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徳本上人の供養碑・・・覚栄寺  


本水山道清院覚栄寺
浄土集
鎌倉光明寺末
本尊 三尊弥陀佛
開基 僧屋道永正二年(1505


墓地には向井一族・政勝系統の墓があり、走水奉行向井政良の長墓様といわれる逆修塔や一族の政直・正道・半十郎の宝篋印塔や五輪塔、石地蔵浮き彫りの碑、石灯籠などがあります。
境内左側には生き如来といわれた木喰修行の名僧・徳本上人の花押・直筆の供養塔や、関東大震災の走水の犠牲者34名の供養碑があります。
またお堂の右手裏には「滝の井戸」と呼ばれる湧き水があり横須賀市の水道水源地になっていました。

出典 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ 
W1Cn2NljRVjZ2P11377958293_1377958306.jpg向井一族系図

tRBliZDljlakNFN1377958331_1377958341.jpg関東大震災供養塔

YQCp21BoI4Nx3tN1378032931_1378032981.jpg徳本上人供養塔

WFBCKS1UsA_fCoR1378033023_1378033039.jpg石地蔵浮き彫りの碑ほか

2_c0AqxjZgC9QsW1377958243_1377958262.jpg六地蔵

徳本上人は紀州の生まれで、若いときに仏門に入り、文化十一年(1814)江戸に出て十念仏の法を授け、幕府大奥や庶民等の信仰を集めた。三浦半島にも進行する人々が多かったようで、各所に供養等塔が残されている。
横須賀の史跡を訪ねて 横須賀市郷土史研究会より

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category: 横須賀市

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横須賀水道発祥の地  

横須賀市内で最初の水道を実現したのはフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーである。
ヴェルニーついては、次の赤字をクリックしてくださいヴェルニー


明治九年(1876)、走水の湧水を横須賀造船所に通水したのが始まりで「、市内唯一の自己水源地です。
明治三十五年(1902)に完成した煉瓦造り貯水池と、その後に造られた国内で初期の鉄筋コンクリート造浄水池は、いずれも国登録有形文化財となっています。
昔から走水の湧水は水量が豊富で、ミネラルを含んで美味しく、水温は十七度とほぼ一定し、腐らないと評判で外国船にも好評でした。
湧水は涸れたという記録はなく、水量は一日2000㎥あります。
現在は横須賀市の非常時用の水源地となっています。
また水源地は災害時の応急給水拠点としての機能を備えるとともに桜の名所にもなっています。

出典 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

GCVQUn0RvUYftzl1377954766_1377954779.jpg市民解放用に造られた
496_mqFi29wtn621377954922_1377954943.jpg走水水源地

LZo1cdk6R_vMj4N1378034469_1378034483.jpg国登録有形文化財

category: 横須賀市

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元は米軍基地内にあったお寺  


龍谷山良長院
曹洞宗


以前は泊ヶ浦(米軍基地にあった。
開基 瀬尾重兵衛良長が創建し良長の二二字を採り良長院とした。


瀬尾重兵衛良長は泊ヶ浦の長峯城々主でありいずれの戦いで亡くなられたかは判らないが、没年のみは建長五年(1253)と記されている。その後寺は衰微し荒れ果てていたが、徳川家康の信任が篤かった長谷川七左衛門長綱が三浦郡の総代官となり、前任地であった駿河の之原臨乎僧正を開山と仰ぎ、現在のところに荒廃して建っていた祇園寺というを廃し、良長院を再建したと伝えられる。
然し元源は長谷川長綱の守護神十一面観音を祀る寺を、故郷のように富士山の見える位置に建てたいと願い出て、家康の許可を得て、逗子の沼間の地を選び、寺を移し海宝院とした。
一方横須賀の寺地は、正保年間(1644-1648)に呑高和尚という僧侶が寺を建て良長院の名前を復活したという。


IsNMGmcNDQeVhS11377950703_1377950714.jpg閻魔堂
4n65uFSXnySjIBT1377950739_1377950752.jpg閻魔大王と奪衣婆
奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。脱衣婆、葬頭河婆、正塚婆(しょうづかのばば)とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある

WUQOcWO3099SezP1377950834.jpg赤ちゃんを抱える地蔵さん

category: 横須賀市

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小栗上野介忠順とヴェルニーの果たした功績  

小栗上野介忠順
小栗上野介忠順(おぐりこうづけのすけただまさ)
1827~1868

幕末末期に徳川幕府の勘定奉行(石高二千五百石)を勤め、早くから日本の近代化には、江戸近くに製鉄所の建設が必要であると幕府に進言、主張していた人で、横須賀村に製鉄所の建設が容れられると、自ら責任者となって工事を進めたが、建設途中維新の改革にあい、徳川慶喜の新政府の恭順に反対して職を辞して旧領地上州権田村の帰ったが後、明治政府から反逆の陰謀あり、として疑われ、明治元年四月、鳥川の畦で処刑された。
行年四十一歳、胸像の台石を囲んで斬首された水沼河原の石七つがあるが、昭和八年上野介遺徳をしのぶ旧領民権田村の村人たちから寄贈されたものである。

