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山之神社  





祭神:大山祇命
由緒:不詳であるが、天正元癸酉年九月創建

写真で見える道は、旧道で峠道のようにくねくねしており、木々の間を縫うように遺された道である。

①天正元年の頃の時代背景•1573(天正1)年:織田信長、足利義昭を京都から追放。室町幕府滅亡。
•1573(天正1)年:信長が浅井・朝倉氏を滅ぼす。

山之神のことについては、一般に農民の間では、山の神は春、里へ下って田の神となり、秋収穫が終わると再び山へ帰ると信じられ、農業の神と考えられている。しかし反面山の神は一つ目、一本足の恐ろしい神、また魔物や怪物と考えたり、天狗と同一に見られたりしていた。
また、猟師や樵(きこり)など山で働く者が信仰する山の神は女の神で、一年で十二人の子を産むというので十二神とも読んでいる。従って十二日を山の神の忌日としている。
また山の神は狼、蛇、鳥を使者とし、またオコゼという魚が好きだという。狩猟の人たちは彼らの先祖が山の神の出産を助けたというので、狩猟の特権を与えられたという伝承がある。



神社から少し離れたところにある舟形庚申塔一基がある。
中央の銘はは読めないが、「延宝六年申九月四日」②とある。
②この時代の背景
•1675年:イギリスにグリニッジ天文台ができる。
•1678(延宝6)年:初代坂田藤十郎が大阪で和事を演じる。
•1680(延宝8)年:綱吉が将軍となり堀田正俊が登用される。

「南下浦の歴史探訪記」 浜田勘太著



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地図番号①;山之神社 地図番号②;庚申塔
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category: 三浦市

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はっちょうさま(八王子神社)  





土地の人ははっちょうさまと呼んでおり、これは「八王子様」が鈍ったのであろう。
祭神;厩戸皇子
由緒:文和三申午年三月十五日清伝寺の僧桃源勧請、八耳皇子と称していたが後、八王子神社と改称した。

category: 三浦市

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上諏訪神社  

上諏訪神社本殿

      

祭神:武御名方命
由緒:不詳であるが、伝来によると元禄六年勧請とある。

出典 「神奈川県郷土資料集第十三輯」神社明細長(三浦郡)

      

category: 三浦市

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義士塚の怪  


永正の昔、ここは三浦道寸と北條早雲の合戦場であった。
三浦道寸の子荒次郎義意は、弱冠ながら身の丈七尺五寸(約2.47メートル)筋骨隆々として髭あくまで濃く85人力の若武者で、勇猛果敢な振る舞いに誰しもこれに向かう者はなかった。
しかし、これを迎え討つ北條方の先陣に豪勇の誉れ高い若武者四人が勇敢にも三浦勢に立ち向かってきた。しかし、さしも荒次郎義意の奮戦ぶりには近寄れず、北條方の家臣四人は忽ち討たれようとした。
その時荒次郎は敵ながら天晴れな武者振りに殺すには忍びない。今ここで討ち取るのはいと易いがこれほどの人物なら必ず世の役に立つことであろうと、その勇敢を憐れんで許し放免したと言われている。
のちにこの四人は命を助けてもらった荒次郎に、いつかこの恩に報いようと固く心に誓っていた。
その後道寸以下の将兵は油壺の新井城に追い詰められ、荒次郎も悲惨な戦死をとげてしまったことを知り、かっての恩義に深く感じた若武者四人は道寸父子のあとを追って自刃したと言われる。
このことを知った村人達が四人の霊を慰めるため塚を築き祀ったのがこの義士塚であるという。

三浦荒次郎と小桜姫との関係は下記の赤字をクリックしてください
小桜姫との関係

三浦荒次郎父子の像のある寺は下記の赤字をクリックしてください
三浦道寸・荒次郎父子の像のある寺



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category: 三浦市

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路傍にひっそりと六部碑  

六十六部の碑
六十六部の碑の大方は、どんな事情で造立されたか明らかではないが、当時全国の神仏を巡拝することは交通不便な時代には用意ではなかったし、それだけ大願成就の喜びは大きかったのだろう。
しかしこの碑の中には滅罪と病気平癒の誓願を込め、死後の安楽を望みながら、命の灯の消え果るまで回国巡礼をしつづけ、どこかの村で死んでいった巡礼の碑もかなり多く見られる。


三浦市初声町三戸(はっせまちみと)の海岸に近い神田の里の路傍に寂然と斜陽を浴びて立つ六部の供養塔がある。正面には「奉納大乗妙典六十六部塔」左右には「文化甲子年霜月摩訶日」「経営神田五郎吉」t印刻されている。
江戸時代に弘法太師を崇拝する信者で、白装束をつけ笈摺(おいづる)を荷い、一笠一杖で鈴を打ち鳴らし法華経を唱えながら五郎吉宅の前に立ったのは文化元年十二月のことであった。当時は旅僧や巡礼などを親切することを誇りとする習わしがあり、一夜の宿を提供するいわゆる善根宿の慣例があったといわれている。
五郎吉はこの六部を早速家に案内し、その日の宿を供した。そして米や草履を恵み、白衣のほころびなどつくろって接待した。
ところがその夜から、六部は突然の病のため床に伏すようになり数日後看病の甲斐もなく息を引き取ってしまったという。
五郎吉はこの六部の死を悼み、この近くの海岸に六部の装束や鉦などを埋めて碑を立て手厚く葬ったといわれている。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著



