FC2ブログ
歩けば見つかる小さな歴史 ホーム »2012年11月10日
2012年11月の記事一覧

[PR]ウィルス感染注意

今すぐ↓クリックして早めに予防を。 30日間無料体験できます。

楽天市場

忍者キャンペーン

塔の根は地獄まで・・・・宗円寺(2)  

2012111008.jpg角住尖頭形の庚申塔

「図録横須賀の文化財」に紹介されている。
延宝元年(1673)に建立された。
 その根が地獄に続いているといわれ、この碑を信仰すると、足腰の病気に功徳効験あるといわれ信仰されている。


powered by 地図Z

地図上では(2

スポンサーサイト



category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

「飯岡の助五郎親分」は横須賀生まれ・・・宗円寺(1)  

dJAKbz53bgn_Rt31352556988_1352557043.png宗円寺

真宝山慶西院と号し、鎌倉光明寺を本山とする浄土宗のお寺です。開基は天文18年(1549)1月12日
源家千葉氏の末流。「慶西院満誉顕祐宗円居士」臼井惣左衛門(別名:五良左衛門」によって開かれた。

飯岡助五郎親分の父の墓
江戸後期の博徒で、後段や浪曲にも出てきた下総国(千葉県飯岡)の大親分助五郎は、三浦半島(横須賀)で生まれ、この久比里の土地こそ助五郎の父が居住していたところです。
写真右の墓が助五郎の父の墓です。


powered by 地図Z

地図上では(1

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

三浦半島唯一の天神様  

2012111010.jpg
久里浜天神社

御祭神
菅原道真公
相殿神
天照皇大神 八雲大神(須佐之男命)
境内社
稲荷社 祖霊社
例祭日
八月二十五日(今では、八月十日に近き土曜日、日曜日)

由緒沿革
社伝によれば、大阪の義人砂村新左衛門、官許を得て、往古は入海なりし内川入江一帯の広漠たる葦原を開墾し、一村を作らんと「内川新田」の開発の志を立てたが、工事容易ならず。茲に神明の加護を持つべしと悟り、万冶三年(1660)六月、郷里なる摂州西成郡上福島村の天満宮を勧請し、内川新田鎮護の神としてこの地に奉斎下のが創祀である。
爾来、人々篤く崇敬し世々神徳を蒙りて生業に励み、遂に豊饒なる一村を興す。諸人神慮の広大無辺なるを報謝し今日に至る。


powered by 地図Z


category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

若宮神社  

CkuaDx8q2kT6iP_1352541644_1352541693.png
若宮神社と宝暦の頃の鳥居(写真右)

鎮守若宮神社御祭神は、仁徳天皇に在します。
享楽四年千葉之介常胤の後裔臼井宗左衛門尉なるもの、鎌倉より源家の旧縁により、鶴岡若宮明神を奉載してこの地に移住し当社を建立以て氏神となし崇敬奉祀す。爾来、氏子の崇敬益々厚く常に社宇の廃頽を憂い、之が改築を成し、現に慶長十六年及寛永六年正保二年の御造営の棟札をするす。殊に一回社殿は明和七年の建造に係り、その荒廃甚だしく、氏子一同之を恐耀し大正四年村社に列格の際、改築の議起こり、爾来資金を蓄積し、今日に至り、機漸く熟し、茲に全く社殿の改築とともに境内整理の完成を告ぐ。

