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城ヶ島の竜神が淵  

むかしむかし、180年ものむかし、城ヶ島に竜神が淵というところがあったそうな。
そこには竜が住んでおって、大風や津波、台風が来るという前日にはかならず淵に渦巻きを巻き起こして村人に恐ろしい天災をしらせておった。
権右衛門の娘さちは、竜神が淵の見張り役をつとめておった。
「おーい、大変じゃ淵に渦巻きがおきたよー」とさちが叫ぶと、村人は浜に駆けつけ舟を浜に引き上げたり、屋根に石をのせたり戸板をぶちつけたりして台風にそなえた。
村人は村を守ってくれる竜神をありがたいとおもっていた。
さちは朝と夕に淵の岩に立って水面を見守っていた。
さちは美しかった。
それが夕日に映えるといっそう美しかった。
竜神はいつしかさちに恋心をいだくようになった。できれば夫婦になりたいと思っていた。
が、その心はさちには通じなかった。
さちが二十歳を迎えると、村から江戸に出ている人の世話で、江戸の職人のところへ嫁ぐことになった。
それは天明五年(1485)三月六日であった。
権右衛門夫婦と村人は浜でさちを見送った。
「江戸はすぐそこじゃて、暇をつくって里帰りせいや。こんど帰るときは赤ん坊をつれて来なされや」
さちたちをのせた舟はすべるようにして浜を離れていった。
舟が沖合いに出ると村人は竜神が淵を通って帰っていった。
「さちさんは、いい女子(あなご)じゃ。それはまめに働くで、きっと幸せになれるべ。淵の見張りはまた誰かを探してみるだな」
村人が通り去ったとき、にわかに淵に渦巻きがごぉーっとおこり、水面がむっくむくともちあがり、竜神があらわれた。
目はらんらんと輝き、鱗(うろこ)をたて、沖合い目指して波をけって行った。
それはさちの舟を追っているようであった。
そのとき空はにわかにかきくもり、どす黒い雲が不気味に流れたかと思うと、つむじ風が巻き起こり、雨がザンザザンザと降り大暴風雨となった。大波は噛み付くように、木の葉のようなさちの舟に襲いかかっていった。
あくる朝、恐ろしい一夜が明けると嘘のように晴れた空になった。
だが大師河原の浜には二十七人のいたましい水死体が打ち上げられていた。
大師河原の村の衆は痛ましい姿に目をおおった。そして二十七人の霊を手厚く葬って供養した。
これが今も、川崎市の石観音堂の境内の隅に淋しく建っている「海中溺死者男女塚」という。

川崎石観音へは下の赤字をクリックして下さい
さちの墓(川崎・石観音
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category: 三浦市

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実はここには・・・・石観音(川崎)  

石の観音
江戸時代も元禄年間(1688―1704)になると、庶民の間で著名な社寺や名所への参詣が盛んとなり、『江戸名所図会』などの地誌が数多く刊行されるようになりました。江戸名所図会には、川崎大師の賑わいを「詣人絶ゆる事なし、正・五・九月の二十一日、別して三月二十一日は、御影供修行ある故に大いに賑わえり」と記すほか、大師より7丁(約3km)ほどはなれた石観音堂(いしかんのんどう)の賑わいについて「毎月十七日道俗通夜参籠す」と記しています。
 石観音堂は、寛文5年(1665)①に明長寺の僧弁融によって開かれた寺で、本尊は石造如意輪観音像です。「潮音殿」と書かれた扁額(へんがく)がかかる山門を入ると、「霊亀石」と呼ばれている手洗石(ちょうずいし)が置かれており、次のような伝説が伝えられています。享保18年(1733)②は不漁続きの年でしたが、ある日、地元の漁師が漁を終えて帰ろうとすると、急に船が動かなくなってしまいました。
 船の下をみると大きな石があり、手洗石に手頃な大きさだったので引き上げて石観音に奉納しようとしましたが、なかなか引き上げることができませんでした。その時、2、3匹の亀があらわれ漁師に力をかしてくれたのでやっと石を引き上げ、石観音に奉納したところ豊漁になったということです。
 境内には霊亀石の他、大師河原村に住んでいた俳人花鳥庵梅動が、宝暦8年(1758)③に柿本人麻呂像奉納のため矢数独吟(やかずどくぎん)(一定時間内に数多くの句を詠むこと)を行い、卯の上刻(午前5時)から申の下刻(午後5時)の間に1万句の俳諧を詠んだのを記念してつくられた「梅動独吟万句詠草塚」や延享4年(1747)④に俳人茗荷坊の門人6名が観音に因んだ句を詠んだのを記念してつくられた「六人ー句碑」などのほか道標、力石などの石造物が残されています。
出典 川崎市教育委員会
霊亀石

海中溺死男女塚
正面には天明五巳年⑤ 三月七日
海中溺死男女塚
相州三浦郡鴨居村
同城ヶ嶋村川間村
裏面には城ヶ嶋村権右衛門娘さち 二十歳
と刻んである。

①この頃の時代背景
•1663(寛文3)年:大阪・京都を結ぶ町飛脚ができる。
•1663(寛文3)年:江戸市中の花火が禁止される。
•1663(寛文3)年:霊元天皇即位。
•1666(寛文6)年:ヒマワリが中国より伝わる。
②この頃の時代背景
•1732(享保17)年:西日本にイナゴが大発生し、飢饉となる(享保の大飢饉)。
•1734(享保19)年:サツマイモを小石川薬園と吹上庭園に植えさせ、青木昆陽に栽培法を広めさせる。
③この頃の時代背景
•1756年:七年戦争が始まる。
•1758(宝暦8)年:京都で大義名分・尊王を説いた竹内式部が追放される(宝暦事件)。
この頃の時代背景
•1742(寛保2)年:公事方御定書百箇条が完成する。
•1744(延享1)年:天文台を江戸の神田佐久間町に設ける。
•1747(延享4)年:桃園天皇即位。
•1748(寛延1)年:竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」が竹本座で初演される。
⑤この頃の時代背景
•1783(天明3)年:浅間山の大爆発。
•1783(天明3)年:東北地方を中心に全国的な大飢饉が起こる(天明の大飢饉)。
•1786(天明6)年:田沼意次が老中から失脚。

