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三浦台地にたたずむ薬師堂  

2013072901.jpg薬師堂

薬師堂内部

薬師堂内部

薬師堂内部

薬師堂内部



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category: 三浦市

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地元の夏祭り(三浦市南下浦)  

このお祭りは、三浦市南下浦の諏訪神社例大祭である
諏訪神社については、下記の赤字をクリックして下さい。
上宮田諏訪神社

暑い中を先導する若者たち

旧道一杯に広がる御輿

地区別の御輿

応援も暑くてたまらん

休みたーい

懐かしいなあ

今日のお勤めお疲れさん

category: 三浦市

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旧道を見守るお地蔵様  

横須賀市長沢二丁目旧道を守り続ける地蔵堂

綺麗におめかししたお地蔵さん







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category: 横須賀市

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時宗について  

一遍上人
能永寺に建てられている、「宗祖一遍上人損像」

時宗の寺は少ないが、ここ能永寺は時宗である。一遍智真(1239~1289)の創始した浄土宗の一派で藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)を本山とする。
一遍が諸国を遊行し、念仏を弘通させたことから遊行宗といい、藤沢の本山(清浄光寺)を遊行寺とも言う。
遊行上人は伊予の人で河野道廣の子である。七歳で天台の教義を学んだという。
衆生の往生は弥陀の正覚成就のときに決定しているから、信不信、浄穢を論ぜず、一遍が文久十一年(1274)熊野に参詣したとき、神示を受け、信じないものでも救われるものとして念仏の札を配ることを始めたのである。これが念仏の開宗であるという(一説には1276)

一遍の念仏が法然と異なるところは、必ずしも信じなくてもよいとしたこと、神道思想を取り入れたこと、踊念仏をしたこと、断食苦行を奨励したことなどである。
こうして一時は法然の念仏をしのいだ。
この宗の全盛期は鎌倉時代後期より室町時代の前期にかけてであって、信者の中には上級武士であった。僧侶達は武将のために法談する傍ら、連歌、茶道、書画鑑賞のために相談にあずかった。
時宗が衰え始めたのは、室町時代後期、浄土真宗が急激に膨張してからのことで、地方民の信者をそれに奪われたからである。


能永寺へは下記の赤字をクリックして下さい

能永寺




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category: 横須賀市

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時宗のお寺・・・能永寺  

能永寺山門

能永寺本堂

純心堂

横須賀市浦郷町榎戸にあって、寺名は楽浦山長立院能永寺という。
昔は、浦郷道場と呼んでいた。
宗派は時宗遊行寺派で、藤沢市の清浄光寺(別名:遊行寺)の末寺で、本尊は阿弥陀仏である。
またこの寺の御胎籠地蔵尊は三浦第二十六番の札所である。
ご詠歌は
   むつのみちしるべに立ちて、この世から
    また後の世を救うみほとけ

開基は遊行寺の始祖一遍上人で、建治二年(1276)三月である。
現堂宇は、天保十一年(1840)に改築したものである。

出典 三浦半島の仏教寺院と神社 高木俊雄著

時宗・一遍については下記の赤字をクリックして下さい
時宗・一遍について



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category: 横須賀市

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山中社・・・別名「薬一王神」  

山中社
御祭神:大山祇命
由緒沿革:寛政十二(1800)三月建造
別名:薬一王神とも言う
明治初年の神仏分離により浦の郷(横須賀市)の山中鎮座していた山中権現社をうつり奉り、榎戸村の鎮守神として山中社と称された。






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category: 横須賀市

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夢枕に出た観音像  

坂中山観音寺

水子地蔵の旗が並び立つ観音寺

坂中山観音寺
浄土宗で開山は布誉といわれ、現在は横須賀市追浜良心寺の持寺である。

堂内中央、昇竜彫刻を施した豪華なお厨子の中に海中出現を伝える本尊十一面観音菩薩像が安置されている。
像高85.9センチ、桧財一木造り彫眼の立像で、木目を活かしたいわゆる檀像様式の彫刻で、この像については次のように伝えられている