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六部塔近くの海岸

哀れな六部へのリンクは下記の赤字をクリックしてください
哀れな六部

category: 三浦市

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浅間様がお通りになる雨崎海岸の怪  

2013042701.jpg雨崎神社鳥居

雨崎神社社殿

祠の中

雨ヶ崎には、昔から胴回りが四斗樽ほどもあるという大蛇が、房総勝山の手前にある浮ヶ島に住みついていて、毎年海上を何回となく往来するといわれていた。
この地の人々は五月雨の頃になると、浅間様(大蛇)がお通りになるというので、雨ヶ崎の丘の上には誰一人ちかよるものもなかった。
ところがある日のこと、村人が磯どりに出かけ、ヒジキを刈ろうと浜に出てみると、突然黒雲が渦を巻き一陣の生臭い烈風が吹きつけ、沖のほうからざわざわと白い波を立ててくる凄まじい音に驚いてみていると、房総の浮ヶ島辺りから金鱗の大蛇がこちらを向いて泳いで来るところであったという。
また或る村人は畑仕事を終えた夕方、家へ帰ろうとするとき、傍の雑草がべったりと倒されているのに気づくと、突然生臭い風が吹きつけ、辺りの草がざわめきだしたので不思議に思い、傍らの大木の陰に身をひそめて見ていると、今までまいたこともない四斗樽位もある大蛇が野兎を飲み込まんとして、両目を輝かせながら、口から炎のような舌に毒気を吐きつつ,鎌首をあげ鋭い眼をこちらに向けるありさまに、さすがに豪気な村人も腰をぬかさんばかりに驚き、急ぎ帰り村人にこの奇怪な出来事を告げたが、その際に大蛇を目撃した何人もの村人は恐怖のため震えあがって、その日のうちに高熱を発し、記が触れて床に伏してしまい、次々とあとを追うように病没したと言うことである。
その後この大蛇を目撃した村人は何人かあったが、この大蛇の祟りで熱病に冒されて亡くなったということである。
こうした村人達は、大蛇の住む洞穴の雨ヶ崎山頂の昼なお暗い樹林のなかに、雨崎様という社を建て、中には石の祠を祀り、今でも四月三日の祭礼には村人が参詣するということである。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

雨崎神社近くの海岸から見た房総半島



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雨崎神社と房総浮島の位置関係


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地図番号①:雨崎陣神社 地図番号③:房総浮島



category: 三浦市

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哀れな六部  


まず六部とは・・・・
六十六部の略で、本来は全国66か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された66部の『法華経(ほけきょう)』のことをいったが、のちに、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことをさすようになった。

殺された六部・・・
三浦市三崎警察署脇(国道脇)に「六十六部回国正念上座」と刻った六部の供養等が石祠の中に祀られている。
この碑は「六万本の六部様」といって古くから伝わる悲しい伝説がある。
昔、このあたりは深い谷で樹木が鬱蒼として茂り、杉の木が六万本もあったところから「六万本」という地名があり、当時は人も通らない寂しいところで、里人はしばしば追剥(おいはぎ)や盗賊に襲われていたという。
宝暦三年二月①武州在の江戸四谷に住む寂光という六部が、四国巡礼の途中ここを通りかかったところ、折悪しく盗賊に出会い、丸裸にされて殺されたという。のちに里人はこの六部の死を悼み、寂しい道の傍らに供養塔を建立し、ねんごろに葬ったと伝えられている。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著
①の頃の時代背景
•1752年:フランクリンが電気の実験を行う。
•1754(宝暦4)年:山脇東洋・小杉玄通が日本ではじめて囚人の死体解剖を行う。
•1754(宝暦4)年:薩摩藩が木曾川の堤防工事に着手。

六部供養塔付近(昔はこの付近を六万本と呼んでいた。


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地図番号①・・・・夫婦地蔵 地図番号②・・・六部供養塔

category: 三浦市

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夫婦地蔵の悲話  



三浦市三崎警察署前の国道沿いに、ほこりを浴びて二尊づつ並んで立つ石の地蔵がある。
この像は、夫婦地蔵と呼んで、戦国の世の悲しい物語が伝えられている。
永正の昔①、三浦道寸義同と北條早雲との合戦の折、引橋に近い六万本の坂道に老夫婦の出す茶店があった。三浦と北條の戦乱に明け暮れて行く頃、北条氏の間者が行きずりの百姓に化けてこの茶店に立ち寄り、いろいろの話の内に、三浦方の様子を聞くので、人の良い老夫婦は笑顔をほころばさせながら、自慢げに新井城のことをすっかり話してしまった。
その後、この百姓に化けた間者は三浦方の追っ手に捕らわれ、これが敵の患者と知れたとき、老夫婦はひどく驚き、良心の呵責に耐えかね、三浦のお殿様に申し訳ないことをしたと、おろかな己を嘆き悲しみ、その罪の償いに心中してしまったと伝えられている。
のちになってこの老夫婦の非業の最期を知った里人は、至極不憫におもい、霊を慰めるため茶店の跡に夫婦地蔵を祀りねんごろに供養したという。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