出典 「横須賀の史跡を訪ねて」 横須賀市郷土史研究会

>作家の司馬遼太郎は、小栗上野介を「明治の父」と評している。

tl9RpsrgJbfooH41377770883_1377770893.jpgヴェルニー

レオン・ヴェルニー
1834~1893

小栗上野介忠順は製鉄所の建設を仏公使ロッシュに依頼し、ロッシュは当時香港に来ていた海軍技師ヴェルニーに要請した。
工期は四年、予算は二百四十万弗(ドル)と定められ、快諾したヴェルニーは直ちに準備に入り、慶応元年九月二十七日起工し、明治四年に第一期工事が竣工する。
その間明治維新の動乱にあったが、新政府がすべてを引き継いだ。
ヴェルニーはこのほか、観音崎の灯台を建てたり、製鉄所の水道を走水から引いたりして幅広い活動をし、明治九年惜しまれて故国フランスへ帰った。

出典 「横須賀の史跡を訪ねて」 横須賀市郷土史研究会

4SDCUH9RV9GTQtZ1377770921_1377770932.jpg
小栗公が斬首された上野国権田村(現在の群馬県倉淵村)内の鳥川の水沼河原の石。

category: 横須賀市

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海中から出てきた銅鐘  

東向山円照寺
日蓮宗
開基 僧日海 応永五年(1388)ごろ創建したと伝えられる




この寺に海中から出現したと伝える高さ40センチほどの銅鐘が保存されている。
この鐘は全面が緑錆に覆われ、側面に大きな穴があるもので、いかにも海底から引き上げた鐘のように見える。
鐘には元徳二年(1330)の銘があり、形態の上からも専門家は鎌倉期の鐘であろうとみている。
この鐘は寺に保存されている「海中出現法華経並びに半鐘略縁起」によると、文政五年(1822)の春、走水の漁師利兵衛なるものが、地先の海域で網をかけていると何か重いものがかかった。引き上げてみると鐘であった。
鐘のくちは檜の厚板でふさがれていたので斧で破ってみると、鐘の中から二巻の法華経が出てきたと伝える。
鐘と法華経は円照寺に納められ寺宝として現在に至っている。
鐘の中に封入されていたと伝える法華経は、紙こそ深緑色をしているが、海水に浸ったものとは思えないほど傷みはすくない。
だが鎌倉時代に経文を海に沈める習俗は間違いなくあったことであるとされる。
「吾妻鏡」に源実朝はみずから書き写した円覚経を三浦の海に沈めたことが記されているからである。
この海中出現の鐘は当時このような習俗があったことを具体的に示す貴重な資料であるとされている。
法華経の巻末に「竜宮城」と奥書があるということから、察すると海中に投じられたこの鐘と法華経はやはり海神の怒りを鎮めるためのように思われるのである

出典 「三浦半島 その風土と歴史を訪ねて」 辻井義弥著
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漁村にふさわしく魚藍観音を祀る寺  

大泉寺
曹洞宗
天正十八年(1590)徳川家康が関東に入国した際に三浦郡代官頭・長谷川七左衛門長綱が逗子・海宝院の伝英和尚を招き開山した寺で、翌年家康より御朱印二石が給付されました。
本尊は延命地蔵尊で、室町初期作と伝わる宋風彫刻木造地蔵菩薩地蔵は、三浦地蔵尊第三十番に数えられ、横須賀市の文化財に指定されています。
漁村の寺にふさわしく魚篭に魚を入れた魚藍観音が祀られています。

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9YWoTL1tPqoaKs51377691594_1377691604.jpg水掛け地蔵さんと水琴窟
お地蔵さんに水を掛けると、手前の筒から、涼やかな音が聞こえます
水琴窟は江戸時代後期(1800)ごろに作られ、しずくの風情を楽しんでいました。
時代とともに消え去りつつありますが、近年水音の芸術として見直されています。


XoOleA9Xk2Ev1aG1377691822_1377691852.jpg六地蔵

HQHA64h9fz2ajxg1377691761_1377691781.jpg小さな水車小屋
滝の水で水車を回し、小屋の中で杵が動いています。
小さなものですが、思わず立ち止まって見入ってしまいます。