江戸日本橋のある商家の主人が、常日頃観音の信仰厚く諸国巡礼の旅に出かけての帰り、日が暮れて泊まる家もなく、やむなく山の中の岩窟に一夜を明かした。
ところがその夜、夢枕に慈眼温容な尊者が現れ「お前は有縁の地に行き、衆生を済度せよ。とくに女人の難産を救ってやれ」というお告げがあった。
眼をさますと不思議や枕辺に一体の観音像があった。
これは日頃念ずる観音様のお告げであると信じ、この観音像を船に乗せて江戸に帰る途中、江戸を目前にして強風にあい、この深浦(横須賀市)に漂着した。
老主人はここがお告げの有縁の地であると、榎戸の山中にこの観音像を祀りひたすら信仰に時を過ごすうち、近郷からの信者が集まり、そこに草庵を結んで観音像を安置した。

出典 三浦半島の古刹めぐり  松浦豊著

水子地蔵尊

弾丸除地蔵尊

お寺の入口に建つお地蔵さん



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category: 横須賀市

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大蛇退治したものの・・・・・八王子神社  


浦郷の浅間山のふもとの古池に住んでいた大蛇は、人を見つけては飲み込んでしまうという恐ろしい毒蛇で、七頭十五尺(約五十メートル)もある大きなものだった。
天応元年(781)五月、村人は相談のうえ、この大蛇を退治することになった。
村長はじめ村の中の勇士六十四人が集まった。
その中でも六人の武士は勇敢に戦って大蛇に最後のとどめをさした。
古池大進信光、台地右京常光、岡本左馬正信氏、星谷刑部大輔、石渡光氏、池子王将大輔成孝の六人で近郷の村人達から尊敬された。

ところが大蛇が退治されて四ヶ月ののちのある日、六人の武士たちは七つの頭の大蛇に襲われ、遂に死んでしまった。
浦郷の人たちはその名を残し、その武功をたたえて小さな祠を建て六社大明神としてこれを祀った。
のち六社大明神は八王子神社に合わせ祀られたという。


     



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category: 横須賀市

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傍示堂の石塔群  

国道15号線脇の石塔群
昔、この辺りは天山山脈が東西に連なって、和田山・室の木に達する険しい山道でした。
その尾根道の峠を南北に貫く小道が「浦賀道」で、その小径の傍らに古くから五輪塔、地蔵、庚申塔等が祀られていました。
特にこの場所は浦郷村(現在の横須賀市追浜(追浜))、六浦荘村(現在の横浜市金沢区)の村境であることとまた、相模、武蔵国境境でもありましたので、隣村から悪人や病気が入らぬよう、そして自身の長寿を祈ったのがこの石塔群です。
六体そろった舟形の石の中にお地蔵様が彫られている{大地蔵」と、お首が落ちて見るからに痛々しい「六地蔵」がありますが、「大地蔵信仰」は人間の死後、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻転生(りんねてんしょう)すると言われ、自身と亡者の死後の世界の幸せを願ったものでありましょう。
ここに祀られている「五輪塔」は約六百年前のもので四面に梵字が彫られている大変貴重なものです。

出典 追浜地域文化振興懇話会







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category: 横須賀市

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ペリーの海図には「ペリー島」・・・・猿島  

ペリーの作った海図には、猿島は「ペリー島」と名づけられていた

猿島

信仰上の聖なる島、猿島が軍事上から重要視され、不沈艦としての役目を持つに至ったのは、言うまでもなく外国船の渡来がひんぱんになった江戸末期のことである。弘化四年のことである。
島の三箇所に台場が作られ、十五挺の大筒が据えられ、焚き出し小屋、番所などが建てられた。

嘉永六年、ペリー来航の際、猿島の台場から硝煙が上がることはなかったが、黒船四隻は猿島沖に停泊し、このときさぞかし猿島の台場は緊張したことであろう。
それを横目に、黒船は江戸湾の測量を行い、海図を作成した。
その海図には猿島は「ペリー島」と名づけられていた。

category: 横須賀市

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島を歩いてみれば・・・猿島散策  

猿島
横須賀新港から直線でおよそ1.2Kmの沖合いに東京湾唯一の自然島です。
東西200m、南北450m、周囲1.6Kmのこの小さな島は江戸時代は黒船から江戸を守る第一線の島として、明治初年は東京防衛のため、観音崎や対岸の富津岬、海堡 などとともに陸軍の砲台が築かれたところです。
現在でも明治時代に造られた赤レンガの弾薬倉庫、兵舎などが残されています。
出典 「よこすか中央地域文化めぐり」中央地域文化振興懇話会

