺宝には絵画、仏具、義盛所持の鏡等多くが所蔵されている他、義盛の像が安置されています。
この像は像高42センチメートル、膝張44センチメートルで、室町時代の作と見られます。像は寄木造り、玉眼入りで、全体が黒く塗られ、剛気の中にも円満な風貌をうかがうことが出来るもので、昭和43年3月三浦市の指定を受けました。
また、幕末の海岸防備に任じて、異郷に果てた彦根藩士3名、長州藩士十名が葬られ、その墓塔が墓地内にあります。

山門脇のお地蔵様


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さむーい!!!  

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category: 箸休め

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諏訪大神社(2)・・・・祭神の話  

御祭神の話
建御名方命、事代主命は共に大国主命(大黒様)の御子で、日本の先住民族「エゾ」を征服して、出雲という部族連合国家を建設し、日本古代国家の基礎をつくった。

建御名方命は山神で、狩猟と採取経済とによって、山を生活の場とした部族の祖神であったが、後にこの部族の経済の発展に伴って、農耕の神様ともされた。元来、山での狩猟に射撃の上手な部族の神であったので、後に武士からも崇敬された。
もとの出雲の国から周防(すわ)に行き、後に伊勢から美濃を経て信濃に入り、「エゾ」を征服して諏訪の神となった。
御神体、矢に神霊を祭ってある。
事代主命は北九州から丹波丹後地方を勢力範囲とした漁猟部族「蜑族(たんぞく)」の祖神である。航海漁猟を得意とした部族なので自然と貿易によって富強となった。その祖神事代主命がエビ入様といって漁業商業の守護神として祭られるのはそのためである。
蜑族(たんぞく)は、富山湾からヒメ川を遡って、上高地の下の旧湖水で生活していたが後、ここを干拓して農地とし、諏訪湖に移り水上生活をした。事代主命は下諏訪から勧請、御神体は玉に神霊を祭ってある。

category: 横須賀市

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諏訪大神社(1)  

2012112201.jpg諏訪大神社
鎮座地:横須賀市緑ヶ丘34番地
御祭神:建御名方命、事代主命
相殿:倉稲魂命、誉田別命、白日命、大己貴命、賀夜奈留美命

強調文由緒:康歴2年3月23日(1380年足利義満の頃)、横須賀城主三浦定宗が横須賀総鎮守として、城の入口であったこの古谷山に、長野県から上下両諏訪明神を勧請した。その頃は城主と城下の村人によって祭られていたが、三浦氏が滅んだ後は地頭郡代を指導者とする村人達の手に移った。
慶長8年徳川家康が将軍になり、平和な世になったので、早速慶長11年2月27日代官の長谷川三郎兵衛の発起で社殿や境内の大改修をし(棟札による)、以後永代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所となり(寛永8年、享和2年の版文による)村人も協力して、神社を立派に維持し崇敬を続けた(歴代の棟札文による)


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一日も休まず250年間・・・・燈明堂跡(浦賀燈明堂)  

燈明堂跡2012112101.jpg
横須賀指定史跡

復元なった浦賀燈明堂の建つこの場所は、江戸時代に浦賀港の入口灯明崎に建っていた、灯明堂の跡地である。
燈明堂は今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。
燈明堂は慶安元年(1648)、幕府の命によって幕吏石六左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。石垣を土台として、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に金網をめぐらしてあった。
その中には直径36.4センチ、深さ12.2センチの銅製の大きな燈明皿が置かれ、一晩に灯心百筋と菜種油一升が灯され、その光は4海里(7.2キロメートル)に達したという。最初は、勘定奉行の所管となっていたが、後に浦賀奉行に所管替えとなり、明治になり神奈川府の所管となった。
経費は元禄3年(1690)までは徳川幕府が賄っていたが、同4年からは東浦賀の干鰯問屋が一切を負担するようになった。
明治5年(1872)4月に廃止になるまで約250年間にわたって、一日も休まず、夜間海上の守り役として活躍し、我が国の灯台史のうえで、極めて貴重なものである。建物は明治20年代まで残っていたというが、風雨で崩壊してしまい、一抱えもある大きな石で、高さ1.8メートル、幅3.6メートル四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。
所在地 横須賀市西浦賀町6丁目46番地
横須賀市教育委員会


