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旅と酒を愛した若山牧水・・・横須賀市長沢  

2012123101.jpg牧水の歌碑(1)
しら鳥はかなしからずやそらの青
   海のあをにもそまずただよう
(若山牧水)

2012123102.jpg牧水の妻の歌碑(牧水歌碑の裏側)
うちけぶり鋸山も浮かぶ来と
   今日のみちしほふくらみ寄する
(若山喜志子)
2012123103.jpg牧水の歌碑(2)


海越えて鋸山はかすめども
   此処の長浜浪立ちやまず

2012123104.jpg長沢海岸から房州のこぎり山を望む

若山牧水は本名繁、明治18年8月24日宮崎県臼杵郡に生まれた。県立延岡中学校を卒業した後、早稲田大学に学び、明治45年太田喜志子と結婚した。大正2年長男旅人出生したあと、喜志子は体調が優れず医師から転地療養を勧められ、大正4年3月に長沢の川端の家(斉藤松蔵方)に移り住んだ。
風光明媚。気候温暖な当地での静かな明け暮れの中で、喜志子の健康は次第に回復し、大正5年11月には長女みさきが生まれた。
写真「牧水の歌碑(1)」の歌は明治40年12月の「新声」に発表されたものであるが、牧水はまだ23歳の学生歌人であった。
日の背面に刻まれた「鋸山の歌」は、妻喜志子が当地に住んでいる頃「海辺に移りて」と題して発表したもので、表裏合わせて「夫婦歌碑」と呼ばれている所以である。昭和28年に建立された。
牧水の歌碑(2)「海越えて」は昭和62年の建立された。
歌集「砂丘」のはじめに三浦半島と題して「病妻を伴い三浦半島に移住す、3月中旬の事なりき」と記したあとに発表した長沢海岸から房州鋸山を詠んだ歌である。
「漂泊の歌人」といわれ、旅と酒を愛した牧水は、地域の人々との温かいふれあいもあって、喜志子の日常も順調に進むようになり、大正5年12月28日東京小石川に引き上げていった。
(横須賀市)
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category: 横須賀市

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県内屈指の規模を誇るかろうと山古墳(ドコモ入口のトンネルの上)  

2012122902.jpgかろうと山古墳(トンネルの上辺り)

古墳の案内図

かろうと山古墳(横須賀市指定史跡
かろうと山古墳は昭和27年(1952)に赤星直忠が発掘調査し、切石組箱石棺と豊富な副葬品を有する古墳時代終末期の古墳として注目されました。
楕円形を呈する円墳で、直径13m、14m、高さ3mを測ります。
周溝が確認できないことから、墳丘は周囲の土を広く削り取って築いたものと考えられます。
出土遺物などから築造時期は7世紀中頃です。
主体部(埋葬施設)は複数の切石を組み合わせた箱式石棺で長辺約2.5m、短辺1m弱を測り、県内屈指の規模を誇ります。盗掘を受けておりましたが、金銅装具、弓弭(ゆはず)金具、金銅装鑿状鉄製品、直刀、鉄鏃などの副葬品が検出されました。
中でも、金銅装鑿状製品は国内でも出土例が少なく、東日本では唯一です。7世紀前葉以降の三浦半島では古墳にかわり横穴墓が盛行しますが、この時期の単独の高塚墳として築造された本古墳は極めて特異な存在です。
主体部の構造や副葬品の内容、数少ない終末期古墳であることなどから、その価値は高く、古墳が存在する丘陵を含む約4万㎡を史跡に指定し、将来に受け継いで行くことにしました。
(平成21年3月1日 横須賀市教育委員会)


