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歩けば見つかる小さな歴史 ホーム »2013年04月06日
2013年04月の記事一覧

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古い俎板に彫った本尊・・・妙音寺  

20130406201.jpg2013.4月6日現在工事中の本堂

使い古された俎板に彫った本尊末那板不動明王
飯森山明王院妙音寺 
本尊;不空羂索観世音菩薩像で、脇侍として末那不動尊(相模風土記は日本尊末那板不動とある)は三浦不動札所第15番である。
この像は三浦道寸義同の手刻の像と伝えられ、また天文年間①海中より出現したとも伝えられている。
この像は俎板不動と呼ばれ、俎板に半肉彫りした風変な像で、利剣とけん索を持ち眼光鋭く怒りの形相でにらみ岩座の上に坐っている。
高さ63cm、像全体を支える台座は俎板で、中央の部分には切り刻んだ凹部の箇所が残り、完全に使い古された俎板がそのまま用いられている異色の像である。しかも永い間の秘仏で美しい彩色はさながら一幅の名画を見るような絢爛たるものである。
不動明王は降魔の威力をもって邪悪を駆逐し、敵国を降伏させるという不動信仰は、武士階級の間では最も広く行われていた。この像も天正の頃②は北条氏が雨乞いを祈願したと伝えられ、また一説には永正のころ三浦道寸と北条早雲との合戦の折、この地は北条方の本陣となったところから、急遽ありあわせの俎板で急場を凌いで刻ったものか、とにかくこうした作例は全国にも珍しい風変わりな像である。

出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

①この頃の時代背景
•1532年:スペイン人ピサロがペルーを征服。
•1532(天文1)年:本願寺証如が畠山義宣を攻め堺で自害させる。
•1532(天文1)年:大和の一向一揆が興福寺を焼くなど、畿内各地で一向一揆が起きる。
•1533年:インカ帝国が滅びる。
•1534年:イエズス会ができる。
•1536(天文5)年:延暦寺の僧徒が京都の法華寺院を焼きつくす(天文法華の乱)。
•1539(天文8)年:大内義隆が勘合貿易を始める。
•1541年:カルビンがスイスで宗教改革を行う。
•1541(天文10)年:毛利元就が尼子晴久を破る。
•1541(天文10)年:武田晴信が父信虎を追放し、自立。
•1541(天文10)年:ポルトガル船が豊後に漂着。
•1543年:コペルニクスが地動説を発表。
•1543(天文12)年:ポルトガル人が種子島に漂着。鉄砲を伝来。
•1547(天文16)年:武田信玄が甲州法度を定める。
•1549(天文18)年:フランシスコ・ザビエルが鹿児島でキリスト教を伝える。
•1550(天文19)年:ザビエルが山口・京都で布教。
•1551年:オランダ人がマラッカを占領。
•1551(天文20)年:勘合貿易の廃絶。
•1553年:明の王直が倭寇の題目として浙江地方を荒らし回る。
•1553(天文22)年:信濃の川中島で武田信玄と上杉謙信が戦う(川中島の戦い:この後1564年までの間に五回戦う)。
この頃の時代背景
•1573(天正1)年:織田信長、足利義昭を京都から追放。室町幕府滅亡。
•1573(天正1)年:信長が浅井・朝倉氏を滅ぼす。
•1575(天正3)年:織田信長と徳川家康の連合軍が三河の長篠で武田勝頼の軍と戦い、鉄砲隊を活躍させて勝利をおさめる(長篠の戦い)。
•1576(天正4)年:織田信長が安土城築城を始める。石川本願寺を攻める。
•1577(天正5)年:織田信長が安土城下を楽市とする。
•1579年イギリス人が始めてインドに到達。
•1580(天正8)年:石川本願寺が織田信長に降伏する。
•1580(天正8)年:イギリス船が平戸に来る。
•1582(天正10)年:大友・有馬・大村の三大名が少年使節をローマ法王のもとに送る。
•1582(天正10)年:織田信長が本能寺で明智光秀に襲われて自殺(本能寺の変)。
•1582(天正10)年:羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀をやぶる。清洲会議で信長の跡継ぎを秀信に決める。
•1582(天正10)年:羽柴秀吉が山城国の検地を行う(太閤検地の初め)。
•1583(天正11)年:羽柴秀吉が近江賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。
•1583(天正11)年:羽柴秀吉が大阪城の築城を開始。
•1584(天正12)年:徳川家康が小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉を破る。
•1584(天正12)年:羽柴秀吉が長宗我部元親を討つ(四国平定)。
•1585(天正13)年:秀吉が関白に任ぜられ姓を藤原に改める。
•1586(天正14)年:秀吉が太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜る。
•1587(天正15)年:豊臣秀吉による九州遠征が行われ、島津義久が降伏して九州が平定される。
•1587(天正15)年:聚楽第が完成する。
•1588(天正16)年:豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招き諸大名に忠誠を誓わせる。
•1588(天正16)年:豊臣秀吉が刀狩り令を出す。
•1590(天正18)年:豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、奥州を平定してほぼ全国の統一が完成。
•1590(天正18)年:徳川家康が秀吉に国替えを命じられ江戸城に入る。

