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2013年04月の記事一覧

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水っ垂れ  



鎌倉幕府の昔、征夷大将軍源頼朝は、三浦三崎の風光を賞でて、しばしば来遊しました。三浦市内に桜・桃・椿の三御所(別荘)を設けたり、船を浮かべて歌舞音曲の宴をしたといわれています。
とくにこの地は清冽な清水の湧くところであったので、頼朝はこの水を煎茶や硯の水に使用したという伝説があります。
その当時はおそらくもっと湧いていたものと思われますが、今でもどんな日照りであっても、この水は涸れたことはないそうです。
土地の人は訛って「みずったれ」「みそったれ」と呼んでいます。
三浦市



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category: 三浦市

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古老の夢枕に「元に戻りたい」・・・原稲荷社  

2013041304.jpg稲荷社本殿
三浦市原区の氏神さまとして古より住民の深く信仰するところであるが、その創立は江戸時代ともまたはそれ以前とも云われているが定かではない。唯境内に奉納されている眷属(御狐様)には、元治元年(1864)①年を刻みこまれた年号を読み取ることが出来る。
祭神は「宇迦之御魂大神」「須佐之男命」の二柱を祀る。
三浦市郷社海難神社との所縁は遠く貞観6(864)②ごろ、藤原資盈(すけみち)、盈渡姫と家臣が三崎に漂着したとき、海岸に藻を拾いに来ていた原部落の者が藤原資盈主従を助けて案内したという故事があったことから、海南神社の祭礼には原区の氏子が雨の面、風の面をかぶって神輿渡御の道案内の先頭に立つ「謂われ」だと伝えられている。
「黒塗りが雨の面、朱塗りが風の面」・・・三崎郷土史参考
明治42年3月12日政令により、郷社海南神社に合祀されていたが、ある日稲荷大明神が原区の古老の夢枕に立たれ、「原のお社に帰りたい」旨のお告げがあったということで、昭和27年区民の総意によってもとの境内地に再建された。
例祭日は9月第1日曜日に海南神社宮司によって祭詞奏上が行われ、原区芸能保存会の祭り囃子の和太鼓、獅子舞が奉納される。
四年毎の大祭には神輿山車が区内を練り歩き、各所で祭詞奏上と獅子舞を舞いながら家内安全五穀豊穣商売繁盛の祈願を行う。
原稲荷神社社務所
  
高さ53センチ 長さ34センチ 幅16センチ
元治元年

  
高さ46センチ 長さ30センチ 幅16センチ
昭和46年作
①この頃の時代背景
•1864(元治1)年6月:池田屋事件が起こる。
•1864(元治1)年7月:長州藩が京都を攻めて禁門の変が起こる。
•1864(元治1)年8月:将軍家茂が長州征伐を命令する(第一次長州征伐)。
•1864(元治1)年8月:四国艦隊が下関を攻撃する。
②この頃の時代背景
•858(天安2)年:清和天皇即位。藤原良房が皇族以外で初めて摂政となる。
•866(貞観8)年:応天門炎上。この事件で伴善男が罰せられる(応天門の変)。
•873(貞観15)年:皇子・皇女に源の姓を与える(清和源氏)。



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地図番号① 円通山蓮乗軒
地図番号② 原稲荷神社
京急三崎口駅から原稲荷社まで距離約4.5キロ

category: 三浦市

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慈悲妖艶如意輪観音・・・蓮乗軒  

2013041301.jpg本堂
六地蔵
三浦観音第3札所
「里をすぎ 野をすぎ原の観世音 導き給え 遠き来世を」
円通山蓮乗軒(寺)といい、向ヶ崎椿の御所大椿寺の末寺で、開基は三浦道寸義同の家臣川島吉隆で、中興開山は東端と伝えられている。
堂内正面には恵心作という本尊の如意輪観音菩薩半跏像が安置されている。
像高は28センチ寄木造り玉眼嵌入(かんにゅう)の像で全体は古色におおわれ黒ずんでいるが、豊麗なお顔は慈悲妖艶を秘めて美しい。
いささか前向きにした容姿と頭部を僅かに右に傾けた思惟相はとりもなおさず考える形を現している。
そして右手は軽く頬にそえ、左手は膝の外にのばして地に触れる触地印をとっている。そして複雑な大臂は蓮華、宝珠、金輪、数珠を持ち、破綻なく自然にのびたその姿態は実に美しく天女の妙音ここに極まりといった漢字である。
出典 「三浦半島の古刹めぐり」 松浦豊著

土地の人たちは「安産の神様」として尊んでいます。
三浦市
畑の真ん中から頭を出す本堂の屋根


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地図番号① 円通山蓮乗軒
地図番号② 原稲荷神社
京急三崎口駅から原稲荷社まで距離約4.5キロ

category: 三浦市

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ちかた神社と読みます・・・近殿神社  

2013041101.jpg近殿神社本殿
この神社は、横須賀市大矢部の鎮守である。
祭神は三浦義村
ご神体は座高30センチほどの一本造りの座像である。
村は義澄(三浦大介義明の次子)の子であり、鎌倉幕府創業以来の重臣であり、北条氏に次ぐ功臣である。
承久の乱①でも北条泰時に従って戦功を立てるなど北条氏に忠誠を示し、執権泰時に信任され評定衆に選ばれ、御成敗式目②の制定にも参与した。


