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魚貝供養塔のあるお寺  

20130331002.jpg最光寺本堂

裏山から本堂・東京湾を望む

魚貝供養塔

法竜山宝積院最光寺 浄土真宗大谷派
本尊:阿弥陀如来
開基;行基菩薩

寺伝:「当時は天平元年、行基菩薩開基で高座郡菱沼村に草創され、後に僧円達によって再興され、宝積院と称した。はじめ天台宗であったが、後、円光が親鸞の弟子となり浄土真宗に改宗して、寺を鎌倉松ヶ枝に移した。
ついで兵火にあい衣笠村に移り後,住僧了誓の時、当村に来住。
12世頼玄のとき、天文9年(1540)冨塚山(松葉)に当寺が建立された。
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category: 横須賀市

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日照りでも半身濡れたお地蔵さん  

和田地蔵
このお地蔵さんは、西徳寺の境内に安置されている。
この石地蔵は昔路傍にあったものを、和田義盛がそのすばらしい地蔵の姿に引かれ、地蔵の前に礼拝して「この度の合戦に勝てるならば川上へ、そうでなければ川下へ流れてください」と祈願した。そしてこの石地蔵を流れる川の水に沈めた。
義盛以下居合わせた武士たちは一心にこの地蔵の流れるのを見つめていると、不思議やこの地蔵は半身を浮かばせて川上へ流れていったという。
今まで一心に見ていた義盛主従はすっかり感激し、早速この地蔵を川辺のちかいところに御堂を建てて祀ったということである。
後にこの川を和田川(西徳寺前の川)といい、この地蔵を和田地蔵と呼ぶようになり、今でも西徳てらの境内に祭られている。
不思議なことには、この地蔵はいかなる日照り続きの時でも、半身が濡れたようになっているといわれ、腫れ物や百日咳などには霊験あらたかであるといわれている。またこの地蔵にはいつも赤い旗や前垂れ、そして何枚かの着物が重ね着され信仰を集めている。

この地蔵の安置されている西徳寺へは、下記の西徳寺をクリックしてください
西徳寺

地図はリンク先に掲載してあります

category: 横須賀市

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洛中洛外図屏風・・・大松寺  

2013033001.jpg大松寺本堂
鐘楼と六地蔵
この寺の裏山一面の寺林は、常緑広葉樹を主体とする自然植生で昭和51年神奈川県の天然記念物に指定されている。
参道入口には六地蔵がならび、その隣には「三浦地蔵札所第一番」の新しい石柱が立っている。
又六地蔵の裏に鐘楼堂があり、新しい鐘楼が掲げてある。鐘は周囲に天女を配し、鐘口には蓮華の花を陽刻した珍しい形の鐘である。
本堂は明治14年の火災により焼失し、同24年に再建されたものである。 寺伝によれば源頼朝の家臣稲毛重政が開基で天文2(1533)古敷谷豊前種次が中興し、その後金沢釜利谷(横浜)禅林寺八世無禅師を開山に迎えたと伝えられる。
堂内正面には本尊釈迦如来を安置し、左脇間には道元禅師一代記を画いた八双屏風がある。
この他横須賀市の重要文化財に指定されている「洛中洛外図」六曲一双の屏風絵がある。

「洛中洛外図」
この絵は凡そ250年以前の元禄時代から徳川初期頃の作品といわれている。
これは京都の風俗と四季の景観を通じて、左京と右京に分け土佐絵風に画いたもので格中格外と呼ばれる一連の屏風絵である。
高さ凡そ170センチ、長さ280センチ金地着色の豪華絢爛たるもので右隻は泉湧寺辺の洛東洛北の一部の景観を取り入れ、鴨川を隔てて山鉾巡行と多くの人が点描された右京の風物がみれらる。
左隻は金閣寺辺の洛北の一部と洛西の景観がある。嵯峨野の寺々に桂川の流れ、二条城堀川通りの行幸風景を見る姿が見られ、左京の景観がうかがわれる。
この屏風は岡山県の素封家徳田氏の先祖が、岡山藩主池田公より拝領したもので、最近徳田氏より横須賀の島田氏に譲られたもので、大松寺に寄贈されたと言われている。