七福神:妙音寺へは下記の赤字をクリックしてください。
七福神:妙音寺
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category: 三浦市

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木造千手観音菩薩・・・等覚寺(2)  

20130406103.jpg左写真拡大

横須賀市指定重要文化財
木造千手観音菩薩立像 一駆
本草はもと御滝社に隣接存在した経塚山千手院の本尊である。
経塚山千手院が廃堂となり昭和5年に当寺に移安されたという。
頭上に仏頂面と化仏(後補)を配し42臂の形態である。
榧(かや)の一木造りで本体とは別材のすべての手など後補の部分が多いが、当初の趣が保たれている。

木造金剛力士立像

横須賀市指定重要文化財
本像は古くは当寺付近にあった丸山不動院に祀られていたといわれ、江戸初期に経塚山千住院に安置された後、千手観音菩薩立像とともに当寺に移された。
阿吽の二体一対に造られた仁王像で二体とも榧(かや)の一木造りである。
いずれも損傷が著しく本体部を残すのみだが総体に安静で素朴な体貌を示している。
木造千手観音、金剛力士像とも平安後期の造立である。

横須賀市教育委員会

category: 横須賀市

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無益な殺生を悔い改め僧になった侍・・・等覚寺(1)  

20130406101.jpg等覚寺本堂
栄久山等覚寺
日蓮宗
三浦観世音菩薩札所 第16番


矢切の峯

久村の狭い山麓の奥まったところに日蓮宗栄久山等覚寺がある。その前に岩戸に通ずる古い道の辺りに矢切りの峯と呼ばれる峠がある。

昔、この辺りに禅誉上人が隠居してたという古びた小庵があった。
その頃、この近くの山で浪人風の者が弓をもって鳥を射ていた。ところがある日のこと上人が寺内を見守っていると、一羽の鳥が鴨の首をくわえて本堂前にうずくまっているのを見つけた。
これはおそらく3~4日前の浪人の仕業に違いないと思い、その鴨を良く見ると鴨は雄鴨の首をぅわえた雌鴨で、いかにも悲しそうな鳴き声を出していた。
上人はこの鴨を見て非常に哀れみ「仏果を授けて進ぜよう」といって読経をはじめた。上人の読経に熱がこもってくると、この雌鴨はじっとこのお経を聴いていたがやがてくわえていた首を離してどこかへ飛んで姿を消してしまった。
ところがその日の夕方、先日、弓を手にしていた浪人がこの寺にやってきたので、近くの者が早速この浪人に上人のことを語ると、浪人は自分の過去を深く恥じ心を入れ替えて菩薩心を起こし、ついに持っていた弓の弦を取り外し、矢を折って二度と無益な殺生はしないことを誓い、上人の弟子にして欲しいと嘆願した。
その後浪人は上弓坊と名を改め仏門に入ったということである。それ以来いまこの山を矢切の台とか矢切の峯と呼ぶようになったという。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著



