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叶神社・・・(東叶神社)  

20130130101.jpg(東)叶神社
御祭神は、京都石清水八幡宮と同じ応神天皇(第15代天皇)です。
この神社は養和元年(1181)8月15日高尾山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えることに始まると言われ、その後源頼朝によってその願いが叶ったところから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。
またこの他新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などにはこの神社に関する記事が載っています
神社の裏山を明神山と呼び、標高は50mです。
後北条氏のころ、しばしば房総半島の里美水軍が三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐためにこの明神山に水軍を配置しました。
山頂にはこの神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の跡」があります。明神山のすばらしさは、良く保全された自然林で木々の種類も豊富なことです。
特にウバメガシの自生は神奈川県内でもこの明神山と城ヶ島だけでここが分布の北限と言われています。
この学術的に貴重な明神山一帯は「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。

身代り弁天
御祭神:厳島媛命
例祭日:7月18日
東浦賀の産土神である叶神社の境内社として神秘な岩窟内に祀られる厳島神社はもともと海上交通の安全と戦等の勝運を司る神として尊崇されており、誠に霊験あらかたであります。
古よりこの弁天様を信仰された人々が、海上の遭難や交通事故をはじめあらゆる不慮の事態に直面し、身命の危機に晒されても必ず弁天様が示現なされて身代りになられ、災禍からお守り下さったという例には枚挙に暇がありません。このような御神徳が三浦半島を始め、近郷近在の方々の篤い信仰をあつめております。
弁天様を信仰なされて限りなき御神徳を亨愛されんことを記念いたします。(叶神社社務所)
勝海舟断食の折、使用の井戸
上の写真の井戸からくみ上げています
この流水は、右奥にある「勝海舟断食修行の折、使用した井戸」から汲み上げている水です。比叡山延暦寺の高僧よりご託宣が伝えられ、この流水を硬貨にかけ流し、常に身につけることにより弁天様のお力も相候って、開運と金運のご利益があるとされます。

勝海舟断食の跡
万延元年(1860)、時の幕府は日米修好通商条約批准交換のため、米国へ使節を派遣した。
米国軍艦ポーハタン号の随行船としての咸臨丸の船将に任命された勝海舟は、壮挙に先立ち当社を訪れ太平洋横断航海の一路平安について叶神社のご加護を祈念し、併せて自己の精神的肉体的荷重等の克服を謀るため、社内にある井戸で潔斎水垢離を済ませ修行用の法衣に心身を整え千石蒼々とした樹林に囲まれた奥の院の社前のこの場所を選んで座禅を組み、断食修行を行ったのである(叶神社社務所)



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出発地:京急久里浜線京急久里浜駅またはJR横須賀線久里浜駅
到着地:京急本線浦賀駅
総歩行数:約1万5千歩
地図番号:①浦賀の渡し ②西叶神社 ③東耀稲荷 ④東叶神社 ⑤勝海舟断食跡



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category: 横須賀市

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東浦賀繁栄を今に偲ぶ・・・東耀稲荷  

20130130001.jpg東耀稲荷
創建は天明2年(1782)で食保命(ウケモチノカミ)をお祀りしています
東耀稲荷の名の由来は、隣接する東耀山顕正寺の山号からとったもので、古くは顕正寺の境内にあったと言われています。さほど大きくはありませんが、欄間や号格天上などには見事な彫刻が施されています。
屋根には恵比寿と大黒天の飾り瓦が乗り、干鰯(ホシカ)で栄えた東浦和の繁栄振りを今に偲ばせてくれます。
またこの稲荷は、火防(ヒブセ)の神としても崇拝されています。
合祀されている須賀神社は新町(シンチョウ)の鎮守で、創建年代はわかりませんが、昔悪い疫病(コロリ)が大流行したとき、新町にも何人かの死者が出たため、里人が当社(素戔嗚尊(スサオノミコト))を勧請し病気をしずめたと伝えられています。
恵比寿の飾り瓦

大黒天の飾り瓦



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到着地:京急本線浦賀駅
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叶神社・・・(西叶神社)  