①の頃の時代背景
•1510(永正7)年:三浦の乱。
•1516(永正13)年:幕府が大内義興に対明貿易の独占権を認める。
•1516(永正13)年:北条早雲が三浦氏を滅ぼす。


夫婦地蔵前の国道


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地図番号①・・・・夫婦地蔵 地図番号②・・・六部供養塔

category: 三浦市

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大神宮さん  

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切妻の正面1.3m、高さ1.1m、奥行き95センチの建物の中に祠が納めてある。
祠の前に木製の小さいえびす像と銅製の大黒像が並べてあり、そこにローソク立てや神酒徳利が供えてある。
この建物の前に左右揃って灯篭がある。
実際は灯籠ではなく、向かって左側は竿の部分だけが灯籠のもので台はコンクリート製、上部が実は宝筐印塔の笠の部分である。相輪は請花のないもので、室町時代に見られる形である。
向かって右は竿の部分と台座はコンクリート製で、笠のところが宝筐印塔の笠で相輪の上の宝珠は子産石となっている。
右は「昭和五十年二月吉日」左は「文政九年二月吉日」とある。
この祠は、近所のほとんどの人たちは「大神宮さん」と称している。
大神宮さんといってるのは、伊勢の皇大神宮のことで、祭神は神明社の天照大神、一名大 日孁貴命おおひるめむちのみこと)であろう。

2013042332.jpg



出典 「南下浦の歴史探訪記」 浜田勘太著



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category: 三浦市

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三峯社  

   
苔むして、崩れかかった石段の上に神社は建っています。
九尺二間の切妻亜鉛葺きのお社である。
中は平土間になっており、奥の壁板に高さ90センチ程の棚が設けられ、中央に高さ40センチ、間口奥行き共に30センチ、神明造りの白木の祠がある。
三峯信仰について
埼玉県秩父郡の南方、山梨県境にそびえる雲取、白岩、妙法の三山を併せて三峯山といい、その山上に三峯権現を祀ってある。その神社の起源は明らかでないが、いずれも古い山岳信仰に由来するものと考えられる。この社殿は明暦五年というから、江戸の始めで、領主の伊奈氏が非常に崇敬して広大な社殿を寄進したと伝えられていて、近郷村民の間にその信仰が急に盛んになったという。この三峯権現の脊族のヤマイヌ(狼)がすべての禍いを除いてくれると信じられている。この山岳信仰は中世以降というから、戦国時代山伏によって農業神として農村の信仰が厚くなった。現在はほとんどこの神は盗難除けとされているようである。
江戸末期の頃は関東一円にこの三峯講が結成された。

出典 「南下浦の歴史探訪記」 浜田勘太著



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category: 三浦市

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小松ヶ池弁天社  


弁天社内部
祠の前の鳥居は高さ2メートル足らずで、木製の鳥居である。
この祠は全部コンクリート(ブロック積み)で弁財天を祀っている。
因みに弁財天とはインドの神話にある河川の神でその妃ともいう。美音天、妙音天、妙天音楽、大弁財天女などに訳され、それを略して弁財天といっている。その妙音は、その川の流水の音楽であるといわれている。従って、音楽や能弁、つまり智慧の神のことでわが国には仏教として伝来してきた。特に江戸以降、七福神の信仰がさかんに行われるようになって民間ではやってきた。弁天の祠が多くは水辺にあるのは、もともと弁財天を水の神として信仰してきたからである。
出典 「南下浦の歴史探訪記」 浜田勘太著



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category: 三浦市

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小松ヶ池水神  

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水神碑の側面に下記のような建碑の理由が書いてある。
夫れ潅水の利は民命のかかるところなり。しょか(もみこめ)の資生する所なり。あになおさらにすべけんや。此地に池あり。小松ヶ池と唱う。枯渇くさむらとなる。百余年水利を得ず。ここに於て安政三年(1856)翁がいぜんして連起し、溢池を設け潅水の策をよくす。功成るあり明年大旱苗枯る。翁樋行に水を□瞬の間百項(百畝)の田しようこうす(あまねくゆきわたる)。苗勃然す。里民ともに集りてむせんでやまず。これによるなんぞ村は旱災を免れたるなんぞや。家家貯えあり村人翁の徳沢に感ず。今茲に明治壬申(五年)酒を享け寿祝す。そのこと石にきざみとこしえに伝え明らかにす。翁今年八十一春秋も尤健なり姓金子通称惣左衛門上宮田村長なり。
水神さまについてはいろいろ話があるが、一般に水神と田の神とは密接な関係にあって、昔から農民にとっては稲の成育上、水は不可欠のもので、水の神と田の神の祭りが田植えに先立って苗代の水口を祭場にして行われるのが通例である。その水の出る山に水分神を祀るという。ここの小松ヶ池については灌漑用としての水神様を祀ったのであろう。
出典 「南下浦の歴史探訪記」 浜田勘太著

