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日本最古の築港遺跡  

細長く平らな和賀江嶋
細長く、平らな島が国指定史跡で「和賀江嶋」(わかえのしま)であり、写真後ろの薄い島影は江ノ島である。
また和賀江嶋は、日本に現存する最古の築港遺跡でもある。

この辺りは、遠浅で荷の上げ下ろしが難しく、大風や波浪で難破する船が多くあったことから、貞永元年(1232)に勧進層の往阿弥陀仏が港を造ることを幕府に求め、第三代執権北条泰時の援助を受けて完成したことが{吾妻鏡」に記されています。
その際、石材は相模川や酒匂川(さかわがわ)、伊豆半島海岸など遠くから運ばれてきたと考えられています。
この付近は和賀江津と呼ばれ、中世都市鎌倉の海の玄関口として、海上交通や物流の拠点となっていました。
江戸時代までは修復されながら利用されていましたが、潮の流れや災害などで石が散乱しており、築造時の姿はわかっていません。
現在も普段は海没していますが、干潮時には正面に島状の石積みが姿を現します。

出典 鎌倉市教育委員会




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category: 鎌倉市

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鎌倉にもあった六角の井(矢の根井戸)  

六角の井

別名「矢の根井戸」と呼ばれるこの井戸は、鎌倉十井の一つである。
またここの伝説と同じ話が三浦剣崎灯台下にも、矢の根井戸と伝説が伝わっておりこのページ下に剣崎矢の根井戸へのリンクを張りますので、あわせて読んでください。


この矢の根井戸端は八角あり、そのうちの六角が鎌倉の分、二角の分が小坪分(逗子市)といわれています。
矢の根井戸と呼ばれるゆえんは、昔強弓の名手といわれた源為朝が伊豆大島に流されていたときの伝説にまつわるものです。
ある日、なすこともない島の生活に飽き飽きした為朝が、退屈しのぎの気持ちもあって、自慢の弓勢が気にかかり、弓を引く力が鈍ってはいないだろうかと思い、試しに懐かしい鎌倉の材木座にある光明寺をめがけて力いっぱい遠矢を放った。
すると矢はうなりをあげて飛び、遠く相模灘を越えて鎌倉の海辺近くまで飛んでいったが、人畜に被害を与えることをおそれた矢は、飯島崎にある六角井戸の中におちた。
矢が六角井戸に落ちたのを見ていた村人は、海を越えて飛んできたこの矢を井戸の中から取り上げてみると、それは弓の名人として聞えた為朝のものであることがわかった。
しかし、為朝はそのころ伊豆の大島に流されていたのだから、その矢は遠い大島から放されたものであることがわかった。
だが、拾い上げた矢を検めてみると先端についてるはずの矢じりがない、不思議に思って村人がさらに井戸の中をよく見ると、矢じりだけが別に井戸の底に沈んでるのが見つかったので、それも取り出そうとしたがどう工夫しても取ることができなかった。
そこである日、井戸水を全部かいだして為朝が放った矢じりをひろい、ちかくにある神明社に奉納した。
ところがそれからというもの六角井戸に水が溜まらずとうとう井戸は枯れてしまった。
困った村人たちは早速奉納した矢じりを払いうけ、ふたたび六角井戸に戻したところ、元のようにこんこんと清水が湧き出したという。
しかもこの六角井戸は海岸のすぐ近くにあるのに、少しも塩分を含んでいないのはこの矢じりのお陰だといわれている。

出典 「三浦半島の伝説」 田辺悟著

小屋の中に井戸がある

深さは判らないが、水が溜まっている井戸

三浦市に伝わる矢の根伝説については下記をクリックして下さい
三浦市剣崎灯台下にある矢の根井戸伝説




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category: 鎌倉市

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鎌倉市内の商店前で・・・・  

鎌倉市内商店街で・・・

category: 鎌倉市

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ボッケ崎・・・じつは・・・  

ボッケ崎(左側民家のある付近)
三浦海岸駅から歩いて40分位のところに位置する岬は、山肌が切り立ったまま海中に突き出たところで、ボッケ崎と呼ばれているところである。
昔、源頼朝が郎党と狩の道すがら、この岬に来たのが夕方で、夕日の輝く金田湾の美しさに心を打たれ暮景崎と名づけ、その後もたびたび遊覧した地であるという。
岬先端の小高い地(ホテル隣の空き地)に祀られている金毘羅さまの祠と、国道脇の崖の穴にたたずむ文化五年の諸国巡礼供養塔に昔を偲ぶのみとなっている。