西浦賀の鎮守。
西叶神社と書きましたが、本来は叶神社が正式名称です。
しかし、東浦賀にも叶神社があり、区別のため、西叶神社と呼んでいます。 縁起によれば、「平家物語」に登場する文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、よい土地を選んで神社をたてることを誓いました。 養和元年(1181)この願いが叶えられそうになり、神社を建てる場所を探した結果、 頼朝ゆかりの千葉・鹿野山の対岸である西浦賀の地が選ばれ、ここに石清水八幡宮を勧請しました。
この場所は現在の浦賀丘3丁目にあり、文覚畑と呼ばれています。
文治2年(1186)壇の浦の戦いで平家が破れ、源氏の世になると、大きな願いが叶ったことにより 「叶明神」の称号が与えられた、とあります。 文覚上人(1139~1203)は、もと鳥羽天皇の皇女に仕える北面の武士でしたが、出家し、 諸国の霊山で修行し、その効験をもって知られていました。
後白河法王に対する荘園寄進の強要により伊豆に流され、平氏嫌いでもあった上人は そこで頼朝と出会い、源氏の挙兵を勧めたといわれます。
現在の社殿は天保13年(1842)に再建されたものです。
社殿をとりまくたくさんの彫刻は、後藤利兵衛という安房国(千葉県)の彫刻師の若い頃の作品で、 後藤はこれらの仕事が認められ、その後幕府の彫刻師として雇われました。
拝殿の格天井の彫刻は花鳥ですが、この中には当時の日本にはまだ渡来していないとされる 花や鳥も彫られており、後藤はどこでこれらの知識を得たのでしょうか。
また、神殿の棟柱を担ぐ力士像なども他には類を見ない優れた作品であり、 これらの彫刻は横須賀市の市民文化資産に指定されています。
社殿の下にある銅製の大きな灯籠は、浦賀の遊廓によって寄進されたものです。
また、水屋にある石の漱盤も遊廓の主人で、僧侶に転身した江戸屋半五郎が寄進したものです。
現在、社務所があるところは、江戸時代は不動明王を本尊とした感応院西栄寺という古義真言宗のお寺 があり、高野山から、南関東一円に配る御札や加持祈祷に使うものが送り届けられ、 それを配布する役目をしていました。
また、この場所に明治4年、西岸学舎が置かれ、東浦賀の乗誓寺に置かれた東岸学舎と 明治31年に合併して浦賀小学校が誕生するまで存続しました。
明治14年、明治天皇が観音崎砲台の視察の際、この教室が休憩所として使用されました。






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市道を渡し船が走ります・・・浦賀の渡し  

2013013002.jpg
市制施行七十周年期記念  横須賀風物百選
「浦賀港と渡船」

 室町時代に、聖護院准后道興(せいごいんじゅんこうどうこう)が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に「・・・浦川の湊(みなと)といへるところに到る。ここは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、金沢、榎戸(えのきど)、浦河とて、三つの湊なりけるとかや・・・」とあります。そこが現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては、歴史家の間に疑問があるようです。しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが書物の中にみられる最初のものです。いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条氏によって使われていたことは確かなようです。
 この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。英人ウィリアム・アダムズを逸見に住まわせ、しきりにイギリスやオランダなどの商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。
 享保五年(1720)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で船改めをすることが義務づけられました。そのために、浦賀の町は大いに栄えました。以後、浦賀港は、黒船の来航、咸臨丸の出港、日本最初の洋式船鳳凰丸建造の地として、更には浦賀船渠株式会社の設立と、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。  この港は、湾が約1.5キロメートルも入り込み、東西両岸の住民が往来するのには、渡船を利用することが最も便利でした。したがって、渡船は早くから開かれていたようです。明治九年編さんの皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・船二隻ヲ用ヘテ往復ニ便ナラシム私渡ニシテ修繕民費」とあるところから、最初は民営の渡船であったようです。大正六年には、その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。更に昭和十八年四月一日、浦賀町が本市に合併されると、渡船事業も市営になりました。昭和二十四年以後、と線の運行業務を民間に委託し、現在に至っています。
 唯一の市営交通事業である渡船で、昔をしのびながら、浦賀港横断をお楽しみください。