小松ヶ池の民話は下記の赤字をクリックしてください
姑にいびられ死んだお松さん



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category: 三浦市

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これが薬王寺跡  

2013042221.jpg   

満昌寺で保存されている、双式板碑はこのお寺にあったものです。
今は薬王寺は廃寺でありません。

かってこの寺にあった板碑については、下記の赤字をクリックしてください
満昌寺



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category: 横須賀市

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悲運の主役三浦大介の肖像彫刻  

2013042211.jpg満昌寺本堂
三浦地蔵第3番札所
この寺は建久五年九月源頼朝の意志にもとづき三浦大介義明の追福のために創建されたと伝えられている。
また創建当時の宗派は未詳であるが、鎌倉末期に天岸彗広和尚が中興開山として入寺され、臨済宗に改宗され、建長寺の末寺になったと伝えられている。
堂内正面には本尊の釈迦如来像が、左側のガラスの中には阿弥陀如来と十二禅将が祀られ、右側には彗広上人の木造を中心にして歴代の上人の位牌が並んでいる。
仏乗禅師天岸彗広和尚は、鎌倉円覚寺の第一座で竹の寺で知られる報国寺の開山となった名僧である。
この像は建武二(1335)年に示寂したときの頂僧彫刻で像高78センチ寄木造り玉眼嵌入の像で、特に面部の個性的な風貌は写実的に製作された者であろう。
また左側客間の床の間には、義明公の所持した大刀や、元治二年銘の鰐口、板碑など陳列され、その前には義明公の木造彫刻が仮安置されている。
像高81.4センチ、寄木造り玉眼嵌入の豊かな量感を備えた衣冠束帯の姿態である。
長いあごひげを生やし気迫のこもった老武将の優れた表情は実に見事である。
この二体の肖像彫刻は歴史的にも優れた作で横須賀市の重要文化財に指定されている。

観音堂
また、本堂脇の石鳥居をくぐると三浦大介を祀る御霊神社がある。→伝三浦義明廟所(横須賀市指定史跡)
三浦義明は治承四(1180)年、源頼朝の旗揚げに呼応し、平氏と合戦し八月二十七日衣笠城で討ち死にしたと言われています。
満昌寺境内御霊神社裏手の瓦塀で囲まれているところが三浦義明の廟所と伝えられています。廟所には宝筐印塔を中心に右側に五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並び置かれています。
廟所内手前の石灯籠は江戸時代に義明の子孫が奉献したものです。
三浦氏の墓域は五輪塔を注進したものが多いのですが、伝三浦義明廟所では宝筐印塔が義明、五輪塔が妻の供養塔と考えられています。
なお、板碑に刻まれている観音経は
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海元量 是故応頂札」


石造り双式板碑 元応二年庚申二月日在銘
満昌寺には、伝三浦義明廟所内に立つ観音種子板碑のほかに二基の板碑が遺されています。
二基の板碑はそれぞれ阿弥陀三尊種子、釈迦三尊種子が刻まれています。
二基とも刻まれた年号は元応二(1320)年庚申二月日」であり形も似ていることから、二基で一対の双式板碑であると考えられます。
この板碑は薬王寺旧跡のやぐらにあったものですが、薬王寺が廃寺となったため、今は御霊神社内に納められています。
完全な形の板碑としては横須賀市内最古のものです。

地蔵堂

頼朝お手植えのつつじ
1194年、当山が創建され、源頼朝公は三浦義明の菩提を弔うために「つつじ」をお手植えされたものである。
永い年月により、いつの頃からかこの木の枝先に頭を入れると「頭痛持ちが治る」と言い伝えられている。

双式板碑のあった薬王寺は下記の赤字をクリックしてください
薬王寺跡

腹切の松は下記の赤字をクリックしてください
腹切の松

category: 横須賀市

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国の重要文化財のある寺  

2013042201.jpg岩戸山満願寺本堂
六地蔵
山号を岩戸山といい、臨済宗で大矢部満昌寺の末寺である。
開山は大達明岩正因禅師。
開基は佐原十郎義連である。
本尊は釈迦如来、寺の裏山に観音堂があり本尊は運慶の作と伝えられ、像高226センチ、佐原十郎義連の肖像であるという。
縁起によれば平家を追討するため西海に行くとき運慶にまかせて19歳の肖像を彫刻せしめたという。ここにその像が安置してある。その形が32相を具して正観音に似ていたので観音堂とよんだという。
また地蔵、毘沙門、不動の三像は国の重要文化財に指定されてより境内の収蔵庫に安置された。
正観音と地蔵像は国の文化財、毘沙門と不動明王像は横須賀市の文化財に指定された。毘沙門天は等身大以上の寄木造り玉眼入りで、鎌倉期の作である。
当寺の観音は三浦札所第18番、不動は第3番地蔵は第4番札所である。

観音堂
伝佐原義連の墓
義連は三浦義明の子であり、満願寺の境内本堂左背後の山腹にある観音堂の右隣に、佐原十郎の墓と呼ばれる大型五輪の塔がある。墓域は切石をもって囲っている。
義連は寿永三年(1184)二月源義経に従い、ひよどり越えの先駆をなし、平家を背後より攻め功をたてた名高い武士である。
文治五年(1189)七月頼朝に従い、藤原泰衡を陸奥に討ち、後その功を賞せられ会津四郡の地を給せられた。四郡の地は北会津郡、耶摩郡、河沼郡、大沼郡である。子孫は会津地方に栄え、孫光盛は黒川に居り、その子孫は会津芦名氏と称した。のちに伊達政宗に滅ぼされた。