さちの物語へは下記の赤字をクリックして下さい
さちの悲しい物語



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category: 川崎市

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隠れキリシタン灯篭  

隠れキリシタン灯篭

堂内の正面に小さな石地蔵と並んで隠れキリシタン灯籠の竿がある。
高さ七十八センチの花崗岩製で、上部はやや丸みをおびて十字を表現し、その中央正面には卍十字架が陰刻されている。
この卍紋は仏教から発したものであるが、卍の縦線は中心から上は五センチに対し、下側は6.5センチで完全なラテン十字架を表現した隠れ十時であって、これを考案した製作者の慧眼(けいがん)には驚くばかりです。
そして下側には地蔵らしい長い袈裟(けさ)を着たマリヤ像が合掌して立っている。
この灯籠の最初の発見者は、この近くの人である日のこと、江奈湾沖合いにある横瀬島の東方で、ミヅキの漁業中に、海中に沈んでいたのを見つけて引き上げ、地蔵堂の中に安置したといわれている。
また灯籠を海底より引き上げた当初、すでに竿の右側面には「海中出現」「明治二十八年」という銘があったことから、これは信徒の計画的な策略によるものであろう。
これはおそらく迫害と弾圧に耐えかねた切支丹信徒が身に迫る危険を感じ、この地に聖なる静かな場を求めて夜陰に乗じて、密かにこの灯籠を船で運び、人里はなれたこの島に捨てたものを、後になって潜伏信徒が海中より拾い上げてまことしやかに吹聴し、村人の注意をそらして巧みに聖なる信仰の場として温存したものであろう。
そして弾圧厳しくなったころ、石地蔵の横にこの灯籠を祀ったのである。そして万が一お咎めがあったときは、この地蔵を信仰していたと言い逃れ仏教徒の如く装うことができたのではないだろうか。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦 豊著
小さい石地蔵といっしょに祀られている
江奈湾を望む場所に建つ地蔵堂


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category: 三浦市

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仏典といっしょに来た唐猫  

山門(国の史跡)
称名寺全景

金沢山称名寺(きんたくさんしょうみょうじ)は、十三世紀半ばに創建された金沢北条氏一門の菩提寺で、「木像弥勒菩薩立像」(もくぞう7みろくぼさつりゅうぞう)(鎌倉時代、重要文化財)を本尊としています。
もとは、鎌倉幕府の重臣北条実時(1224~1276)が邸宅内に設けた阿弥陀堂から始まったと言われ、はじめは念仏の寺でしたが、のち真言律宗に改められました。二代顕時(あきとき)(1248~1301)が受け継ぎ、三代貞顕(さだあき)(1278~1333)の時代に大規模な造営が行われました。元亨(げんこう)三年(1323)「称名寺絵図」(重要文化財)には、苑池のまわりに七堂伽藍を配置した最盛期の称名寺の様子が描かれています。また寺に隣接して設置された文庫には、貴重な文物が収集されていました。その一部は寺と神奈川県立金沢文庫に継承されています。


称名寺塔頭光明院表門
称名寺塔頭光明院表門(しょうみょうじたっちゅうこうみょういんおもてもん
光明院は、称名寺の塔頭の一つで、「新編武蔵風土記稿」に「光明院 仁王門に向って左にあり、五院の第一臈(ろう)なり、本尊地蔵春日(はるひ)の作なり」とあり、江戸時代後期には、五つの塔頭の一位を占めていました。この表門は、小規模な四脚門ですが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠となっています。また市外から近年移築された三渓園の建造物などを別にすれば、造営年代が判明する市内の建造物の中で最も古く、極めて基調です。
<横浜市教育委員会>

称名寺と猫についての話
鎌倉幕府があった時代に鎌倉の外港として栄えたのが六浦(むつうら)という港町。その六浦の金沢に称名寺がある。鎌倉時代に六浦一帯を治めていた金沢北条氏の菩提寺となった称名寺が建立されたのは文永四年(1267)のこと。金沢にあった北条実時の別荘に持仏堂を建てたのが始まりとされている。
当時の金沢には中国から渡ってきたという唐船の伝説があったそうだ。
中国から一切経などの経典をのせた三艘の船が金沢に入港した。このため現在の六浦港は三艘港と呼ばれていた。
この船には経典を鼠(ねずみ)から守るために猫がいっしょに乗せられてきたという。唐船が運んだ経典は称名寺に納められそれとともに猫を金沢に残していった。その子孫の猫たちも称名寺で飼われていたが、やがて周辺の家々でも飼われるようになり、これが金沢の唐猫として有名になったということです。
出典「猫神様の散歩道」 八岩まどか著



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category: 横浜市

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通り矢の地名は・・・  

白秋文学


 通り矢と城ヶ島辺に降る雨の
   間(あい)の入海舟わかれゆく

 しみじみと海に雨ふり澪の雨
  利休ねずみとなりけるかも


北原白秋が住んだ大正の初め、新しいイカ漁法が開発されるなど沿岸漁業は黄金期を迎えようとしていました。
一日のイカ漁を終え、白帆をあげた漁船の群れが通り矢の鼻を次々と駆け抜けていく様子は、当時三崎漁港ならではの風物詩でありました。
通り矢は白秋が最初に居を構えた向ヶ崎異人館の正面にあり、朝夕の散歩道でもあり、見事なスケッチも画いています。

通り矢の地名

永正十三年(1516)七月十一日、新井城(油壺周辺)が落城して三浦氏が滅亡したあとの三崎は、北条早雲が支配するようになりましたが、その後、安房(千葉県南部)の里見義弘がこの良港三崎をねらい、弘治二年(1556)三月、里見軍は兵船八十余隻をもって三崎に来襲しました。
以来、幾度か争いが繰り返されましたが、その際、里見の兵の矢が海峡を射通したので「通り矢」の地名がついたといわれています。
また一説には、源頼朝が三崎に遊覧したとき、この通り矢から対岸の城ヶ島の遊ヶ崎(あそびがさき)へと見通す岩礁、矢立ヶ根に的を立てて小笠懸(おがさがけ)をして遊んだ。このとき、矢が間を通ったので地名になったとも伝えられています。
<三浦市>