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最寄り駅:京急久里浜線YRP野比

category: 横須賀市

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荒馬が掘り当てた霊水・・・横須賀馬堀  

馬頭観音堂

未だに尽きぬ霊水

名馬「池月」

当山一帯の地は、古来より観世音菩薩の御出現になられる霊地であると言い伝えられて参りました。
その昔、房州嶺岡(今の千葉県江見町辺り)に、凶暴な馬が現れ住みつき、村人はこの馬を「荒潮」と名づけて近寄りませんでした。
しかしこの馬がしだいに畑の作物を荒らすので、村人が追い払うことを決めました。
馬は村人から逃げ、海中に飛び込み、当時の相模国小原台の地にたどり着きました。馬は疲れと渇きを癒すため傍らの岩を足で掘ったところ清水が湧き出し、、その水で渇きを癒し、見事な駿馬に生まれ変わりました。このうわさを聞いた、ときの領主三浦荒次郎義澄は、この馬を捕獲し、時の将軍源頼朝公に献上したところ、大変お慶びになられ「池月」と命名されました。
寿永2年宇治川の合戦に際し、頼朝公はこの池月を佐々木四郎高綱に与えられ「平家物語」に語られるように梶原景季の愛馬「麿墨」と先陣の争いとなり、この世に名声を残すことになりました。

宇治川の合戦寿永3年1月20日(1844)源義経の軍は、宇治川を挟ん木曾義仲と戦った。この時佐々木四郎高綱の池月と梶原源太景季の麿墨が先陣争いをした。
このときの描写を平家物語は・・・・・
「佐々木太刀を抜き、馬の足にかかりける大網どもをふっぱふっぱと打ち切り打ち切り、池月という世一の馬に乗ったけり、宇治川早しと言えども、一文字にざっとわたりてむかいの岸にうちあがる。梶原が乗ったりける麿墨は河なかよりの孤形に押し流されてはるかのしもよりうちあげたりと佐々木四郎高綱の先陣をかいている。



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地図番号 ①:浄林寺 ②:馬頭観音堂
最寄り駅:京急本線馬堀海岸駅

category: 横須賀市

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馬頭観音を祀る寺・・・七重山浄林寺(浄土宗)  

2012122701.jpg浄林寺
2012122702.jpg馬頭観音
創建は永正2年(1505)で、本尊の阿弥陀三尊は、江戸期の承応3年(1654)の作です。三浦地蔵尊第29番、三浦薬師第5番札所で、地蔵尊は12年ごとの卯年に御開帳され、薬師は33年ごとで、次の御開帳は2017年です。
三浦観音第20番札所でもあり、馬頭観世音が本堂に祀られ、このお寺前の坂上にある馬頭観音堂には「馬堀」の地名の由来となる名馬「池月」の像や「蹄の井」があります。境内には三浦半島では珍しいムクロジの名木があります。ムクロジはサポニンを含んでいるので、印度では石鹸を意味し、日本では種は羽根つきの玉に、果肉は石鹸の代用として使われてきました。


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地図番号 ①:浄林寺 ②:馬頭観音堂
最寄り駅:京急本線馬堀海岸駅

category: 横須賀市

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狐に取り憑かれたお玉さん・・・玉姫稲荷  

2012122601.jpg玉姫稲荷

この稲荷社は、明治の中ごろより百余年に亘り、皆様に親しまれて参りましたが、去る4月14日何者かに放火され焼失しました。

昔、清水(屋号)の娘お玉さんが、年頃になった頃、野狐が宿り、何を食べてもやせ衰えるばかりでした。
そのため、小さな祠を建て毎日油揚げや甘酒を供えてお祈りしたところ、いつの間にか野狐が祠に移り、お玉さんの体も快復して、長生きをしたと伝えられています。
それ以降この社を玉姫稲荷と呼ぶようになりました。
平成16年5月 伊勢町内会有志一同


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最寄り駅:京急本線馬堀海岸駅

category: 横須賀市

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コレラに倒れた官軍兵士・・・官修墓地  

2012122503.jpg官修墓地

明治政府を辞めて、鹿児島に帰っていた西郷隆盛は、政府に不満をもつ人々の懇請に抗しきれず、ついに兵を挙げました。
時に明治10年2月15日、西南の役であります。
三万余の西郷軍を討つために明治政府は、有栖川宮熾仁(アリスガワノミヤタルヒト)親王を征討総督とし、総勢六万余の兵力を九州に向かわせました。大部分の兵士は徴兵でした。
この戦役で政府軍使者は六千二百余人にのぼり、戦傷病者は数え切れないほどでした。
戦傷病者を輸送するため和歌山丸と東海丸が派遣されましたが、その帰港中に船内でコレラが発生しました。
政府は両船に長浦湾口で停戦を命じ、急遽箱崎に仮の避病舎を建て診療に当たりました。
しかしその努力もむなしく、10月21日以降毎日のように死者が続きました。
これらの遺体は黒崎海岸(現在の横須賀市浦郷町五丁目先)で火葬に付されました。
そのうち遺族不明の48名はそのまま黒崎に埋葬され、官修墓地として政府が維持管理にあたりました