承久の乱の頃の時代背景<
•1219(承久1)年:実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺される。九条頼経が京都から迎えられ将軍になる。
•1221(承久3)年:仲恭天皇即位。後堀河天皇即位。
•1221(承久3)年:承久の乱が起こり、幕府軍が後鳥羽上皇方の軍を破る。
•1221(承久3)年:京都に六波羅探題の設置。大田文の作成。
•1221(承久3)年:後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に配流、土御門上皇を土佐に遷す。

②御成敗式目とは
それまで公家の法律だった律令を、武士の習慣や実態にあわせて作ったものが「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)です。
御成敗式目は室町時代・戦国時代・江戸時代と長く武士の法律の手本とされました。
領地は武士にとっての命であり、先祖から受け継いだ土地を認めてもらうこと、新しい領地をもらうことの二つが最も大切なことでした。ですから御成敗式目の中で最も大切なのが第7条の将軍によって与えられた土地を保障することと、第8条の20年間実効支配すれば誰からも奪われないという部分になります。



近殿神社に合祀された近隣の神社の石祠



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category: 横須賀市

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万代会館・・・元ソニー会長の旧宅  

万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 - 1959年3月28日)は明治〜昭和期の銀行家である。岡山県出身
2013041001.jpg旧宅玄関
茅葺の旧宅
庭園

庭園に囲まれた茅葺の純和風の建物である。廊下のガラス戸は手作りのギヤマン。松・竹の部屋は皇太后良子様のご誕生の間を東京から移築したものと伝える。
この施設は元ソニー会長ほか数々の要職を務められた万代順四郎・トミ夫妻の邸宅を転用した会館である。
万代順四郎氏は、戦前は三井銀行から名古屋銀行会長さらに帝国銀行(三井・第一銀行合併による)代表取締役、さらに全国銀行協会長、帝国銀行会長などを務められ、昭和22年1月公職追放により財界を引退し、この地津久井に移住した。
ソニー社を創立、相談役会長などを勤める等財界に大きな影響を与えられた人物である。
順四郎氏は、昭和34年に76歳で歿し、トミさんは53年に逝去された。
トミ婦人は常に学校教育や社会教育に関心が深く、公民館活動にも深い理解を示されていた。
昭和55年4月横須賀市万代会館として開設された。
出典 「北下浦の社寺めぐり」 北下浦地域文化振興懇話会



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category: 横須賀市

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砂浜に咲く花  

20130410990.jpgハマヒルガオ

ハマダイコン

いずれも砂浜に咲く花です。

category: 箸休め

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朽ち果て苔むした神社の跡と二輪草  

白く見えるのは二輪草
昔の神社は、今ではハイキングコース
狛犬の周りにも二輪草がコケとともに・・・

咲き乱れる二輪草
二輪草


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category: 横須賀市

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悲しい歴史を偲ぶ三浦三代の墓・・・清雲寺  

2013040901.jpg清雲寺本堂
大富山清雲寺
臨済宗円覚寺派
三浦観音第19番札所
本尊;滝見観音

開基は長治元年①三浦平太郎為継で、開山は円覚寺中興開山の大雅省音禅師である。本尊はもとは毘沙門天であったが、いつの頃からか廃寺となった円通寺の本尊、滝見観音が清雲寺に移され、清雲寺の本尊となったと云われている。
寺の略縁起によれば、三浦為通が奥州会津の居城で将軍の平忠通から拝請したものであると記してある。
滝見観音は岩座に腰をかけ、右の膝を立て、その膝頭に右手を乗せ、左手は岩座を押さえ、足を踏み下げる半跏の像である。像高88センチ、中国産の堅い櫻桃(おうとう)、寄木造りの自由な形姿をとっている。
相貌は中国独特で細長く、着衣は唐風の流れなど大唐の名作で渡来仏の特徴を充分に示した像である。

①長治元年(1104)の頃の時代背景
•1098(承徳2)年:源義家が院昇殿を許され、源氏の勢いが高まる。
•1099年:十字軍がエルサレムを陥落、エルサレム王国を建国。
•1107(嘉承2)年:鳥羽天皇即位。
•1108(天仁1)年:延暦寺僧徒の強訴を源平両氏が防ぐ。
•1113(永久1)年:興福寺と延暦寺の僧徒が争い強訴するが、平忠盛らが防ぐ。


五輪塔(横須賀市指定史跡)

石造板碑(横須賀市指定重要文化財)・・・文永8年在銘

三浦三代の墓と伝える五輪塔三基
中央の大きな塔が清雲寺の開基三浦為継のもので、左右が為通と義継の墓と云われ、もとは円通寺跡裏よりここに移したといわれている。
三浦為継は豪勇の人で、源義家に従い軍功のあった武人である。後三年の役のこと、鎌倉権五郎景政の右目に当たった矢を為継が景政の顔をふまえて抜こうとしたので景政は激怒した。
為継も武人の面に足をかけた非礼をわび、膝をかがめ頭を押さえて丁寧に抜いてやった話が武人の佳話として伝えられている。