大岡越前守
この寺には有名な大岡越前守が老中職であった頃、森崎村と小矢部村とが池のことについて争ったときの「裁き書」が残されている。

出典 「三浦半島の古刹めぐり」 松浦豊著


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JR衣笠からの歩行距離:約1.2キロ

category: 横須賀市

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一刀三礼の仏像が本尊・・・曹源寺  

20130329201.jpg曹源寺本堂
当寺は東光山(古は三秀山)層言寺(昔は宗元寺または宗源寺)と称し、逗子市沼間海宝院の末寺で曹洞宗である。寺伝によると天平中(729~48)僧行基草創の古道場であった。
本尊は行基が「一刀三礼(いっとうさんらい)」して彫刻した薬師の像であるという。
建久3年8月、頼朝夫人の安産の祈祷として国中の諸寺に読経せしめしとき当寺もその一つであった。
元弘の乱(元弘元年~3年(1331~1333)に北条氏が滅ぼされていわゆる建武の中興を導いた内乱)の兵火にかかりて堂宇悉く烏有に帰しただ寺名のみ久しく残り伝えられていたが、後県令長谷川七左衛門長綱が再建し、霊屋禅師を迎えて中興の開祖とし、そのとき寺号を曹源寺と改めた。
本尊の薬師如来の像高は3尺、行基の作。
薬師の脇侍の日光菩薩と月光菩薩は像高2尺8寸、鎌倉の仏師運慶の作。
薬師のそばに人々を守る軍神として12神将が祀られ、神将の像高は2尺9寸運慶の作。この像は建仁元年(1201)平政子の寄付なりという。
慶長4(1599)2月22日薬師領3石を賜る。
一刀三礼(いっとうさんらい)仏像を彫る態度が敬虔なることをいう。
一刻みごとに三度ずつ礼拝する。
写経の一字三礼も、図象を画くときの一筆三礼も同じ精神を込めている。

十二神将は鎌倉末期の作で、昭和41年神奈川県重要文化財に指定された。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」高木俊雄著
鐘楼
六地蔵

巳神将像(十二神将のうち)
国指定重要文化財木造十二神将立像 12躯
十二神将は薬師如来の眷族(けんぞく)で十二薬叉大将とも呼ばれ、如来の十二の大願に応じた神といわれる。
如来の周囲を取り巻いて守護するのでいずれも甲冑をつけた武将の姿で表されている。
また昼夜十二時の護法神ともされ、十二支の動物を頂く。
像の構造は割刳造り(わりぐりづくり)と寄木造りで一様ではなく、それぞれに玉眼を嵌入する。
像高は70~90センチほどである。
その作風は軽快で変化のある姿態を表現しており個性的な面部の表情などもいきいきして力感がありすぐれた彫技を見せている。
戌神将の像内に「建久の頃の仏なり」という墨書があり建久年間(1190~1199)頃である鎌倉時代の初期の作と考えられる。現在まで12躯揃いで伝像されてきたことは貴重である。
横須賀市教育委員会


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①曹源寺 JR衣笠駅から歩行距離:約1.07キロ
②黒門 曹源寺から黒門までの歩行距離:約1.44キロ
黒門から京急横須賀中央駅までの歩行距離:約1.9キロ

category: 横須賀市

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黒門・・・永島家の長屋門  

20130329101.jpg
1.永島家の先祖は三浦義明の五男永島出雲守義正が初代となり、以後現在に至るまで約700年以上、現在の地を居住としてきました。
2.長屋門前の4m幅横須賀市道については、明治頃までは三崎街道として使用していました。
当時は人の往来だけでなく、牛馬の往来もかなりあったようです。
この長屋門の脇にも牛馬の休むところがありました。
3.島崎藤村の「夜明け前」の小説の中には、藤村が自分の先祖をたどり、その先祖が赤門の永島家であるという小説書きがあります。
当家と赤門の永島家は親戚になります。
赤門へのリンク先は下の「赤門をクリックしてください
赤門
4.現在の長屋門は黒門と称して、桁行7間(約12.6m)、梁行2間半(約4.5m)寄棟造り、桟瓦葺きの建物です。
建築年代は江戸末期(19世紀前半)と推定され、本来は茅葺であったものを大正頃に瓦葺に改修したようです。その後数回の改造を受け間取りや建具形式などが変更されていました。
しかしながら門構えや格子窓、柱などは当時の形式を良くとどめ、当初の間取りや外観もほぼ判明します。
このように長屋門は屋根及び軒が改造されてるとはいえ、幕末頃の裕福な階層の形式をよく示しており、地域文化遺産としての価値の高いものです。

したがって今回建物を曳き家するにあたり、横浜国大大野敏博士の指導助言を得て修復を実施し、屋根以外の外観や間取りを出来る限り建築当初の形式に復元しました。
なお、従来の長屋門礎石は修復の際に再用できなかったため門の作庭の石として残すことにしました。