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大衆帰本塚  

大衆帰本塚の碑

浦賀警察署に向かって右側の歩道に面して、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石に、 「大衆帰本塚」と篆書体で刻まれた石碑が建っています。
この大衆帰本塚は、元治元年(1864)浦賀奉行所の大工棟梁・川島平吉の発案により、 奉行の大久保土佐守が賛同し、篆額は大畑春国が記しました。
碑文は、浦賀奉行所与力・中島三郎助の筆致をそのまま刻んだものです。
「此和多理能むかしのさまをおもう尓」で始まる流麗な筆致の平安疑古文は、
この土地が開発される以前の様子を記し、ここで命を落とした先人たちの思い を忘れぬようにとの思いを伝えるものです
また、浦賀警察署の場所には、もと、地蔵堂があり、ここの堂守をしながらその生涯を閉じたのが、 「近世浦賀畸人伝」にも記載のある、遊廓の主人から僧侶になった江戸屋半五郎(僧・深本)です。
次は大衆帰本塚碑文の読解文です。
この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、 蟹田(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。
近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、 朝の露、夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ草むらになむありける。 さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、 往くも復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、 人皆いぶせく思いわびてありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、 えも言い知らぬ思したちにて、其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、 なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ埋みて、大衆帰本(またはダイシュキホン)の塚と呼ぶべし。 その記をも残すべしとこと定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、 川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、その故由を、碑を選り据え、千年の後も忘れざらしめ、 また、そこばくの桜を植え添え、昔人の魂をも慰めむとなり。 あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。 かく言うは、この浦賀の湊に司たちて仕えまつる 。

中島三郎助永胤

大畑春国篆

元治元年甲子秋九月


横須賀市ホームページより転載

category: 横須賀市

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鎌倉五山(3)・・・浄智寺(五山四位)  

山門
手前石橋を渡って、左側に鎌倉十井のひとつ「甘露の井」がある。

aPfaraiUweEc1cl1377600295_1377600310.jpg観世音菩薩像(南北朝期)

木造三世仏坐像
本尊として仏殿にまつってある。向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・未来のときを代表する。
十五世紀半ばごろに再興された像で、鎌倉地方に多い衣の裾を台座に長くたらした様式の典型的な様式。



n8UBqyGbhWuStFF1377600379_1377600388.jpgやぐろ
このやぐらは、古くは住まいとして、その後墓所となり、やがて倉庫としてでも使われました。
大正から昭和初期までは、薪や木炭のしまい場所となっていました。


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X1OCtezFuY5BM1M1377600515_1377600526.jpg鎌倉七福神「ほていさん」



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各五山へのリンク
五山第一位・建長寺
五山第二位・円覚寺
五山第三位・寿福寺

category: 鎌倉市

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鎌倉十井(2)・・・甘露の井  

甘露の井
 「甘露水」とは、「観音菩薩が所有している浄瓶(じょうへい)に湛えられている水で、どのような仙木でも生き返らせる事ができる」という水をいう。「醍醐水」もそうした意味があった。しかし、今では「甘露」は、飲み物が美味であることの喩えに使われている


新編鎌倉志によりますと、「甘露の井は開山塔(蔵雲庵と名く。仏源の塔には非ず。 真応禅師の塔なり。)の後に有る清泉を云うなり。門外左の道端に、清水湧き出でる。 或いは是をも甘露の井と云うなり。鎌倉十井の一なり。」と述べております。 この記述によると、「甘露の井」は二ヶ所にあると考えられます。 即ち、境内の開山塔の後ろの井戸と、門の外の左の池の脇にある井戸とが「甘露の井」であると説明しています。

鎌倉五山のひとつ「浄智寺」山門脇の池のほとりにる。

category: 鎌倉市

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鎌倉五山(2)・・・寿福寺(五山第三位)  

寿福寺山門
亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は、正治二年(1200)に頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山第三位の寺であります。この地はもと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。
墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
現在伽藍は外門、山門、仏殿は、鐘楼、庫裏などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また
仏殿前に四株の柏槙があり、往時の面影をのこしています。

神奈川県教育委員会

RI85nFHlqEDDKpB1377512596_1377512607.jpg仏殿

XxpHReTUHA3gS_e1377513018_1377513032.jpg鐘楼
各五山へのリンク
五山第一位・建長寺
五山第二位・円覚
五山第四位・浄智寺 

>現在、境内の中には入れません


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category: 鎌倉市

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鎌倉十井(1)・・・鉄の井(くろがねのい)  

鎌倉十井とは・・・
昔は、水売りをする商売があったそうです。この様に鎌倉の街中は、昔から水にあまり恵まれていませんでした。まして800年前の鎌倉時代においては良い水は大変に貴重なものでありました。
この様なことから、水にまつわる言い伝えが起こったものと思われます。更に江戸時代にいたり、観光地として鎌倉が再び繁栄するにつれて、「鎌倉十井」とか「鎌倉五名水」等水に関連した名数が称えられる様になりました



鉄の井(くろがねのい
かって扇ガ谷に所在した北条正子創建の新清水寺に蔵されていた伝わる鉄観音像の首が、この井戸の中から掘り出されたことからこの名前がついたと云われています。

鉄の井
観音像が安置されていた新清水寺は、1258年(正嘉2年)1月17日、長谷の安達景盛の館からの出火がもとで類焼した。観音像は地中に埋もれ、行方がわからなくなっていたが、江戸時代の1699年(元禄12年)に鉄ノ井から掘り出され、鉄観音堂に安置されていた。
 現在は、東京人形町の大観音寺の本尊として安置され、毎月17日に開帳されている