鎌倉権五郎景政後三年の役については下記の赤字をくりっくしてください
後三年記


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category: 横須賀市

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点に始まり天と広がる  

20130408201.jpg清雲寺(横須賀)

category: 箸休め

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鎌倉権五郎景政が祭神の寺・・・御霊社  

20130408101.jpg



御祭神:鎌倉権五郎景政
例祭:7月28日

当社は仁平元年(1151)六月の創建で、寛治元年(1087)の後三年の役に従った者が景政の誠忠を称し、子孫に伝えるために祀ったものといい明らかではない。
景政の事蹟(後三年記
相模国の住人鎌倉権五郎景政という者あり、先祖より聞え高きつはものなり。歳わずか16にして戦うほどに、征
矢にて右の目を射られたり。首を射抜きて兜の鉢の板に射つけられぬ。矢を折りかけて当の矢を射て敵を射とりつ。
さてのち退き帰りて兜を脱ぎ景政手負いたりとて、のけざまにふしぬ。同国のつはもの三浦の平太郎為継というもの、これも聞えたかきものなり。つらぬきをはきながら、景政の顔をふまへて矢を抜かんとす。
景政ふしながら刃を抜きて為継のくさずりをとらへて、あげざまにつかんとす。為継驚きて、こはいかになどはかくするぞという。
景政いうよう。弓箭にあたりてしするはつはものののぞむところ、いかで生きながら足にてつらをふまるることあらん。しかし汝を敵としてわれここにて死なんという。
為継舌をまけり。
膝をかがめて顔を抑えて矢を抜きつ、多くの人是を見聞賞しぬ。
とある。(他の御霊社にも同一の事跡は伝えられている。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著

後三年の役の頃の時代背景
•1083(永保3)年:陸奥で清原家衡と藤原清衡の争いが起こり、源義家が清衡を助け戦う(後三年の役の始まり)。
•1086(応徳3)年:堀河天皇即位。白河上皇が院庁で政務をみる(院政の始まり)。
•1091(寛治5)年:源義家が兵を率いて入京することや諸国の百姓が義家に田畑を寄進することの禁止。
•1095(嘉保2)年:新しく北面の武士がおかれる。



狛犬 高さ70センチ 長さ60センチ 幅30センチ
   文化10葵酉歳 五月吉日


庚申塔 天保十一年丑歳正月吉日

三浦平太郎為継の墓は下記の赤字をクリックしてください
三浦三代の墓
鎌倉権五郎景政の両面地蔵へは下記の赤字をクリックしてください
鎌倉権五郎景政策と伝えられる両面地蔵



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category: 横須賀市

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現在の久比里坂・・・久里浜と浦賀を結ぶ街道  

現在の久比里坂(浦賀街道)
2013040806.jpg工事完成碑

歩道に建つ馬頭観音像(昭和48年)

久比里坂工事にまつわる話は下記の赤字をクリックしてください
久比里坂工事にまつわる話



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category: 横須賀市

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腹切の松  

2013040803.jpg三浦大介戦死の処碑と腹切の松(伝承地)
この地は治承4(1180)八月二十六日源頼朝の源氏再興に味方した三浦一族が、当時平氏方に属していた武蔵国の武将である江戸重長、河越重頼、畠山重忠、金子家忠等の率いる三千騎の大軍に攻められ翌二十七日、三浦氏の拠点衣笠城は落城し、三浦一族は房総の地に逃れるという衣笠合戦の際、三浦一族の家長である三浦大介義明(当時89歳)は、衣笠城と運命を共にしたが、云い伝えによれば、大助は城より逃れ、祖先の円通寺(現在は海上自衛隊弾薬庫のところにあった)を望むこの辺りの松樹の下で割腹自害を遂げ部名を後世まで遺したという。
また源氏再興に成功した源頼朝は、三浦大介の誠忠を高く評価し、彼の死後十四年目の建久5年、大助の菩提を弔うため堂宇の建立を命じた。
これが満昌寺の創建とも伝える。
かってここに一樹の古松があって、大矢部の里人は大助腹切の松と称しその由来を大切に伝えてきた。
宅地と化した今もこの地を公園として多くの人々に開放し、この伝承を永く後世に遺したいと願う次第である。
昭和49年12月
山下土地区画整理組合



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戦死の碑と腹切の松は、公園の一角にあります

伝三浦大介義明廟所へは下記の赤字をクリックしてください
満昌寺

category: 横須賀市

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常勝寺  

2013040801.jpg常勝寺山門と本堂
山号:宝泉山 法華宗
寺伝によれば、当山は日蓮大聖人の御孫弟子魔訶一院日印上人が元亨元年(1321)後醍醐天皇の御宇で今(平成5年)から672年前の2月20日当地を御巡教になり、大矢部の高部に草庵を営まれたのが初めてであるという。
その後、常勝坊日珠上人が応永15年(1408)2月20日に石渡源左衛門尉重保と共に一寺を建立して高部山常泉寺と称し日印上人を開山とした。
その後天正12年(1584)12月18日、14世宝道坊日生上人の時に現在の小高い景勝の地に宝泉山常勝寺を建立し、本尊三宝祖師を奉安した。
境内の丘に立てられた仏像