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①曹源寺 JR衣笠駅から歩行距離:約1.07キロ
②黒門 曹源寺から黒門までの歩行距離:約1.44キロ
黒門から京急横須賀中央駅までの歩行距離:約1.9キロ

category: 横須賀市

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海・山・武門の守護神  

三島神社本殿
祭神:大山祇命他三柱
例祭:11月15日前後の日曜日
祭神の大山祇命は伊邪那岐尊、伊邪那美尊の御子で、足名椎命(アシナヅチノミコト)、手名椎命(テナヅチノミコト)、石長比売命(イワナガヒメミコト)、木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)の御父神で、その妃神は鹿屋野比売神(カヤヌヒメノミコト)である。
この祭神は大山を司る神で山神である。
愛媛県の大三島に大山祇じんじゃがあり、この神を祀る根源の神社である。
この神はまた和多志大神(ワタシノオオカミ)ともいわれた。和多は綿津見で海の神である。したがって海上の安全を守る神ともなり武門の守護神で、特に水軍から崇敬される神であった。この神の御子がお生まれになったとき穀物から始めて天甜酒(アメノタムザケ)を造った神で、造酒の祖神として崇敬されている。

神社周囲の社叢林(天然記念物)
三島神社の社叢林(神奈川県指定天然記念物)
当社参道左側には、アカガシ、スダジイ、モチノキが混生した常緑広葉樹林が発達しています。この林の高木層は20mを越え、中には胸高直径48センチのアカガシの老木や、神奈川県では比較的珍しいツクバネガシも混生しています。しかし高木層の植被率は60%とやや疎開しています。
亜高木層にはカクレミノ、ヤブツバキ、モチノキ、スダジイ、タブノキ、ヤブニッケイが混生し、高木層の空間を被い、植被率も70%を占めています。
低木層には高木層、亜高木層の種群に加えシロダモ、ヒサカキ、アオキ、クロガネモチ、ヤツデ、トベラなどの常緑樹やイヌビワ、ムラサキシキブなどの落葉樹が混生しています。
神社北側にもスダジイをはじめモチノキ、クロガネモチ、アカガシが混生した常緑広葉樹林が見られる。
ここには胸高直径75センチのスダジイの大木もあり、高木層が25mを越える樹林を形成しています。
林床にはホソバカナワラビ、コバノカナワラビなどのシダ植物が見られます。
今日ではこれらシダ類の生息する多様性に富んだ常緑広葉樹林は三浦半島でも貴重な存在となっています。
三島社の樹叢は三浦半島に残された限られた郷土林として学術的にも重要であります。

神奈川県教育委員会
横須賀市教育委員会



平成19年11月吉日
高さ80センチ 長さ60センチ 幅40センチ



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YRP野比駅から三島神社までの歩行距離:約3.8キロ
YRP野比駅からバスもあります

category: 横須賀市

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春ですねえ  

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category: 箸休め

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春日神社(2)  

20130328301.jpg










category: 横須賀市

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本殿は猿島にあった?・・・春日神社(1 )  

20130328201.jpg春日神社本殿
祭神:天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
例祭:7月30日
当社は横須賀市公郷一円に氏子をもつ鎮守である。
この神社の期限は詳らかではないが、明治の初めまで猿島に本殿があって、祭礼には神職や村の人々が共に船に乗って島に渡り拝殿で神楽を奉していた。この神社が現在の春日神社である。
しかし朝夕参拝する氏子のために昔から遥拝の社があった。位置は現在の地で拝殿は享和元年(1801)11月に造営され、本殿は明治12(1879)10月に造営された。
祭神の天児屋根命(アメノコヤネノミコト)は今の天の岩屋戸の神話に出てくる神で、岩屋戸の前で太祝詞(ふとのりと)を奏する役を受け持ち、天照大神がその美辞を賞でられたと「日本書紀」に書かれている。
春日神社は全国に3000余の分祀社があり、人々の尊信の厚い神社である。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」高木俊夫著
見事なお神輿

category: 横須賀市

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熊本藩が祀った毘沙門堂・・・泉福寺  

20130328010.jpg泉福寺本堂
照本山泉福寺と号し、衣笠金谷の大明寺末寺で、日蓮宗。
本尊は日蓮聖人坐像である。
開基は日真聖人で応永8年8月(1401)に示寂したというからそれ以前の創立である。
本堂は大正12年9月1日の地震で被害を受け翌年に仮堂を建て、昭和29年に今日のように改築された。
入母屋造りの本堂は、元馬堀町3丁目にあった白山神社の社殿を昭和29年に移し再建したのである。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」高木俊雄著
毘沙門堂
毘沙門堂は、幕末防備のため熊本藩が祀ったものといわれている。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」高木俊雄著