切り通し

弾薬倉庫
切り通し東側には兵舎と弾薬庫が交互に並び、小窓のないこの部屋は弾薬庫として使われました。アーチ状の入口は下の写真と同じフランス積みのレンガ構造物です。
部屋の隅には井戸のような竪穴があり、これを使って真上の第二砲台へと弾薬を運んでいたと思われます。
また別の弾薬庫の地上には、地下の弾薬庫と連絡を取るための円形の土管を利用した伝声管も見つかっています。

フランス積れんが建造物
日本でのれんがによる建築は、幕末の長崎に始まり、文明開化ととともに全国に広がりました。
しかしそのほとんどは地震や老朽化により失われてしまいました。
近年の日本建築学会の調査によると、明治二十年以前の建造物は現在全国で二十二件が確認されているのみです。
猿島の要塞跡もその一つで、愛知県産の品質の高い赤れんがを用いて、明治時代中期に建造されました。
ところでれんがの積み方は大きくは「フランス積」と「イギリス積」に分けられます。
この要塞はフランス積によるもので、フランドル地方(ベルギー西部~フランス北端にかけての北海沿岸)で発達したため正式には「フランドル積」といいます。
この積み方による建造物は、もともと数が少なかったこともあり、この要塞跡も含めて全国で4件が確認されています。

現存するフランス積レンガ建造物
①猿島要塞(明治中期) ②長崎造船所小菅ドック(幕末) ③富岡製糸場(明治初期) ④米海軍横須賀基地内

category: 横須賀市

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東京湾唯一の無人島・・・猿島  

猿島全景

昔、日蓮上人が鎌倉へ向うため、上総(千葉県)から乗船し、横須賀に至る途中豊島(猿島)に着岸された。
上人は島へ上り一心に法華経を誦していると、白猿が現れ、上人の袖を引き、めざす方向を指し示した。
これによって無事米ヶ浜につくことができた。この因縁から豊島を改めて猿島と呼ぶようになったという。

日蓮洞

江戸時代になると、この島には春日神社が祀られ、堀の内(横須賀市)にはその拝殿があったと伝える。
明治になると春日神社は拝殿のある堀の内に移った。

春日神社跡

春日神社へはこちらから



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category: 横須賀市

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かっては、三浦氏・北条氏の祈願所  

円延命寺本堂と鐘楼(右側)
寺名は、黄雲山地蔵院延命寺と称します。
古儀真言宗で、高野山金剛峰寺の末寺である。
本尊は大日如来、また延命地蔵を祀ります。
この地蔵の厨子は弘法大師の自作で、逗子の名はこれから起こったといわれています。


開基は行基で僧、朝賢が再興した。
当寺は三浦氏、北条氏代々の祈願所であった。
寺領五石の御朱印を天正十九年(1591)十一月に賜っています。


明治二十九年に焼失し、貴重なる寺宝も烏有に帰し、鐘楼のみを残した。後再建したが、大正十二年の関東大震災で全壊した。
現在は鉄筋コンクリート建ての本堂である。


秘蔵の弥陀像は像高十一センチ。鎌倉時代の銅造りで逗子市の重要文化財に指定されている。

当寺に三浦道香と六人の家臣の墓がある。道香は新井城主三浦道寸の弟である。
道香は小坪住吉城の城主で北条早雲の軍と戦い、敗れてこの寺で自害したという。
道香の臣菊池幸右衛門は道香の死後、その冥福を祈り、延命寺を造替し、この地に土着したという。