城ヶ島大橋
通り矢から城ヶ島を望む(画面左が城ヶ島)



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category: 三浦市

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花街の面影なく  

白秋文学コース



橋をわたりてつくづくおもふこれぞ
  このいづこより来し水のながれか

雲雀啼く浦の廓の田圃みち
  行けばさびしさもまだ日は暮れず

このあたりは当時、北條花街のあったところで一帯は田圃に囲まれ、秋には蝗(いなご)の飛び交う畦道や、狭塚川(さづかがわ)の清流に鰡(ぼら)や鮎のおどる田園風景がありました。
北原白秋は九州の水郷柳川育ち。この「橋をわたりてつくづくおもふ・・・」の歌は、一筋の流れに郷里への絶ち難い思いを詠んだもので、白秋の望郷の心情をうかがうことができます。

眼鏡橋を中にわたして茶屋三戸
    ここの廓は日の照るばかり

白秋が水の流れに思い魅かれるのも、彼が少年時代に生家をめぐる川の流れに数々の思い出を残しているからです。
<三浦市>


花街のあった付近から北条湾を望む。



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原の身代り地蔵  



当寺は、真浄院と呼び、三崎の鎮守海南神社の分離以前の寺で海汐寺といった。本尊は地蔵菩薩であります。
この地蔵尊にまつわるこんな話が伝えられています。
その昔、北條早雲の軍勢に攻められること三年、いまや兵糧も底をつき、刀折れ矢尽きた新井城の三浦道寸義同(みうらどうすにょしあつ)は、永正十五年(1516)七月十一日、城兵一同自刃するか、城門を開いて最後の決戦を交えるかで衆議を重ねましたが、結果は決戦と決まり、その由を三崎城を守備する将、出口茂忠に伝えるべく伝令を出しました。
伝令を命じられたのが原の川島吉隆の家臣・川島身七で、海を泳ぎ渡り、木陰をえらんで敵兵の目をかすめ、苦労のすえ任務を果たしましたが、城に帰る道すがら油壺の海を染めた血潮を見て、戦いが終わったことを知りました。
一方、北條勢は一部の兵を新井城に残すと、三浦の残兵をとらえながら三崎城に兵を進めました。身七は山中を這うようにして追手の目をのがれ、この地蔵堂の下にかくれていたが運悪く発見され、たちまち首を切り落とされてしまいました。
ところが、追手の兵が切ったのは身七の首ではなく地蔵尊の首でありました。これは床下で身七が地蔵菩薩を念じていたので、いつか菩薩が身代りになってくれたのでした。
その後、慈悲溢れる地蔵尊の徳を慕い、身七はこの地蔵堂で剃髪して「地蔵坊身七」と名のり、新井城に散った道寸以下の人々の霊を慰めて一生を送ったと伝えられています。
<三浦市>

堂内の模様

六地蔵尊



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category: 三浦市

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三崎の土になった会津藩士  

会津藩士の墓

二百数十年に及ぶ間、鎖国を続けていた徳川幕府は、黒船の来航でついに泰平の夢破れ、江戸の安全をはかるため、当時の雄藩の一つであった会津藩に命じて文化八年(1811)東京湾の最先端である三崎(三浦市)のここ城山に陣屋を設け、さらに城ヶ島安房崎に大筒三門のとのろし一門を据え防備に当たらせました。
藩士達は、それから長い間、任についていましたが病を得て望郷のうちに淋しく三崎の土になった武士やその家族も多く、葬られた墳墓はここに三十七墓を数えます。
また、後には現在の三浦海岸近くの南下浦市民センターのある場所にその本営が置かれ、以来、明治維新まで長州藩などが任にあたり、明治の元勲伊藤博文等も大志を秘めて勤務につき、三崎街道に馬を駆っていくたびか往来したものであります。
なお、このほかに当時東京湾の防備についた諸藩の人々の墓石が市内の寺に散在しています。
神奈川県
三浦市

上宮田陣屋・その他の会津藩士の墓は下記の赤字をクリックしてください
桂小五郎
あの有名人も守った
横須賀市にある会津藩士の墓



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category: 三浦市

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三大稲荷・・・(説はいろいろありますが)  

最上位経王大菩薩社殿
日本の三大稲荷の一つとして広く親しまれているこの最上さまは、正式には「最上位経王大菩薩」と申され岡山県岡山市の稲荷山妙教寺を総本山としてそのご本尊が鎮座ましましていられます。
この最上位経王大菩薩のご本尊は、その昔報恩大師摩訶聖人という方が岡山市の霊山の元宮地帯、八丈岩の岩窟で修行をつまれていた。
ある時、空一面瑞雲たなびく中を最上位経王大菩薩が白狐にまたがりしずしずとおりたたせられたということであります。
天平勝宝四(753)年、時の帝孝謙天皇がご病気にかかられた際、報恩大師に勅が下り祈願をさせしめられ。御病はたちどころに御平癒あそばされたとあり、またその後桓武天皇が御病に悩まされた時にも、御祈祷申し上げたところ、すみやかに御平癒あそばされたため、天皇はあつく帰依あらせられ寺院を建立なさる事を発願なされました。そのとき「吉備の国稲荷山の麓に」との最上さまからのお告げが下り、この地に堂塔伽藍を建てて頂き、これが本山建立の機縁となりその後の稲荷山妙教寺の建立となって現在に至っております。
最上位経王大菩薩の経王とは、お釈迦様の教えの中でも「諸経の王」として最も重要とされる「法華経」を示されたものであり、法華経の説く教えによって衆生を救済する大菩薩であられるという意味であります。
当山最上稲荷のご本尊は、明治四十二年妙栄寺住職第四十五世土岐泰雄上人の送書により、第四十六世高原泰譲上人を代役としてその御分躰を同年九月二十八日に奉迎してここに安置申し上げたものであります。
合掌 
明谷山 妙栄寺