高さ50センチ 長さ50センチ 幅20センチ

大明寺へのリンク

category: 横須賀市

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江戸の防備に各地から・・・・大津陣屋  

今は取り壊されて存在しない大津陣屋跡
20130328007.jpg
天保14(1843)幕命により江戸湾沿岸防備のため、川越藩主松平大和守によって建設された。
面積は約9800坪あり、御殿、稽古場、事務所、馬場、長屋20棟などが壮観に建ち並び八幡様も祀られていました。
陣屋には多いときで村の人口に近い1500人が詰めていました。
その後沿岸防備の担当は肥後藩、佐倉藩、浦賀奉行所の所管となり、明治元年(1868)新政府によって大津陣屋は取り壊されわずか26年間の歴史が閉じられました。陣屋は現在の大津高校から大津3丁目にかかる一帯にありましたが今は大津中学校正門内側の右に移設された石橋を残すのみです。
大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ


石橋のみが残った
この石橋はもと横須賀刑務所(現在の大津中学校)正門前官舎の傍にあったもので旧大津陣屋構内に掛けられた遺構の一つです。
大津陣屋は天保14年(1843)に沿岸防備のため築造されたもので、川越、熊本、佐倉などの諸藩が代々詰めていました。
慶応3年浦賀奉行所管轄となりましたが明治元年に陣屋は廃止されました。
石橋は昭和53年刑務所が移転するに際し外されましたが、この場所に設置されたものです。
現在陣屋を物語る遺物としてこの地に残された唯一のもので貴重な郷土の文化財といえます。
横須賀教育委員会

category: 横須賀市

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三浦半島最大規模の古墳群・・・大塚古墳群  

20130328002.jpg昔の古墳群
大塚古墳群は大正13年(1924)故赤星直忠博士により発見された。
昭和27年に最大規模の大塚古墳一号墳が発掘され、棺床部から直刀、刀子、鉄のやじり、耳環、ガラス小玉、須恵器などが出土しました。平成4年の調査では一号墳は全長31.3m、後円部径18.8mで古墳時代後期としては、三浦半島最大級の前方後円墳であることが確認され、周囲に前方後円墳2基と円墳3基、計6基が発掘されました。
他に縄文時代早期の集落跡や太平洋戦争中の高射砲陣地跡がありました。

古墳は実際はここから北東方向に800m離れた標高77m前後の山頂部にありました。

この一号古墳はほぼ当初の規模形態で復元され、大塚復元古墳として開放されています。
「大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ」

完全復元の前方後円墳

古墳を護るかように牛頭天王が・・・


製作年月不明

category: 横須賀市

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蓮如が名づけた法善寺  

20130328001.jpg法善寺
山号:流水山
浄土真宗西本願寺末寺

古は真言宗で法性院と称したが、文明中(1469~86)蓮如(1415~1499)が関東に巡錫のため下向した際、時に当山の住僧法憧坊善性がその教導を請うて浄土真宗に改宗したという。
蓮如が六字名号(南無阿弥陀仏の六字)を書いて授与した。
住僧の名を取って寺号を法善寺と授けたという。
本尊は阿弥陀如来である。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」高木俊雄著

蓮如とはどんな人
蓮如は室町後期の浄土真宗の僧。本願寺8世
浄土真宗中興の祖
諱(イミナ)は兼寿、勅諡は慧灯大師
本願寺七世の長子
長禄元年本願寺を継ぎ、浄土真宗の教団に大きな発展をもたらした。
寛正6(1465)比叡山の圧迫を受け、越前吉崎に逃れ、文明10(1476)山科の地に移って同15年山科本願寺を建立
明応5年には大阪に後の石山本願寺を建立
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」高木俊雄著