駅から小町通をまっすぐ歩いて、バス通りとぶつかる角の右側にあります。


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category: 鎌倉市

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小雨の中のお祭り・・・・横須賀津久井の浅間神社  


6o_xErGHTIB0vls1377424450_1377424502.jpg旧道通行止めL3l2_MlQFfWoGAl1377424760_1377424812.jpg練習の甲斐があったね

6gcEw8FFRPd4IKP1377424704_1377424716.jpgお姉ちゃんたちよかったよ

浅間神社へのリンク先です

category: 横須賀市

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鎌倉五山(1)・・・円覚寺(五山第二位)  

 五山の制度は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来する。  鎌倉幕府が開かれる前年の建久2年(1191年)に南宋から帰国した僧侶栄西らによって伝えられた禅宗はその後隆盛を極め、鎌倉時代の末期、幕府は次々と大寺院を建立。鎌倉五山とは、鎌倉時代に中国の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のこと。北条氏は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の 主な禅刹を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したと いわれる。その後たびたびの改定を経て、至徳3(1386)年足利義満のとき、五山の上に南禅寺がおかれ、京五山として天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、 鎌倉五山として下記の五寺が定められた。元和元年(1615)には徳川幕府が五山十刹に対し法度を出した。  もともとは、寺を格付け管理し、官が任命権をもって順次格式の高い寺に昇任させる制度。
円覚寺(えんがくじ
 鎌倉五山の第二位
 臨済宗円覚寺派大本山
 正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)。  執権北条時宗が1282(弘安5)年、元寇の戦没者追悼のため宋僧の無学祖元を招いて開いた寺院で鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
 建物は創建当初から、いりくんだ谷間のわずかな平地を利用しながら 禅宗風の伽藍配置をもった堂塔が多くならんでいたが、たび重なる火災で、創建当初の建物はすべて失われている。現存する、室町初期の建築とみられる舎利殿は、 禅宗様を代表する建物。本尊は宝冠釈迦如来。JR北鎌倉駅前。

山門
天明五年(1785)、円覚寺中興・大用国師誠拙周樗禅師のとき再建。「円覚寺興聖禅師の題字は伏見上皇の勅筆。
楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置する。


方丈
本来は住職の今ですが現在は各種法要、座禅会や説教、夏期講座などの講習会や秋の宝物風入など、多目的に使われています。

IUPrEGrd5ZwZskl1377256000_1377256011.jpg白鹿洞(ひゃくろくどう)
当寺落慶開堂の日、この洞中より一群の白鹿が現れ、開山国師の法筵に列したという。
この奇瑞(きずい)により山号を「瑞鹿山」という。


国宝洪鐘(おおがね)
正安三年(1301)に鋳造された国宝の洪鐘(おおがね)です。
北条時宗公の子、貞時公が国家安泰を祈願して鐘の鋳造を鋳物師に命じましたが、鋳造がうまくいかず、江の島の弁天さまに七日間参詣したところ、ある夜の夢の中で円覚寺の白鷺池の底を掘ってみよとのお告げがあり、その通りにしてみると池の底より龍頭形の金銅の塊を発見、それを鋳造してこの洪鐘を造ったといわれています。
この霊験に感激された貞時公は江の島の弁天さまを洪鐘の神体として「洪鐘大弁才功徳尊天」と名づけて弁天堂を建立しました。

uX8WiazMMNmwNto1377251667_1377251678.jpg弁天堂



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各五山へのリンク
五山第一位・建長寺
五山第三位・寿福寺
五山第四位・浄智寺

category: 鎌倉市

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筌(魚を獲る漁具)に助けられた落人たち・・・光念寺  

光念寺

治承四年(1180)八月、初声村和田(現三浦市初声町)の領主和田義盛は、祖父三浦大介、父義澄と衣笠城に立てこもって畠山、江戸、川越の三千の大軍と戦い、敗れて大介は自害し、義盛等は二十七日久里浜の怒田城(ぬたじょう)に逃れ、ここから船で房総へ向かったのであるが、途中食糧が尽きた。
このとき義盛が天に祈りをささげるとどこからともなく筌(竹で編んだ漁具)が流れてきた。
喜んだ落人たちはこれで魚を獲って飢えをしのいだという。
海上で真鶴から逃れて安房に赴く源頼朝の船と逢い、互いに無事を喜びあいながら外房州江見の仁右衛門島に着いた。ここで源家の縁につながる豪族を集めて三万の大軍とし、江戸から鎌倉に入って鎌倉幕府を築いたのであるが、義盛は頼朝を援けて鎌倉幕府の侍大将になって三浦一族の名を挙げた。
そして建久五年(1154)光念寺を建立した。義盛四十八歳のときである。また、一夜、筌が龍と化した夢枕をみて、一念発起し、堂宇を建てて筌龍弁財天を祀ったと伝えられている。黒顔の弁財天で山門を入ると右側の小堂に安置されている。


出典 三浦の伝説と民話 三浦観光協会

369.jpg弁財天堂

370.jpg筌龍弁財天

コース出発はバス停油壺入り口から


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category: 三浦市

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三浦半島唯一の塔・・・くじら塚(西浜地蔵堂)  