明谷山妙栄寺
本尊は三宝祖師を祀っている。
寺伝によると応永三(1396)年に金谷大明寺の日榮上人の弟子日豪上人が創建したといわれ、本堂内には三宝本尊と五妙の祖師といわれる室町時代の日蓮上人の坐像が祀られている。
五妙は五妙欲の略
清らかで妙なる色、声、香、味、触の五種の対象
極楽の境界

出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著



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category: 横須賀市

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参詣者用の道標  

二つの石碑
この碑のあるところは、地元では法塔の十字路といって、旧浦賀道と三崎道と交差する十字路であった。(現在の衣笠十字路付近)
この碑の建てられた今から二百年前はおそらく人家もまばらで、大明寺と奥の院竜本寺を結ぶ道に迷う人もいたのではないか。
従ってこの二基は竜本寺への道標として鎌倉道に重点を置き建てられたものと思われる。
右側の碑は天明元年(1781)日蓮五百遠忌に道標を兼ね建碑されている。金谷山大明寺三十三世の筆で「南無法蓮華経」の髭題目が刻まれ、台座の道標には東浦賀、南三崎、西鎌倉、北横須賀と刻まれている。
左側の発願霊場の碑は慶応元年(1865)の建立である。
出典「三浦半島の史跡を訪ねて」横須賀郷土史研究会著

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category: 横須賀市

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目次⑥(過去記事へのリンク)  

226ペリーより早かった  227国の重要文化財   228.悲運の主役   229.これが薬王寺跡
230.小松ヶ池水神   231.小松ヶ池弁天社   232.三峯社   233.大神宮さん
234.夫婦地蔵の悲話   235.哀れな六部   236.浅間様の通る雨崎海岸   237.路傍にひっそりと・・
238.義士塚の怪   239.上諏訪神社   240.はっちょうさま   241.旧道にひっそりと
242.ローマ字の道標   243.線路脇に墓が・・・   244.久里浜沖に財宝?   245.網にかかった太子像
246.ひよどり越え一番乗りはこの男  247.大漁と思いきや・・・   248.三浦三不動の一つ
249.鶴の教えた湯の泉  250.雨乞いの貴船  251.山中に両面地蔵  252.日蓮のこもった岩窟
253.聖徳寺  254.三界萬霊塔  255.厄除けの槙  256.瘡守稲荷  257.大蛇のしくじり
258.源頼朝・政子が参詣  259.久里浜花の国・・・

category: 目次(過去記事はこちらからどうぞ)

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閻魔と地蔵  

閻魔堂

ガラスの反射で見づらいですが、閻魔様です
閻魔像;座高110センチ、肩幅60センチ、膝張70センチ、台座高15センチ
右手に笏を持ち左手は左膝に添えて道服といって着物の上に平時着用する袖の短く袴のない黒い衣を着て、両眼をキッと見開き大きく開いた口に顔一面に怒りの表情である。
冥土の世界でその亡者の生前の罪業を裁くのがこの閻魔王である。

写真左;高瀬舟型の岩舟地蔵 写真右:延命地蔵尊

この岩舟地蔵には次のような伝説がある。
、里の漁師が沖へ漁に出かけた。すると俄かの時化にあい、舟が暗礁に乗り上げて沈没しようとした。そのとき漁師たちは日頃信心していた地蔵尊に救いのお祈りをあげた。すると間もなく不思議にも舟は沈没を免れ、無事に里に帰ることができた。漁師達はこれ皆地蔵尊のお加護と感謝した。舟で命を拾ったので舟に乗った地蔵尊を造ってお祀りしたのがこの地蔵という。
一説にはこの地蔵は流仏でもあるといわれもったいないので祀っているのだともいってる人がいる。前は漁師の人は豊漁の時はかならずとれた魚を上げに来たという。
また近所の人が病身で困っていたとき、ここにお祀りにきて治ったといって屋根替えをした人もあったという。
出典 「南下浦の歴史探訪記」浜田勘太著

閻魔堂前の庚申塔

坐ってうつむきながら手を合わせるお地蔵さん



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category: 三浦市

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犬が決めた境界線・・・犬走り  

通称「犬走り」
この台地は、一年中野菜の栽培の多いところである。
昔、この台地の境をめぐって横須賀津久井と、三浦南下浦の間で、境をどこにするか連日浜に集まり相談したが、なかなか上手い考えが浮かばなかった。
「この辺にしたらどうか」といえば津久井の役人が納得しない。「この山の裾を境にしたらどうか」といえば今井(三浦)の役人が「とんでもない」と言い出し、何回話し合っても喧嘩別れ、これを聞いた代官が「犬を走らせて、その犬の足取りに任せ、文句なしにしたらどうか」と提案した。
それは妙案だと早速一匹の犬が登場、用意ドンで犬を走らせ、両村の役人はその跡を追って、境界杭をたてたという。
いまもこの地を犬走りと呼んでいる。
出典 「北下浦郷土史」

犬走りの一角に建つ庚申塔

category: 三浦市

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ビルの谷間に延命地蔵尊  

どぶ板通りに面した地蔵尊

延命地蔵尊
雨の日、風の日、そして昼も夜も迷いの辻を往き通う人々をはぐくみ、見守って下さるのが「延命地蔵尊」であります。このお地蔵様については、「新編相模国風土記稿」(天保十二年1841)では、「(良長院の末寺として)西往寺 延命山と号す 本尊地蔵 是も宝永中(1704~10年)門翁の建る所なり」。また「三浦繁盛記」(明治四十一年=1908)には「汐留町にあり。朝夕、選考の煙絶えず茲にも茶屋町の女どもが朝に夕に参詣して居る」とあります。この地に祀られたのは大正十二年(1923)の関東大震災のあとでした。それまでは長い間、今の汐入小学校付近にあって、洞ノ口地蔵尊と呼ばれていました。その辺りはかって浦賀と江戸を結ぶ「浦賀道」にあたり、また、のちにできた下町へ通じるトンネルの入り口近くでもあったようです。お堂の左手前には四十五人のお名前を記した関東大震災供養塔や、地元若者のつどい「汐留睦会」の奉納額。
右手前には戦前、近くの火災で亡くなった母子三人の像、それに多くの水子地蔵尊などが目にとまります。なお市内不入斗(いりやまず)町にお住まいでした直木賞作家・穂積驚(みはる)さんは、お地蔵様をこよなく愛し、次の句を詠まれました。
一人静 二人静と 地蔵尊
「延命地蔵尊」は霊験あらたかであります。その深いご慈悲で「願いが叶えられた」「悩みから救われた」「亡き人と語ることができた」といった経験をもたれる方々がおられます。ありがたいことです。
お地蔵様にはぐくまれる私たち、私たちがお世話するお地蔵様。
このご縁を、末永く保ち続け伝えていきたいものであります。
延命地蔵尊護持会