category: 横須賀市

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中興の祖は元侍?・・・横須賀市円乗院  

2013032501.jpg円乗院
浄土宗 仏古山最勝寺円乗院
開基:古感上人
開山:方誉上人
本尊:阿弥陀如来

風土記によると「当山は最勝寺と称し、仏古山円乗院と号す。法蔵院末、本尊阿弥陀」とあり、また北浦志録には「円乗院は牛込にあって阿弥陀を安置、慶長元年(1596)建立①、僧古感開基なり」とあるので後に浄土教に帰依し浄土宗となり光明寺末寺、また法蔵院末寺として法灯が続いて現在に至っているということである。
本院の中興の祖諦念大徳は俗名を由造といい、長門国峯郡(今の美祢郡)の出身で、安政年間(1854~1860)②に、松平大善太夫に仕えて、三浦市上宮田の下浦陣屋に勤務したあと仏道に帰依し、文久年中(1861)に当院の達誉上人の許しを得て出家得度して、本院に住み本堂、庫裏を再興し田畑を寄進したので、中興の号をあたえられたという。
出典「北下浦の社寺めぐり」 北下浦地域文化振興懇話会著

境内にたつ地蔵
六十六部供養塔
延享二乙丑歳正月③


下記をクリックすれば過去記事で陣屋がでます。
三浦上宮田の陣屋



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時代背景①
1590 秀吉が全国統一。
小田原の北条氏を破る。
1592 秀吉が朝鮮出兵を命ずる(文禄の役)。
貿易船に朱印状を渡し、貿易をすすめる(朱印船)。  1593 豊臣秀頼
1594 秀吉が全国にわたり検地を行う(太閤検地)。
村ごとに田畑のよしあしや面積・収穫高、耕作をして年貢を納める農民を調べ、それを検地帳に記入。検地と刀狩りによって、農村に住む農民と城下町に住む武士の身分の区別がはっきりした。
1597 秀吉が再び朝鮮に出兵する(慶長の役)。
1598 秀吉が死ぬ。
時代背景②
1853 アメリカの使節ペリーが来航し、浦賀で開国を要求する。  
アメリカのペリーが軍艦4隻をひきいて浦賀(神奈川県)に入港し、開国を求めたので、幕府は翌年に返事をすると約束した。そして朝廷に報告するとともに大名にも意見を求めたがまとまらず、開国か鎖国かで国内はゆれ動いた。
1854 ペリーが再び来航し、日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ。
下田・函館の2港を開いて、アメリカ船に食料や燃料を与える約束をした。
ついで、ロシア・イギリス・オランダとも和親条約を結んだ(鎖国の終了)。
時代背景③
1732 享保の大飢饉  
このころ、各地に百姓一揆や打ちこわしが起こる。  
1742 公事方御定書を出し、裁判の基準を定める。  
1751 吉宗が死去。

category: 横須賀市

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三浦七阿弥陀の一躯を祀る寺・・・往生院  

20130324115.jpg箕輪山往生院
箕輪山往生院と称し、浄土宗津久井法蔵院の末寺である。
建立は永禄元年(1558)①である。開山は僧明誉。開基は村民長谷川惣左衛門の先祖で正寛という。
本尊の阿弥陀三尊は高さ三尺運慶の作と伝えられる。
文治5年(1189)②和田義盛が運慶に命じて釣らせたとの木簡もありますが、仏像胎内背面の墨書銘には
「中興願主観蓮社音誉 相州三浦郡津久井郷 永禄元年戌年八月朔日 大仏師長勤作次之」
とあり、制作年代のわかる仏像として横須賀市指定重要文化財である。
本尊の阿弥陀三尊とは、中尊(正面)、阿弥陀如来、脇侍(右側)観音菩薩、脇侍(左側)勢至菩薩をいう。
またこの阿弥陀三尊は、三浦七阿弥陀の第六番といわれる。
「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著



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時代背景①
1555 川中島の合戦
    上杉謙信と武田信玄が信州(長野県)川中島で戦った
1560 桶狭間の闘い 
    織田信長が今川義元を滅ぼす
時代背景②
1185 平氏が北九州へ逃れ壇ノ浦で滅びる
1189 源頼朝、奥州で義経を討つ
1191 栄西、宋より帰り臨済宗を伝える
1192 源頼朝、鎌倉幕府開く

category: 横須賀市

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シロツメグサとムラサキツメグサ  

シロツメグサ(白詰草)の名前の由来
漢字表記は、「白詰草」。詰め草の名称は1846年 (弘化3年)にオランダから献上されたガラス製品の包装に緩衝材として詰められていたことに由来する。