くじら塚供養塔のある西浜地蔵堂

三浦地蔵尊札所第16番延命山地蔵堂は城ヶ島を一望できる三浦市三崎西浜の小高い丘の上にある。
せまい急な石段を登ると境内には大小いくつかの石仏にまじって、平頭角柱型の「くじら塚」の碑がある。
正面には「くじら塚」左右に「天保五申午年二月十二日 施主宇八ほか宗右衛門、権助、七右衛門」の三人の名が陰刻されている。
これは天保年間、鯨漁の盛んな頃、この近くの船人たちによって建立されたものである。
三崎は江戸時代、半農半漁の比較的小規模な漁業であったが紀伊半島を主とする船人たちの来住によって発展し、三崎の街町は専業時代に入り、次第に沖合いに漁場が拡張してきたのである。
天正五年北条氏に仕えた三浦茂信の見聞集では次のように伝えられている。
「文禄の頃ほひ間瀬口助兵衛とて、尾州にて鯨つきの名人、相模三浦に来たりしが、東海は鯨多くあるを見て、願うに幸甚と銛(もり)網を用意し、鯨を突くを見しより関東諸浦の海人等、銛網を仕度し鯨を突く故に一年に百、二百ずつ毎年突き、はや二十四、五年この方獲り尽くし、いまは鯨も絶果て、一年にようやく
四つ五つ突くを見えたり。今より後の世に鯨絶え果てぬべし」と記している。
流れ鯨について次のような言い伝えがある。
昔、繁栄した船元が鯨を拾ってきたために不漁が続いたと信じられた。これは巨大な魚から来る神秘的な迷信によるものか、それとも鯨は子を深く思う魚なので憐憫(れんびん)の情けから来る温かい思いやりから、鯨を供養し「くじら塚」の造立をみたのであろう。
いずれにせよ三浦半島唯一の珍しい塔である。
出典 三浦半島の史跡と伝説 松浦豊著

qDEA0tvVBENevcT1377094066_1377094077.jpg右端がくじら塚

PAjtAFyAmdBpx611377094105_1377094185.jpgくじら塚拡大写真

XVM49XaeE_8dL1d1377094246_1377094256.jpg本堂に収められている地蔵菩薩

HpAlkhAnLsqh09u1377094292_1377094318.jpg本堂から見た東京湾入り口付近

コース出発はバス停油壺入り口から


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category: 三浦市

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異郷の地でなくなった妻に会いに来た侍の亡霊  

obwjNYoS3_mTKqN1377087587_1377087597.jpg
最福寺

嘉永六年四席の黒船来航以来、徳川幕府は江戸湾防備のため、三浦半島の海岸線に沿って走る重要な地点に
彦根、会津、川越、忍の各藩士たちを集め、陣屋を置き台場をつくって江戸湾防備を強化した。
文化八年会津藩士松平肥後守は三崎城ヶ島の安房崎に砲台を築くため、田辺半兵以下八十三名を引きつれ、城山(現在の三浦市市役所付近)に陣屋を置き、文政四年(1821)までの十年間を、海上の警備に勤めたのである。
その間、家族の人たちも故郷を遠く離れた任地から帰ることもできず、病のために死んでいった会津藩士やその家族を葬った墓が、三崎だけでも三十五基が数えられている。

さて太平洋戦争が終わった翌年の昭和21年8月のある蒸し暑い真夜中のことである。
最福寺の老僧尚寛和尚がまだ若いころで、広い庫裏の奥の間の薄暗い蚊帳のなかで眠っていたが、あまりの蒸し暑さにふと目を覚ますと、蚊帳の外でやせ細った背の高い青白い顔をした一人の侍が座っていた。
この侍は威厳のある学者風で和尚のほうをじっとにらみつけていた。
その凄みのある恐ろしい顔容には一瞬声も出なかったという。
その時一室離れた茶の間に寝ていた母堂(歌手三浦洸一の母)が、和尚のあまりにも激しい唸り声に目を覚ましてみると、すでに侍の亡霊の姿はなかったという。
これはきっと浮かばれない侍の墓があり、無縁になっているのではないかとの御母堂の言葉にさっそくとび職の親方に来てもらい墓地を調べたところ城ヶ島を望む土手の片隅に半分ほど埋もれた無縁の墓を発見した。
掘り起こしたところこれが会津藩士の妻の墓で正面には「高津忠貴妻之墓」とあり、右側には「文政巳卯年三月二十三日卒年五十九歳橘 孝子」と陰刻した立派な墓であった。
さっそくこの墓を掘り起こし本堂前に移し、懇(ねんごろ)に回向したところ霊は再び出なくなったという。
夫の会津藩士高津忠貴は軍船の武将として榎本武揚などと五稜郭で戦い行方不明になったということである。
なお、鐘楼の梵鐘は三浦洸一(歌手)の寄贈である。