  
                 どぶ板通りの旗(左)とどぶ板通り(右)

どぶ板通りの一角にある「スカジャン専門店



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待てど暮らせど・・・・  

夫婦岩
剣崎灯台の下に右側に大きく、左側にやや小さい岩がある。これを夫婦岩と呼んでいる昔、この岩の近くに与作という漁師が住んでいた。早くに父を失い、自分の腕一つで舟を漕ぎ出しては魚をとって老いた母を養っていた。
与作は三年に一回夏祭りの頃になると紀州(和歌山県)から海を越えてあめ売りにやってくる少女のおまんを見初めた。あめは漁師が海に出るときに疲労回復のために必要なものでかなり売れ行きは良かった。
明日はおまんが郷里へ帰るという前の日に与作は浜でゆっくりとおまんと話し合い、やがては結婚することを約束しあった。
次の日の朝早く、おまんを乗せた舟は剣崎を去っていった。与作は岬に立って舟の姿が見えなくなるまで見送った。
三年の後おまんは父母に付き添われてふたたび剣崎にやってくる。
与作はおまんの晴れ姿を心待ちにしていた。
与作とおまんのロマンは浜中に知れて、浜の人たちも三年後の喜びを自分のことのように喜んでその日を待つことになった。
与作は夢中になって働いた。一年が過ぎ二年が過ぎた。
約束の三年目がやってきて冬が去り、桜の花の咲く春になった。おまんを待つ思いはつのり、おまんに焦がれ、それに加えてはげしい労働のために与作はやせこけていった。
夏祭りが近づいてくる。与作は仕事のことも忘れて毎日物見の岬に出て、おまんを乗せた舟の来るのを待った。
祭りも終わり、秋が過ぎ冬がやってきて冷たい海風がふきはじめた。
長く長く思われた月日であった。
おまんを乗せた舟はついにやってこなかった。
与作の体はすっかり衰えて、ついにおまんの名を呼んで海に身を投げてしまった。
おまんを乗せた舟は、夏の祭りに間に合うよう三河湾を過ぎ、遠州灘に入っていた。おまんは富士山をはっきり見、伊豆の山並み眺めながら、剣崎に待つ与作をしのんで長かった三年の月日を振り返っていた。ところがその晩、にわかに空がかきくもり荒波が立って風が帆柱を吹き飛ばして木の葉のように揺れた舟は海の底に飲み込まれてしまった。
おまんは来なかった。
それから何ヶ月かたった。
剣崎におまんの死が風のたよりに知らされた。
悲しい出来事を伝え聞いた村人達は丘の一つに与作の死体を、もう一つの丘におまんの残した髪の毛をうめて、夫婦岩と呼んで縁結びさせ、弔ったという。
出典 「三浦半島の民話と伝説」 菊池幸彦著



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category: 三浦市

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創建以来1150年の星霜  

西來寺本堂
浄土真宗 西來寺略縁起
当山は平安の昔弘仁年間(810~823)①比叡山天台の学僧定相律師の創建なり一乗寺と号す。天台教寺たること二十一代四百三十四年を経て寛元四年(1264)②親鸞聖人関東二十年の御教化を終え給い常陸国より御帰洛の途次相州足柄江津(国府津)に御滞在の折時の住職乗頓上人の法莚に詣でその宗義を聴聞せられたるに、これこそ末世相応の要法なりとて速やかに一向専修の念仏に帰依しかの一乗寺を改免聖人西來寺と是を名づけ給う。乗頓即ち西來寺の開基なり。世下り本願寺に蓮如上人出で給ひひたすら凡夫往生の道を説き給うに都鄙の教化風の如く伝え上下の信順草の如く靡きたれどかえってその勢力の赴くところ門徒衆結束を強め信心を楯として権力をめざし或いはこれと戦いまたは奪取す。一向一揆即ち是なり。
よって相模国守護小田原城主北條氏直公領内に真言宗のあるを許さず従はざるは実力を持って放逐せり。当山もまたその難にあい光明寺(浄土宗材木座)末寺として改宗すべき旨厳達せられたり。時の住職頓乗(六代)今更改宗の意なしとて本尊を裏山に隠しその身は長浦の長願寺にのがれ住む事五年この間光明寺より瑞念という僧来り寺号を宝立寺と改め住持す。頓乗深く宗門の亡滅を悲み天正十六年(1588)③山城の国伏見の庄に至り草堂を建立して西來寺と名乗り関白秀吉公に事の由を訴う。同十八年小田原落城の後西來寺再興に付三ヵ條の御朱印を授與せられしによって頓乗制札を護持し歓喜の心深く当郷に帰る誠に会稽の恥を雪ぎしもかくやあらんか慶長七年(1602)④本願寺東西に分離元和八年(1621)⑤東に帰属す。元禄九年十一月⑥(1696)現有の梵鐘奉献その表面には改宗の由来及天正の法難刻記あり伏見に現に西來寺ありて法難の歴史を伝う。惟うに当寺は幾多の寺難災難を越えここに一千百五十余年(昭和五十一年)の星霜を経たり。
(西來寺)