シロツメグサ


ムラサキツメクサ(紫詰草)Trifolium pratense はクローバー(ツメクサ)の一種である。和名ではアカツメクサとも、あるいは一般に赤クローバーとも呼ばれる
アカツメグサ

category: 箸休め

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三浦安針(2代目)が再建  

20130324001.jpg三浦安針2世が崇敬した鹿島神社







祭神:武甕槌命(たけみかつちのみこと)
例祭:6月5日
応永17年(1410足利義持の頃)4月、三浦遠江守が常陸国の鹿島神宮を勧請したという。新編相模国風土記に村の鎮守なり、神体木造長さ1尺2寸、像背に応永17年と銘ありと、又天正ン(1574)朝比奈六太夫の棟札があったが、明治4年(1871)7月28日夜、乞食の失火で社殿棟札はじめ貴重なる銘のあるご神体を焼失した。
三浦安針(ウィリアムアダムスの子、二代目三浦安針)が本社を崇敬して社殿を再建した。
社殿を飾る彫刻は浦賀の西叶神社の彫刻を手がけた、後藤利兵衛義光の弟子で、安房館山国分生まれ、長じて義光の門に入った後藤善三郎義信の作品で、横須賀市に残る貴重な作品である。

三浦安針夫妻へのリンク先=下のURLをクリックしてください.三浦安針夫妻の子供の名前が出てきます。
http://sgo0213.blog.fc2.com/blog-entry-148.html

category: 横須賀市

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本尊は叱枳尼天(ダキニテン)・・・豊川稲荷  

2013032408.jpgアーケード街にある豊川稲荷入口

豊川山徳寿院

神武天皇遥拝跡

地蔵尊

この寺は曹洞宗で、寺のある敷地は海抜40m、入口に山門があり境内はよく整備されて眺望も良い。
本堂には豊川市の妙厳寺と同じ叱枳尼天(ダキニテン)を祀っている。
叱枳尼天とはインドではもと神通力を持った悪鬼であったが、仏教に取り入れられ守護神として祀られ、その後は白い狐に乗っているところからいつの間にか稲荷と同一視されることになった。庭には狐の像や石灯籠などが左右一対づつある。
この山は明治28年、浦賀の人坂東善兵衛が公園とした日進戦争の勝利を記念して大勝利山と名づけた。

category: 横須賀市

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花見にはすこーし早すぎた・・・県立塚山公園  

神奈川県立塚山公園は、その敷地内に三浦安針夫妻の墓がある。(このページ下にリンク先があります。2013032401.jpg公園から見下ろす横須賀港と自衛艦

猿島

満開ではないけど宴会たけなわ

公園から見える段々畑

三浦安針夫妻の墓へのリンク先=下のURLをクリックしてください。三浦安針夫妻の墓が出て来ます。
http://sgo0213.blog.fc2.com/blog-entry-148.html

category: 横須賀市

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花祭りは一ヶ月遅れ・・・横須賀本行寺  

2013032101.jpg本行寺本堂
日蓮宗南向山本行寺と称し、本尊は日蓮上人、開基は日感上人である。
寺伝によると、永禄元年(1558)日感上人によって長岡堂前に建立され、鎌倉本覚寺の大徳日朝上人を安置した。
天明元年(1781)まで223年間堂前の地にあったが、当山21世日観大徳に至り村岡に移転した。
本堂は江戸時代寛政8年(1796)23世日周上人が再建したが、大正12年関東大震災で本堂・庫裏が倒壊、昭和56年本堂・庫裏とも修改築。
この寺では、甘茶の木を栽培しており毎年成育の関係で釈迦誕生から一ヶ月遅れの5月8日に甘茶が振舞われている。また11月19日には万燈を先導に太鼓を叩きながら信者が行列を組んで歩くお会式(おえしき)が催されている。
出典 「北下浦の社寺めぐり」北下浦地域振興懇話会著

八大竜王堂
八大竜王、八大龍王(はちだいりゅうおう)は、天竜八部衆に所属する竜族の八王。法華経(序品)に登場し、仏法を守護する。 霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大竜王も幾千万億の眷属の竜達とともに釈迦の教えに耳を傾けた。釈迦は「妙法蓮華経」の第二十五 観世音菩薩普門品に遺されているように「観音菩薩の御働き」を説いた。その結果、「覚り」を超える「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)、無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を得て、護法の神となられるに至った。
古代インドではナーガ(नाग, Nāga)という半身半蛇の形であったが、中国や日本を経て今の竜の形になった。
(wikipediaより引用)