出典 三浦観音みち 辻井善弥著

ボッケ崎の先端部の海

ぼっけ崎にある小さなこの丘に祠がある

崖下洞窟にある祠

ぼっけ崎近くの国道脇にある供養塔
右の塔が、文化五年の銘がある「諸国巡礼供養塔」である。



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地図①は祠のある小山 地図②は崖の供養塔

category: 三浦市

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出家のために顔に火箸を当てて・・・慈眼寺  

道路から見た慈眼寺山門

慈眼寺本堂

道元禅師の創立した越前(石川県)の永平寺が総本山であり、神奈川県では横浜市の総持寺、南足柄市の最乗寺等である。
当寺は曹洞宗で最乗寺の末寺であり、山号は大雄山と号す。
本尊は十一面観音菩薩で応永年間(1394~1428)1400年ごろ創立されたと伝えられる
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著

当寺に設置してある顕彰碑から抜粋
大雄山慈眼寺は小田原の道了さんとして有名な大雄山最乗寺の直末寺院で曹洞宗に属します。
本尊は、十一面観世音菩薩です。御開山は最乗寺の開祖である了庵彗明禅師の妹にあたる華綾彗春尼さまで、応永年間(1400年ごろ)に開かれた寺院です。
大雄山の山麓に摂取庵・正壽庵・慈眼庵の三格庵があり、その三格庵の開祖彗春尼様はすばらしい美人だったそうです。
出家するためにやけ火箸を顔にあてた話(後述)で有名であり、その後了庵禅師の弟子となり、悟りを得られ身を焼いて入寂されました。
・・・・以下省略・・・・・


慧春尼とは
華綾慧春(かりょうえしゅん)。
南北朝時代の曹洞宗の尼僧。
生年は不詳、没年は1402年とされるが、1408年や1411年という記述もある。
相模の糟谷の人で、小田原・最乗寺の了庵慧明の妹。
30歳を過ぎた頃に兄の元で出家。
晩年、最乗寺三門前の石の上において柴棚を組んで自ら火を放ち、その中で座禅を組んで火定した。
五月二十五日のことであったという


慧春尼のエピソード
慧春尼は三十歳を過ぎた頃、兄の了庵禅師に出家を願ったが許されなかった。
黙って退いた慧春尼は顔を火鉢で縦横に焼き、兄の元に戻って「古人法を求むるに身命を惜しまず。我れ今形骸を枯木にす。請ふ出家を許せ」と再び願った。
兄の了庵はやむなく許したという。

慧春尼は美貌であったとされ、多くの男に付き纏われたが少しも構うことはなかったという。
顔を焼いて出家した慧春尼であったが、それでも若僧から恋焦がれ、寝床に這いこんで来たその僧に泣きながら口説かれたので、慧春尼は「これ易事のみ。我と汝は僧であるから、交わるならば尋常のところはよしましょう。私に考えがありますから、その期に及んでは拒んではいけません」となだめて帰した。
その数日後、了庵上堂の大会の日、慧春尼はわざと性の大事について人々へ法問を向けた。
誰もが、偉そうに構えながら性のことに触れると口しぶる。
そこで慧春尼は、先夜の若僧の名をさして「論議では埒があきません。先の夜、御僧がお望みであったお約束事を、ここで果たそうではありませんか。さあお進み下さい」と、禅床の真ん中へ出て衣を解きかけた。
若僧はその場から逃げ出したのみならず、山からも姿を消してしまったという。

ある時、了庵禅師は円覚寺に用事があって山内の者に使いを頼もうとしたが、円覚寺に行くとやり込められるので皆恐れをなして行こうとする者がいない。
そこで、慧春尼は自分が行くと名乗り出て一人円覚寺に向った。
禅門の慣例で一山の大衆が山門に迎列して法問答を行なうことになっており、平素、慧春尼の機鋒を知っていた円覚寺の僧たちは不意に出てその鋒を挫かんと待ち構えていた。
やがて慧春尼が石段を登ってくるのを見かけると、ひとりの禅僧が前へとすすみ、いきなり法衣の裳を高く捲し上げ、「老僧が物、三尺」と大喝した。
これに対して慧春尼は平然として、彼にならって自分の裳を高く翻し「尼が物、底無し」と喝破した。
相手の僧は茫然とし、他に問う者もいなかったという。