①この時代の主な出来事
•809(大同4)年:嵯峨天皇即位。
•810(弘仁1)年:初めて蔵人所を置き藤原冬嗣を頭とする。
•810(弘仁1)年:上皇妃薬子とその兄仲成が上皇の重祚を謀り失敗、薬子は自害仲成は誅殺される(薬子の変)。
•816(弘仁7)年:空海が高野山金剛峰寺を建てる。
②この時代の主な出来事
・寛元4年 後深草天皇が即位。
この時代の主な出来事
•1588(天正16)年:豊臣秀吉が長崎の教会領を没収する。
•1588(天正16)年:豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招き諸大名に忠誠を誓わせる。
•1588(天正16)年:豊臣秀吉が刀狩り令を出す。
•1588(天正16)年:天正大判・小判が作られる。
•1588年:イギリスがスペインの無敵艦隊をやぶる。
•1589年:フランスのブルボン王朝が始まる。
•1590(天正18)年:豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、奥州を平定してほぼ全国の統一が完成。
④この時代の主な出来事
•1601(慶長6)年:佐渡金山を直轄地にする。慶長大判・小判ができる。
•1602(慶長7)年:徳川家康が京都に東本願寺を創建し、本願寺が東西並立となる。
•1602年:オランダが東インド会社を作る。
•1603(慶長8)年:徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。
⑤この時代の主な出来事
•1620年:イギリスのピューリタンが北アメリカに移住する。
•1622(元和8)年:キリシタン多数を処刑(元和の大殉教)。
•1623(元和9)年:イギリスが平戸の商館を閉鎖し日本を去る。
•1623(元和9)年:幕府が家康の小姓原主水などキリシタン50人を江戸の芝で処刑。
⑥この時代の主な出来事
•1695(元禄8)年:金・銀貨を改鋳する。
•1695(元禄8)年:武蔵国中野などに犬小屋ができる。
•1696(元禄9)年:宮崎安貞の『農業全書』ができる。
•1696(元禄9)年:大阪の商人淀屋辰五郎が驕奢のため闕所となる。

横須賀市最古のぼんしょう
西來寺梵鐘
横須賀市市民文化遺産
横須賀市内に残る最古の梵鐘で、元禄九年(1696)十一月三日の銘あり。
「武州江戸深川住・・・藤原正次」と作者名が刻まれている。
鐘楼は平成二年に建て替えられた。



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category: 横須賀市

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源氏三代に仕えた金子十郎家忠  

金子十郎家忠陣屋跡碑
金子氏は、鎌倉時代武蔵野国狭山丘陵の周辺に本拠地を置いた武蔵七党の一つで、桓武天皇の流れをくむ村山氏に属していました。
入間郡金子郷(現埼玉県入間市)に居を構えた金子家範(かねこいえのり)が金子氏の祖となります。
その子金子十郎家忠公は保元の乱(1156)には源頼朝の旗揚げに畠山氏とともに、平家側として衣笠城の三浦氏と戦い、その折このあたりに陣屋を構えました。
平治の乱(1159)には平重盛を倒し、源平合戦では、義経を総大将とする一谷の合戦に、三浦介義澄、畠山重忠、和田義盛らと共に家忠も参戦したと「平家物語」(巻第九)に記されています。
金子十郎家忠公は頼朝、頼家、実朝の源氏三代に仕え、その勲功に対し幕府より多くの領地を受給しました。
「陣屋」とは大将が戦略をたて、兵士に出陣を命ずる軍営のことです。
蜻蛉(とんぼ)は村山塔、金子氏の家紋です。
出典 設置碑文より

金子十郎家忠公顕彰碑

金子十郎家忠陣屋跡石碑の由来
治承四年(1180)八月、源頼朝の源氏再興の旗揚げに、三浦半島を根拠とする三浦一族は、頼朝に味方し、軍を石橋山に進めました。ところが、途中嵐に出会い、参戦することが出来ず引き揚げる折、鎌倉にて平家方、畠山重忠の軍と合戦となりました。
戦は三浦方の勝利のまま本拠衣笠城に戻りましたが、ふたたび畠山方の攻撃を受け衣笠城の攻防が始まりました。
このとき、畠山方に加わった村山党の金子十郎家忠が、この地に陣を構え衣笠城を攻めたといわれています。
この陣屋跡は、この謂れに基づき大将十五年、金子堅太郎氏が整備したものを区画整理事業に伴い、この場所へ移設したものです。
横須賀市衣笠・太田和土地区画整理組合

金子家の家紋

金子十郎家忠公関連記事は、下記の赤字をクリックしてください<
腹切りの松
金子十郎家忠公とはどんな人か(外部リンク;「そこに城があるから」)



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阿部倉諏訪神社  


祭神:建御名方命
創立:年月不詳
阿部倉の鎮守で「風土記」に下平作村には、上諏訪社と下諏訪社の二社があると記されているが、この諏訪神社は上諏訪神社であろうと思われる。また「老松一株立てり」とあり、この松は阿部倉七不思議の「神明の相生の松」で御神木であったが、安政年間(1854~1859)頃に枯れた。
この巨木の枯れたのを惜しんで、関口佐兵衛治が「帝釈天王奉賽碑」を明治二十二年(1889)巳丑六月二十三日に建てた。
出典 「三浦半島の史跡を訪ねて」 横須賀郷土史研究会著