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category: 横須賀市

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古い俎板に彫った本尊・・・妙音寺  

20130406201.jpg2013.4月6日現在工事中の本堂

使い古された俎板に彫った本尊末那板不動明王
飯森山明王院妙音寺 
本尊;不空羂索観世音菩薩像で、脇侍として末那不動尊(相模風土記は日本尊末那板不動とある)は三浦不動札所第15番である。
この像は三浦道寸義同の手刻の像と伝えられ、また天文年間①海中より出現したとも伝えられている。
この像は俎板不動と呼ばれ、俎板に半肉彫りした風変な像で、利剣とけん索を持ち眼光鋭く怒りの形相でにらみ岩座の上に坐っている。
高さ63cm、像全体を支える台座は俎板で、中央の部分には切り刻んだ凹部の箇所が残り、完全に使い古された俎板がそのまま用いられている異色の像である。しかも永い間の秘仏で美しい彩色はさながら一幅の名画を見るような絢爛たるものである。
不動明王は降魔の威力をもって邪悪を駆逐し、敵国を降伏させるという不動信仰は、武士階級の間では最も広く行われていた。この像も天正の頃②は北条氏が雨乞いを祈願したと伝えられ、また一説には永正のころ三浦道寸と北条早雲との合戦の折、この地は北条方の本陣となったところから、急遽ありあわせの俎板で急場を凌いで刻ったものか、とにかくこうした作例は全国にも珍しい風変わりな像である。

出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

①この頃の時代背景
•1532年:スペイン人ピサロがペルーを征服。
•1532(天文1)年:本願寺証如が畠山義宣を攻め堺で自害させる。
•1532(天文1)年:大和の一向一揆が興福寺を焼くなど、畿内各地で一向一揆が起きる。
•1533年:インカ帝国が滅びる。
•1534年:イエズス会ができる。
•1536(天文5)年:延暦寺の僧徒が京都の法華寺院を焼きつくす(天文法華の乱)。
•1539(天文8)年:大内義隆が勘合貿易を始める。
•1541年:カルビンがスイスで宗教改革を行う。
•1541(天文10)年:毛利元就が尼子晴久を破る。
•1541(天文10)年:武田晴信が父信虎を追放し、自立。
•1541(天文10)年:ポルトガル船が豊後に漂着。
•1543年:コペルニクスが地動説を発表。
•1543(天文12)年:ポルトガル人が種子島に漂着。鉄砲を伝来。
•1547(天文16)年:武田信玄が甲州法度を定める。
•1549(天文18)年:フランシスコ・ザビエルが鹿児島でキリスト教を伝える。
•1550(天文19)年:ザビエルが山口・京都で布教。
•1551年:オランダ人がマラッカを占領。
•1551(天文20)年:勘合貿易の廃絶。
•1553年:明の王直が倭寇の題目として浙江地方を荒らし回る。
•1553(天文22)年:信濃の川中島で武田信玄と上杉謙信が戦う(川中島の戦い:この後1564年までの間に五回戦う)。
この頃の時代背景
•1573(天正1)年:織田信長、足利義昭を京都から追放。室町幕府滅亡。
•1573(天正1)年:信長が浅井・朝倉氏を滅ぼす。
•1575(天正3)年:織田信長と徳川家康の連合軍が三河の長篠で武田勝頼の軍と戦い、鉄砲隊を活躍させて勝利をおさめる(長篠の戦い)。
•1576(天正4)年:織田信長が安土城築城を始める。石川本願寺を攻める。
•1577(天正5)年:織田信長が安土城下を楽市とする。
•1579年イギリス人が始めてインドに到達。
•1580(天正8)年:石川本願寺が織田信長に降伏する。
•1580(天正8)年:イギリス船が平戸に来る。
•1582(天正10)年:大友・有馬・大村の三大名が少年使節をローマ法王のもとに送る。
•1582(天正10)年:織田信長が本能寺で明智光秀に襲われて自殺(本能寺の変)。
•1582(天正10)年:羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀をやぶる。清洲会議で信長の跡継ぎを秀信に決める。
•1582(天正10)年:羽柴秀吉が山城国の検地を行う(太閤検地の初め)。
•1583(天正11)年:羽柴秀吉が近江賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。
•1583(天正11)年:羽柴秀吉が大阪城の築城を開始。
•1584(天正12)年:徳川家康が小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉を破る。
•1584(天正12)年:羽柴秀吉が長宗我部元親を討つ(四国平定)。
•1585(天正13)年:秀吉が関白に任ぜられ姓を藤原に改める。
•1586(天正14)年:秀吉が太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜る。
•1587(天正15)年:豊臣秀吉による九州遠征が行われ、島津義久が降伏して九州が平定される。
•1587(天正15)年:聚楽第が完成する。
•1588(天正16)年:豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招き諸大名に忠誠を誓わせる。
•1588(天正16)年:豊臣秀吉が刀狩り令を出す。
•1590(天正18)年:豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、奥州を平定してほぼ全国の統一が完成。
•1590(天正18)年:徳川家康が秀吉に国替えを命じられ江戸城に入る。

七福神:妙音寺へは下記の赤字をクリックしてください。
七福神:妙音寺

category: 三浦市

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木造千手観音菩薩・・・等覚寺(2)  