慧春尼が火定した時、兄の了庵禅師が驚いて駆けつけ「尼よ熱きか」と叫んだ。
これに対して慧春尼は烈火の中から「冷熱は生道人の知る所にあらず」と答え、恬然として火焔裏に化したという。


慧春尼についての記述は、WEB「語彙辞典」より転載


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category: 横須賀市

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鎌倉での立教開宗の前に・・・本円寺  

本円寺山門と本堂
建長五年(1253)日蓮上人は、故郷房総の清澄山を降りて、鎌倉へ立教・開宗をなさんと、海を渡り横須賀の米ヶ浜に上陸し、衣笠から木古庭に差し掛かり、村人に教を広めんと、ここに草庵を結び滞在したと伝えられる。
そして法華の道場として本円寺の開基となり、延慶三年(1310)日蓮上人の弟子、日印上人によって開山となった。
本寺は朱印三石の由緒をもつ名刹で、日賢上人により再興されたが、大正八年に火災、現在の建物は大正十二年に再建されたものといわれる。
この寺から、池上方面に向って急坂(高祖坂)を登ったところに高祖井戸がある
リンク先はこのページ下にあります。
法塔

上行菩薩

文殊菩薩

普賢菩薩

高祖井戸へは、下記をクリックして下さい
高祖井戸



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category: 葉山町

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爪彫り地蔵  

爪彫り地蔵
昔、横須賀市不入斗(いりやまず)の道端に弘法大師が爪で彫ったという背丈ぐらいの地蔵が祀られていた。この地蔵は不入斗の名木といわれる大きな桜の木に抱えられていた。
夜桜見物のころは地蔵に供える花や線香、おだんごが絶えなかった。
ところがどうしたことか、この地蔵の前を馬に乗ったまま通ると、かならず落馬したり病気になったりした。
村人は相談の上で地蔵のある場所があまりに道端であり、煩いところでもあるので、静かな場所に移すことになった。ところが地蔵が移された後、桜の大木は日ごとに弱々しくなって枯れてしまいそうになった。
明治二十三年陸軍重砲連隊が不入斗に置かれることになって、桜の大木はふたたび地蔵のそばに植え替えられた。
一時は枯れるかに思われた桜の木は、ふたたび元気を取り戻して地蔵を守ったという

出典「三浦半島の民話と伝説」 菊池幸彦著

爪彫り地蔵といっしょに祀られているお地蔵さん


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category: 横須賀市

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枯れることのない井戸水・・・高祖井戸  

高祖井戸

これが日蓮上人ゆかりの高祖井戸である。
この井戸は、バス停から登る急坂の右側の、竹・樹木の生い茂る施米山道を少しおりて、竹林の続く斜面の奥に、ブロック造りの囲いに覆われた半円形の井戸で、上人の加持水、硯水の法人により、水はいつも枯れることなく、こんこんと湧出している。

出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

なお、この近くには本円寺がある。
高祖井戸への案内板
あまり目立たない案内板であるので、見落としのないように注意してください

右側竹林を見ながら歩くと、奥に井戸がある
案内板から入ると、右側竹林で、道は狭く注意して歩いたほうがいい
井戸脇に建つ法塔



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本円寺へは下記をクリックしてください  
本円寺

category: 葉山町

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五郎橋にはこんないわれがあった!  