「帝釈天王奉賽碑」

阿部倉七不思議については下記の赤字をクリックしてください
阿部倉七不思議



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剣崎神社  

この祠の真上は剣崎灯台



この中の札は「龍宮大神」と読み取れる

神社前から見る東京湾

剣崎の名前の由来・灯台については下記の赤字をクリックしてください
剣崎の名前の由来



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category: 三浦市

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鋒 (とがり)神社  

鋒 神社鳥居と社殿


製作年代:明治二十六年


力石



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桂小五郎と上宮田海防陣屋  

桂小五郎(木戸孝允は幕末の烈しい中で尊皇攘夷論を一貫し、幾度か生死の中をさまよった維新の英雄であろう。
桂小五郎が、相模御備場の戦士としてこの上宮田の陣屋に到着したのは安政元年(1854)①三月二十六日益田越中(長州藩)を上宮田海防陣屋総奉行が率いる一隊と共であった。時に小五郎二十一歳であった。その前年十二月七日相模警衛の任が決まると小五郎はいち早く手紙を妹の治子の許に「この度相模備場の警備に任じられた。異国船来航の烈しい時元より生死は期していない。いまこそ君恩に報いる時がきた。はたまた父の日頃の教えの如く国のため一命を捧げるつもりである。留守中のことはよろしく頼む」の遺書まで残したという。
ここ上宮田にきてからはペリー来航でだいぶ騒いだあとで嵐の後の静けさか、手持ち無沙汰でもてあましていたらしい。警備の傍ら、激剣や武術に励むが、暇さえあれば酒を飲んでいたらしい。安政二年(1855)三月藩主の許しを得て江戸に勉学のため江戸詰めになることを願い出て、それが許されて上宮田を去った。
出典 「南下浦の歴史探訪記」 浜田勘太著

※ペリーが久里浜沖に来航したのは、嘉永六年(1853)のことである。

上宮田海防陣屋跡については下記の赤字をクリックしてください
上宮田海防陣屋跡

の頃の時代背景
•1854(安政1)年1月:ペリーが軍艦七隻を率いて再び浦賀沖に来る。
•1854(安政1)年3月:ペリーと日米和親条約を結び、下田・箱館の2港を開く。
•1854(安政1)年3月:吉田松陰がアメリカへの密航を企てて捕らえられる。
•1854(安政1)年7月:日章旗を日本国総船印に定める。
•1854(安政1)年8月:日英和親条約を結ぶ。
•1854(安政1)年12月:日露和親条約を結ぶ。



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久里浜花の国ふもとの薬師堂跡  

右から二番目の角柱側面に「薬厳寺」の文字が・・

横須賀市久里浜薬師堂跡
平成三年(1991年)この山裾に数基の墓碑が散乱しているのが発見された。横須賀市教育委員会の調査で薬師堂があったことが推測できる。
右から二番目の角柱の側面に「薬厳寺」の文字があり「三浦古尋録」には「飛井薬師堂昔シハ大寺ノ由申ス」とあり・「丘ノ上二アリ関十三州が見渡セル」との言い伝えもあった。
廃寺となりその跡に避病院が建てられた。昭和十七年(1942年)頃より海軍軍需部の倉庫地帯となって薬師堂のあった場所を特定できなかった。しかし貴重な発見であった。
ご本尊「木像薬師如来立像」は久里浜伝福寺に安置されている。一木造、像高六十八.五糎、肉身部は綺麗に彫られ金泥が塗られているが、着衣部はあたかも風化したかのような素木状で特殊な像である。

出典 久里浜地域文化振興懇話会





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源頼朝・政子が参詣・・・住吉神社  

住吉神社

旗掛けの松があった裏山頂上付近

創建:年代不詳、吾妻鏡・相模風土記等により、約千年前と想定されます。
御祭神;中筒之男命(なかつつのおのみこと)、金山毘古神・天照皇大神・表筒之男命・素戔嗚尊
御神徳:禊祓(除災招福)、航海、漁業、産業貿易、和歌の祖神として仰がれ、広くあまねく崇敬されています。
例大祭:現在では七月末の日曜日

三浦一族と源頼朝の関係(吾妻鏡による)
三浦一族の水軍の船霊として信仰され、治承四年三浦義澄は、衣笠城々洛の前夜、一族郎党を引き連れ、栗濱大明神(現、住吉神社)に祈願、山頂の松に幟を立て(旗掛けの松)源頼朝と共に房州に渡る。
寿永元年八月、頼家誕生に佐原十郎義連を使者として御馬を奉納。
文治元年一月、源頼朝、政子と共に参詣。
建久六年十月、北條五郎時連等が参詣

境内社:稲荷社、倉稲魂命、商売繁盛、家内安全、幸神社、猿田彦命、交通安全

出典 住吉神社





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大蛇のしくじり  

大蛇が住んでいたといわれる山

横須賀市の長沢海岸に三ツ磯と呼ばれる岩場がある。
むかし、長沢の本行寺という寺の裏山に雄の大蛇が住んでいた。
長沢の海の向かいは房州の鋸山(のこぎりやま)である。鋸山には雌の大蛇が住んでいた。
長沢の大蛇はなんとかして向かいの鋸山に行きたいと考えていたが、何しろ金田湾は広いし、浦賀水道は潮のながれがはげしくて泳いで渡る自信がない。
長沢の大蛇は山から海に大きな石を運んで、石伝いに渡ることを思いついた。
本行寺の奥山から大きな石を担ぎ出して、それを海に運んだけれども、あまり石が大きすぎたのでついに途中で投げ出してしまった。
長沢海岸の三つ磯は大蛇の運んだ石だったと言われる。
寺の裏山には大蛇が住んでいたと言われる「大根石」もある。
大蛇は浅間様の使いであったかもしれない。
海の向こうののこぎり山

長沢海岸沖の三ツ磯

大蛇が住んでいたといわれる大根石
出典 「三浦半島の民話と伝説」 菊池幸彦著

大根石と思われる石は、久里浜霊園の裏山にある。



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瘡守稲荷(かさもりいなり)  

              
瘡守稲荷
山内勧請の稲荷尊は、宝暦四年(1754)①第十世日性、霊感により妙王自在天を山内鎮護と村内守護の厄除稲荷尊として小庵を建て勧請する。
文化元年(1804)②郷土力士岩男浪(浦賀は荒巻の住人、本名浅葉磯吉)が関西相撲との一戦を目指し、日夜稽古に励んでいたが、悪病に罹り、力も落ちてしまった。村人も心配して大蔵寺のお稲荷さんに御願いしたらと勧められ、三七、二十一日お籠りをして祈願したところ、満願の日に元の体に戻り関西相撲に勝つことが出来た。
岩男浪は心願成就の報恩のため京に上り、伏見稲荷に参詣し、正一位の神位を受け(文化元年七月)三浦に持ち帰り大蔵寺に奉納しました。
その神位宣下の中に「瘡守」の二字があり、以来正一位瘡守稲荷妙王自在天として不思議なご利益があるお稲荷さんとして横須賀をはじめ、全国に尊信を集め、当病平癒、家内安全、商売繁盛、交通安全等々の祈願に参詣者が絶えない。