旧鳥居と額(写真右)
宝暦七丁丑年三月に建立された。
この鳥居は230年の歳月で風化し、かつ柱が折損して崩壊の恐れがあったので、御社殿再建を記念し、これを建て替えて、旧社号額及び柱の一部を此処に移し保存します。
額には「若宮神社」と書かれている。


powered by 地図Z


category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

哀れ稚児を殺すとは・・・・  

YyCv_LA9KCceSIG1352533542_1352533659.png
高御蔵五明山最宝寺

この寺は高御蔵五明山と号し、浄土真宗のお寺である。
高御蔵という号から解るように、もともとこのお寺は鎌倉の高御蔵にあり、建久六年(1195)に源頼朝が宮中の高御蔵に安置してあったと伝える薬師如来を本尊とし、明光上人を招いて開いた寺であったと伝える。
この寺が野比に移ってきたのは、後北条氏の真宗弾圧の時であると言われ、それは当時最宝寺領が野比村にあったことからであるとされる。
かって本尊として祀られていたという薬師如来坐像は、寄木造り、高さ86.1センチのもので、昭和41年に神奈川県の重要文化財に指定された。

地蔵菩薩縁起
時は頼朝の伊豆配流の時代のこと、もっとも流罪と言ってもm韮山の蛭が小島に押し込まれていたわけでもなく、大体伊豆一国内くらいはほぼ自由に行動できたものらしい。そこで東伊豆きっての豪族伊東祐親のもとに赴いた。
折節、祐親は大番役として上洛中であったが、その三女八重姫との間に恋が芽生え、やがて友若丸をもうけた。
ところが任満ちて伊東に帰った祐親はこのことを知り、平家を恐れるあまり、大いに怒り無残にもこの若君を殺してしまった
20年後になっても頼朝はこのことを忘れかね、妻の政子も同情涙をしぼったが、その後、建久4年(1193)5月、夢とも現ともなく一人の気高い僧が頼朝の前に現れ「我は西方極楽浄土の阿弥陀なり。遍く衆生を救うため、仮に地蔵菩薩と姿をかえるものなり。汝の憶う友若丸は、今はなお地獄にありて日夜飢えに泣く。是を救わんと思わば、深く我を信ずべし」と言い終わるやふっと姿を消してしまった。が枕元には地蔵菩薩が二体(一体は胎内菩薩)が置かれてあった。頼朝も奇異な思いがして、さっそく小堂を造ってその像を礼拝した。
その後間もなく家臣の畠山重忠が、頼朝の代参として箱根権現に赴く途中、そこへ青い蓮にのった気品のある小児が現れ、「吾は頼朝の嫡子友若なり。幼けれども生前の重罪により、今まで地獄の責苦を受けていたが、この程地蔵大菩薩のおかげでようやく成仏しうるに至った。ついてはこの谷間にゆかり地蔵尊があるによって、これを探し求め、父上の許して供養するように」と述べ消えてしまった。重忠はおどろき付近を探すと果たして奥底に燦然たる地蔵像がましましたので、ありがたく是を頂いて、鎌倉に持ち帰りました。
頼朝も政子も感激し改めて高御蔵最宝寺境内に立派な地蔵堂を建立し厚く信奉したという。


powered by 地図Z

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

目釘の竜  

201210151.jpg

法蔵院は、小田原北条氏と房総里見氏との合戦があったとき、兵火に遭い焼失し、その後里見氏の学問所をここに移して本堂にしたという。
すでに本堂はなく、鉄筋コンクリート造りの近代的な本堂となっている。

門に、左甚五郎作と伝える「目釘の竜」の彫刻がある。この竜は海が荒れると海へ出て房州へ渡るとの伝えがあり、そのために左の目に釘が打ち込まれたといわれる。
11月7.8日の十夜念仏はその名を近在に知られ、昔日はにぎわったものである。


powered by 地図Z

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

プロフィール

コメント・メールお待ちしています。

セブンフリーエリア

自宅で注文、お店で受け取り

セブンネット検索

フリーエリアセブン

このブログのQRコード

健康BMI

カテゴリ

貧血防止に

やわた

カラミーショップ

愛犬用のサプリメント

タニタのグッズ

早いもの勝ち

あなたの口臭大丈夫?

家族葬儀のご提案

フリーエリア

フリーエリア

カード作るなら楽天におまかせ

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

メールはこちらから

▲ Pagetop