五郎橋
五郎が淵
三浦大介は、蛭ヶ小島の配所に居った源頼朝を案内して、久比里(現在の横須賀市久里浜と浦賀間)付近を逍遥し、とある民家に入って中食の割籠を開いた。
そのとき大介の郎党である岩戸五郎が漁夫からもらった一匹の鯉を傍らの岩をまな板代わりにして料理しようとした。ところが五郎何を思ったのかこれに一刀を加えるや急に「源家の再興を占はん」とばかり、この鯉を平作川にポンと放った。
一同もこの鯉の行動を見守った。
ところがその鯉は揚々として勢い良く川上へ川上へと泳いでいった。
頼朝は大介と顔を見合わせて微笑した。
この鯉が泳ぎ止った森崎の岸を五郎が淵と呼び、現在でも五郎橋として残っている

出典 三浦半島の口碑伝説100選 横須賀文化協会

五郎橋から久里浜方面(下流)を望む



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category: 横須賀市

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追浜のお祖師さま  

山門から本堂を見る

法福寺本堂
日蓮宗で、横須賀市金谷の大明寺の末寺である。
本尊は一塔両尊(塔中の妙法蓮華経とその左右の釈迦牟尼仏、多宝仏をもって一塔両尊という)と日蓮上人である。
開基は田中伊豆守で文明十一年(1479)に創建したと伝えられる。
開山は明鏡院日応上人である。
什宝は本尊両尊像(木像三躯)、宗祖像(木像)、鬼子母神、十羅刹女(じゅうらせつにょ)、「法華経」陀羅尼品に解く仏教の守護神で十種の羅刹女「妖鬼の女」
参考までに十羅刹女は
1.藍婆(らんば)よりかかっているの意、人食い鬼、後に仏教の守護神となる。
2.毘藍婆(びらんば)羅刹女の一人 寄りかかっているのを離れるの意
3.曲歯(きょくし)
4.花歯(かし)
5.黒歯(こくし)
6.多髪(たはつ)
7.無厭足(むえんそく)もうこれでいいといって満足することがない
8.持瓔珞(じようらく)ようらくはインドの貴族が使う珠玉を連ねた首飾り、玉を連ねた仏像、仏殿の装飾品
9.皐帝(こうてい)
10.奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうけ)すべての生けるものの気力を奪う鬼女

出典 三浦半島の仏教寺院と神社 高木俊雄著
門前に建つ法塔(写真やや左億が法福寺)
法塔(題目供養塔)
自然石に「南無妙法蓮華経」と刻んだ法塔で宝暦三年(1753)、日蓮聖人の立教開宗五百年にあたるため記念に建立されたものであろう

出典 「法福寺誌」より抜粋

category: 横須賀市

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奥方の菩提寺・・・良心寺  

山門から本堂を望む
朝倉能登守景澄入道犬也は戦国期小田原北条氏の家臣で、鎌倉の玉縄城十八人衆に属し、浦郷村追浜(横須賀市追浜)をはじめ、伊豆や上総に所領を持つ武将でした。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのときは、箱根の山中城を守りました。
この能登守が夫人の菩提を弔うため、開基となり夫人の法号を寺号として良心寺を建立したと伝えられています
  横須賀市教育委員会
朝倉能登守室墓
横須賀市指定史跡
この墓の形態は宝筐印塔(ほうぎょういんとう)といい、総高は二メートルを越えます。基礎正面に「当寺建立 大旦主大慈院殿法誉良心大姉朝倉能登守奥 天正十一年未六月十一日」の刻銘が見られる。
ただし建立年代は宝筐印塔の形式から江戸時代初期と考えられます

(横須賀市教育委員会)

墓域


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category: 横須賀市

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凶作で犯罪者が急増・・・首切観音  

首切り観音
横須賀市追浜南町には、崖下にお堂のような小屋がわずかな平地に建てられ「首切り観音」といわれる石塔が祀られている。
木像の小屋には、崖の絞り水がポタポタと垂れ落ち、どことない寂しさにかられ、つい手を合わせてしまった。
首切り観音碑は、国道16号に並行し京急追浜駅から田浦に向う線路沿い右手に位置している。
天保年間(1830~1843)のころ、全国的に干ばつが続き頻繁に飢饉が発生した。
この厳しい生活に冷害も続き凶作となり、百姓一揆や打ちこわしなどの事件が起こり、浪人や無頼の者が増加したようである。
浦郷村(追浜)も同じありさまで、犯罪が横行し捕らえられた犯罪者は浦郷陣屋で裁かれ、処刑された者もいたと思われる。
大正末期に国道31号(現在の16号)の工事の際、首上の頭がい骨だけが十数個発見され、地元住民が供養碑として石塔を建てて供養したそうである。
中央は、首切観音と彫られた石塔で昭和三年に建立され、左は「南無阿弥陀仏」右は南無妙法蓮華教」と彫られ、銘文に天時天保の造立とあり、江戸時代からあったものらしい。
毎年九月のお彼岸には南町協力会により供養祭が行われている。