の頃の時代背景
•1754(宝暦4)年:山脇東洋・小杉玄通が日本ではじめて囚人の死体解剖を行う。
•1754(宝暦4)年:薩摩藩が木曾川の堤防工事に着手。
•1755(宝暦5)年:安藤昌益の『自然真営道』ができる。
•1755(宝暦5)年:東北地方で大飢饉がおこる。
の頃の時代背景 
•1804(文化1)年:ロシアの使節レザノフが長崎に来て通商を求める。
•1804年:ナポレオンが皇帝になる。ナポレオン法典が制定される。
•1805(文化2)年:幕府が北辺警備の強化に力を入れる。
•1805(文化2)年:イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ人を捕らえる(フェートン号事件)。



閑静な住宅街に建つ瘡守稲荷



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厄除けの槙(まき)  

本堂

当山は天文二十一年(1552)①三月、妙応院日然、現在地の南字、明登山の麓に小庵を建て、立正安国の法華経弘道の道場とされた。
その後、永禄二年(1559)②十月第三世智教院日昌、堂宇を現在の栄地谷(えいじやと)に建立し、山号を明登山、寺号を大蔵寺と命名し今日に至る。
出典 大蔵寺

の頃の時代背景
•1549(天文18)年:フランシスコ・ザビエルが鹿児島でキリスト教を伝える。
•1550(天文19)年:ザビエルが山口・京都で布教。
•1551年:オランダ人がマラッカを占領。
•1551(天文20)年:勘合貿易の廃絶。
•1553年:明の王直が倭寇の題目として浙江地方を荒らし回る。
•1553(天文22)年:信濃の川中島で武田信玄と上杉謙信が戦う(川中島の戦い:この後1564年までの間に五回戦う)。
の頃の時代背景
•1558年:イギリスのエリザベス一世が即位。
•1559(永禄2)年:織田信長、上杉謙信がそれぞれ入京、将軍義輝に謁する。
•1560(永禄3)年:織田信長が尾張の桶狭間で今川義元を破る(桶狭間の戦い)。


二代目槙(まき)
厄除けの槙宝暦四年(1754)当山十世日性上人が霊感により、三内鎮護と村内守護も厄除け稲荷尊を勧請した折植えられたと伝えられ、二百四十余年の間ご参詣の皆様をはじめ、当山の移り変わりを見守りし、御神木槙の大樹(鎌倉と三浦半島の古木名木五十選の木)
平成八年(1996)九月の台風により根こそぎ倒壊しました。
この槙の木は大樹の実が山内に落ち成長した木で、これから大樹に代わりご参詣の皆様を見守り続けるでしょう。
出典 大蔵寺



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三界萬霊塔  

三界万霊塔とは、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、次のような意味を持っている。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。



拡大写真

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聖徳寺  

聖徳寺本堂

六地蔵尊

公郷山大多津院聖徳寺と号し、浄土宗で鎌倉光明寺の末寺である。
本尊は三尊弥陀を安置する。
弥陀は阿弥陀如来、その左右にひかえる脇侍即ち観音菩薩と勢至菩薩の三体の三尊である。
中尊の阿弥陀如来は像高二尺六寸、脇侍の各像高は一尺五寸安阿弥作という。
また千手観音は像高八寸四分、太田和平六の守護仏という。
文和二年(1353)①の草創で開山は静蓮社寂誉という。
開基は永島庄六郎正徳で、現在も当家は聖徳寺登り坂に赤門と称する長屋を保持し、昔から田戸庄と呼ばれて三浦における名高い旧家である。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著

この時代は、南北朝時代で、文和は北朝方が使用した元号である。
特に大きく目立つような出来事はない

赤門へは下記の赤字をクリックしてください
赤門

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日蓮のこもった岩窟  







猿海山竜本寺は日蓮宗金谷山大明寺の末寺である。
本尊は日蓮上人で、この像は房州小湊の誕生寺を建立した中老日家の作という。
日蓮は30歳のとき建長三年(1251)十一月安房に帰り、翌年ふたたび鎌倉に帰る途中、保田の南無谷から船で三浦半島に渡るとき突風が起こり、風波のために小船は木の葉のようにゆれ、その上船底に穴があいて浸水し、大変苦労された。そのうち風波もしずまって公郷村の豊島(今の猿島)に漂着した。
そのとき一匹の猿が現れて道案内をし、それよりこの島を猿島と呼ぶようになったという。
この海底は岩礁が多く船も思うように進まず大変苦労された。このとき公郷村の住民石渡左衛門尉が日蓮を背負って海岸に渡った。
石渡さんはそのときサザエで足を切り血が流れた。日蓮はそれを見てお祈りすると血も止まった。それからサザエの角も無くなったと云い、いまでも米が浜の角無しサザエと言って有名である。
お寺には船底の小穴に吸い付いて海水の侵入を止めたアワビと角無しサザエが宝物として安置されている。
本堂の近くに岩窟があって、この中に日蓮は二十一日間おこもりになり、この間近所の人に御説法をした。人々はさっそく草庵を建てて御浦法華堂と呼んだ。これがのちの龍本寺となった。御浦法華堂はやがて鎌倉の法華堂と合わせて一人の住職に守られてきたが、後に金谷(かなや)に移されて今の金谷山大明寺となった。
龍本寺は大明寺の末寺として弘安二年(1279)に創立された。
出典 「美浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著

洞窟は崖を這うように造られている階段を下りたところにある。


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山中に「両面地蔵」  

[

この石の左右に地蔵様を彫ってある



現世と来世の衆生の苦を救ってくれる仏として表現されたもの
出典 「三浦半島の史跡を訪ねて」 横須賀郷土史研究会著
両面地蔵については下記の赤字をクリックしてください
宗円寺の両面地蔵



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