20130406103.jpg左写真拡大

横須賀市指定重要文化財
木造千手観音菩薩立像 一駆
本草はもと御滝社に隣接存在した経塚山千手院の本尊である。
経塚山千手院が廃堂となり昭和5年に当寺に移安されたという。
頭上に仏頂面と化仏(後補)を配し42臂の形態である。
榧(かや)の一木造りで本体とは別材のすべての手など後補の部分が多いが、当初の趣が保たれている。

木造金剛力士立像

横須賀市指定重要文化財
本像は古くは当寺付近にあった丸山不動院に祀られていたといわれ、江戸初期に経塚山千住院に安置された後、千手観音菩薩立像とともに当寺に移された。
阿吽の二体一対に造られた仁王像で二体とも榧(かや)の一木造りである。
いずれも損傷が著しく本体部を残すのみだが総体に安静で素朴な体貌を示している。
木造千手観音、金剛力士像とも平安後期の造立である。

横須賀市教育委員会

category: 横須賀市

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無益な殺生を悔い改め僧になった侍・・・等覚寺(1)  

20130406101.jpg等覚寺本堂
栄久山等覚寺
日蓮宗
三浦観世音菩薩札所 第16番


矢切の峯

久村の狭い山麓の奥まったところに日蓮宗栄久山等覚寺がある。その前に岩戸に通ずる古い道の辺りに矢切りの峯と呼ばれる峠がある。

昔、この辺りに禅誉上人が隠居してたという古びた小庵があった。
その頃、この近くの山で浪人風の者が弓をもって鳥を射ていた。ところがある日のこと上人が寺内を見守っていると、一羽の鳥が鴨の首をくわえて本堂前にうずくまっているのを見つけた。
これはおそらく3~4日前の浪人の仕業に違いないと思い、その鴨を良く見ると鴨は雄鴨の首をぅわえた雌鴨で、いかにも悲しそうな鳴き声を出していた。
上人はこの鴨を見て非常に哀れみ「仏果を授けて進ぜよう」といって読経をはじめた。上人の読経に熱がこもってくると、この雌鴨はじっとこのお経を聴いていたがやがてくわえていた首を離してどこかへ飛んで姿を消してしまった。
ところがその日の夕方、先日、弓を手にしていた浪人がこの寺にやってきたので、近くの者が早速この浪人に上人のことを語ると、浪人は自分の過去を深く恥じ心を入れ替えて菩薩心を起こし、ついに持っていた弓の弦を取り外し、矢を折って二度と無益な殺生はしないことを誓い、上人の弟子にして欲しいと嘆願した。
その後浪人は上弓坊と名を改め仏門に入ったということである。それ以来いまこの山を矢切の台とか矢切の峯と呼ぶようになったという。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著



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category: 横須賀市

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ありがとう  

20130406100.jpg等覚寺で

category: 箸休め

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山中にひっそりと・・・飯森神社  

飯森神社
祭神:大巳貴命 萱野比売命
例祭日:10月14日
祭神の大巳貴命(別名大国主神、大物主神)はいなばの白兎の童話で知れらる神で、素戔嗚尊の子または六世の孫といわれ、神話によると天孫降臨に先立って、出雲の主神大国主神は高天原の命に応じ、快くこの国土を皇祖に捧げ(国ゆずり)自ら大社に隠退した。このとき大国主命のために宮殿が営まれて命はそこに身を隠し、天照大神の第2子の天穂日命がその宮に奉仕して大国主命をお祭りするようになったという。萱野比売命は野槌命ともいい、三島社の祭神で大山祇命の妃神にあたり、大山祇命は山を司るのに対し、野を司る原野の神で、木花咲夜姫命の御母神に当たる神である。祭神の大巳貴命は正徳元年(1711)①飯森の住人高梨角右衛門が勧請したと伝えられ、子の神社と称していた。
また萱野比売命は慶長年間(1596~1614)本村妙音寺住僧賢栄法院の勧請と伝えられ、姥神社と称したが明治44年10月子の神社と合祀し飯森神社と呼ぶようになった。

神社の周りに点在する石祠等


この頃の時代背景
•1711(正徳1)年:新井白石が朝鮮使節の待遇を改める。
•1713(正徳3)年:幕府が生糸の生産を奨励する。
•1713(正徳3)年:貝原益軒の『養生訓』ができる。
•1715(正徳5)年:長崎貿易を制限して金銀の海外流出を防ぐ。
•1715(正徳5)年:近松門左衛門の「国性爺合戦」を竹本座で



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category: 三浦市

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三浦相撲の先駆者・・・錦島三太夫  

2013040601.jpg真ん中の黒いのが錦島三太夫の墓
錦島三太夫の墓

錦嶌三太夫
江戸時代の力士 錦嶌部屋の親方
台座下には「北浦賀道 西鎌倉道 南三崎道」とあり更に碑の両面には享和元年(1801)①四月行事役の式守長五郎や地元有志ほか三浦、鎌倉、藤沢の相撲関係者や門弟衆等に十数名の名がずらりと連なり、この墓の盛大な建立を伝えている。
錦嶌は現役当時は石ヶ浜といい、年寄となって錦嶌三太夫を襲名されている。この墓は恩ある師の錦嶌の病死に、村人たちが供養のため石塔の建立を願って、人の往来の烈しいところに道標を兼ねて建ったものである。
こうして錦嶌親方の追善相撲の興行が村社若宮神社の祭礼に奉納され、地元では年貢を上納したり角力割を拠出してはこれらの費用を充たすなど、部落ぐるみの協力が見られる。「三浦郡誌」には「例祭日十九日当日は、神事相撲あり。境内に市立ち、頗る賑う」とある。
こうして素人相撲が三浦に流行し始めたのである。
若宮神社では今も相撲行事は定着して毎年9月の祭礼の時には相撲が奉納され、民衆の中に深く溶け込んでいる。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