出典 神奈川新聞地域版 (前追浜行政センター館長・青木 猛


    

切り観音碑といっしょに祀られている



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category: 横須賀市

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おりょう終焉の地  

坂本おりょうの像明治維新の志士坂本龍馬の妻であった「おりょう」の住んでいたところが、横須賀市内にある「おりょう会館」の近くです。龍馬没後は、おりょうは各地を転々として、その存在すら忘れられていましたが、流転の果て明治のはじめ頃、末妹道江を頼り、横須賀に住むようになったといわれています。現在の横須賀市二丁目の裏長屋(今は残っていません)に住み、貧困不遇の生活を過ごしていましたが、明治三十九年一月十五...おりょう終焉の地

category: 横須賀市

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淋しい場所に主従の墓域が・・・  

宮田四郎貞明主従の墓域

宮田貞明館跡

館跡に建つ祠

宮田貞明は「安楽寺」を建立したと伝えられる。
下記をクリックすれば、安楽寺へリンクします
安楽寺はこちらから




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category: 三浦市

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苔むした石段  

本堂へ通じいる石段(今は使われていない)

こじんまりした本堂

無人で中に入れないため、ガラス越しに撮影

真言宗古儀派、妙音寺末寺である。
本堂は庫裏本堂の平屋建てで、間口四間半、奥行き四間で、左側が庫裏である。
本堂正面が本尊の阿弥陀如来、その左が観音菩薩、右が不動尊である。
縁起によれば「古老の口傳によると、宮田太郎貞明がこの寺を建立した。貞享二年(1685)①本村田中喜左衛門が堂宇を再建して今の地に移すという、旧地は寺の両方に古屋敷と称する旧跡がある」span>
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著

①の頃の時代背景
">•1684(貞享1)年:大老堀田正俊が江戸城中で若年寄稲葉正休に刺殺される。
•1685(貞享2)年:将軍綱吉が最初の生類憐みの令を出す。
•1686(貞享3)年:熊沢藩主の『大学或問』ができる


六地蔵

なお、このお寺の裏手の畑に、この寺を建立したといわれる宮田貞明の菩域が建っている
宮田貞明関連記事はこちら



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category: 三浦市

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子供の成長を願い・・・・  


 
岩堀りの地蔵
横須賀市長沢六丁目の崖にある岩堀の地蔵昔は、七歳になるまでに亡くなる子供が多かったことから、その成長を願い祀られたものである。
銘文に山田次郎吉、山田金太郎の文字が見える



ごらんのように岩をくりぬいて、その中に納められている。



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category: 横須賀市

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街角にある祠、三浦帝釈天  

三浦帝釈天


三浦帝釈天は、平安後期から戦国時代にかけて、三浦半島を中心に勢力を誇示していた豪族・三浦一族、1253年房州から、この米が浜に辿り着いた日蓮聖人、聖人縁の石井長勝公とも深い因縁で結ばれています。
日蓮聖人が一ヶ月余り籠ったお穴さま、聖人、霊跡の龍本寺、三浦大本山・大明寺開基石渡左衛門など米が浜には数々の霊威と霊験が残る三浦半島最大の霊地であります。
かつて華やいだ米が浜の人々の活気は、今は昔となり、日蓮宗の修法師たちが米が浜の篤信の人々に乞われご祈祷し続けたところ、三浦帝釈天が湧出しました。
この地は元々観念寺と呼ばれていましたが、1889年に米が浜が埋め立てられ更に1926年頃まで数回の埋め立て工事が行われ、現在の市街地が形成されました。
この三浦帝釈天の出現は、日蓮聖人を助けた地元の石渡左衛門更に観念寺と呼ばれていた時代の米が浜の土地の因縁がもたらして出現した現代の護法の善人といえます。帝釈天は、悪魔降伏の尊形です。
私たちが心から祈りを捧げれば、病気平癒・家内安全・商売繁盛・財宝金銭・恋愛成就・学業増進・厄除けその他
一切の災難を払いのけ、帝釈天がかならず守護し災難を退散させてくれるご利益があります。
三浦帝釈天は、平和と活力を与え人々の魂に安らぎと希望をもたらします
開堂主 日蓮宗 楠山泰行