明治45年黒崎が海軍用地として買収されたため、大正2年4月、48基の墓石は現在地に移され、修復が加えられました。
毎年、4月下旬に地元郷友会の人々によって、慰霊祭が行われています。
(横須賀市)
官修墓地入口は「追浜トンネル」(田浦側)から、細い階段を登っていきます。


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地図番号 ①:雷神社 ②:雷神社ご神木 ③:官修墓地

category: 横須賀市

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雷神社  

2012122502.jpg雷神社
2012122501.jpg雷神社ご神木

御祭神:火雷神(いなびかりのかみ)
御由緒:太古天上より火を授かり祠に火種を絶ゆることなく朝に戴き夕べに返し火の有難さに大切に保存し祠に庇を付け雨風を防ぎ屋代とした。創立は第六十一代朱雀天皇御宇延喜四年菅原道眞公を北野に祀り火雷天神と稱るや北野天神を崇め御霊を祀り火雷神社と(ほのいかづちのかむやしろ)と稱へ此の處を天神と唱へた。戦國の世となるや祭祀とかく疎となるや永禄二年六月十五日築島に落雷此の處に十二名おりし乙女は柏槙の大木が身代りで命を取止たと云ふ。乙女達蚫貝に焦(こがし)を献じ小麦にゑまし麦を水で練りその外米の粉を水で練り献じ崇た。柏槙の大木を御神木と唱へ雷電の社を建て奥の院と云う。大正九年十一月三日領主朝倉能登守当所より現在地勧請朱印状を賜り雷神宮と崇め五穀成就農民安全を祈る。故に雷神社の旧跡地なり。



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地図番号 ①:雷神社 ②:雷神社ご神木 ③:官修墓地

category: 横須賀市

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貞昌寺別院  

2012121205.jpg貞昌寺別院(臨済宗)
ご本尊は阿弥陀三尊で、むかしは横浜根岸の南光山明動院の本尊であり、鎌倉時代の作といわれています。
明動院は火災で焼失しましたが、阿弥陀如来は難を逃れ、共に焼失した塔頭(下寺)の正観寺はされて同寺の本尊となりました。
後に正観寺は廃寺となり、同寺の住職を兼務していた貞昌寺に百有余年仮安置されていました。
昭和59年、桜ヶ丘の造成に伴い、数奇な運命をたどられた如来は、観音・勢至ともに貞昌寺別院に祀られました。
貞昌寺は大津村を知行し、幕府の船手奉行であった向井将監の母の菩提を弔うために再建した寺で、古くは吸江庵といい、当別院の敷地内にありました。


(大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ)


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地図番号①:安房口神社 ②:貞昌寺別院

category: 横須賀市

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房総から飛んできた岩・・・横須賀安房口神社  

房総の安房神社から飛んできた御神体
2012121202.jpg安房口神社

御神体正面(正面の穴が房総の安房神社を向いている

御神体全

御祭神:天太玉命・・・日本の祖神の一柱であるタカミムスビ神で天孫、ニニギノ尊とともに降臨した五部神の一柱といわれる。
創建年代不詳・・・磐座(いわくら)信仰という古い型を保っていて、三浦半島では最古の社ではないかと言われています。
由緒
鎮座まします御神体の霊石はその昔、安房国洲崎明神に竜宮から献上された大きな石が二つ置かれていて、あるときその一つが安房大神太玉命の御霊代として、東国鎮護のためにこの場所に飛んできたといわれます。
言い伝えによると日本武尊(景行天皇の皇子、古事記では倭建命)が東征のとき勝利祈願したと伝えられ、源頼朝、北条義時なども武運を祈って参拝したといわれています。
また三浦一族が航海の神として信仰したとも伝えられています。
この地は房総への重要な交通路で古代の東海道の要衝でした。
吉井鎮守であるこの神様は、安産祈願の神として古くから信仰されています。出産前に参拝し、御神体周りの小石を一つ持ち帰り安産のお守りとし、めでたく出産すると玉石を二つにして返し、感謝の気持ちをもってお礼参りをしています。
鎌倉幕府は初代将軍源頼朝の妻で、後の尼将軍といわれた北条政子も懐妊のおり、安産祈願したと言われます・
(吉井安房口神社)