この頃の時代背景
•1799(寛政11)年:蝦夷地を幕府直轄領とし、警備を強化する。
•1800(寛政12)年:伊能忠敬が蝦夷地を測量する。
•1802(享和2)年:十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版される。
•1803(享和3)年:アメリカ船が長崎に来て通商を求める。
•1804(文化1)年:ロシアの使節レザノフが長崎に来て通商を求める

三浦相撲の行われる「若宮神社は、下記の赤字をクリックしてください
若宮神社

category: 三浦市

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海中出現の本尊・・・慈眼寺  

20130405001.jpg
山号は普門山、日蓮宗常勝寺の持堂で宝仙山15世日進が創建したといい、本尊は正観音菩薩で元禄元年(1592)海中出現の像とつたえ、三浦半島観音第17番の札所である。この台地は考古学上名高い茅山貝塚のある地域で縄文式時代の遺跡である。
丘陵の端、地下1メートルに貝塚があってカキを主とし、二枚貝、巻貝等が出土した。海水産の貝塚である。
土器は尖底で繊維を含み、条痕を有し茅山式土器として早期に編年されている。
出典「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著
なお、山号の「普門」とは、常に門が開いて、すべての人を受け入れてくれるという意味があります
本堂への階段
ちなみにこの階段は、102段あります。今では、この階段の脇に、楽に登れるように「観音の道」と称した階段と坂で出来た道があります。

参道を登りきると、観音様が微笑みながら迎えてくれます。
貝塚とお寺の位置
貝塚からの出土品の一部

category: 横須賀市

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砂村新左衛門夫妻の墓・・・正業寺  

2013040501.jpg御霊山正業寺本堂
水子地蔵
六地蔵
木造阿弥陀如来坐像
横須賀市指定重要文化財;木造阿弥陀如来坐像本像は正業寺本堂須彌壇上に安置される本尊阿弥陀三尊のうち、中尊阿弥陀如来像です。法衣を偏組右肩に着し右手は胸前で屈して掌を前にし、左手は膝上に誉を仰ぎ、ともに第1第2指を捻じて上品下生の来迎印を結び蓮台上に右脚を上にして結跏趺坐しています。
像は寄せ木造り、玉眼入り、漆箔で肉髻珠及び白毫に水晶をはめ込んでおり、像高52.2cmで、総体的によく保存されています。
現在像内銘などの確認が出来ないため、作者はもちろん造立時期についての資料はありませんがその洗練された強い作風から藤原様式を受け継いだ鎌倉時代の作品と推定されます。
東国地方では類例の少ない違例であり彫刻史上でも資料価値の高い作品です。
横須賀市教育委員会

砂村新左衛門夫妻の墓
横須賀市指定市民文化資産
安山岩製の尖頭方柱形の墓で、花立及び小盤を上面に彫り付けた台石上に立てられています。
正面に右から   寛文七年未十二月十五日・・・・新左衛門の没年
           法名真悦 不納位
           法名妙忍 禅定尼
         萬治三季子七月二十七日・・・・妻女の没年

砂村新左衛門は越前国砂畑(福井県鯖江市)の出身といわれ(越前藩「御家御代々記」)、横浜の野毛新田(後の吉田新田)の開発に関係し、その経験をもって内川新田(横須賀市久里浜)の開発(完成当初高360石、のち585石余)を行いました。
後に江戸宝六島(東京江東区砂町)も開発しました。
砂村新左衛門は横須賀市内における最大の新田工事である内川新田を萬治3(1660)から寛文7年(1667)までの八ヶ年を費やして完成させました。
久里浜の夫婦橋袂にある内川新田開発記念碑には、新田開発にあたり水門がしばしば壊れ、八ヵ年の苦労と神仏の加護によりようやく完成したと刻まれています。
横須賀市  
夫婦橋と内川新田へのリンクは下記の赤字をクリックしてください
夫婦橋と内川新田
新田開発に伝わる伝説については下記の赤字をクリックしてください
貧しさゆえの悲哀

category: 横須賀市

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長安寺不動堂の本尊・・・長安寺(2)  

長安寺不動堂
木造不動三尊像
木造不動三尊像
横須賀市指定重要文化財
木造不動三尊像は、境内にある不動堂の本尊として安置されています。
中尊の不動明王坐像はもとは隣地の久村において「丸山不動」として著名でしたが、寛永年中(1624~1644)の災害により長安寺へ移安され「長安の不動」といわれるようになったと伝えられます。
構造は、檜の割矧ぎ造り、玉眼が嵌入されており、像高葉」65.6cmです。
体内の墨書銘から観応2年(1351)仏師雲朝によって造立され永正17年(1520)、万治元年(1658)に修理されたことがわかります。
力強く精彩のある尊顔をはじめ、総体的に均整、量感が保たれ非常にまとまりの良い造形となっています。
南北朝盛期の仏像彫刻としてその造立年月日、作者とも明確なため、鎌倉地方文化圏における中世彫刻史のうえで貴重な存在です。
脇侍のニ童子像は、寄木造り、玉眼、作風から江戸時代に造立されたものです。