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恥ずかしながら、三浦富士です・・・・浅間神社(2)  

2012112003.jpg
恥ずかしながら・・・・私も富士と名乗っています。

チビで不細工ですが、地元の人々たちとか、ハイカーに愛されてる小さな山です。
隣の山は「武山200m」「砲台山204m]なのに、富士山と立派な名前の割には183mしかありません。
頂上も狭くてすみません
2012112002.jpg浅間神社奥宮
津久井浜駅前にある浅間神社の奥宮です。


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所在地は写真記号(2)・・・浅間神社は写真記号(1)

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三浦富士の本名は浅間山・・・・・浅間神社(1)  

2012112001.jpg浅間神社(横須賀市津久井)

御祭神:木花咲耶姫命
神徳:縁結び、安産、子育ての守護神
由緒社殿によると聖武天皇の天平年中(729~748)に、僧行基(奈良大仏建立勧進の高僧)が当郷に来り、駿河国の浅間神社を勧請し祀ったとある。
そこは津久井と長沢の奥にあって、高くそびえる浅間山の山頂である。
この山は海上から良い目標となり、漁場の位置や、東京湾に出入りする船の良い目印とすると共に信仰の対象になっている。
後に富士山と呼ばれ人々から崇められるようになってきた。
当社の奥宮は、今も山頂に鎮座している。毎年7月8日山頂にて「お焚き上げ」の神事が盛に行われ、家内安全、大漁、海上安全、五穀豊穣、病気平癒、交通安全等を祈願する人たちで賑わう。当社殿は、当初「富士入」にあったが、昭和3年11月現在地に移転鎮座をされ、毎年7月7日例祭が行われている。
夏祭り(八雲祭)は昭和40年代以前は7月7・8日に行われていたが、現在は8月下旬の土・日曜日に行われている。
当社の境内社として、金毘羅神社と稲荷神社が祀られている。
明治41年2月、神奈川県令で神社が合祀され、御祭神は相殿に祭られた。


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category: 横須賀市

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子之神社  

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子之神社

御祭神:大己貴命 別名大国主大神を称して奉る
     大国主大神が大地を主宰し給ふ時の別名を大地主大神と称い奉る(地鎮祭にお祭して祈願申し上げる大     神)
御神徳:商工産業、家運繁栄、縁結び、子孫繁栄などをお祀りなる開運の福神であられる。
御由緒:社伝によると、承久2年(源実朝の頃勧請し、天和元年徳川家綱の頃)御造営とあり、約760年前(昭    和55年)よりの建立である。
    昔、当市楠ヶ浦の沖にあった波島に長源寺と共に御鎮座になられたのが後、天正年間に長源寺が汐入3丁    目の現所に移転し、子之神社も汐入港町変電所(現汐入2丁目25番地)下に御遷座になったもので、そ    の年月は不詳であるが、文化13年には汐入に御遷座になっていたことは確実である(諏訪神社社誌によ    る)。それでこの変電所下付近を今も子之神山と称している。
    現在の御本殿は明治17年9月子之神山に御造営されたものであるが、境内が官有地になったため、明治
    31年6月そのまま現在地に御遷座、昭和6年2月奥殿御造営工事完成、現在に至っている。


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落雷から護った不動尊・・・・・武山不動(2)  

2012111802.jpg身代わり不動尊

龍塚山持経寺不動院本堂の脇にあり、落雷で裂けた大木の中に祀ってある。江戸末期文化の頃、豪雨の中、本堂脇のオオキの大木に落雷、大木は真二つに裂け、焼け焦げとなりました。
ご本尊・ご本堂も無事なるを見た人々は御身代りと唱えました。その大木、年代を経て芽を吹き、青き葉枝をささえ旺盛なる力に感動し、参拝の有信者が手を合わせ、身代り不動尊を唱えこれを祀りました。

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航海安全の名高い不動様・・・・・・武山不動尊(1)  

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龍塚山持経寺武山不動院
(りゅうちょうさんじけいじたけやまふどういん)