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地図番号①:安房口神社 ②:貞昌寺別院

category: 横須賀市

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桃の御所・・・桃林布袋尊  

2012120803.jpg紫陽山見桃寺

桃の御所建久の昔(1190年ごろ)時の将軍源頼朝は、風光のすぐれた三浦の地に3つの御所を設けました。ここ見桃寺は「桃の御所」のあったところで、鎌倉将軍がしばしば来遊したということです。
ちなみに三御所とは、「見桃寺」の他に「桜の御所」(本瑞寺)、「椿の御所」(大椿寺)があります

三浦七福神:桃林布袋尊
紫陽山見桃寺の開基は慶長18年(1613)三崎奉行所の向井兵庫頭政綱が、駿河国興津の清見寺の僧白室玄虎和尚を迎えて開山したと伝えられています。
桃林布袋尊は、当寺七代の住職桃林和尚の信仰したもので、大きな袋を背負った肥満鼓腹の温顔は古くから近郷近在の人々に親しまれかつ敬まれていました。そして不老長寿、無病息災の守護神とされています。

category: 三浦七福神

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三浦道寸親子の像はこの寺に  

2012120801.jpg荒井山観音寺真光院

お寺の裏を通る「なもた坂」

ご本尊:阿弥陀如来

本寺院は治承4年(1180)入阿上人の開山と伝えられ、生徳元年(1711)に良呑上人に中興開山されました。
この寺院は、三浦道寸義同とその子荒次郎義意が深く帰依したと伝えられています。本堂には江戸時代末期の作と推定される衣冠束帯姿の義同父子の像が祀られています。また階段を上がった左手、観音堂の大きなお厨子の中に観音菩薩像が祀られています。
この観音像には次のような言い伝えが残されています。
「幕末に浦賀奉行の与力を勤めた中島三郎助は、将軍より拝領した観音像を戊辰戦争の際、下臣の佐々倉松太郎にその保護を託した。
佐々倉は浜離宮にあったこの観音像をおおきなお厨子ごと小網代村の名主の家へと運び、世を忍ぶ身となった。
そして匿ってくれたお礼にと、この観音像を置いて行った」と伝えられています。
名主の屋号を「なもた」と称し、寺院の裏側を通る道を「なもた坂」と呼んでいます。
剣道が出来るまでは、三崎から小網代にいたる主要道路で、坂下の路傍には庚申塔や太子塔が祭られています。
(三浦市)


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category: 三浦市

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小桜姫、ここに眠る  

2012120708.jpg荒井浜海水浴場(階段を下りたらこの海水浴場を左へ

洞窟(墓)への路はこの岩礁を歩く

中腹に見える小桜姫の墓のある洞窟

洞窟入口にある卒塔婆(小桜姫の名前が読める)

洞窟の入口(ただし、中には入れない)

対岸にある若宮神社(小桜姫)・・指マークのある付近(洞窟から望む)


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地図記号①は小桜姫の墓、途中は岩場を歩くので履物に注意。終わったら海の散策も楽しんでください。また三崎港・城ヶ島へは地図記号②のバス停から行くことが出来ます