 渡船は、浦賀に奉行所が置かれてまもない享保10年(1725年)ごろから始まる長い歴史を持っています。
 江戸時代には、船が1艘で船頭さんが2人。この船頭さんの生活と船の維持管理は、東西浦賀の人々や、鴨居や久里浜などの近隣の方の協力を得て、まさに生活に欠かせない船
でした。
 明治11年(1878年)からは、東西浦賀の17町内会の共同体が維持管理をするようになりました。
 この時の運賃は1人1厘5毛で、営業時間は朝6時から夜10時までで、夜間の運賃は倍額と定められました。これが公営交通としての渡船の誕生です。
 浦賀町が渡船に関わるのは、それから40年後の大正6年(1917年)のことです。
 この頃が渡船の最盛期であり、1日の平均乗船客が1,000人にも達していて、現在の場所から300mほど港の内で、もう1ルートの営業が行われていました。
 昭和18年4月、浦賀町が横須賀市と合併して、渡船も横須賀市からの委託経営となり、昭和30年代後半には機械化された船による航行となりました。
 現在の船(愛宕丸)は、平成10年8月9日に就航しました。
 それまでの木造船から大型化し、江戸時代の「御座船」をイメージしたFRP(強化プラスチック)製の船になっています。
 ちなみに、渡船の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の市道(2073号線)です。
利用料金:大人150円、子供50円、その他(自転車等)50円(定期券、回数券は発行していません)
航行時間:朝7時から夕方6時ごろまで。※12時から13時までは、お昼休みです。
定休日:12月31日から1月3日までは休航します。
 ※荒天時(波が高かったり、強風の場合)や船の点検時には休航します。



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三命地蔵・・・寿光院  

2013012908.jpg寿光院堂
3命地蔵
常福寺の隠居所としての境外仏堂です。
墓地には「3命地蔵」が祀られています。これは江戸時代後期に弁天丸の水主(水夫)の3人が、遊ぶ金ほしさから、船の命とも言うべき網や綱を売ってしまいました。
三人は死刑に処せられる前、大変後悔し罪滅ぼしにと「この地にねんごろに葬ってくれれば、首から上の病気は何でも治します」と言ったので、船宿が地蔵を彫って安置しました。
咸臨丸の副艦長格としてアメリカに渡った浦賀奉行所与力浜口英幹の墓もあります。
(浦賀行政センタ市民協働事業 浦賀くらぶ)


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哀れ祖国上陸目前にして・・・・・  

20130129101.jpg浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は終結。
ポツダム宣言により、海外の軍人・軍属及び一般邦人は日本に送還された。ここ浦賀港も引き揚げ指定港として中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。
引揚者は、敗戦の失意のもと、疲労困狽の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れるものが続出した。ことに翌21年、華南方面からの引き揚げ船内でコレラが発生、以後続々と感染者を乗せた船が入港。このため旧海軍対潜学校(横須賀市久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。
この間祖国を目前として多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。
昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖でこの地の引揚業務を閉じる。
私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲になられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、横須賀市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。(横須賀市)
陸軍桟橋
L字型の桟橋は、通称陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。またこの場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった(国土交通省)
船番所の模型


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大六天榊神社  

2013012806.jpg大六天榊神社
川間(西浦賀5丁目)の鎮守様で、主祭神は面足彦命(オモタリヒコノミコト)(猿田彦神)です。
この神社の正式名称は榊神社大禄天神(ダイロクテンジン)と言い、当初は川間奥にある通称お伊勢山の中腹にありました。
明治の頃にお伊勢山の入り口に移され、さらに昭和のはじめに現在地へ移されました。
大禄天は大六天(多化自在天(タゲジザイテン))に語呂が通じ修験者の信奉した仏神と言われています。
道の分かれるところを守り、邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。
山車

祭日は、5月中旬の土曜日・日曜日です.