浄行菩薩
菩薩像の後ろに書かれている説明文:大正11年8月24日建立

歓 迎 童 女 菩 提
長井村大久保井中
ニナリシ思地蔵尊ヲ歓
迎童女菩提ノ為改メテ
浄行菩薩トシテ勧請ヲ
偽シ願主ノ現安後全ヲ
祈ル

オニジュロ
ワシントンヤシモドキとも呼ばれる大形のヤシです。
アメリカ南部産で、葉が枯れてもすぐに落ちないで、幹に垂れ下がり何枚も重なる特徴があります。
暖地では多く見られますが関東では珍しい種類です。
(ヤシ科)



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category: 横須賀市

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日枝神社・・・(2)  

2013031908.jpg神社前からの遠望


製作年月不明



制作年月:大正13年5月吉日
高さ:55センチ、長さ48センチ、幅24センチ
尻尾に特徴あり

category: 三浦市

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日枝神社・・・(1)  

2013031901.jpg富士山バックに日枝神社の森
広葉樹に囲まれた日枝神社
祭神:国常立尊(クニノトコタチヌノミコト)
例祭:11月1日
祭神の国常立尊は天地開闢の最初に現れた神世7代の第1神で、官幣大社の日枝神社(東京都千代田区)の相殿の神として祀られている。
文禄年間(1592~95)に川名利左衛門の創立と伝えられる。社殿は台地上(標高40.6m)にあって、広葉樹に囲まれた美しい森で、当地の人々は大井戸の森と呼んでいる。
出典:「三浦半島の仏教寺院と神社」高木俊雄著

神社前の畑にある庚申塔
日枝神社前の畑に寂しく和田朝盛の墓
田朝盛とは
生年: 生没年不詳
鎌倉前期の武士。相模国(神奈川県)出身。常盛の子。通称は三郎,新兵衛尉。将軍源頼家・実朝の近習として重用された。弓のほか和歌・蹴鞠にも優れ,建保1(1213)年には実朝の学問所番のひとりとなった。和田氏と北条氏との関係が悪化すると,敬愛する主君実朝と和田一族との板挟みとなり,苦慮して出家,実阿弥陀仏と号した。京都を目指したが,その器量を惜しむ和田義盛に連れ戻され,法体のまま和田合戦に加わった。和田氏が敗れると戦場から姿を消し,承久の乱(1221)では京方に加わっていたという。その後,安貞1(1227)年,京都で捕らえられた。


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category: 三浦市

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YRP(Yokosuka Research Park)  

YRPは国際的な電波・情報通信技術の発展を目指す
公的研究機関・企業・大学研究室等が集う研究都市です。

研究棟等が建ち並ぶYRP
研究棟敷地内に建つライオンの像
水辺公園
野鳥の池
この池は4月から公開されます。
水と戯れる鴨



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このコースは、京急久里浜線YRP野比駅を起点終点にしています。
YRP内公園散策の後は、通研通りの桜並木を見ながら、駅へむかうのもいいでしょう

category: 横須賀市

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若宮神社と三浦相撲  

祭神;大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)
例祭:9月第3土曜日もしくは日曜日
当社は、永正2年(1505)三浦道寸と北条早雲との合戦のとき兵火にかかり、社宝・記録などを焼失し、由緒沿革は不明である。
往昔は宮田郷の総鎮守であった。
寛文2年に再建された。
その後、貞亨3年(1686)に社殿を修復し、寛政8年(1796)拝殿を再建した。
祭神の大鷦鷯尊(仁徳天皇のこと)は応神天皇の第4子にましましたから「若宮」と称したのである。
例祭日には三浦相撲が行われる。

出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著

土俵

普段は青いシートで覆われている

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製作:安政5年8月吉日
高さ:70センチ
長さ:86センチ
幅:55センチ

石工:伊右衛門
世話人:石渡清兵衛、高梨角右衛門、金子郷左衛門、大井文右衛門、石橋利右衛門、石橋安左衛門


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category: 三浦市

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城跡なくても地名を残した和田城跡  

20130316005.jpg和田城跡の碑
和田小太郎義盛は、18歳の秋父の死をさかいに鎌倉杉本城から和田に移り、このあたりは居館のあったところです。義盛が和田ノ里に館を置いた。
そのころすでに和田は三浦半島有数の穀倉地帯であったために、このあたりが領民を守り、水田を管理するにも地の利を占めていたともありました。
義盛は和田を終生の根拠地と定め、合戦にのぞんでこの地から多くの兵士が出陣し、食糧が戦陣におくられるなど重要な役割を果たしていたところです。
現在和田館はその跡をとどめていないが、この館を囲むようにして木戸脇・唐池(空池)・出口・赤羽根・矢作(やはぎ)などの地名が残っていて、往時を偲ぶことが出来る。また和田館には木曾義仲の妾巴午前が義盛に預けられここで余生を送ったといわれています。
(三浦市)