出典 三浦半島の史跡と伝説 松浦豊著


IlOzSJ68RTc9mqm1377087426_1377087463.jpg掘り出されたお墓

obwjNYoS3_mTKqN1377087587_1377087597.jpg三浦洸一寄贈の梵鐘

kqhnHNPTjWPiKmI1377087513_1377087525.jpg境内から見た城ヶ島

歩行開始はバス油壺入り口から


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category: 三浦市

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殺したはずの女房が・・・・円照寺身代わり名号  

香水山円照寺
円照寺

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三浦市三崎町に香水山円照寺がある。
鎌倉の名越坂にあった天台宗の法満寺がその前進で、元亀三年(1572)三崎に移り替わった先が、光念寺下の「東の町」(現在の三崎1-17)である。今日でも法満町の呼び名が残っている。
御船奉行の向井将監が大阪夏の陣の際、三崎から泰平丸武器を積んで大阪に運び武功をたてた。
その凱旋祝いに法満寺へ寺領として上橋の一反三畝を寄進したのでここに移転、山号寺号を改めたのである。
開基は明願上人。頼朝の甥、義円の子(頼朝の弟乙若丸、後に義円。その子が明願)で、親鸞に教えを受けて僧となり、改宗して本寺を開いたということである。
円照寺に白水流し井戸がある(現在は所在不明)。付近の人が寺の井戸に米を砥ぎにきて、白い水が庭に咲く梅の木の下を流れたのでこの名があるという。
この由緒の円照寺に宗祖親鸞上人直筆の宝物、身代わり名号がある。即ち「帰命尽十方無碍光如来」の十字である。宮川の里にこの身代わり名号の所持の記録がある。
宮川移住民の来歴中「第四家、定国の次女みつ、老年にして御名号をもち、北の窪椎木井戸の上に住す」とあり、さらに円照寺の末寺花立山円覚寺が宮川の里にあるところから、両寺の関係と名号の出入りに深い関係があることがうかがえるのである

さて身代わり名号にまつわる話であるが
その昔宮川村の民家に名号「帰命尽十方無碍光如来」があり、この家の女房が非常に信仰深く、昼は家業である畑仕事に励み、夜は薪小屋に名号をかけて礼拝するのが日課であったという。
毎晩薪小屋に通う姿に亭主は疑念を持ち、いつか嫉妬心と変わって、一夜女房の後をつけると、小屋の中でひそひそと私語が交されている。
亭主は密夫をひそかに小屋に引き入れて媾曳しているものと思い、嫉妬に狂って家に引き返すと山刀を持って遮二無二小屋に飛び込んで女房を刺し殺してしまった。
そして刺した山刀を抜き取りもしないでよろめくように家に帰った。
すると殺したはずの女房が納戸で針仕事をしていたので亭主は恐れおののき、狐狸に化かされたのではないかと自分の目を疑った。
そこで灯火をもって薪小屋行ってみると、女房が掛けて礼拝していた名号の十字のうち「光」の文字のところに山刀が刺さったまま光っていた。亭主は自分の醜い嫉妬心を恥じ入り、女房に懺悔するとともに信心の薄いことを省みて、それから夫婦ともども名号を尊び唱えて信仰の道に入った。
これを聞いた里人は名号に参詣し、後を絶たなかったという
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出典 三浦の伝説と民話 三浦市観光協会

歩行出発地点は、京急油壺入り口バス停

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明治憲法の起草はここで・・・  


この碑は明治20年(1887)伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎らが料亭東屋において明治憲法制定のため草庵を起草したのを記念し、昭和10年(1935)金子堅太郎書で建立されたものである。

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料亭東屋跡
この地は、料亭東屋跡で、明治20年(1887)伊東博文、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らが明治憲法制定のため草庵を起草したところです。
明治20年6月から、東屋に集まり草案の構想を練っていました。金子・伊東は東屋に泊まり、伊藤は夏島(野島)の別荘から、井上は野島旅館から通いました。8月6日夜、東屋の伊東の室に盗賊が入り機密書類の入っていた行李(こうり)が盗まれましたが、翌日書類は無事発見されました。その後伊東・金子両名は夏島の伊藤の別荘に移り、草庵は完成されましたが、東屋が起草の地であるとして、昭和10年(1935)「憲法草創之処」という記念碑が金子堅太郎書で東屋裏庭内に立てられましたが、東屋廃業後は現在地より40mほど東に移されています。



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category: 横浜市

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舟で越された観音さん  

金鳳山景徳寺
臨済宗円覚寺派
本尊:十一面観音菩薩
開山:夢窓国師の弟子、仏観禅師が1300年代に開山
所在地:横須賀市船越1-61


船越(ふなこし)の地名のいわれ
横須賀の長浦湾を北に向うと船越である。
いかにも何かが船で越えてきた話がありそうである。
昔の船越は、静かな漁村だった。
正平の昔というから、今から637年ばかり前のことである。
春のうららかな三月の明け方、浜辺の老若男女が網を干すため海辺に出かけた。すると2~300m沖合いかと思われる波の上に赤く塗られた小さな舟が見えたり、隠れたりして波に揺られていた。
村人たちは不思議に思って舟に近づいて見ると、小舟の中には金色に光る一尺ほどの観音像が置かれていた。
村人はおどろき、おそれおののきながら舟を岸に寄せて観音像を景徳寺におさめ、守り本尊としてこれを祀った。
小船もいっしょに納められて、村人の信仰をあつめた。
観音さんが舟で越されてきたので「船越」の地名が出たと言われている。
出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦著