松尾芭蕉の句碑
静かな境内の佇まいに芭蕉の句碑が建っている。
まづたのむ 椎の木もあり 夏木立
慶応二(1866)に建立
揮毫は中島三郎助
表は芭蕉の句、裏面には建立年月日、建立関係者が刻まれており、当時の文人中島三郎助の筆跡を遺す貴重な碑である。

category: 横須賀市

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目次⑤(過去記事へのリンク)  

見たい項目をクリックしてください
181.江戸を守れと各地から  182.熊本藩が祀った毘沙門堂  183.本殿は猿島にあった春日神社(1)  
184.春日神社(2)  185.春ですねえ  186.海・山・武門の守護神  187.黒門  188.一刀三礼の仏像
189.洛中洛外屏風を保存  190.日照りでも濡れてる地蔵  191.魚貝供養塔  192.老櫻の蔓を抜いたら
193.横を振り向く地蔵  194.火事から守った火伏不動(長安寺1)  195.長安寺不動堂の本尊(長安寺2)
196.砂村新左衛門夫妻の墓  197.海中出現の本尊  198.三浦相撲の先駆者  199.山中にひっそりと
200.ありがとう  201.無益な殺生を悔い改め  202.木造千手観音菩薩  203.古い俎板に彫った本尊
204.常勝寺  205.腹切の松  206.現在の久比里坂  207.鎌倉権五郎景政が祭神
208.点に始まり天と広がる  209.悲しい歴史を偲ぶ  210.朽ち果て苔むした神社のあと
211.砂浜に咲く花  212.元ソニー会長の旧宅  213.ちかた神社と読みます  214.慈悲妖艶如意輪観音215.古老の夢枕に「元に戻してくれ」  216.水っ垂れ  217.雨はふるふる城ヶ島の磯に  
218.楊枝を挿したら大木に  219.安房崎と州の御前   220.灯台の形をした交番
221.神輿海上渡御h五年に一度  222.三浦海岸駅前庚申塔群  223.隠れ家にいかが  224.三浦大仏
225.不思議な絵馬の話

category: 目次(過去記事はこちらからどうぞ)

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ペリーの前に来航していた。  

ピッドル来
船はアメリカ東インド艦隊司令官のピッドルに率いられたコロンブスとヴィンセントといい、二隻とも完全武装した軍艦であった。しかもピッドルに課せられた来航目的は、日本が通商をする心積もりがあるかその真偽を確かめることであった。
江戸湾に来航した二隻の軍艦に、浦賀奉行所から番船に乗った役人と通訳が行き、例によって出航するまですべての武器類を預からせて欲しい旨を伝えたところ「この船は軍艦であるから武器を引き渡すことは一切出来ない」ときっぱり断られてしまった。
奉行所側も武器取り上げは事実上不可能であることを了承した代わりに、浦賀港の中には入れず野比沖への停泊とした。
このとき二隻の軍艦の警備は、浦賀奉行所に配備されている船と、川越藩で夫役として雇った船が幾重にも軍艦の周りを取り巻いたが、その中にはたまたま浦賀港で船改めを受けるため入港していた廻船も使用され、その数は延べ80隻以上にのぼった。
今まで見たことのない軍艦に、その大きさを記すとともに大砲の性能を「一貫五百目位迄」のもので「片側三段に47挺づつ」と数や位置まで詳細に記録し、さらに小筒は700挺ほどあると驚きを隠せないでいる。
入港当初は戦端が開かれるのではないかと不安であった奉行所サイドも、軍艦から飲料水の要請がありこれに応えたことでアメリカ側の態度が軟化したと捉えていたが、急を聞いて応援のために三浦半島への出陣wすることになった川越藩の中には、水盃を交わし、決死の覚悟の者もいたという。
ピッドルは幕府からの勧告により「通商を開く予定はなし」の返事を聞いて大人しく帰航。
出典 横須賀開拓史シリーズ2 三浦半島見聞記
   横須賀開国史研究会編集

関連記事は下記の赤字をクリックしてください
ペリーは二番目

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目次④(過去記事へのリンク)  

見たい項目をクリックしてください
136.戦勝祈願のお地蔵さん  137.異郷の地で  138.春をありがとう  139.春がきたあ 
140.鴨居のタイは逸品  141.軍に追い出された  142.大蛇退治の洞窟  143.菜の花満開
144.三浦半島ではここだけ  145.飴屋踊り  146.三浦安針夫妻の墓  147.横須賀野比で最古の寺
148.腹籠り観音  149.戦没船員の碑  150.岩崖をくりぬいて地蔵尊を  151.大和武尊と弟橘媛命   
152.かっぱ伝説  153.能満寺(1)  154.能満寺(2)  155.室町後期の作品  156.仏の教え
157.平安時代からあった十二所神社  158.帯解地蔵尊  159.走湯神社  160.腹篭不動
161.和歌山から勧請  162.山全体がご神体  163.ムスカリ色鮮やかに  164.ソレイユの丘(1)
165.ソレイユの丘(2)  166.樹齢600年のヤマモモの木  167.城跡なくても地名は残った
168.若宮神社と三浦相撲  169.YRP   170.日枝神社(1)  171.日枝神社(2)
172.花祭りは一ヶ月遅れ  173.花見には早すぎた  174.本尊はだきにてん
175.三浦安針(2代目)が再建  176.クローバの花  177.三浦七阿弥陀の一つを祀る寺
178.中興の祖は元侍  179.蓮如が名づけたお寺  180.三浦半島最大の古墳遺跡

category: 目次(過去記事はこちらからどうぞ)