出典 三浦半島の仏教寺院と神社 高木俊雄著

三浦道香主従の墓

延命地蔵尊




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category: 逗子市

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逗子市小坪の子育て地蔵  

子育て地蔵尊
あまり、人に知られていないこの地蔵は、今でも子育地蔵として毎月二十三日はお詣りする人が集まって供養しています。
お盆の八月二十三日はお盆の地蔵施餓鬼があって、小坪寺の住職が施餓鬼供養をして、盛大にお祭りをしています。(これについては、テレビで放映されたことがあります)
近年は慈悲深い美しいお顔を良くご拝顔できるように夜間も弱い照明を当てて、地元の人々を見守っています


地蔵堂
子育地蔵
昔、逗子市小坪の谷戸の入口に砂山といわれた、砂丘があり、この砂丘は強い西風が吹いた時、海岸の砂が吹き上げられ、吹き溜まりとなった砂丘でした。その砂山は、鎌倉六地蔵あたりが飢渇畠と言われたように、何を作ってもうまく収穫がない畑という意味です。
それに似ている砂畠と呼ばれるものがありましたが、いつのまにか、墓地となってしまいました。
鎌倉の六地蔵は、刑場の跡でしたが、小坪の砂畠は、漁師達が海上で拾い上げた仏さん(遺体)をここに葬ったり、行き倒れの不明者を葬ったりして、ついに墓地になってしまいました。
現在は自動車専用道路が通っていますが、この道はちょうど地蔵様の頭部を通過しているせいか、墓地の上のせいか、道路開通直後は事故が多発し、数人の人が亡くなっています。
(現在活躍中の有名芸能人もここで大事故にあっているようです)。
この道端にお地蔵様をおまつりしてから、事故はぴたりと止みました。

さてこの砂畠墓地に大きな石の地蔵が立っていました。人々は子育地蔵と呼んでいましたが。
昔の小坪は漁村でしたから人手がいりました。そこで農家から養子をもらって育て、船の乗り手としたのです。俗にいうもらいっ子でした。多い家では4,5人もいたそうです。
昔は子供の死亡率が大変高く、医学も進んでない無医村でした。幼い子の死は、どんなにか両親を悲しませたことでしょう。

そのような小坪の村に真鶴の石工が修業がてら、墓石を造りに来ていました。
昔、伊豆や真鶴から江戸の向って石が盛んに運ばれました。
江戸城の修理を全国の大名に割当てられて、修理した時代のことです。
小坪の沖を通った石の運搬船が時化(しけ)にあって小坪の磯によく座礁したものです。そのときの石が置去りになってしまいました。今でも、この石がたくさん海底に眠っているそうです。

その石を引き上げて真鶴の石工が造った地蔵様がこの子育地蔵ということになったのです。
またいいつたえでは磯で漁をしていた漁師の網にかかって引き上げられたものだとも伝えられています。お地蔵様の衣の凹みの部分に細かい貝殻状のものが付着しており、もしかしたら海中に暫くの間あったのではないかと推察されます。
大変大きな地蔵で、身の丈七尺あります



本文は、当寺で配布されているパンフレットから引用しました。



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category: 逗子市

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新しく立ち上げました  

新しくウォーキング専用としてサイトを立ち上げました。
まだ作りたてで、まとまりのないものになってしまいましたが、勉強してより見やすく、読みやすく、またこれを見て歩いて見る気になっていただけたら幸いです。


私が歩いてコースを作っていますので、無理のないコースにしたいと思っています。今後とも、「歩けば見つかる小さな歴史」ともどもよろしく御願いします

主に京浜急行線各駅をスタート・ゴール地点として作る予定です

リンクは「歩いて三崎めぐり」です

素人ですが今後ともよろしく御願いします。

category: 未分類

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三浦半島ではここだけの巨人伝説  

本行寺(横須賀市長沢)
巨人伝説は関東地方に数多くあるが、三浦半島ではここ一箇所だけである。
長沢本行寺の近くに小さな池がある。
この池はデーデコ坊という巨人が、三浦富士を跨いで房総半島へ渡ろうとした際に足に力を入れて、それでこの池ができたのである。
この巨人のことを大太法師と俗に言っている。別称ダイダラボッチ等という。これは天ッ神が国ッ神を統治したことを示した伝説であって、従って太古この地方に豪族がいたことを暗示しているらしい。
ところでどういう豪族がいたのであろうか