お穴さまは下記をクリックして下さい
お穴さま

category: 横須賀市

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横須賀はジャズの街  

京急横須賀中央駅前

category: 横須賀市

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御幸橋  

御幸橋
明治二十二年(1889)の横須賀線の開通後、明治天皇が横須賀に行幸されたとき、お通りになったので、その名がついたようです。
当時の記録によりますと、「御料ノ馬車ニ移ラセラレ停車場ヲ御発、御順序ナル湊町通リ左へ幸橋ヨリ汐留及ビ元町通リ左ヘ鎮守府ニ御着」とあります。
親柱に「大正四年」「御幸橋」と刻まれており、この年に改修され、それ以前は木製の橋だったそうです。
[横須賀市]
大正初年の汐留通り
この写真では醜いですが、右下角の辺りに欄干があります。





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category: 横須賀市

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おりょう終焉の地  

文字色坂本おりゅうの像
明治維新の志士坂本龍馬の妻であった「おりょう」の住んでいたところが、横須賀市内にある「おりょう会館」の近くです。龍馬没後は、おりょうは各地を転々として、その存在すら忘れられていましたが、流転の果て明治のはじめ頃、末妹道江を頼り、横須賀に住むようになったといわれています。現在の横須賀市二丁目の裏長屋(今は残っていません)に住み、貧困不遇の生活を過ごしていましたが、明治三十九年一月十五日、六十六歳この地で亡くなりました。
これを伝え聞いた海軍士官たちが同情して、金を出し合い墓を建てて葬ったということです。
墓は横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)にあります。

出典「よこすか中央地域文化めぐり」 中央地域文化振興懇話会編
下記をクリックすれば、おりょうの墓へリンクします
おりょうさんの墓

おりょう終焉の地を示す

おりょう会館
おりょうの像はこの会館の入口に、終焉の塔はこの会館の左側、歩道に建てられている



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地図右下「この地図の詳細」をクリックすればナビゲーションで歩行距離がでます。

category: 横須賀市

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御嶽神社と福徳稲荷  

御嶽神社本殿
御嶽神社扁額

[御嶽神社]
元禄二年(1689)に奈良県吉野山の蔵王権現を創めて勧請し、本殿は文政十三年(1830)、拝殿は享和元年(1801)に造営、明治維新には韮山役所より、御嶽社の秒号を授けられています。
御祭神は天香護山命(あまのかぐやまのみこと)。
拝殿の中に掲げられている安永年間(1770)の不入斗(いりやまず)の絵図面は極めて貴重な郷土資料です。




福徳稲荷
>[福徳稲荷]
この稲荷は、昭和十二年に左官辰五郎によって造られたもので、高さ一メートル弱の小さな社です。
中に木彫りのご神体が祀られています。
御祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)で農業の神様です。

出典 「よこすか中央地域文化めぐり」 中央地域文化振興懇話会編



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通り矢の大蛇伝説他  

通り矢の画像及び関連記事は下記をクリックして下さい
通り矢関連記事(1)
通り矢関連記事(2)

>[大蛇伝説]
城ヶ島から通り矢沖の海に住んでいた大蛇があるとき、おわたりをした。
するとその「大蛇」の通るときすさまじい音がし、ものすごい風がまきおこり、通った後は草がすごい範囲にわたってなぎ倒されていた。このあとを見た村人達はとても大きな大蛇であることを草が倒れた様子からうかがい、大変におそれた。


[城ヶ島の欲張り蛸とり漁師]
ある男が、通り矢と八景原の間の磯を、潮が引いたときに出かけた。
そして蛸(たこ)のとてつもない大きな足をとって帰ってきた。
その男は蛸を人々に分けたが、人々ははじめ気味が悪いと言って食べなかった。が一度食べてみるととても味が良かった。
翌日その男は潮の引いたときに同じ場所へ出かけ、その日も蛸の足を一本持ち帰ってきた。
翌日もまた翌日も、合計七本持ち帰った。
その男は八日目もまた行った。その日は本当なら蛸の足は一本あるはずだった、だがそれをとりに行ったきり、ついに男は帰ってこなかった。

