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歩けば見つかる小さな歴史 ホーム »2013年01月30日
2013年01月の記事一覧

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叶神社・・・(東叶神社)  

20130130101.jpg(東)叶神社
御祭神は、京都石清水八幡宮と同じ応神天皇(第15代天皇)です。
この神社は養和元年(1181)8月15日高尾山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えることに始まると言われ、その後源頼朝によってその願いが叶ったところから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。
またこの他新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などにはこの神社に関する記事が載っています
神社の裏山を明神山と呼び、標高は50mです。
後北条氏のころ、しばしば房総半島の里美水軍が三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐためにこの明神山に水軍を配置しました。
山頂にはこの神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の跡」があります。明神山のすばらしさは、良く保全された自然林で木々の種類も豊富なことです。
特にウバメガシの自生は神奈川県内でもこの明神山と城ヶ島だけでここが分布の北限と言われています。
この学術的に貴重な明神山一帯は「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。

身代り弁天
御祭神:厳島媛命
例祭日:7月18日
東浦賀の産土神である叶神社の境内社として神秘な岩窟内に祀られる厳島神社はもともと海上交通の安全と戦等の勝運を司る神として尊崇されており、誠に霊験あらかたであります。
古よりこの弁天様を信仰された人々が、海上の遭難や交通事故をはじめあらゆる不慮の事態に直面し、身命の危機に晒されても必ず弁天様が示現なされて身代りになられ、災禍からお守り下さったという例には枚挙に暇がありません。このような御神徳が三浦半島を始め、近郷近在の方々の篤い信仰をあつめております。
弁天様を信仰なされて限りなき御神徳を亨愛されんことを記念いたします。(叶神社社務所)
勝海舟断食の折、使用の井戸
上の写真の井戸からくみ上げています
この流水は、右奥にある「勝海舟断食修行の折、使用した井戸」から汲み上げている水です。比叡山延暦寺の高僧よりご託宣が伝えられ、この流水を硬貨にかけ流し、常に身につけることにより弁天様のお力も相候って、開運と金運のご利益があるとされます。

勝海舟断食の跡
万延元年(1860)、時の幕府は日米修好通商条約批准交換のため、米国へ使節を派遣した。
米国軍艦ポーハタン号の随行船としての咸臨丸の船将に任命された勝海舟は、壮挙に先立ち当社を訪れ太平洋横断航海の一路平安について叶神社のご加護を祈念し、併せて自己の精神的肉体的荷重等の克服を謀るため、社内にある井戸で潔斎水垢離を済ませ修行用の法衣に心身を整え千石蒼々とした樹林に囲まれた奥の院の社前のこの場所を選んで座禅を組み、断食修行を行ったのである(叶神社社務所)



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出発地:京急久里浜線京急久里浜駅またはJR横須賀線久里浜駅
到着地:京急本線浦賀駅
総歩行数:約1万5千歩
地図番号:①浦賀の渡し ②西叶神社 ③東耀稲荷 ④東叶神社 ⑤勝海舟断食跡



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category: 横須賀市

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東浦賀繁栄を今に偲ぶ・・・東耀稲荷  

20130130001.jpg東耀稲荷
創建は天明2年(1782)で食保命(ウケモチノカミ)をお祀りしています
東耀稲荷の名の由来は、隣接する東耀山顕正寺の山号からとったもので、古くは顕正寺の境内にあったと言われています。さほど大きくはありませんが、欄間や号格天上などには見事な彫刻が施されています。
屋根には恵比寿と大黒天の飾り瓦が乗り、干鰯(ホシカ)で栄えた東浦和の繁栄振りを今に偲ばせてくれます。
またこの稲荷は、火防(ヒブセ)の神としても崇拝されています。
合祀されている須賀神社は新町(シンチョウ)の鎮守で、創建年代はわかりませんが、昔悪い疫病(コロリ)が大流行したとき、新町にも何人かの死者が出たため、里人が当社(素戔嗚尊(スサオノミコト))を勧請し病気をしずめたと伝えられています。
恵比寿の飾り瓦

大黒天の飾り瓦



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到着地:京急本線浦賀駅
総歩行数:約1万5千歩
地図番号:①浦賀の渡し ②西叶神社 ③東耀稲荷 ④東叶神社 ⑤勝海舟断食跡



category: 横須賀市

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叶神社・・・(西叶神社)  