出典 三浦半島 -伝説と民話を訪ねてー 斉藤馨著

村岡の堰
この時期はヤブに囲まれて池には入れません。

村岡堰から見る現在の長沢



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category: 横須賀市

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地名にもこんないわれが(2)・・・・高円坊  


高円坊(こうえんぼう)の落ち武者
建保元年五月三日の夕刻、北条義時に対して乱を起こした和田義盛とその一族は若宮大路(鎌倉)で戦い。敗れて全滅した。しかし孫の和田新兵衛朝盛は、予てからこの挙を阻止しようと容れられなかったという歴史の裏舞台がある。
まだ和田の乱の起こる前だが、朝盛は一族に容れられなかったので、出家を志して実朝に謁した。
偶々実朝は和歌の会を開いていて、その場で作った朝盛の歌を誉めて、実朝は即座に数箇所の地頭職を与えるという喜びようだった。
しかし朝盛は座を去っていった。
彼は浄運僧都と会って、実阿弥陀仏として出家した。
出家のことは吾妻鑑がよく伝えている。
ところが義盛は和田四郎左衛門義直をして追わせ、駿河国手越で朝盛は追いつかれて戻った。
その後承久の変で、後鳥羽上皇に従い、副将格で戦ったが、敗戦後地方に潜んだ。
しかし安貞元年六月七日に捕らえられた。
承久の変の首謀者への処刑は厳しいものであったが、朝盛は免れ雲水に戻ったようである。
さてこの高円坊というところはかねてから和田義盛たちが精通川の流れている大井戸近くのわくリ井戸で、垢離を取って地蔵を崇めていた土地であって、雲水の朝盛はひそかに戻って祖父母の、かっては玉照として華やかな恋物語を展開した破玉尼と会った。
尼は高円坊として号した朝盛に、地蔵堂のお守りを託して去っていくのであるが、地蔵堂は後にそばの五劫寺に移ったが、今は廃寺となっている。

出典 三浦半島 -伝説と民話を訪ねてー  斉藤馨

朝盛の墓へは下記の赤字をクリックして下さい>
朝盛の墓


現在の高円坊付近

藤棚
高円坊バス停にあるこの藤は、ペリー浦賀来航、嘉永六年(1853)の頃に当地に植えられてから三代目の物となります。
以前は、道路を跨いで藤棚があり、毎年見事な花房が垂れ咲くことから、この周辺地区を「藤棚」と呼び、地域の名所として親しまれています。




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category: 三浦市

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横須賀の磨崖仏(まがいぶつ)  

崖にへばりつくように建てられている磨崖仏保護の建物

この磨崖仏は、横須賀市久里浜にある満昌寺北側の丘陵山腹に彫られたもので、西向きの岩肌に合計三面ある。そのうち二面に仏像が、他の一面に直線的な溝が彫られている。
左側の面には直径二十センチメートルの円内に蓮華座に坐した七体の仏像が並んでいる。
中央の面には高さ四十センチメートルの阿弥陀如来立像一体が宣告されており、その額の白毫(びゃくごう)からは二条の線が下方に向って刻まれ、その下には納骨室と推測される小穴が開口している。
周辺には写経石と考えられる河原石が大量に散乱していた。
(写真下)






更に右側の一面は平に整形された上に、幅十五センチメートル、長さ二百八十センチメートルの溝が横に走っている。(写真下)


磨崖仏の造立年に関する記録はないが、線刻された仏像の様子から鎌倉時代に彫られたものと考えられる。関東地方でも珍しいこの磨崖仏は、鎌倉時代の仏教文化をしのばせるものである。
この磨崖仏は横須賀市指定史跡であり、上記文章及び写真「阿弥陀如来立像」は横須賀市教育委員会による案内板から書写したものである。



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category: 横須賀市

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経塚(きょうづか)  