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category: 三浦市

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樹齢600年のヤマモモの木  



この木は、三浦市保護樹林でヤマモモ科ヤマモモ属に分類される。
芹沢家で管理しており、樹齢約600年といわれる。
果実は1~2センチの卵型で、6月ごろ赤く熟し、食べられる


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category: 三浦市

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ソレイユの丘・・・・長井海の手公園(2)  

現在公園となっているのは旧帝国海軍第二横須賀航空基地跡地で、戦後は在日米軍の住宅、日本に返還された後は航空自衛隊航空無線標識所として利用されていた。なお阿川弘之の伝記小説により、最後の海軍大将として著名な井上成美の旧居はこの公園の近隣に立地する。井上の死後(1975年没)長い期間空き家のままであったが、現在は井上が海軍兵学校長を務めていた時の生徒の関係者が住んでいる。なお、本園のすぐそばに武山駐屯地に所在する航空自衛隊第1高射群第2高射隊の飛び地(レーダーサイト)がある。


ヒツジもいます
そのほか、ミニ豚やロバ、モルモット、ウサギ等いろいろな動物がいます。

チュウチュウトレイン
ソレイユ(フランス語)soleilは、太陽・ひまわりの意味です

category: 横須賀市

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ソレイユの丘・・・・長井海の手公園(1 )  

横須賀市西部、長井地区の小高い丘に位置し、21.3haの広大な敷地の中で食~農業~クラフト~動物とのふれあいなどが体験できる公園である南フランス~プロヴァンス地方をモチーフにして作られており、石畳の道~レンガ造りの建物などが特徴となっている。園内はバリアフリーとなっており、高齢者や身障者にも配慮した造りである。駐車場は臨時駐車場を含めると約1500台収容することができ、身障者用の駐車スペースも多数設置されている。

菜の花畑
ピノキオが畑仕事?
白いアルカパは名前はレイシーで、2010年6月4日生まれです。女の子です
よろしく御願いします

黒いアルカパは名前はフロスティーで、2010年12月14日生まれです。男の子です
よろしく御願いします


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category: 横須賀市

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ムスカリ色鮮やかに咲いています  

20130315.jpg
ムスカリ
花は一見するとブドウの実のように見える。このことからブドウヒアシンスの別名を持つ

名の由来はギリシャ語のムスク(moschos)であり、麝香(じゃこう)のことである。花色は鮮やかな青紫色だが、近年白、コバルト色なども見られる。花弁はあまり開かない。球根は数年くらい植えたままでも差し障りないが、できれば秋に掘り上げるとよい。病虫害もあまりなく栽培しやすい植物である。早春を彩る花として絨毯のように多数を植え付けると効果的である。日本には30数年前ごろから市場に出回り、近年人気品種となって、各地の公園などでごく普通に見られる。

原産地:南西アジアあるいは地中海沿岸地方。
花言葉:寛大なる愛、明るい未来、通じ合う心、失望、失意とまるで正反対の意味がある。

category: 箸休め

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山全体が御神体?・・・横須賀市野比地区白髭神社  

20120315001.jpg山のご神体と白髭神社
白髭神社

横須賀市野比地区の鎮守である白髭神社は、照葉樹の緑豊かにこんもりと秀でた姿をした冨塚山(トガサン)を背にし、海に向いて社殿が建っている。この森は照葉樹の自然林であることから現在神奈川県指定の天然記念物となっている。「三浦郡神社由緒記」によるとこの神社の祭神は猿田彦命で、その昔浦賀入港の船が千駄崎で遭難沈没するものが多かったので、海上水先の安全を祀るため、住民がトガサンの頂上に猿田彦を勧請したと伝え、その後寛永8年に、野比村の住人菱沼某が麓の現在の地に移安したという。遠望するとまことに形のすぐれた小丘である。
トガサン山はその名から見ても、古くはこの小丘そのものがご神体であったのではなかろうか。それゆえこの山の樹を切ることなどは咎めなければならない行為とされていたのであろう。その意味で白髭神社は神社の原始形態のなごりを持っている神社の一つともいえる
白髭神社合祀社
合祀社前の狛犬
合祀社前の狛犬
高さ80センチ
長さ70センチ
幅35センチ
製作年代その他:不明
トガサンの遠望


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category: 横須賀市

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