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不思議な絵馬の話・・・三樹院  

2013041801.jpg山門から見る三樹院本堂
参道右側に三浦五井の一つ「今井の井戸」があります。

今井の井戸へは下記の赤字をクリックしてください
今井の井戸


本堂

浄土宗で寛永六年の創建、開山は照蓮社遍誉上人
また三浦観音第十番札所および三浦地蔵第十番の札所である。
本尊は今井四郎兼平の守り本尊と伝えられる十一面観音菩薩である。像高43センチ寄木造り彫眼、漆箔の優美な立像である。なお台座裏には「天明乙巳五月先祖代々精霊両親菩提仏師平蔵」と墨書銘がある。
また堂内正面の欄間には雲中に舞う天女の姿が透かし彫刻され、その剥落した古色は実にすばらしい。
さらにその隣には珍しい絵馬が掲げてある。
この絵馬についてはこんな話がある。
明治時代、近くに住む房州屋の先代が東京からの帰り、久里浜より集合馬車に乗って尻込坂までくると、何に驚いたのか馬が急に暴れだした。そのとき日ごろ信仰する「今井の観音」(三樹院)に念仏を唱えて無事を祈ると、不思議や馬は坂の下でぴたりと止まり、無事に帰宅することが出来たという。のち先代はこの観音の恩に感じ、お礼としてこの絵馬を奉納したという。
参道入口には1m以上もある納経供養等が建っている。この碑は享保二十年上宮田の吉田長五郎が父母の冥福を祈るため諸国の霊場を巡拝し、無事法華納経を修した記念碑で、往時の札所遍歴の苦難を示す貴重な碑である。

出典「三浦半島古刹めぐり」松浦豊著



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category: 三浦市

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目次③(過去記事へのリンク)  

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91.烈女の鏡・・・小桜姫       92.小桜姫のその後        93.野良ですが
94.小桜姫ここに眠る         95.三浦道寸親子の像はこの寺に  96.桃の御所
97.房総から飛んできた岩      98.貞昌寺別院           99.雷神社
100.コレラに倒れた官軍兵士   101.狐に取り憑かれたお玉さん 102.馬頭観音を祀る寺
103.荒馬が掘り当てた霊水    104.県内屈指のかろうとやま古墳 105.旅と酒を愛した若山牧水 
106.初春の水仙           107.もうすぐはーるですねぇ     108.三浦半島南端最高峰
109.白浜毘沙門天(慈雲寺)    110.畑の真ん中に閻魔堂      111.椿の御所(大椿寺)
112.桜の御所(本瑞寺)      113.桃の御所(見桃寺)       114.三浦総鎮守(海南神社)
115.筌龍弁才天(海南神社)   116.ロウバイが咲き始めました   117.皇国の興廃この一戦にあり
118.横須賀はカレーの発信地   119.梅一輪 一輪ほどのあたたかさ  120.盗人狩と荒々しい海岸
121.弥生時代の住居あと     122.為朝神社と虎踊り        123.跡形もなし浦賀奉行所
124.大六天神社          125.哀れ祖国上陸目前にして    126.三命地蔵・・・寿光院
127.「市道」を渡し舟が走ります 128.叶神社(西叶神社)        129.東浦賀繁栄を今に偲ぶ
130.叶神社(東叶神社)      131.東京湾に浮かぶ孤島      132.すずめとパンを分け合いながら    133.可憐に咲く大根の花     134.住職は代々曽我兄弟の子孫  135.わが国最初の様式灯台

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三浦大仏(久里浜霊園)  

三浦大仏(本体の高さ:13.5m )

    
五重の塔
霊園から見た東京湾と京浜急行線

category: 横須賀市

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隠れ家にいかが?  

2013041712.jpg
見つけにくい場所ですが、周りは畑で静かな場所です

メニュー
メニューはいろいろありますが、インド料理がメインです。
ランチ・インドビールもあります。


あえて地図は掲載しません・・・なにしろ隠れ家ですから・・・。

category: 横須賀市

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三浦海岸駅前庚申塔群  

2013041701.jpg駅前に並ぶ庚申塔
福徳円満夫婦延命地蔵

category: 三浦市

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目次②(過去記事へのリンクです)  