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category: 横須賀市

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ありがとう  

20130406100.jpg等覚寺で

category: 箸休め

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山中にひっそりと・・・飯森神社  

飯森神社
祭神:大巳貴命 萱野比売命
例祭日:10月14日
祭神の大巳貴命(別名大国主神、大物主神)はいなばの白兎の童話で知れらる神で、素戔嗚尊の子または六世の孫といわれ、神話によると天孫降臨に先立って、出雲の主神大国主神は高天原の命に応じ、快くこの国土を皇祖に捧げ(国ゆずり)自ら大社に隠退した。このとき大国主命のために宮殿が営まれて命はそこに身を隠し、天照大神の第2子の天穂日命がその宮に奉仕して大国主命をお祭りするようになったという。萱野比売命は野槌命ともいい、三島社の祭神で大山祇命の妃神にあたり、大山祇命は山を司るのに対し、野を司る原野の神で、木花咲夜姫命の御母神に当たる神である。祭神の大巳貴命は正徳元年(1711)①飯森の住人高梨角右衛門が勧請したと伝えられ、子の神社と称していた。
また萱野比売命は慶長年間(1596~1614)本村妙音寺住僧賢栄法院の勧請と伝えられ、姥神社と称したが明治44年10月子の神社と合祀し飯森神社と呼ぶようになった。

神社の周りに点在する石祠等


この頃の時代背景
•1711(正徳1)年:新井白石が朝鮮使節の待遇を改める。
•1713(正徳3)年:幕府が生糸の生産を奨励する。
•1713(正徳3)年:貝原益軒の『養生訓』ができる。
•1715(正徳5)年:長崎貿易を制限して金銀の海外流出を防ぐ。
•1715(正徳5)年:近松門左衛門の「国性爺合戦」を竹本座で



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category: 三浦市

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三浦相撲の先駆者・・・錦島三太夫  

2013040601.jpg真ん中の黒いのが錦島三太夫の墓
錦島三太夫の墓

錦嶌三太夫
江戸時代の力士 錦嶌部屋の親方
台座下には「北浦賀道 西鎌倉道 南三崎道」とあり更に碑の両面には享和元年(1801)①四月行事役の式守長五郎や地元有志ほか三浦、鎌倉、藤沢の相撲関係者や門弟衆等に十数名の名がずらりと連なり、この墓の盛大な建立を伝えている。
錦嶌は現役当時は石ヶ浜といい、年寄となって錦嶌三太夫を襲名されている。この墓は恩ある師の錦嶌の病死に、村人たちが供養のため石塔の建立を願って、人の往来の烈しいところに道標を兼ねて建ったものである。
こうして錦嶌親方の追善相撲の興行が村社若宮神社の祭礼に奉納され、地元では年貢を上納したり角力割を拠出してはこれらの費用を充たすなど、部落ぐるみの協力が見られる。「三浦郡誌」には「例祭日十九日当日は、神事相撲あり。境内に市立ち、頗る賑う」とある。
こうして素人相撲が三浦に流行し始めたのである。
若宮神社では今も相撲行事は定着して毎年9月の祭礼の時には相撲が奉納され、民衆の中に深く溶け込んでいる。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

この頃の時代背景
•1799(寛政11)年:蝦夷地を幕府直轄領とし、警備を強化する。
•1800(寛政12)年:伊能忠敬が蝦夷地を測量する。
•1802(享和2)年:十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版される。
•1803(享和3)年:アメリカ船が長崎に来て通商を求める。
•1804(文化1)年:ロシアの使節レザノフが長崎に来て通商を求める

三浦相撲の行われる「若宮神社は、下記の赤字をクリックしてください
若宮神社

category: 三浦市

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