開山:万務大阿闍梨
開基:未詳
開創:応永4年(1397)
本尊:阿弥陀如来

当院は、三浦半島の中央部武山(標高200m)の山頂にあります。寺伝ではもと真言宗に属し、武山の麓にありました。
室町時代の応永4(1397)年に奈良東大寺の沙門万務大阿闍梨が全国行脚の途中に南武の持経院に立ち寄り瑞夢を見て、三尺九寸の不動明王を彫り本尊としました。
そののち、江戸時代前期の天和3(1683)年に讃譽見随上人が、堂宇を山頂に移して、浄土宗に改めました。江戸後期の文化年間(1804~1818)には「四間、四間の本堂」を有していました。
武山の名は、古代の英雄大和武尊が東征の途中に、弟橘媛と登ったことに由来し、弟橘媛は、東征の一行が相模海上(浦賀水道)で、風波の難に遭った折に、身を投じて航海の安全を祈りました。
武山山頂に奉安された不動明王は、一切の災害を除き、財宝を得る功徳を持つといわれています。特に武山不動尊は、航海安全の浪切不動として名高く、漁業関係者から漁場を見定め、航路を確認する基準の山として篤く信仰されてきました。境内には、隠岐島の船の守り本尊「焼火地蔵」も分祀されています。
参詣道は、南武、一騎塚、須軽谷、北下浦の四方にあり、登山口には前不動と呼ばれる不動明王が立っています。1月28日の初不動のときは露店も出て、大変な賑わいです。一騎塚からの登山道や頂上には約2000本のつつじが咲き、5月3日から5日はつつじ祭りが催される。三浦不動尊霊場第一番
三浦半島干支守り本尊霊場めぐりの酉歳不動明王の霊場


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一騎塚バス停から徒歩30分

category: 横須賀市

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小春日和の大根干し  

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冬の風物詩・・・三浦海岸
海の向こうに見えるのは房総半島

category: 箸休め

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外敵防御の第一線・・・・・引橋  

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引橋

横須賀市の衣笠城を中心にして栄えた三浦一族は、三浦義澄の孫泰村が、時の執権北条時頼と仲たがいとなり、いわゆる宝治合戦がおこり、一族は滅びましたが、義澄の弟佐原十郎義連の系統が残り、その後、盛時から八代目の時高が永享10(1438)年、新井城を油壺に構築し、本拠地を三浦に移しました。
この時高は世継ぎの問題から、養子の義同と争い、明応3年(1494)新井城で自殺するに至ったとの説がある。
三浦の城主となった義同は、当時小田原を根拠とした北条早雲の勢力と対決、平塚市伊勢原市の両市にまたがる岡崎城、逗子市小坪の住吉城と各支城で敗退、、最期は頼みを新井城に託して守りを固めました。
ここ引橋はそのときの大手、つまり外敵防御の第一線であったと言われ、谷間に橋をかけ渡し、敵が攻め寄せたとき、その橋を引いて防いだところから、引橋の地名がおきたと伝えられます。(
三浦市)


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新井城関連の記事は次の赤い文字をクリックしてください三浦一族滅亡の城

category: 三浦市

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金光恵比寿・・・海から現れた恵比寿さん  

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金田山円福寺

遠い昔のこと、ある夜、金田湾の海上に異様に光るものを、通りがかりの漁夫が見つけ、これを怪しんで舟を寄せて拾い上げたところ、黄金の恵比寿であったので、大漁満足の瑞非と喜び、持ち帰って草庵を建ててお祀りしました。
そして村人がこぞってお守りしたところ、一人の旅僧が現れて「この地の相を観ずるにまことに寿の海、福の田なり。海の幸を護るにこの恵比寿尊あり。よろしく五穀豊穣を司る地蔵尊を勧請すべし。
しからば、里の栄ゆることはかりなかるべし」
と、地蔵尊を恵比寿孫と併せて祀るよう村人に告げて立ち去りました。そこで村人は天文17年(1548)、鎌倉光明寺の伝設大和尚を招いて開山とし、草庵を現在の地に移して金田山円福寺にしたと伝えられます。


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category: 三浦七福神

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日本書紀が書かれた頃の創建  

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八幡神社と海軍工作神社(写真右下)