西浦賀の鎮守。
西叶神社と書きましたが、本来は叶神社が正式名称です。
しかし、東浦賀にも叶神社があり、区別のため、西叶神社と呼んでいます。 縁起によれば、「平家物語」に登場する文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、よい土地を選んで神社をたてることを誓いました。 養和元年(1181)この願いが叶えられそうになり、神社を建てる場所を探した結果、 頼朝ゆかりの千葉・鹿野山の対岸である西浦賀の地が選ばれ、ここに石清水八幡宮を勧請しました。
この場所は現在の浦賀丘3丁目にあり、文覚畑と呼ばれています。
文治2年(1186)壇の浦の戦いで平家が破れ、源氏の世になると、大きな願いが叶ったことにより 「叶明神」の称号が与えられた、とあります。 文覚上人(1139~1203)は、もと鳥羽天皇の皇女に仕える北面の武士でしたが、出家し、 諸国の霊山で修行し、その効験をもって知られていました。
後白河法王に対する荘園寄進の強要により伊豆に流され、平氏嫌いでもあった上人は そこで頼朝と出会い、源氏の挙兵を勧めたといわれます。
現在の社殿は天保13年(1842)に再建されたものです。
社殿をとりまくたくさんの彫刻は、後藤利兵衛という安房国(千葉県)の彫刻師の若い頃の作品で、 後藤はこれらの仕事が認められ、その後幕府の彫刻師として雇われました。
拝殿の格天井の彫刻は花鳥ですが、この中には当時の日本にはまだ渡来していないとされる 花や鳥も彫られており、後藤はどこでこれらの知識を得たのでしょうか。
また、神殿の棟柱を担ぐ力士像なども他には類を見ない優れた作品であり、 これらの彫刻は横須賀市の市民文化資産に指定されています。
社殿の下にある銅製の大きな灯籠は、浦賀の遊廓によって寄進されたものです。
また、水屋にある石の漱盤も遊廓の主人で、僧侶に転身した江戸屋半五郎が寄進したものです。
現在、社務所があるところは、江戸時代は不動明王を本尊とした感応院西栄寺という古義真言宗のお寺 があり、高野山から、南関東一円に配る御札や加持祈祷に使うものが送り届けられ、 それを配布する役目をしていました。
また、この場所に明治4年、西岸学舎が置かれ、東浦賀の乗誓寺に置かれた東岸学舎と 明治31年に合併して浦賀小学校が誕生するまで存続しました。
明治14年、明治天皇が観音崎砲台の視察の際、この教室が休憩所として使用されました。






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市道を渡し船が走ります・・・浦賀の渡し  

2013013002.jpg
市制施行七十周年期記念  横須賀風物百選
「浦賀港と渡船」

 室町時代に、聖護院准后道興(せいごいんじゅんこうどうこう)が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に「・・・浦川の湊(みなと)といへるところに到る。ここは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、金沢、榎戸(えのきど)、浦河とて、三つの湊なりけるとかや・・・」とあります。そこが現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては、歴史家の間に疑問があるようです。しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが書物の中にみられる最初のものです。いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条氏によって使われていたことは確かなようです。
 この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。英人ウィリアム・アダムズを逸見に住まわせ、しきりにイギリスやオランダなどの商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。
 享保五年(1720)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で船改めをすることが義務づけられました。そのために、浦賀の町は大いに栄えました。以後、浦賀港は、黒船の来航、咸臨丸の出港、日本最初の洋式船鳳凰丸建造の地として、更には浦賀船渠株式会社の設立と、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。  この港は、湾が約1.5キロメートルも入り込み、東西両岸の住民が往来するのには、渡船を利用することが最も便利でした。したがって、渡船は早くから開かれていたようです。明治九年編さんの皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・船二隻ヲ用ヘテ往復ニ便ナラシム私渡ニシテ修繕民費」とあるところから、最初は民営の渡船であったようです。大正六年には、その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。更に昭和十八年四月一日、浦賀町が本市に合併されると、渡船事業も市営になりました。昭和二十四年以後、と線の運行業務を民間に委託し、現在に至っています。
 唯一の市営交通事業である渡船で、昔をしのびながら、浦賀港横断をお楽しみください。


 渡船は、浦賀に奉行所が置かれてまもない享保10年(1725年)ごろから始まる長い歴史を持っています。
 江戸時代には、船が1艘で船頭さんが2人。この船頭さんの生活と船の維持管理は、東西浦賀の人々や、鴨居や久里浜などの近隣の方の協力を得て、まさに生活に欠かせない船
でした。
 明治11年(1878年)からは、東西浦賀の17町内会の共同体が維持管理をするようになりました。
 この時の運賃は1人1厘5毛で、営業時間は朝6時から夜10時までで、夜間の運賃は倍額と定められました。これが公営交通としての渡船の誕生です。
 浦賀町が渡船に関わるのは、それから40年後の大正6年(1917年)のことです。
 この頃が渡船の最盛期であり、1日の平均乗船客が1,000人にも達していて、現在の場所から300mほど港の内で、もう1ルートの営業が行われていました。
 昭和18年4月、浦賀町が横須賀市と合併して、渡船も横須賀市からの委託経営となり、昭和30年代後半には機械化された船による航行となりました。
 現在の船(愛宕丸)は、平成10年8月9日に就航しました。
 それまでの木造船から大型化し、江戸時代の「御座船」をイメージしたFRP(強化プラスチック)製の船になっています。
 ちなみに、渡船の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の市道(2073号線)です。
利用料金:大人150円、子供50円、その他(自転車等)50円(定期券、回数券は発行していません)
航行時間:朝7時から夕方6時ごろまで。※12時から13時までは、お昼休みです。
定休日:12月31日から1月3日までは休航します。
 ※荒天時(波が高かったり、強風の場合)や船の点検時には休航します。



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