出典 「郷土の研究第9号」 三浦半島郷土教育研究会編

category: 三浦市

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通り矢・・・その名前の由来  

通り矢の画像は下記をクリックして下さい
通り矢の名の由来

{名前の由来ーその①}
三崎は昔大変豊かな町だったが、ある年の秋、黒船が三崎目指してやってきた。
人々は、働けるものは、子供でも老人でも、女でも誰でも手に刃物や弓、その他の農具を持って山へこもり、海賊に打ち勝つように準備をしていた。
すると船から下りてきたものは海賊ではなく、きらびやかな衣服を着装した藤原資盈の一行であった。その資盈が
三浦三崎の人々から海賊のことを聞き、海賊を征伐するため、海賊と通り矢の沖で戦った。
そのとき海賊の放った矢が、今の通り矢にある岩の間をたくさん通った。そのことから「通り矢」の名前がついたという。

{名前の由来ーその②}
源為朝がある日、光念寺の正間から放った矢が、通り矢のトンビ山のてっぺんを突き抜けたので「通り矢」のながついた。
出典 「郷土の研究第9号」 三浦半島郷土教育研究会編

category: 三浦市

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ウォーキングブログデビューしました  

いつもこのブログ「歩けば見つかる小さな歴史」を読んでいただきありがとうございます。
このサイトは主に、歴史的・伝説的な話を取り上げていますが、このたび新しくデビューしたブログは、駅からウォーキング・ハイキングを楽しんでいただこうと企画作成するものです。
海岸のコース、里のコース、低山のコース・・・いろいろ取り上げて行きたいと思いますので、このサイト以上のご愛顧を御願いします。
なお、小さな子からおじいさん・おばあさんまで歩けるコース、或いは少しハードな距離もありますが、安全に気をつけて作成するつもりです。

まだまだスタートしたばかりで、内容は一件しか載せてありませんが、今後ともぜひご期待していただきたいと思います。

それでは、皆様行ってらっしゃい。下記のサイトをクリックすれば、新規サイトにリンクします。
歩いて三崎めぐり

category: 未分類

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横須賀軍港の表玄関  

この「逸見(へみ)波止場衛門」は、現在は横須賀市指定市民文化遺産に指定されている基地内に入る表玄関


旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰め所。
左右二棟あり、左側には「逸見上陸場」、右側には「軍港逸見門」と表示されている。
建築年代は明治末から大正初期と思われる。



門をくぐると、目の前に海上自衛艦の艦船が見える



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category: 横須賀市

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大震災遭難者慰霊碑  

大震災における横須賀市内の被害状況については、下記のリンク先をクリックして下さい
横須賀市ホームページ(関東大震災と横須賀市)

横須賀市汐入町2丁目の港町公園に建っています。
大正十二年九月一日の関東大震災による被害は、火災と崖崩れによるものが多く、特に二丁目の崖崩れで50人が亡くなりました。

出典「よこすか中央地域文化めぐり」 中央地域文化振興懇話会編

大震災遭難者供養塔

大震遭難追善地蔵尊

地蔵尊本体

地蔵尊を祀っている祠


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category: 横須賀市

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唖(おし)の天王様  

和田の天王については下記の赤字をクリックして下さい
和田の天王様

ここの和田(三浦市)の天王様にはこんな話が残っている。
どこの天王様でも祭礼といえば神輿の渡御でにぎやかなのが通例である。
ところが、和田の天王様に限って甚だ静かである。
それにはこんな云い伝えがある。
祭礼をにぎやかにやったところ、祭神の大仁天皇が御自分の唖(おし)を笑ったのだと勘違いして、里人に罰を加えたため、以来祭礼をひっそりと行うことにしたというのである。なお百年ばかり前に、天王祭を派手に行ったところ里に悪疫が流行した。
そこで里人は相談して翌年の祭りを止めてみることにしたところ、悪い病気が出ないですんだ。
それからというもの、天王様のにぎやかな祭礼は絶えてしまった。