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46.三浦義村の墓         47.夫婦?親子?        48.今は商店街、昔は古戦場
49.矢取地蔵             50.昔は三浦郡日蓮宗の総本山  51.23社を合祀
52.東京湾に人工島を作った男  53.どこに人工島を造ったか     54.忠犬タマ公の碑
55.馬の散歩            56.白山神社と奈良時代の墓    57.鶴園福禄寿
58.いぼとり地蔵           59.かめくり観音            60.疣取地蔵とポックリ地蔵
61.日本書紀が書かれた頃の創建  62.海から現れた恵比寿さん   63.外敵防御の第一線
64.三浦半島冬の風物詩        65.航海安全の不動様      66.落雷から護った不動尊
67.子之神社               68.私の本名は浅間山(三浦富士)  69.チビですが三浦富士です。
70.一日も休まず250年間      71.諏訪大神社           72.諏訪大神社(2) 
73.さむーい               74.三浦半島唯一の名刹      75.いまや荒地にひっそりと
76.野良です。餌をください      77.天女の授けた水         78.マリア観音を祀る寺
79.奥津観音              80.奉行交代はこの寺で      81.乳の出が良くなる湧水
82.幼子を助けようと          83.優雅な琴の音          84.夫婦橋と内川新田
85.貧しさゆえの悲哀         86.討つものも討たれるものも   87.三浦一族滅亡の城
88.横須賀最古の公園        89.海軍機雷・対潜学校跡     90.咸臨丸はこの港からアメリカへ

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目次①(過去記事へのリンクです)  

見たい項目をクリックしてください
1.ペリーは2番目          2.水のトンネル          3.砂坂地蔵
4.神社なのに鳥居がない     5. 今井の井戸           6.白旗神社
7.あの有名人も守った       8.三浦にかっぱがいた     9.猫地蔵菩薩
10.風邪引いたらこのお地蔵さん11.参加者には赤飯を     12.新婚夫婦にはきつい庚申
13.泰平の眠りを覚ましたペリー 14.勿論主祭神は天照大神 15.天王さまと和田義盛の碑
16.姑にいびられ死んだお松さん17.歯痛、頭痛にご利益   18.ここで大惨事が
19. 今にもかもめが・・・       20.東京湾の入口       21.伊豆大島から放った矢がここまで
22.上宮田の諏訪神社と琴平神社 23.身代わり薬師     24.鶴に導かれて
25.枯れても御神木        26.三浦半島酉の市はここだけ  27.赤門
28.波乱の人生、坂本龍子   29.空海も賞嘆!       30.琴平神社と稲荷神社
31.おりょうさんはここに眠る   32.寿老人はカンカンの音がすき  33.遊女達が投身自殺
34.実相寺の七面天女      35.寿福大黒天        36.こんなの彫っても大丈夫?
37.中里神社            38.二宮金次郎の台座にロダン 39.目釘の竜
40. 哀れ稚児を殺すとは       41.若宮神社(久里浜)      42.三浦半島の天神様はここだけ  
43.やくざの親分は横須賀生まれ 44.塔の根は地獄まで   45.失明の武士が彫った  

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神輿海上渡御は五年に一度・・・城ヶ島海南神社  

城ヶ島海南神社
明治中ごろの資料を見ると「三崎海南神社の分霊なり。元亀(1570~1572)①以前、村民は毎月3日三崎海南神社に詣りを例とする。然るに烈風暴風に際し渡航甚だ難しい故に分霊を勧請して村社と定む」と書かれており、三崎の海南神社を分霊したことがわかります。
(祭神は藤原資盈(すけみち)公、相殿に右大臣源頼朝公と楫(かじ)三郎公)
遊ヶ崎海岸(宮ヶ崎)に鎮座されていましたが、暴風で破損されて明治11年三崎を望む現在地に遷したと云われています。
明治の中ごろまで海南神社の祭礼は7月17日に行われ、船祭りの形をとり、花暮が年番の時には城ヶ島からも御座船を出し、御船唄を唄いながら神輿の海上渡御が行われていました。
この御船唄は保存会によって今も唄いつがれ祭礼などで披露されています。
現在は毎年7月17日が例祭日で神事、お神楽の奉納を行っていますが、神輿海上渡御は五年に一度7月17.18日に行っています。
城ヶ島海南神社総代

神社から三崎(三浦半島)を望む



高さ60センチ 長さ55センチ 幅25センチ
明治11年製作

①この頃の時代背景
•1568(永禄11)年:織田信長、足利義昭を奉じて入京。信長が諸国の関所を廃止する。
•1569(永禄12)年:織田信長が二条城を新築し、足利義昭の邸とする。
•1570(元亀1)年:織田信長が近江の姉川で浅井・朝倉の連合軍を破る。
•1570(元亀1)年:本願寺の顕如が挙兵し、信長と戦う。
•1570(元亀1)年:伊勢長島で一向一揆が起こる。
•1571年:スペイン人がマニラ市を建設。
•1571(元亀2)年:織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちする。
•1572(元亀3)年:徳川家康が三方ヶ原で武田信玄と戦い敗れる。




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category: 三浦市

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灯台の形をした交番・・・城ヶ島  

2013041405.jpg灯台の形の交番
下は交番、上は灯台の形はしていますが、灯台としての役目はありませんが、目立つため遠くからでも解ります。そういう意味では、陸(おか)の灯台といえるでしょう