横須賀市教育委員会

category: 横須賀市

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火事から家を守った火伏不動・・・長安寺(1)  

浄土宗 亀養山松樹院長安寺と号します。
山門を入るとすぐ左側の石祠の中に石造りの火伏せ不動明王の坐像がある。
また右側には浄土宗には珍しい三浦不動札所代9番の不動堂がある。この本尊は朝比奈三郎義秀の守り本尊と伝えられ、もとは久村丸山にあったものを宝暦年間にこの寺に移したと伝えられていう。また寺内にある石造り火伏不動は元久比里坂を登る高い山の上にあったが、この坂の改修工事のとき、この寺に移したということである。

長安寺本堂
不動堂
火伏せ不動明王
この火伏不動については次のような不思議な霊験譚が伝えられている。
往時長安寺の檀家で、この近くの八幡出身の三留家の次男が十三歳のとき江戸に出て、峯島家の小僧として働いていたがのちに認められて養子となるや、道玄坂(東京渋谷)の土地の売買などで大地主となり、また倉庫業などで財を成したという。
峯島茂兵衛は日ごろ久比里坂(横須賀市久里浜ー現在の久里浜から浦賀へ抜ける道)で難渋している村人たちを思い出し、明治4年この坂の開削工事を思い立ち、私財を投じてこの工事に掛かったのである。
そしてこの工事は述べ8000人の人力を費やしたと、その経緯を示した工事完成記念碑が久比里坂の途中に建てられている。
その昔は今のように切通しもなく、険しく高い山道で馬や人は時々がけ下に転げ落ちて亡くなったといわれ、大変な難所として知られる坂である。
ところで峯島茂兵衛はこの坂を上り下りする途中に交通安全と守護のためにお不動さんを建立しようと念願していた。
そして茂兵衛は明治23年東京京橋紺屋町に住む石工木村藤兵衛にこの不動尊の製作を依頼した。
藤兵衛は日夜不動教を念じつつこの不動尊像の制作に取り掛かった。
そして夜遅くまで一心に彫り続けているとき、突然近所から火事が発生した。火は折からの強い西風に煽られて見る見るうちに燃え広がり付近一帯は火の海となり、焼け野原と化す大火となってしまった。
ところが不思議なことには、日ごろの信仰に不動尊が守ってくれたものか、石工の家だけがぽつんと消失を免れて事なきを得たということである。
そののち、この像を火伏せの不動と呼び大勢の人の信仰を集めたということである。
現在は堂内にそれらの由緒を語る大絵馬が大切に遺されている。この絵は北斎の弟子で河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 - 明治22年〈1889 年〉4月26日)の筆になるもので火炎の中に現れた不動明王と、その右には製作中の不動尊の前で藤兵衛がひざまずき両手を合わせて拝んでいる石工の尊い姿が画かれ火伏不動の不思議な霊験記w今に伝えている。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

category: 横須賀市

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横を振り向く地蔵  

浄土宗
明星山西生院伝福寺と号し、鎌倉名越の安養院末で、開山は昌興、中興は利鶯である。
本堂は安政2年の建物で本尊は阿弥陀如来である。
堂内右側の厨子の中には三浦観音菩薩札所12番の本尊千手観音菩薩像が安置されています。
この像はもとこの近くの浜の観音堂にあったもので大正12年の大震災の折、堂宇が壊滅し、当寺に移安されたといわれています。像高38.5センチ銅造りの像で元は鍍金が施されてあったと思われますが、現在は真っ黒である。
背面左右は36手、中央の4手と合わせて40手に製作され化仏とともに別鋳である。掌は宋朝風の複雑なひだを現し、鎌倉時代の製作と思える珍しい尊像である。


境内右側には宝暦8年①造立の珍しい「百枚供養塔」が建ち、その周辺にはさまざまな石仏が古木の陰に日差しを避けて静かに眠っている。
延享5年②造立の六地蔵が建っています。その中の一基にお顔を横に振り向いた珍しい見返地蔵がある。




錫状を肩に担ぎ法衣を風になびかせやや斜めに向いた慈顔は、左側を見返して何かを語りかけているようであります。横を振り返る動作はそのときの「心」であって慈悲を現した姿であるといわれています。
これに似た像に京都永観堂の見返阿弥陀如来像があります。永観律師が東大寺に務め三年の任期を終えて帰ろうとするとき夢枕に立って「ついて行く」いわれたのがこの見返阿弥陀如来の初めだといわれています。
山門左側の地蔵堂は三浦地蔵札所第7番の本尊地蔵菩薩の半迦像が安置されている。
出典 「三浦半島の古刹めぐり」 松浦豊著