category: 三浦市

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野良ですが・・・  

2012120702.jpgママがいなーい


水を飲む猫・・・・落ちないでね

category: 箸休め

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小桜姫のその後・・・  

その後子桜姫を性の鏡として信奉し、姫の墓に願い事をしていくものが後を絶たなかったという。小桜姫がなくなって約200年後、江戸時代も半ばの頃、伊豆から関東にかけて未曾有の大嵐が襲い、伊豆半島、房総半島は立ち直れないほどの大惨事となったと伝えられている。
三浦半島も壊滅の危機にさらされたが、諸磯の一女人が、常日頃熱心に尊信していた子桜姫にお願いすればと思い立ち、荒れ狂う嵐の中、姫の墓に駆けつけて一心不乱に祈願した。
時を同じくして、三浦の地に奇跡が起こったのである。
俄かに嵐はおさまり、三浦半島は大きな被害もなく平穏を取り戻したという。その夜、女人の夢枕に小桜姫がたたれたのである。
そのことがいつしか里人達にも伝わり「小桜姫様は、たしかに三浦の土地の守り神様だ。三浦の土地だけが助かったのは皆子桜姫様のおかげだ。ありがたいことではないか」と、立派な神社を造る事にした。
神社の建立場所は、戦の際に姫が身を寄せていた浜諸磯が選ばれ、里人たちの心を一つにあわせ、若宮神社が完成したのである。
(三浦市)

小桜姫の墓は下記の赤字をクリックしてください
桜姫の墓

category: 三浦市

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烈女の鏡・・・小桜姫  

2012120601.jpg若宮神社((小桜姫)

eoJogF05ujo8rYz1354788338_1354788582.png小桜姫の墓のあるところ(指先付近)若宮神社から望む

若宮神社(小桜姫)の由来
若宮神社の祭神である小桜姫は、代々鎌倉幕府の重臣を勤めた名門大江家筆頭大江広信の一人娘として育った。
若宮神社という名称は、三浦の地をこよなく愛し、地元の里人たちからも慕われた子桜姫の別荘に由来している。
小桜姫が20歳の春、父広信は足利時代の武将で、相州三浦新井城主であった三浦道寸の嫡男三浦荒次郎義光をたいそう気に入り、最愛の姫を嫁がせた。
嫁いで10年あまり幸せな日々は瞬く間に過ぎ、戦国の暗雲は三浦一族にも襲い掛かった。世に言う北条早雲の三浦攻めである。
小桜姫は浜諸磯の先端の森かげに仮家を設け、腰元たちと共に身を隠していたが、対岸の城が炎に包まれるのを見て、涙ながらに夫に別れを告げたのであった。
三浦一族は新井城での3年間のすえ、武運つき滅ぼされてしまったのである。
時は将軍足利義稙の時代永正13年(1516)7月11日のことである。
城跡である現在の油壺に三浦一族の墓は建てられたが、毎日墓参する小桜姫を見るにつけ、「小桜姫様は本当に烈女の神だ。どこまでも三浦の殿様に操をたて通すとは見上げたものである」と、皆涙ぐんでその後姿を見送ったという。
落城して一年余りの後、夫を亡くしたことによる気落ちと人生の無情心からであろうか、身体が次第に衰えはじめ、ついに日々の墓参りも叶わぬようになり、34歳でこの世を去ってしまわれたのである
写真下の指マーク付近の洞窟に小桜姫の墓があるとされ、小桜姫の卒塔婆が置いてある。
現場は、荒井浜海水浴場を左に岩礁地を歩いた、がけの中腹にあり、散策される方は、岩礁地を歩くため、それようの靴を履いて歩いたほうが無難です

また、小桜姫の墓といわれる洞窟の上は新井城跡であり、その下が油壺湾である


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小桜姫の墓は下記の赤字をクリックしてください
小桜姫ここに眠る

category: 三浦市

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咸臨丸はこの港からアメリカへ  

2012120402.jpg咸臨丸出航の碑

浦賀湾(愛宕山から望む)

嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船4隻を率いて浦賀港沖に現れました。わが国との貿易を進めることが目的でした当時わが国は長崎を外国への門戸としておりました。それが江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰、たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が世情の一端をよく物語っています。
年後の安政7年(1860)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正強調文興を代表とする使節団をワシントンに送ることにしました。
幕府は万が一の事故に備えて軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下90有余名の日本人乗組員で運行する咸臨丸従わせることにしました。
1月13日、日本人の力で初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨をあげました。途中横浜で難破した米測量船クーバー号の船員11名を乗せ16日の夕方浦賀港に入稿しました。
それから2日間、食料や燃料その他の航海準備作業が行われました。
意気天をつく若者達を乗せた咸臨丸は1月19日午後3時30分浦賀港を出航しました。
不安に満ちた初めての経験と荒天の中を39日間かけて咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。
勝海舟がサンフランシスコに到着したときの様子を本人は次のように語っている。
「サンフランシスコへ着くと、日本人が独りで軍艦に乗ってきたのは初めてだと言って、アメリカの貴紳らも大そうほめて、船底の掃除やペンキの塗り替えなどもみんなで世話してくれた」(氷川情話)

