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歩けば見つかる小さな歴史 ホーム »2013年01月29日
2013年01月の記事一覧

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三命地蔵・・・寿光院  

2013012908.jpg寿光院堂
3命地蔵
常福寺の隠居所としての境外仏堂です。
墓地には「3命地蔵」が祀られています。これは江戸時代後期に弁天丸の水主(水夫)の3人が、遊ぶ金ほしさから、船の命とも言うべき網や綱を売ってしまいました。
三人は死刑に処せられる前、大変後悔し罪滅ぼしにと「この地にねんごろに葬ってくれれば、首から上の病気は何でも治します」と言ったので、船宿が地蔵を彫って安置しました。
咸臨丸の副艦長格としてアメリカに渡った浦賀奉行所与力浜口英幹の墓もあります。
(浦賀行政センタ市民協働事業 浦賀くらぶ)


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category: 横須賀市

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哀れ祖国上陸目前にして・・・・・  

20130129101.jpg浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は終結。
ポツダム宣言により、海外の軍人・軍属及び一般邦人は日本に送還された。ここ浦賀港も引き揚げ指定港として中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。
引揚者は、敗戦の失意のもと、疲労困狽の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れるものが続出した。ことに翌21年、華南方面からの引き揚げ船内でコレラが発生、以後続々と感染者を乗せた船が入港。このため旧海軍対潜学校(横須賀市久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。
この間祖国を目前として多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。
昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖でこの地の引揚業務を閉じる。
私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲になられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、横須賀市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。(横須賀市)
陸軍桟橋
L字型の桟橋は、通称陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。またこの場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった(国土交通省)
船番所の模型


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大六天榊神社  

2013012806.jpg大六天榊神社
川間(西浦賀5丁目)の鎮守様で、主祭神は面足彦命(オモタリヒコノミコト)(猿田彦神)です。
この神社の正式名称は榊神社大禄天神(ダイロクテンジン)と言い、当初は川間奥にある通称お伊勢山の中腹にありました。
明治の頃にお伊勢山の入り口に移され、さらに昭和のはじめに現在地へ移されました。
大禄天は大六天(多化自在天(タゲジザイテン))に語呂が通じ修験者の信奉した仏神と言われています。
道の分かれるところを守り、邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。
山車

祭日は、5月中旬の土曜日・日曜日です.


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跡形もなし浦賀奉行所  

2013012804.jpg浦賀奉行所跡(堀を挟んで右側)
享保5年(1720)に、奉行所が下田から浦賀に移されました。その業務は船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。
また文化文政(1804~1850)の頃からたびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防衛するため、海防の最前線としてさらに重要な役割を果たすようになりました。
享保5年から江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの150年間に、奉行は二人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めていました。
現在では奉行所を取り囲む堀の石垣と表門の前に掛かっている石橋の伊豆石の4~5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことは難しくなっています。
(浦賀観光協会)
浦賀奉行所表門の石橋

いまでは奉行所敷地は民間の集合住宅地になっています。


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為朝神社と虎踊り  

2013012901.jpg為朝神社
祭神:鎮西八郎源為朝
創建:文政年間(1818~30)である。

寛政十二年(1800)、漁師高橋忠兵衛が、浜に漂着した木像を拾い上げたが、のちに
為朝の御像と判り、奉行所の許可を得て浜町の鎮守にしたと伝える。
為朝は、保元の乱で父為義と共に戦って敗れ、腕(かいな)の筋を切られて伊豆大島に
流され、赦されることなく、その地で没した武将である。
古来、日本人は悲劇の武将の怨念を恐れ、神として祀ることによって、逆に、禍い転じて
福をもたらす精霊として転化させてきた。いわゆる御霊信仰である。
人々は、為朝を疱瘡神とし、当時、恐れられていた疱瘡の病を、為朝の怨霊の力で救って
もらうことを期待したものであろう。
出典 「三浦半島の史跡みち」 鈴木かほる著

虎踊り(1)
虎踊り(2)

県指定重要無形民俗文化財
国選択無形民族文化財
「横須賀の虎踊り」
所在地:横須賀市西浦賀町4丁目(旧浜町)
指定年月日:昭和51年(1976)10月19日
選択年月日:平成16年(2004)2月6日

虎踊りは享保5年(1720)、奉行が伊豆下田から浦賀に移ったときに伝えられたと言われています。
近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内(ワトウナイ)の虎刈りの場面を取り入れた芸能で、ここ為朝神社に特設の舞台を作って演じられます。
和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子(カラコ)の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台上を自由に振舞い数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、みえを切ります。
虎は親子2体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児唐子は女児、太唐人は成人男子が演じます。
〇「記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財」に選択された「横須賀の虎踊り」は浦賀と野比の虎踊りが対象です。(横須賀市教育委員会)
横須賀市西浦賀4丁目辺りを浜町と呼びます。文字通り浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったところからついた名称です。
浜町はもとは広い範囲を占める「川間」の一角でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になりました。


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