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歩けば見つかる小さな歴史 ホーム »2013年05月02日
2013年05月の記事一覧

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ひよどり越え一番乗りはこの武将  

佐原十郎義連居城の跡

佐原城
康平六年(1063)、前九年の役の戦功により三浦半島を領地として与えられた平太夫為通は、三浦の姓を名乗り現在の衣笠町に衣笠城を築きました。
以後数代にわたり三浦半島の各所に一族を配置して衣笠城の守りとしました。
この台地は第四代三浦大介義明の子佐原十郎義連が城を築いたところと伝えられています。
現在、この台地を中心に残ってる地名に的場、射矢谷、殿騎、城戸際、駿馬入、腰巻などがあり、自然の地形を上手に利用して山城を築いた当時の様子を忍ばせてくれます。
この台地の前方、北から東にかけての地域は、現在では内川新田と呼ばれ、工業団地になっていますが、当時は深い入江になっていました。
この入江を挟んで、対岸に怒田(ぬた)城があり、この佐原城とともに衣笠城の東面を固めていました。
またこの台地は、昭和51年の一部発掘調査で弥生時代中期(約二千年前)から飛鳥時代(約千四百年前)に掛けての村の跡であることも明らかになっています。
七、八軒の農家があってこの谷戸付近に初めて水田を開発し、稲作農業を営んでいたと考えられます。
(横須賀市)

正面の樹木に囲まれて碑は建っている

佐原十郎義連のひよどり越え
佐原十郎義連はここに居城を構えて佐原姓を名乗った。
当人は、身の丈2.25mの偉丈夫で、腕力にすぐれ弓の名人であった。また性沈着で思慮深く人望があった。
将軍源頼朝を三浦に招いての歓待の宴会の最中、上総介広常と義連の叔父の岡崎義実との間にいさかいが起こり、あわや刃傷沙汰に及ぼうとしたとき、わずか16歳の義連が進み出て先ず叔父の義実を叱り、次に広常を諌めてその場を収めた。
義経に従って平家追討に加わり、ひよどり越えのとき、崖があまりにも険しく諸将が落ちるのをためらっているところへ義連が進み出て「我が三浦ではこれは馬場と同じ、毎日毎夕駆け回っている」と叫んで真っ先に駆け下りた。

佐原義連の墓へのリンクは下記の赤字をクリックしてください
佐原十郎義連の墓



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網にかかった太子像  

太子山聖徳院

20130502003.jpg太子像海中出現の碑

この寺は太子山聖徳院と云い、日蓮宗である。
この本尊「太子像」については次のような話が伝えられており、地元の人は「佐原の太子様」と呼んでいる。

今から三百年ほど前の元禄二年(1689)六月のある日に、千駄ヶ崎の海の中に不思議な光の輝きを里の漁師が見つけた。気味悪く思った漁師は、誰一人近づこうとする者はなかった。里人は相談の上、勇気のある者が選ばれて沖に網を入れることになった。
五人の漁師が勇気をふるって網を入れると、網にかかったものはなんと聖徳太子の像ではないか。
漁師たちはあまりにすばらしいお姿に驚き、伏し拝んだ。
さっそく里人とともに海辺に小屋を建てて太子の像を祀った。
ところが、小屋の沖合いを通過する船がよく転覆する。すると誰が言うとはなしに、それは太子さまの像がたたっているのではあるまいかといううわさが広まった。それに加えて海は時化(しけ)て不漁つづきであった。
その頃毎晩のように漁師の夢に太子が現れて「この土地の奥に太子山という聖地がある。そこに私を置いてくれ」というのであった。
夢のお告げを受けた漁師は、みんな寄り合って夢のお告げを話し合い、聖地を探して歩くことになった。
ようやく探し当てた所は今の太子堂のある佐原であった。
その話を伝え聞いた小林勘五郎、福田縫五郎という二人は村人たちと相談して草堂を建て、ここに太子像を迎えて祀った。
出典 「三浦半島の民話と伝説」 菊池幸彦著

横須賀鳶組合の慰霊碑



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