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跡形もなし浦賀奉行所  

2013012804.jpg浦賀奉行所跡(堀を挟んで右側)
享保5年(1720)に、奉行所が下田から浦賀に移されました。その業務は船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。
また文化文政(1804~1850)の頃からたびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防衛するため、海防の最前線としてさらに重要な役割を果たすようになりました。
享保5年から江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの150年間に、奉行は二人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めていました。
現在では奉行所を取り囲む堀の石垣と表門の前に掛かっている石橋の伊豆石の4~5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことは難しくなっています。
(浦賀観光協会)
浦賀奉行所表門の石橋

いまでは奉行所敷地は民間の集合住宅地になっています。


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為朝神社と虎踊り  

2013012901.jpg為朝神社
祭神:鎮西八郎源為朝
創建:文政年間(1818~30)である。

寛政十二年(1800)、漁師高橋忠兵衛が、浜に漂着した木像を拾い上げたが、のちに
為朝の御像と判り、奉行所の許可を得て浜町の鎮守にしたと伝える。
為朝は、保元の乱で父為義と共に戦って敗れ、腕(かいな)の筋を切られて伊豆大島に
流され、赦されることなく、その地で没した武将である。
古来、日本人は悲劇の武将の怨念を恐れ、神として祀ることによって、逆に、禍い転じて
福をもたらす精霊として転化させてきた。いわゆる御霊信仰である。
人々は、為朝を疱瘡神とし、当時、恐れられていた疱瘡の病を、為朝の怨霊の力で救って
もらうことを期待したものであろう。
出典 「三浦半島の史跡みち」 鈴木かほる著

虎踊り(1)
虎踊り(2)

県指定重要無形民俗文化財
国選択無形民族文化財
「横須賀の虎踊り」
所在地:横須賀市西浦賀町4丁目(旧浜町)
指定年月日:昭和51年(1976)10月19日
選択年月日:平成16年(2004)2月6日

虎踊りは享保5年(1720)、奉行が伊豆下田から浦賀に移ったときに伝えられたと言われています。
近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内(ワトウナイ)の虎刈りの場面を取り入れた芸能で、ここ為朝神社に特設の舞台を作って演じられます。
和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子(カラコ)の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台上を自由に振舞い数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、みえを切ります。
虎は親子2体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児唐子は女児、太唐人は成人男子が演じます。
〇「記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財」に選択された「横須賀の虎踊り」は浦賀と野比の虎踊りが対象です。(横須賀市教育委員会)
横須賀市西浦賀4丁目辺りを浜町と呼びます。文字通り浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったところからついた名称です。
浜町はもとは広い範囲を占める「川間」の一角でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になりました。


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category: 横須賀市

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弥生時代住居阯群  

20130127001.jpg毘沙門洞窟入り口
洞窟の内部
発掘品の一部

神奈川県指定史跡 毘沙門洞窟弥生時代住居阯群(昭和35年11月4日指定)
これらの海蝕洞窟は、弥生時代から平安時代まで住居・墳墓として利用されたものです。
この洞窟からは主に弥生時代の漁撈技術を物語る鉄・青銅・鹿角製の釣り針・鹿角製の銛(もり)などの漁撈用具、アワビ貝で作った貝包丁などの農耕用具、腕輪やかざり棒などの装身具類が出土しています。
当時の人たちがこれらの漁撈用具などを使用し、取った貝や魚、また獣類の骨も多量出土して、出土遺物は種類数・量ともに豊富で当時の生活を知る上で貴重な遺跡です。
さらに、鹿の骨を焼いて吉凶を占った「ト骨」が出土した遺跡として知られています。なお、弥生時代から平安時代にかけて、特に平安時代には墓地として使われたようで、埋葬された人骨も発見されています。
平成22年2月
神奈川県教育委員会、三浦市教育委員会

洞窟から見た目の前の海
真ん中付近に薄く見えるのは伊豆大島



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category: 三浦市

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盗人狩と海岸  

2013012704.jpg盗人狩(ぬすっとがり)



盗人狩とは、昔盗賊が追われて、この山の端まで来て下を見ると、恐ろしい断崖(高さ約30m)と怒涛の逆巻きにぞくぞくと身震いして足がすくんで動けなくなり、たやすく捕まったという。それで「ぬすとがり」の名が残っている。
ここの海岸は、岩礁の断崖が多く、足元の黒い岩には外海の大波が打ち寄せ白いしぶきを上げています。
この波のうねりは、大蛇の胴のように、うねうねと寄せては砕かれ、その都度断崖に荒々しい音を立てています。
海岸散策のときは、落石と足元に十分気をつけてください。
(環境省・神奈川県)