<出典>「三浦の伝説と民話」 三浦市観光協会編



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category: 三浦市

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猫石  

猫石
猫石園の碑

宝永五年武山村太田和(横須賀市)の山田惣左衛門是重が宮田(現三浦市)の入り江に干拓工事を起こし、子の儀左衛門是次が遺業を継ぎ、親子二代三十年を費やして元文三年に完成した。
良米のとれる新田で人々は入江新田と呼んだ


新田の一角にふくれた岩が猫の寝姿に似ていることから猫石と呼ばれている。傍らの草むらに猫石園と書いた碑がある。
猫石は幅二メートル、長さ五メートル位の自然石である。
この猫石の由来は二つの願いが込められて信仰となっていたようである。
1、猫とねずみの関係で、豊かな実りの豊作物がねずみに食い荒らされては大変である。それを猫石に守っていただきたいという願いである。
そのせいかこの近辺の部落にはねずみの被害が少ないということである。
2.猫石が百日咳(くちめき)から子供たちを守ってくれるという信仰である。
その昔、里の親たちは猫石を欠いて(けずって)守り袋に入れると百日咳にかからないと、石を欠いたそうである。調べてみると猫は百日咳にかからないようである。
偶然このような信仰が生まれたのか、猫が百日咳にかからないのにあやかるようにと信仰が生まれたのか、その辺は詳らかでない。
昔はずいぶんおまいりする人があったらしい

<出典> 
「三浦の伝説と民話」 三浦市観光協会編



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category: 三浦市

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旧軍港の玄関口JR横須賀駅  

JR横須賀駅
「汽笛一声新橋を」の歌詞で知られる鉄道唱歌に「汽車より逗子をながめつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集まりし/わが軍艦の壮大を」という一節があります。
明治二十二年六月十六日、大船ー横須賀間に開通した横須賀線の終着駅、横須賀駅開業当時の駅頭風景を上手に表現しています。そのころの横須賀は、現在右手に見える米海軍基地内に、明治十七年に設けられた横須賀鎮守府などの諸施設がある重要な海軍基地となっていました。一方陸軍も、明治十三年から観音崎をはじめとして市内の沿岸各所に着々と砲台を築いていました。しかし人員や物資の輸送は、横浜ー横須賀間の船便に頼っている実情でした。
明治十九年六月、陸海軍は、鉄道布設の必要性を記した請義書を海軍大臣西郷従道、陸軍大臣大山巌の名を連ねて総理大臣伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、翌二十年に測量を開始し、二十一年一月に工事を起こしました。工事費は、明治十九年から始まっていた東海道線建築費から四十万円支出しました。当初終着駅は、観音崎付近へとの要望がありましたが、更に五万円から十万円の予算を必要とするうえ、市街地を通さなければならない等の複雑な問題があり、現在地となりました。
現在の駅舎は、昭和十五年に新築されたものですが、大正三年に改築した駅舎の面影をよくとどめている貴重な建物です。
開業当時、汽車はおよそ一時間ごとに発着し、東京ー横須賀間に約二時間を要しました。客車は一・二・三等とあり、煙突の長い機関車がそれを引きました。三等運賃は三十九銭で、当時の米価が一升十一銭前後でしたのでかなり高かったようです。乗客数は、明治四十年ごろで一日平均千八百四十三人と記録されています。
横須賀ー久里浜間は、軍の求めにより、昭和十九年四月に開通したものです。
<横須賀市>

この艦船は海上自衛隊護衛艦「きりしま」です。


いまや横須賀の名物「海軍カレー」のマスコット「スカレー」です。

安針塚山への道標
横須賀駅前の線路脇に建っている道標です。
表面には、「安針塚山へ約十五町」
横には、「大正十年二月」
後ろには、「WILLIAM ADAMS TOMB]とあり、安針の墓があることを示しています。

category: 横須賀市

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狛犬ならぬ狛亀?  

亀岡八幡宮
御祭神:応神天皇
勧請の時代は明らかではないが相模風土記には「八幡宮、村の鎮守なり。延命寺持」とあり、昔は真言宗延命寺が管理していたが、明治維新の神仏分離令により、明治六年十二月に村社になった。
亀岡とは、この地が亀の甲羅に似たなだらかな岡であったことから生まれた呼称であって、今の社殿は大正八年四月に造営された。
  

  

亀の甲羅の形をした絵馬


category: 逗子市

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