2013081511.jpg景徳寺全景

2013081512.jpg景徳寺本堂

2013081513.jpg観音堂

2013081515.jpg観音堂内は馬頭観音が祀られています



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騒音の国道脇の庚申堂  

庚申堂

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2013081503.jpg三面六脾の馬頭観音

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穴守不動尊  

国道16号線下り側




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旧伊藤博文金沢別邸  

旧伊藤博文金沢別邸
旧伊藤博文金沢別邸(横浜市金沢区野島町24)は、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文公により、明治31年(1898)に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風別荘建築です。
明治期、富岡などの金沢近辺は東京近郊の海浜別荘地として注目され、松方正義や井上馨などが別荘を設けました。その後大磯・葉山など湘南地方が別荘地として栄え、金沢はその役割を終えました。金沢別邸は、当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構です。
本施設は内外ともに無料で見学できます


2013081423.jpg客間から見た八景島シーパラダイス

2013081424.jpg湯殿

2013081425.jpg明治憲法草案(複製)
横浜開港資料館蔵

伊藤博文公について
伊藤博文公は天保12年(1841)周防国(山口県)にて百姓の林十蔵・琴子夫妻の長男として生まれ、幼名を利助といいました。利助が12歳のとき、父十蔵が萩藩の中間伊藤直右衛門の養子となり以降伊藤姓を名乗るようになります。
安政4年(1857)に松下村塾に入り、吉田松陰に学び、桂小五郎や高杉晋作、井上馨や山縣有朋らと倒幕運動に奔走します。
維新後は、政府の近代化政策の中心的役割を担い、明治18年(1885)弱冠44歳で初代内閣総理大臣に就任しました。4度の内閣組閣と枢密院議長、初代韓国総監を経て、明治40年(1907)公爵を授与されています。
明治42年(41909)10月26日、中国黒龍省のハルピン駅で68歳の生涯を閉じました。
出典 公益財団法人横浜市緑の協会発行のリーフレットより



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野島夕照・・・金沢八景  

夕照橋(中央の白い橋)と野島の遠景
2013081402.jpg野島への架け橋(夕照橋)
金澤は金沢八景と言われるように、古くから風光明媚な所であります。
夕照橋は八景のうち野島夕照にちなんで命名されたものである。
2013081403.jpg夕照橋2013081404.jpg野島側から見た夕照橋

歌川広重の描いた金沢八景の一つ・・・野島夕照(のじまのせきしょう
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野島は左手に描かれ、たくさんの舟が舫やいされている、百軒の家があったというから、夕映えを描いているこの原題にぴったりである。夕方近く漁は盛りで投網を引く人や、手前の屋形船は客を乗せて魚をてんぷらにしているのだろうか。
和歌 夕日さす野嶋の浦にほすあみの、めならふ里のあまの家々

歌川広重の金沢絵について
歌川広重は江戸末期の浮世絵師のなかで、「東海道五十三次」に代表される道中絵図や諸国名所絵など多くの傑作残しています。これらの連作を完結させ、近江八景に次ぎ、金澤八景の連作は画家として評価の定まった円熟期の作画である。金沢八景の絵といえば、まず広重を思い浮かべるほど広重の描いた金澤絵は他の絵師に比べ群を抜いて多く、数十種類を数えます。よく目にする大錦絵「金沢八景」シリーズの八枚揃えはその代表的な版画です。
和歌は江戸時代の寄合衆で国学者の京極兵部高門が詠んだもの。

引用 金沢八景の文化と美術(県立金澤文庫編)その他による。



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荒崎の奇勝と歴史と悲話  

このあたりの海岸の岩石は、数千万年前、まだ三浦半島が海底であった頃に堆積した黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩の層により形成されます。
またこの二種類の岩石の層は洗濯板のような凸凹をした特殊な地形となっています。
これは、岩石の硬軟の差により起こる水や風などの外的な力による差別浸食ばかりでなく、水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で長い年月をかけて変化してきたためと考えられています。
城山は頂上にわずかの平地を残し周囲は絶壁となっています。
かってここは、鎌倉幕府創設に貢献のあった三浦一党の荒次郎義澄の居城跡と言われています。
また幕末の頃には幕府の命により彦根藩が台場を築いた所でもあります。
<横須賀市>
城山


2013081122.jpgドンドン引き

瞬く間に潮が引くことからドンドン引きという。

2013081123.jpg十文字洞
以前は中で十文字になっていたが、今は崖崩れ等で中には入れません。

2013081124.jpg岩礁地帯
ハイキングコースになっています。

お仙が鼻の悲話
女のエレジーは岩に刻まれて残るようである。
昔、お仙と言う気の優しい美女が、とげられない思いに身を焦がして、ついにこの岩鼻から身を投げて、海に沈んだのでこの名が残されていると言う。