御祭神:応神天皇
配祀祭神:天照大御神、スサノオノ尊、大物主尊、大山祇大神、菅原道真公
縁起日本書紀が書かれた養老4年(720)当時の武人達によって創建されたと伝えられる。
 応神天皇は、仲衷天皇と神巧皇后との間の息子。西暦239年第15代天皇であり、大和国と九州を統合し、日本の統一国家の基礎をつくり、その治世に新しい産業文化の育成を図られ、技術導入にも熱心であったことから先取的なこと、発展的なことにご利益があるとされ、お祀りされている。当神社境内から、弥生式土器が出土しているので、古墳が点在していることが立証されます・
特に前方後円墳(たで原遺跡)の発見は、当時有力な豪族のもとで稲作が行われていたと思われ、たで原と八幡地区が生活の中心であり、もっとも栄えたといわれる。
天正18年、豊臣秀吉は天下統一の最後の北条氏を滅ぼし、鶴岡八幡宮に祈願し、栗浜(現久里浜)八幡神社には米三石を寄進され、徳川歴代将軍もこれにならい継承し、武運長久祈願に武具などを奉納し、幕府の直轄(天領)と定め、米三石、社領約千余坪の御朱印を賜った。その後明治31年黒田内閣により「八幡宮」の御名を賜りましたが、太平洋戦争後は社名が元の八幡神社と称しています。


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category: 横須賀市

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疣取地蔵とポックリ地蔵(牛込山永楽寺  

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疣取地蔵(当病平癒)
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ポックリ地蔵(正念往生)


当山は、牛込山永楽時と称しm浄土宗のお寺である。

三浦札所十一番紫雲地蔵尊御開帳・・・・十二支の卯年に扉を開きます。
三浦札所十四番牛込不動尊御開帳・・・・十二支の酉年に扉を開きます。



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category: 三浦市

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かめくり観音と光照寺  

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光照寺(地図2)
宗祖:法然上人(源空)(1133-1212)
開宗:承安5年(1175)
ご本尊:阿弥陀仏(無量寿仏)
称名:南無阿弥陀仏
教え:阿弥陀仏を深く信じてひたすら南無阿弥陀仏と称えるだけで、どんなに罪深い人でも必ず救われて、明るい毎日を送り浄土に生まれることが出来るが教えです。

かめくり観音
この寺は浄土宗で、竜徳山庄司院呼び、本尊は阿弥陀如来、また開山は永享2年(1460)空念和尚の建立であります。
空念和尚が修業中三崎をたずねた際、村民が毒蛇のために苦しんでいるのを見た。空念は村民とともにこの地に庵を結び、念仏をとなえ厄を払ったと伝えられています。
これが光照寺の前身であり、今の庄司道です。
本山鎌倉光明寺の僧三哲和尚が行脚のみぎり、一夜この庵に宿したとき三哲和尚の夢枕に竜があらわれて「わがしるす爪のあとにこの庵を移し、一寺を建立すべし。さすれば仏水に恵まれるであろう」とのお告げを得たので、庵を移して一宇を建立しますと、清らかな水に恵まれたということであります。
これは今から540年前のことで、今の光照寺の井戸が竜の爪あとであると伝えられています。
この寺内には「かめくり観音」がまつられていますこれはその昔、里人田を耕していると、可愛い手が出てきたので不思議に思って掘り出したところ、観音様でした。これを「稲田観音」と呼び祀りましたが、いつか土地の漁師は出世魚の「いなだ」の名にかえて、「いなだ観音」と呼び、大漁の祈願をしたということです。そののち観音堂の雨漏りを心配した人たちが宝珠に「水がめ」をかぶせたので「かめくり観音」の呼び名がついたといわれます。(三浦市)


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いぼとり地蔵・・・霊川寺  

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海養山地蔵院霊川寺といぼとり地蔵(地図1)

当山は、元和年代(1623)凶作に見舞われ、餓死するもの多く、その冥福を弔うために、運心上人を開山と仰ぎ、沢村吉左衛門氏が発起人となり建立された。はじめ地蔵尊を本尊としていたが、のち阿弥陀如来を本尊とした。
人々は無病息災を願って、地蔵参りをし死者の霊を弔った。いつの頃よりかいぼとり地蔵として願掛けを行うようになった。線香の灰をいぼに塗り、大願成就の暁には貝殻を数珠繋ぎにしてお供えし、お礼参りを行った。