三浦の岩礁地帯



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category: 三浦市

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梅一輪 一輪ほどの 暖かさ  

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category: 箸休め

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横須賀はカレーの発信地  

文字色20130121003.jpgスカレー
明治初期、海軍・陸軍軍人の病死の最大の原因は「脚気(かっけ)」でした。予防法を確立したのは後の海軍軍医総監・高木兼寛でした。
イギリス海軍の兵食を参考にメニューの改善を行ったところ脚気は激減。
この兵食のメニューの中にカレー風味のシチュウがあり、白米に合うようにアレンジしたものが現在のカレーライスのルーツと言われています。カレーライスは故郷に戻った兵士達によって全国に広まっていきました。海軍とともに歩んできた街横須賀からカレーが発信されたのです。

金曜日はカレーの
海上自衛隊では遠洋航海中に曜日感覚を失わないために、金曜日には必ずカレーを提供していました。現在ではこの習慣は、船上勤務の部隊に限らず、すべての部署に広がり、金曜日はカレーがメニューに組み込まれるようになりました。

横須賀市内でしか味わえない「横須賀海軍カレー」が手軽にどこでも食べられます。
横須賀土産に好評です。

category: 横須賀市

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皇国の興廃この一戦にあり・・・記念館「三笠」  

日露戦争(1904~1905)は、ロシアの極東進出によって存亡の危機に立たされたわが国が、主権と領土を守るために、心身の限りを尽くした戦いであり、東郷平八郎司令長官が率いる我が連合艦隊がバルチック艦隊を対馬沖に遨撃して圧倒的な勝利を収めた日本海海戦により戦争は終局に向かい、ポーツマツ条約が締結されて両国の講和が成立しました。
「三笠」は最新鋭の戦艦であり、東郷司令長官が乗艦指揮する旗艦として日本海海戦において常に連合艦隊の先頭に立ち、敵艦の集中的な砲火を浴びながら戦い抜き、歴史的な大勝利に貢献しました。
大正15年、このように栄光の歴史を持つ「三笠」を記念艦として保存することになり、難工事を克服して現在の場所に固定され、以来民族の誇りの象徴として親しまれています。

船体:鋼鉄、排水量:15140㌧、全長:122㍍、幅:23㍍、速力:18ノット、乗員:860名、主砲:30㌢砲4門、副砲:15㌢砲14門、補助砲:8㌢砲20門、45㌢魚雷発射管:4門
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連合艦隊司令長官東郷平八郎
東郷平八郎:1848~1934、薩摩藩出身
明治・大正期の海軍軍人
当時屈指の戦力を誇るバルチック艦隊を完破し、一躍世界的名声を得、「東洋のネルソン」と称された
昭和9年5月30日死去、国葬で葬られた。
東郷司令長官は、対馬沖を北上するバルチック艦隊との海戦に際し「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ」の信号(Z旗)を掲げた。


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最寄り駅;京浜急行(汐入駅・横須賀中央駅)、JR横須賀線(横須賀駅)なお、汐入駅からはどぶいた通りをあるけます。また横須賀中央駅からはメインストリートを歩けます。JR横須賀駅からは臨海公園・ヴェルニー公園を歩いていくことが出来る。