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category: 箸休め

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安房崎と州の御前  

2013041341.jpg今では古い祠だけが残る州の御前
林の奥に石祠
州の御前  
州の御前前の安房崎灯台

安房の国といえば当地より望見する南房総(千葉県南部)一帯をいいますが、その安房に向く岬という意味から安房崎の名がついたと云われています。
海のかなたにあこがれる人の心は昔も今も変わりはありませんが、往時この岬に立って海越しに安房の国を眺めた人の想いはどのようであったでしょう。
州の御前社は、三崎の海南神社の祭神藤原資盈の家臣四郎を祀ったといわれていますが、この祭神石を噛み砕き、鉄を爪で切るほどの勇猛大剛なので始め州荒御前と称したといわれます。
境内には源頼朝が州の御前社参詣の折に催した宴に使った楊枝を挿したのが育って、周囲3m余にもなった「びゃくーん」の大樹がありましたが、貞享3年(1686)4月①大風の日、自然発火して焼失したと伝えられています。
安房崎の「はな」は海中に突出した磯のため浅瀬が多く、航行する船舶の難所であったため、昭和37年現在ある白亜のスマートな無人灯台が設置されました。
三浦市

①この頃の時代背景
•1684(貞享1)年:大老堀田正俊が江戸城中で若年寄稲葉正休に刺殺される。
•1685(貞享2)年:将軍綱吉が最初の生類憐みの令を出す。
•1686(貞享3)年:熊沢藩主の『大学或問』ができる。
•1686(貞享3)年:井原西鶴の『好色五人女』が発刊される。
•1687(貞享4)年:東山天皇即位。



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category: 三浦市

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楊枝を挿したら大木に・・・常光寺  

常光寺本堂
城島山常光寺
浄土真宗本願寺派 三崎最福寺の末寺

ここはもと阿弥陀堂跡で天正元年①僧了善が一寺を建立し開基と伝えられている。
享保9年②正木左近太夫が現在地に房総の里見軍を率い、布陣した跡で、当時の名主飯島久右衛門が三崎窪村の大工六次郎に依頼し堂宇を造営したという。
昭和11年の城ヶ島大火により焼失したが、昭和28年に再建された
出典 「三浦半島の古刹めぐり」 松浦豊著

今から800年も前のある日、頼朝は多勢の武将とともに風光明媚な三浦三崎にやってきた。
そのとき頼朝は「今日は良い天気ゆえ、島に渡って酒宴を開けるようととのえよ」と家来に命令した。
島に渡った一行は、安房の国(千葉県)に向かって長くのびた安房の洲崎の午前とよばれる地で宴を開いたが、そのとき頼朝が楊枝を土に挿すとこの楊枝が幾日かたって芽をふき、枝葉wだして大きな柏槇に成長した。
やがてその木は人がかかえられないほど立派なものになったので、三浦の五名木の一つに数えられるようにさえなり、いつでも近郷の人々の話題になるほどだった。
ところが貞享3年4月に「たつみの大風」が吹いて、老木の洞穴より自然に火が出て炎上し、ついに由緒ある名木も枯れてしまったのである。名木が遺したものは無残な巨幹だけだった。
ところが、名木は枯れても名木である。
やがてこの柏槇をけずって煎じて飲めば「絶対に風邪をひかない」とか「風邪がなおる」といううわさが村から村へつたわると、近在の村人達によってだんだんけずりとられ、もちかえられてさすがの名木もしだいにほそくなった。そこで一時は島の海南神社に置いてあったのだが、常光寺の本堂の脇に保存するようにした。
しかし昭和11年の大火で柏槇は本堂と一緒に焼失してしまい、長い間語り伝えられた名木もこんどは影をもとどめなくなってしまったのである。
出典 「三浦半島の伝説」 田辺 悟著

①この頃の時代背景
•1573(天正1)年:織田信長、足利義昭を京都から追放。室町幕府滅亡。
•1573(天正1)年:信長が浅井・朝倉氏を滅ぼす。
②この頃の時代背景
•1721(享保6)年:評定所門前に目安箱を置き、庶民の声を聞く。
•1721(享保6)年:小石川薬園を江戸に作る。
•1723(享保8)年:情死の罰則を定め、歌舞伎・浄瑠璃の心中物の上演を禁止する。
•1723(享保8)年:足高の制を定める。
•1723年:清がキリスト教を禁止する。
•1726(享保11)年:美作国津山藩の農民が一揆をおこす(山中一揆)。



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雨はふるふる 城ヶ島の磯に・・・・  


雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
雨は眞珠か 夜明の霧か それともわたしの忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく 帆がかすむ


『城ヶ島の雨』歌碑
『城ヶ島の雨』譜碑『城ヶ島の雨』は、白秋が三崎滞在中の1913年に演出家島村抱月の依頼で作られた。島村は自身の主宰する芸術座の音楽会で発表するオリジナル曲のために白秋に作詞を依頼、作詞後すぐに梁田貞によって曲が付けられ、1913年10月30日、東京有楽座にて梁田自身の独唱(ピアノ:松平信博)で発表された。附曲された白秋の詩としては第一号である。城ヶ島や三崎の風情を詠っており、奥田良三が吹き込んだレコードが全国的にヒットすると、城ヶ島はロマンの島として全国に知られることとなり、憧れを抱いた若い男女が大勢来訪した。附曲した作曲家としては梁田の他に山田耕作(1923年)、橋本國彦(1928年)がいる。また、1950年と1959年には同名の映画も作られた。

歌碑の上を通るのは「城ヶ島大橋」
歌碑には「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる」の歌詞が刻まれています。



この記念館では常時「城ヶ島の歌」が流されている。



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