米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(1860)5月5日でした。この碑は、日米修好通商100年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。

なお、乗組員には通訳のジョン万次郎と福沢諭吉も含まれる。

category: 横須賀市

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海軍機雷・対潜学校跡  

2012120404243.jpg

碑の由来
ここ横須賀市長瀬3丁目一帯には次の学校がありました。
海軍機雷学校(昭和16年4月1日創設)
海軍対潜学校(昭和19年3月3月15日改称)

この学校では、機雷術(機雷・掃海・防潜網・爆雷など)の教育が行われました。
終業して任地に赴いた若人は約二万七千人、そのうち約八千人の尊い生命が失われました。この石碑は、このことを後世にのこすために建てたものです。
平成5年4月1日 有志一同

現在はこの一帯は、工場が立ち並び面影は見当たらない。

なお、この石碑を進むと、刑務所がある。


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category: 横須賀市

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横須賀市最古の公園・・・愛宕山公園  

2012120401.jpgは浦賀園、今は愛宕山公園

明治24年(1891)に開園した、横須賀市内で一番古い公園で「浦賀園」と呼ばれた公園の頂上付近に浦賀奉行所与力中島三郎助の招魂碑が建立されて、篆額の題字は榎本武揚によってかかれました。
開園に出席した人たちの提唱によって、浦賀船梁(株)が創設された話は有名です。
公園の中腹にある咸臨丸出航の碑には、乗組員全員の名が刻まれています。
与謝野鉄幹・晶子の歌碑は浦賀を訪れたときに詠んだものです。
江戸時代には、鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
また、近年では桜の名所となっており、公園下の浦賀湾を眺めながらの花見は一見の価値はあります。


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京急浦賀駅からのんびりあるいても、小一時間です。途中叶神社に参拝するといいでしょう。
また帰りは常福寺にたちよるのもいいでしょう

常福寺へのリンクは奉行交代儀式はこの寺で・・

category: 横須賀市

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三浦一族滅亡の城  

新井城の最期
2012120204.jpg新井城の空掘跡

血潮に染まった油壺湾

三浦一族滅亡の地新井城は、面積約128ヘクタールの天嶮をそのまま利用した自然の要害でした。すなわち、相模湾に突出したこの小半島は、小網代湾と油壺湾に挟まれて、三方がいずれも海で、しかも切り立った断崖であり、陸地に通じる路は北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていた。
引橋は後に地名になりましたが、ここで北条勢は橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
現在は関東大震災による隆起で、往時の面影は薄らいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかな手兵で3年間ももちこたえたのですから、三浦一族の執念もさることながら、城としても勝れた構えであったのでしょう。いずれにしても、室町期の居館としての新井城の名残は、本丸を中心にめぐらされている空掘に往時をしのぶことが出来ます。
(三浦市)



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地図記号①は道寸の墓、②は新井城址

category: 三浦市

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討つものも討たれるものも・・・・  

あー三浦一族の最期の武将はここに・・・三浦道寸の墓
2012120201.jpg陸奥守道寸義同公之墓

義同の墓の脇にある

墓の裏の海

新井城主三浦道寸義同は、鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最期の城主となりました。三浦一族は、始祖為道にはじまり、鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことは良く知られています。
この間、和田の乱(和田義盛滅亡)、宝治合戦(三浦泰村滅亡)など、いく度か興亡を繰り返し、450年の後、奇しくも同じ北条を唱える伊勢新九郎(北条早雲)と戦い、戦国争乱の世の露と消えました。
永正9年(1512)北条早雲は岡崎城(平塚・伊勢原両市にまたがる)から、住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏を新井城(三浦市油壺)に攻めました。
そして日本篭城史でもまれな凄惨な攻防は3年にわたり、永正13年7月11日義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここにさしもの三浦氏はその歴史を閉じました。
義同辞世の歌 
強調文 討つものも 討たれるものも かわらけよ
    砕けて後は もとの土くれ