category: 横須賀市

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ロウバイが咲き始めました  

20130120002.jpgロウバイ
久里浜花の国

category: 箸休め

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筌龍弁財天・・・海南神社  

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治承四年(1180)源頼朝の挙兵に際し三浦大介義明、義澄父子は当社に参詣し「神事狐合」(白と赤の狐が闘い白狐が勝った)で源平の争覇を占い、神意により源氏の再興を信じ頼朝側に荷担し、和田義盛と供に衣笠城に立てこもり、畠山重忠ら平氏の軍勢と戦いましたが落城、義盛の一党は久里浜から海路房州に逃れんとしました。
そのとき、折悪しく暴風に襲われて海上を漂流、まさに兵糧尽きなんとしたとき、龍神に祈ったところ(せん:竹で編んだ籠で水中につけておきいったん入った魚は出られなくしてある漁具)という漁具が流れ来たのでこれを用いて魚を採って飢えをしのいだとのことがあり、後に、建久三年(1192)鎌倉幕府が開府し、義盛は別当職に就任しましたがある春の一夜、筌が昇天して龍と化した夢を見て一念発起し、陣地であるこの地に筌を弁財天として祀ったのがこの筌龍弁才天の縁起とされています。
弁財天には、ニ臂弁財天(にひべんざいてん)と八臂弁財天(はっぴべんざいてん)とがありますが、この弁財天は八臂で八本の手を持ち、左手に弓、刀、斧、羂索を、右手に箭、三鈷戟、独鈷杵、輪を持ち、また琵琶を引き、大漁満足、福徳財宝、容色端正、弁智増上、芸能上達などの御神徳を叶える弁財天として変わった形の女神です。

category: 三浦七福神

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相州三浦総鎮守・・・・海南神社  

2013011906.jpg海南神社本殿

御神木(公孫樹)
御神木:この公孫樹は鎌倉時代(1192)に、源頼朝公当社に敬神の念篤く祈願成就の記念して寄進せしと伝えられる手植えの銀杏にて、樹齢約八百年なり。

吉田松陰の言葉

相州海南高家神社
祭神磐鹿六雁命は日本書紀第十二代景行天皇が悲劇的な最後をとげた日本武尊、東征の後跡をしのんで、三浦半島から安房上総に巡行されたとき、天皇の料理賄方を司った神様で、わが国における料理の祖神

御祭神藤原資盈公は、天児屋根之命之の苗裔である。九州太宰少弐広嗣の五代の孫に当り、五十六代・清和天皇の御宇、皇位継承争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかった為、讒訴で追討の罪を蒙って筑紫の配所に航する途中、暴風に遭遇して貞観6年(864)十一月一日父子三人、郎党五十三人は当地に着岸した。(公の嫡男の船は房総半島に着岸し、現在の鉈切大明神は資盈公の嫡子を祀ると伝えられている。)
その後資盈公は土地の長に推戴され、房総の海賊を平定し、郷民を教化して特に漁業の知を開き、文化の礎を築くなど福祉に努力したので、郷民の崇拝の念も篤く、貞観八年(866)に公が歿すると、その亡骸を海に沈め、祠を花暮海岸に建立して祀った。後、花暮の祠を本宮として天元五年(982)に現地に社殿を造営し、三浦一郡の総社となる。その後、承応2年(1653)三月、正一位(吉田家神道の宗源宣旨)に進められ、享保四年(1719)三浦半島の総鎮守となる。
御祭神:藤原資盈公 盈渡姫 地主大神

category: 三浦市

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桃の御所・・・・見桃寺  

2012120803.jpg紫陽山見桃寺

桃の御所建久の昔(1190年ごろ)時の将軍源頼朝は、風光のすぐれた三浦の地に3つの御所を設けました。ここ見桃寺は「桃の御所」のあったところで、鎌倉将軍がしばしば来遊したということです。
ちなみに三御所とは、「見桃寺」の他に「桜の御所」(本瑞寺)、「椿の御所」(大椿寺)があります

category: なんとも贅沢な、頼朝の三浦三御所

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桜の御所・・・・本瑞寺  

2013011903.jpg本瑞寺本堂

山門

鐘楼

建久の昔(1190年代)時の将軍源頼朝は風光のすぐれた三浦に三つの御所を設けました。桜・桃・椿がそれで、ここ本瑞寺は「桜の御所」があったところです。
すなわち、この地に多数の桜樹植え、あわせて城ヶ島の桜をも望見するといった観桜の宴をしばしば催し、二代将軍頼家、三大将軍実朝もここを訪れています。
その後新井城で滅亡した三浦氏の菩提寺であった当寺がここに移り現在に至っています。
境内の鐘楼堂の梵鐘は、吉野朝末期(康永3)のものであり、山門は享保年間の建立である。