「経塚」(きょうづか)とは
経典を主体として埋納したところ。写経供養の一形態で,古来,慈覚大師円仁(794‐864)を創始者に擬しているが,確証はない。今日知られている最も早い確実な事例は,藤原道長が1007年(寛弘4)に金峰山(きんぷせん)(奈良)に埋納した例で,発見された経巻,経筒は《御堂関白記》の記事と一致している。埋めたのは紺紙金字の法華経(開結とも),阿弥陀経,弥勒経,般若心経であるが,これらの経巻が竜華の晨,すなわち56億7千万年の後,弥勒が世に出る時まで伝えられることを念じている。
この経塚は、横須賀市ソレイユの丘近くの畑の真ん中にある。
出典 「コトバンク」より

経塚全体の写真



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category: 横須賀市

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地名にもこんないわれが・・・・仮屋ヶ崎  

京急仮屋ヶ崎バス停
今では、この地名は地図にもありません。
京急バス「仮屋ヶ崎」バス停留所名として残っているだけです。
しかしこの名前には次のような話が伝えられています。

昔のこと、この里の海岸に奈良の長谷寺の徳道上人が海に流した観音様が流れ着いた。
この観音様は夜になると光を出すので村人はおそれ、海岸に仮屋を造って、そこに観音様を安置した。
その後観音様は鎌倉に移安され、この像を祀った寺が新長谷寺といわれた現在の長谷観音であるという。
仮屋ヶ崎の地名は長谷観音の仮屋があったところからその名がついたというのである。

出典 三浦半島その風土と歴史を訪ねて 辻井善弥

長谷寺の寺伝
長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。
寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。
ウィキペディアより抜粋


仮屋ヶ崎バス停近くの海岸
今では、住宅が建ち並び、海岸は護岸堤防によって、昔の面影は何もない。
写真真ん中から、右側が鎌倉方面である。



無造作に置かれているようでも、優しい人が花を手向けているようである。
(仮屋ヶ崎へ向う途中の道端で)

上の写真を拡大したお地蔵様



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category: 横須賀市

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猿に導かれ、焼き討ちから逃れた日蓮上人  

猿畠山法性寺山門
山門扁額を白猿が両方から支えている。

法性寺本堂
日蓮宗 猿畠山法性寺
鎌倉妙本寺の末寺で、開山は日蓮上人九老僧の一人日朗で、その弟子朗慶が開基である。
祖師堂
日蓮上人は文応元年(1260)八月二十七日夜、鎌倉松葉ヶ谷草庵の焼き討ちの際、この山中に逃れてきた。
そのとき三匹の白い猿が道案内をつとめ、しかも食物まで運んでくれたという。
これらはすべて山王権現の加護によるものであろうと、日蓮は弟子日朗に一寺を建立せよと命じたが、その命を果たさず、元応二年正月、日朗は七十七歳を以って示寂した。
その後日朗の弟子朗慶が志を受け継いでここに堂宇を建立したといわれている。
いまこの祖師堂には「猿畠精舎」の扁額が掲り、本尊には朗慶作という日蓮上人の像が安置されている。
そしてこの堂宇の左側には日蓮上人がここに難を逃れて籠居したという洞窟があり、その格子戸の奥には供養の五輪塔が建ち往時を偲ぶことができる。
またこの堂の右側前堂内には「日朗菩薩墳墓霊場」と刻んだ扁額が掲げられ中には日朗の墓がある。

出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

日蓮上人の籠居した洞窟

祖師堂前にある白猿



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荒井観音堂  

荒井観音堂への道標

荒井観音堂
「風土記稿」によると、この観音堂は長慶院と云い、建久三年鈴木家長の開基とある。
伝えによると鈴木家長は源義経の家臣鈴木重家の長子で、建久年間に長井の荒井に移住し、この寺のほか熊野神社も勧請したといわれる。お堂の隣にある鈴木家はその子孫で観音堂も現在鈴木家で管理されている。
出典 「三浦半島その風土と歴史を訪ねて」 辻井善弥
熊野神社へリンクは下記の赤字をクリックして下さい
長井熊野神社へ