京都永観堂見返阿弥陀如来は下をクリックしてしてください
京都永観堂へ
永観堂ホームページの「寺宝一覧」のなかにあります。

 ①時代背景
•1758(宝暦8)年:京都で大義名分・尊王を説いた竹内式部が追放される(宝暦事件)。
•1762(宝暦12)年:後桜町天皇即位。
•1763年:ルソーの『民約論』ができる。
•1763(宝暦13)年:本居宣長が伊勢松坂で賀茂真淵に会い入門する。
•1764(明和1)年:関東地方を中心に助郷反対の大百姓一揆(天狗騒動)がおき、20万人あまりが参加する。
•1764(明和1)年:平賀源内が火浣布を作る。
 ②時代背景
•1744(延享1)年:天文台を江戸の神田佐久間町に設ける。
•1747(延享4)年:桃園天皇即位。


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老櫻の蔓を抜き取ったら清水が・・・御滝神社  

2013040101.jpg御滝神社社殿
祭神:滝口五郎盛定 水速男命
例祭:9月18日ー(現在は8月第一土日)

滝口盛定は民部大輔(民部は民部省、大輔は正五位相当の官)藤原盛重の子で、盛重は白河天皇(天喜元年~大治4年、1053~1129年)①に遣え高尾山に灰って入道(仏道に入ること)となった。盛定は後、三浦党の幕賓となって衣笠の平作に居住していた。
その郎党捨兵は盛定の父盛重が高尾山の神護寺に参詣の帰りに拾い上げられて養育され、長じて盛定に仕えたが、やがて主命に逆らって手打ちになるところを、海雲和尚の命乞いによって救われて久村の草庵に帰り行を納めた。
ある日、老櫻にからまる蔓を抜き取ると清水が湧き出て滝となって落ち、いままで水が乏しくて苦しんでいた久村の郷民は救われるようになった。
捨兵は新田を開発して名主にあげられ、滝本盛兼と名乗った。
この清泉の神木老櫻の枯れた折、盛兼は斎戒沐浴の上、その神木にて恩になった盛定の像を彫り、祠を建てて水神を祀って御滝権現を称えたという言い伝えである。
これが久村の鎮守となり村人に崇敬されている。
出典 三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著
御滝神社近くの路傍にある不動明王
境内で数多くある庚申塔の一部
左 享保13年製作
中 寛政10年製作
右 文化6年製作



文政5年9月製作
世話人 忠助 吉五郎
高さ:66センチ 長さ:63センチ 幅:36センチ


 ①当時の時代背景
•1038年:西夏(中国西北部)が建国される。
•1045(寛徳2)年:後冷泉天皇即位。
•1045(寛徳2)年:花園整理令が出され、新立荘園が停止される。
•1051(永承6)年:安倍頼時が陸奥で反乱を起こし、源頼義が討伐に向かう(前九年の役)。
•1053(天喜1)年:藤原頼通による宇治の平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)の完成。
•1054年:ギリシャ正教会とローマ教会が分裂。
•1062(康平5)年:源頼義が清原武則の援助で安倍貞任・宗任を破り前九年の役が終る。
•1063(康平6)年:源頼義が鎌倉に八幡宮を立てる。
•1066年:ノルマンディ公ウィリアム(征服王)がイングランドに侵入、統一。
•1068(治暦1)年:後三条天皇即位。
•1069年:宋で王安石が政治改革を始める(王安石の新法)。
•1069(延久1)年:記録荘園券契所を設け、新設の荘園の整理をする。
•1072(延久4)年:白河天皇即位。延久宣旨桝を定める。
•1077年:神聖ローマ皇帝がローマ法王と争い屈服(カノッサの屈辱)。
•1083(永保3)年:陸奥で清原家衡と藤原清衡の争いが起こり、源義家が清衡を助け戦う(後三年の役の始まり)。
•1084年:司馬光が『資治通鑑』を作る。
•1086(応徳3)年:堀河天皇即位。白河上皇が院庁で政務をみる(院政の始まり)。
•1091(寛治5)年:源義家が兵を率いて入京することや諸国の百姓が義家に田畑を寄進することの禁止。
•1095(嘉保2)年:新しく北面の武士がおかれる。
•1096年:第一回十字軍の出発(~1099年)。
•1096(永長1)年:白河上皇出家。
•1097(承徳1)年:平正盛が伊賀国の私領を六条院に寄進する。
•1098(承徳2)年:源義家が院昇殿を許され、源氏の勢いが高まる。
•1099年:十字軍がエルサレムを陥落、エルサレム王国を建国。
•1107(嘉承2)年:鳥羽天皇即位。
•1108(天仁1)年:延暦寺僧徒の強訴を源平両氏が防ぐ。
•1113(永久1)年:興福寺と延暦寺の僧徒が争い強訴するが、平忠盛らが防ぐ。
•1115年:女真族が金(中国北部)を建国(~1234年)。
•1123(保安4)年:崇徳天皇即位。
•1123(保安4)年:延暦寺僧徒が入京を企てるが、平忠盛、源為義らが退ける。
•1126(大治1)年:藤原清衡が中尊寺金色堂・三重塔を建立。
•1129(大治4)年:平忠盛が山陽・南海の海賊を従える。鳥羽上皇の院政が始まる。
•1132(長承1)年:平忠盛が鳥羽法皇のために得長寿院千躰観音像(三十三間堂)を建てる。忠盛は内昇殿を許され、平氏の勢いが源氏を上回る。
•1141(永治1)年:崇徳天皇が鳥羽法皇の意により近衛天皇(当時三歳)に位を譲る(近衛天皇即位)。
•1143年:ポルトガル王国ができる。



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