なお、境内には近代美術の先覚者岩村透の墓及び胸像、彫塑家北村四海の墓及び作品があり、またホトトギス派の俳人松本たかしの墓、句碑も建てられている。

category: なんとも贅沢な、頼朝の三浦三御所

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椿の御所・・・・大椿寺  

2013011901.jpg
 建久の昔(1190年代)、時の将軍源頼朝は風光のすぐれた三浦の地に三つの御所を設けました。桜・桃・椿がそれで、ここ大椿寺は「椿の御所」のあったところです。
 当時この御所には頼朝の側室が住んでおり、庭内は椿の花で埋まるほどであったそうです。
頼朝の寵愛を一身に受けていた側室が、頼朝の没後尼となり「妙悟尼」と称して、頼朝の菩提をなぐさめ、三十余年をここに過ごしたと伝えられています。
(三浦市)

category: なんとも贅沢な、頼朝の三浦三御所

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畑の真ん中の閻魔堂  

2013010904.jpg閻魔堂

閻魔堂の中

極楽往生手形
この閻魔堂は、畑の真ん中にあり、いつでも中に入れるようになっている。


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地図番号 ①:岩堂山 ②:慈雲寺 ③:毘沙門堂 ④:閻魔堂
最寄り駅 京急久里浜線三崎口駅
コース全歩行歩数:約3万歩

category: 三浦市

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白浜毘沙門天・・・慈雲寺  

2013010902.jpg臨済宗円覚寺派 持陽山慈雲寺

慈雲寺毘沙門堂
三浦七福神 白浜毘沙門天
ここ持陽山慈雲寺の毘沙門堂は、応安元年(1368年)妙謙和尚によって開かれたと言われ、本尊の毘沙門天は行基の作と伝えられています。
この毘沙門天は、海中出現の像といわれ、古来から漁業者の信仰が厚く、ことに正月3日の酉(18時)の刻にはかならずありがたい示現があると信じられており、近郷近在から多数の参詣・参籠があって、あかりの祭典と言われてました。
そして智恵と勇武の守り神として崇められています。
また特に北方を守る武神とされ厄除け・恵方(その年の「えと」に基づいて、良いと決めた吉祥の方角)の神とされ、また佛の道場を守る毘沙門天で、四天王の一の多聞天とも言われています。
(三浦市)


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地図番号 ①:岩堂山 ②:慈雲寺 ③:毘沙門堂 ④:閻魔堂
最寄り駅 京急久里浜線三崎口駅
コース全歩行歩数:約3万歩

category: 三浦七福神

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これが三浦半島南端最高峰の山?・・・岩堂山  

20130100901.jpg
三浦市内には、山岳と言えるほどの高い山はなく、いずれも丘陵程度ですが、この岩堂山は三浦半島南端では最も高い山で、海抜89.9mです。
晴れた日、頂上からは房総半島、伊豆連邦、そして伊豆大島が眺められ、夏は三浦スイカ、冬は三浦大根の緑と空の青さを満喫できる市内で最も展望を楽しめる丘陵です。大昔、毘沙門の白浜海岸に正月3日の朝方、鶏の鳴き声とともに、東方から竜燈があらわれ、一体の仏像が流れ着きました。
村人はこの仏像をお祀りしておりましたが、その後行基菩薩がこの地をお通りになったとき、その像をご覧になり、尊い毘沙門天像であるとお教えになりました。
そして菩薩はこの山に籠り、さらに一体の毘沙門天像をお刻みになり、ともに祀るようにお告げになり去られたということです。
なお、そのとき像を刻んだときに出た木片が寄り集まって塚になり、その木っ端塚が山中にあったと伝えられています。
(三浦市)


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地図番号 ①:岩堂山 ②:慈雲寺 ③:毘沙門堂 ④:閻魔堂
最寄り駅 京急久里浜線三崎口駅
コース全歩行歩数:約3万歩

category: 三浦市

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もうすぐは~るですねぇ、恋をして見ませんか♪  

菜の花です。三浦海岸駅近くの公園では、2月中旬ごろから桜祭りが開かれる予定です。2013010701.jpg

桜祭り会場


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地図番号 ①:河津桜並木 ②:小松が池公園 ③:三浦海岸
最寄り駅 京急久里浜線三浦海岸駅

category: 箸休め

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初春の「すいせん」  

2013010112.jpg


category: 箸休め

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