版墨画
横須賀市指定重要文化財
板墨画 龍図天井

長井観音堂と通称される長慶寺本堂の外陣、鏡天井に画かれた龍の絵で、大きさは縦百六十三・横百七十五センチです。
絵は力強い墨筆で龍を画面いっぱいに描いており、細部にこだわらず、筆勢を生かした表現となっています。
背景余白に墨を入れているのは、雲気を演出するとともに、龍を浮かびあがらせる効果があります。
絵の作者については、画面向って左下の落款から、文政四年(1821)、江戸南画の大家、谷文晁の筆と判ります。
谷文晁は松平定信による豆相巡検に同行、各地の風景を写生し当地方にも足跡を残しています。
この天井画を製作するに至った経緯は未詳ですが、横須賀市域に現存する製作時期が明らかな文晁画として注目すべき作例です。

横須賀市教育委員会

境内に建っている芭蕉句碑
「海士の尾は 小海老にまじるいとどかな」



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ポックリ地蔵尊  


横須賀市長井の長徳寺の近くの地蔵堂
元々は近くの長徳寺境内にあったともいい、またここから谷を越した地に火葬場があり、それを意識して祀られた
といえる。
いつの頃からかポックリ地蔵と名がつき、ぽっくりと死ねますようにと祈念する老人方がよく参拝している。
実はこの石造りの地蔵尊はその姿は阿弥陀如来像で本来ならばポックリ阿弥陀さまというべきものである。が、地蔵はお釈迦さまが亡くなられた後、弥勒仏が出現するまでの間、この世に仏がいなくなるので、このあいだ仏にかわって人々の法をとくため仏の資格がありながら、願ってこの世に出たのが地蔵菩薩であるといわれる。

出典 三浦半島その風土と歴史を訪ねて 辻井善弥著
 







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八雲神社(横須賀市長井)  

八雲神社
祭神 須佐之男命
由緒 当神社は由緒不詳なるも、町内の守護神として鎮座され、殊に昭和四十一年四月五日当時町内会七十八世帯の共有地資金により、公会堂を建て、猶昭和五十四年九月「二百六世帯」の協力を得て同資金を基に建設及び境内地の造成がなされた境内地に付いては横須賀市農業協同組合の厚意により譲渡されたものである。

出典 当神社案内板による。

中に納められている祠



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ただの石ではありません  


昔、風の強い日になると、この石は怒ったようなうなり声をあげたということから、「おこり石」という名がついたとされています。
今でも正月飾りが奉納されたり、お賽銭があがったりしていますが、この石には神様が宿るという古くからの信仰が風習として現在に伝えられているのです








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流れ着いた大木から鳴き声が・・・・長徳寺  

中島山井華院長徳寺本堂
浄土真宗 
本尊は恵心作と伝えられる阿弥陀如来立像である。
当時の領主三浦義澄は鎌倉菅領の頃、祈願所と定め深く信仰したという。
のち将軍足利義景の近臣であった僧了念が改宗して開基となった。了念は義景逝去ののち晩年を蓮如上人に謁して真宗に入ったといわれている。

「三浦古尋録」はこの寺のことを次のように伝えている。
昔、長井の海岸に大きな木材が流れ着き、里人は珍しい大木なので驚いていた。
ところがこの大木から毎晩人の泣き声が聞えてくるので人々は不思議がりおそれていた。
その頃、関東各地を遊行中の行基がこの地に来てこのはなしを聞き、早速この大木を見ると、これが大和長谷寺の観音様を刻んだ残りの木材であったのに気づき、行基は流木に一心不乱に不動尊を刻んで長井の中島というところに祀った。
行基は不動像を祀るとき必要な水がなかったため、さっそく法力により井戸を掘ったところ清水がこんこんと湧き出した。
この伝説が長徳寺の山号となり院号になったとか・・・・

出典 「三浦半島の古刹めぐり」 松浦豊著

鐘楼

寛文十二年の手水鉢

墓地内にある二体の地蔵



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古戦場を静かに流れる身洗川  

横須賀市黒石の古戦場
今では、新興住宅地・畑となり、ここで戦いがあったとは信じられない景色になっていますが、この中を身洗川(みあらいがわ)が一筋流れている。

身洗川の案内
戦国時代に戦いに傷ついた武士がこの小川で体を洗ったと伝えられる。

身洗川



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国道脇の子育て地蔵尊  







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