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category: 三浦市

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鶴園福禄寿・・・妙音寺  

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花山曼荼羅妙音寺

高野山真言宗
別名:花山曼荼羅ともいい、室町時代後期には、小田原北条氏の雨乞いの祈願所として信望篤く、その後、天正年間(1580年頃)に賢栄法院により中興されたと伝えられています。
真言密教の祈祷所、また曼荼羅思想により、古来より堂宇・境内には大日如来をはじめ三浦道寸義同彫刻の秘仏、末那板不動明王(酉年開帳)や、迦陵頻伽(妙音の瑞鳥)の諸仏が祀られています。
この福禄寿は花山曼荼羅の一尊として勧請され、経巻を結んだ杖を携え、鶴を伴っているところから、鶴園福禄寿とも言われ、南極星の化身とも、中国宋の道士天南星の化身とも言われています。
なお、福徳、財宝、長寿の三徳を備えていると伝えられています。
寺域は、四季折々の花に彩られ、特に自生のやまゆりは鶴の乱舞と見まごうばかりの一大曼荼羅図絵を現出し、毎年6月下旬には弘法大師生誕祭(やまゆり祭り)を催しています。
なお、東国花の寺百ヶ寺としても知られています。


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category: 三浦七福神

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白山神社と奈良時代の墓  

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<写真下>当社は元白山宮と称して、三浦一族の臣菊名左衛門重氏の守護神であり、菊名仲里の山林中に鎮座せられていた。(現社殿より見える小高い丘付近)。
仲里は菊名氏の別荘「浜御殿」があったところで、またその墳墓の地でもある。
三浦一族の滅亡と同時に菊名氏も滅びて、以来久しく社頭も荒廃にまかせてあったが、貞亨元年(1684)「江戸時代初期」に村民相謀って現在の地に社殿を造立し、菊名の鎮守として祀られた。現在の社殿は昭和45年の増改築の際に耐火建築に改められた。周辺は農業、漁業ともに盛んな土地で、海上安全、大漁満足、五穀豊穣、家内安全、子孫繁栄、商売繁盛の神様として、いまなお大切にされている。
写真上
境内社金毘羅宮石段上にある「切妻造妻入型横穴古墳」は無類に大きく、奥行き約6メートル、幅約3メートル、高さ1メートル77センチの横穴、天井部分は美しく切妻型に削られ、柱などに浮き彫りが施されて赤塗の跡が残っているため、奈良時代、永蛭郷と呼ばれていた当地を支配した豪族の墓と見られている。


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category: 三浦市

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馬の散歩  

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三浦海岸で散歩の馬

category: 箸休め

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忠犬タマ公の碑・・・・衣笠神社(4)  

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忠犬タマ公は、新潟県中蒲原郡村松町(旧川内村)に住む刈田吉太郎氏の飼い犬であるが、昭和9年2月5日と同11年1月10日の二度にわたり、狩猟にでた人たちが、雪崩により遭難した際、必死に雪を掘り起こし主人達を救出した。この二度にわたる「タマ」の功績は、当時の新潟新聞に掲載され礼賛されたほか、「忠犬タマを語る座談会」としてラジオにより全国放送された。
この「忠犬タマ公」の美談は、横須賀市に在住する新潟県出身の退役海軍将兵で組織している「互立会」の知るところとなり、また郷里における美談に感激した互立会の一員が、新潟県村松町に住む刈田吉太郎氏宅に赴き。タマ公が寝起きしている場所の貰い受けたのを契機に、この土をゆかりとし、横須賀市に在住する新潟県出身の将兵たちに末永く「タマ公」の美談を伝え残すため互立会の手によって建立されたものと推測される。

この碑文の「忠犬タマ公」の文字は、逓信大臣、第13代横須賀市長を歴任された小泉又次郎先生の書によるものである。衣笠観光協会

なお、もと首相の小泉純一郎の祖父にあたる。


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地図番号(4)

category: 横須賀市

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