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地図番号①は道寸の墓、②は新井城址

category: 三浦市

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貧しさゆえの悲哀  

江戸時代、久里浜は「内川入江」と呼ばれていた。
それを万治3年(1660)頃に、砂村新左衛門という人が、この入江を埋め立てて新田をつくり、それからは「内川新田」と呼ばれるようになった。
ところが新田は出来上がっても、川を治めることが出来ず、たびかさなる洪水によって堤はくずされ、土手に6万6千本の松の木を植えるなど努力を続けた。しかもせっかく完成した橋も何回となく濁流に飲み込まれてしまったので「人柱をたてた」と伝えられる。
その川は、大水のために氾濫し、せっかく作った橋もいくどとなく濁流に流されてしまうことがおおかった。
こんなことが何回となく続くと、村人の中には自然に、「これは神様のお怒りであるにちがいない。神の怒りを鎮めるために、人柱を立てては・・・」という話が出始めた。それはやがて具体化し、村でも貧しく、未婚の美しい娘のある家にむけられた。
気の毒ではあるが、「貧しい家のことだからお金で解決できるだろう」と村長たちが娘のいる家にでかけて「神様のため、村のためにもぜひ・・・・」と、両親に金子をちらつかせて申し込んだ。
両親はもちろん、本人もこの話を聞いてたいそう悲しんだが、結局、貧しい家のことでもあり、「神のため村のためなら・・・」と承知したのである。
「人柱に娘をたてれば、きっと神様は村人たちに寛大となり、願いを叶えてくれるに違いない」と喜んだ村人達はさっそく用意をはじめた。
まず、大きな箱をつくり、その中へ娘を入れると、箱の中に食べ物と鈴をいれ、ふたをしめて、橋げたの下にその箱をうめた。
それからというもの、村びとたちが橋のそばを気にしながら通ると、鈴の音が聞こえてきた。
しかし、その音も3日たち4日たちしていくと、とぎれとぎれでしだいに力なく小さな鈴の音になっていき、とうとう耳をすましても聞こえなくなってしまった。
もはや、鈴の音が聞こえなくなった橋のたもとで村びとたちは、娘が鈴の音とともに神様のもとへむかえられたのを涙ぐんだ。
それからというもの、橋の工事も順調にすすみ、夫婦橋はどんな大雨が降り続いても増水して流失することなく、いまに至っているということである。
(三浦半島の伝説 田辺悟編著)から抜粋

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夫婦橋と内川新田  

この石碑は、砂村新左衛門政次が万治3年(1660)より寛政7年までの8ヵ年をついやして、苦心のすえに完成した内川新田開発工事の記念碑である。碑文によれば、内川入海の新田工事は、労苦の積み重ねで、ことに水門建設は難事業であったことが知られ、完成にさいし、神仏の加護に感謝する思いがしるされている。
この新田開発によって当初は360石余りの生産高が得られ、さらに数年後に225石の増加があったという
本市内における最大の新田工事であり、また久里浜の発展過程を知る貴重な史跡である。
砂村新左衛門は当時、土木事業の数少ない指導者で、江戸の砂村新田、横浜の吉田新田など多くの新田開発にその手腕を発揮した。
寛文7年12月15日歿し、その墓は当地の正業寺にある

夫婦橋・・・・昔は川の中央に中州があり、二つの橋が夫婦のように仲良く架かっていた。
1825年ごろの記録によると、一つの橋の長さは約30m,幅は2.4mでした。
材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていました。
内川新田記念碑より、約15mほど上流で、今の人道橋(写真の青い橋)あたりにあったということです。

江戸時代の頃は久里浜は「内川入江」と呼ばれ、現在の京浜急行の北久里浜駅の近くまでも海が入り込んでいたそうです。・・・ローカルですみません
2012120102.jpg

2012120101



この夫婦橋に係る伝説については次の赤い文字をクリックしてください
貧しさゆえの悲哀
砂村新左衛門の墓のある正業寺へは、下記の赤い字をクリックしてください
砂村新左衛門の墓

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