お仙が鼻

category: 横須賀市

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国道脇の山の上にたたずむ神社  

長浦神社(横須賀市長浦)
文禄四(1595、後陽成天皇の御代・豊臣秀吉の時代)の勧請
祭神 イザナギノミコト イザナミノミコト 猿田彦命


2013081112.jpg   2013081113.jpg

2013081114.jpg
台座には右から
大正十五年十月建之
御遷宮記念
田之浦青年団
と書かれている。



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①長浦神社 ②吾妻神社

category: 横須賀市

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女の願いを叶える神様  

吾妻神社
横須賀市長浦
祭神 ヤマトタケルノミコト オトタチバナノヒメ


網にかかった玉の櫛

今からおよそ1900年ほど昔と言うから景行天皇(71~130)のころ、横須賀の箱崎に住んでいた一人の海女が住んでいた一人の海女は今日もまた海に漁に出た。
あげ潮の海は水がたゆとうしてあふれていた。
あげ潮ににのって沖から魚が岸に泳いでくるにちがいない。
海女は磯の上から投げ網をひと網入れた。
網は手ごたえがあって重く感じられた。
魚にまじって女の使う櫛がかかっていた。
櫛には宝石がちりばめられて輝いていた。
海女は不思議に思いながらも家に持ち帰って大事にしまっておいた。
それから数日たったある日、走水沖合い(横須賀)でオトタチバナヒメの入水のうわさを人から聞いた。
もしやあれは?海女は網にかかった宝石の輝く櫛を思い出した。
私ごときのものが家にしまっておくのは恐れ多い。
海女は箱崎半島の上に小さな祠を造ってこの櫛をおまつりした。
誰が言うとはなしに「お吾妻さま(おあずまさま)」と呼んで、女の願いを叶える神様としてあがめられた。
それからずっと時代は下がって、明治になってから箱崎半島は軍用地になったので移され、現在は国道15号線吾妻トンネルの上に祀られている。

出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦著

吾妻神社鳥居

吾妻神社祠

鳥居脇にある道祖神

嘉永七寅五月製作の手洗い鉢

参道


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category: 横須賀市

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幽霊地蔵・・・東京光福寺  

今回は、東京に用があって出かけたついでに、撮ってきました。
開運山光福寺
浄土宗

東京都港区高輪3--14
光福寺本堂

開運稲荷大明神
開運稲荷略縁起
光福寺境内に鎮座せる開運稲荷は昭和二十七年堂宇新装以来、毎年二本榎二丁目、西町在住の講中を中心に盛大に祭礼が勤められてきた。寒中二の午、法鼓を響かせ幢幡を響かせて、町内親しむ年中行事であり、ご利益を蒙る者は後をたたない。また開運くじは行事盛行に与っている。
しかるに五十の春秋を経過するほどに、地区名の変更、転出入による近在の居住者の移動が増加した今日、講中ならびに檀信徒結束して開運稲荷の隆盛をはかることとなった。
ここに講中、檀信徒各位の名を記して稲荷社の護持の誓いとするとともに、家内安全、身体健全、商売繁盛、学業成就を祈願し奉るものである。

平成十三年二月二十四日(二の午)
開運山高縄院光福寺 大三十二世住職 達譽善應   他檀信徒総代

ゆうれい地蔵
ゆうれい地蔵

線画ではありません



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category: 東京

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法力で怪猫を退治  

金剛山正禅寺横須賀市浦郷町4--5

山門

本堂

六地蔵

自徳寺(横須賀市追浜)の末寺で、臨済宗建長寺派で、本尊は正観音である。
開山は大永年間(1521~1528)建長寺169世であった賜谷幢和尚で、和尚が鎌倉報国寺13世の住持であった時、永正二(1505)60歳の老齢で法力を以って怪猫を退治した。

出典 三浦半島の仏教寺院と神社 高木俊雄



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category: 横須賀市

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豫科練誕生の地  

豫科練とは
海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
称は五年六月一日第一期生入隊以来、昭和十四年二月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より選ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に、第二次世界大戦においては南海の空にと唯々国の為同胞の為にと信じて各地に勇戦敢斗赫々たる武勲を残して、その大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同、今は亡き同窓の英霊を偲びて、思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑なり。
昭和五十六年六月一日
予科練一期生より十期生まで生存者一同


海軍飛行予科練習生制度(予科練)について
海軍飛行予科練習生は「予科練」として知られ、昭和五年に当時の横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊しました。
その後昭和十二年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)制度と改められました。
・・・・横須賀海軍航空隊にかかる沿革・・・・・
昭和四年十二月二十九日  予科練習生制度創設
昭和五年六月一日       横須賀海軍航空隊に予科練習部を開設(第一期)
昭和十一年十二月四日   予科練習生を飛行予科練習生に改称
昭和十二年五月       甲種飛行予科練習生制度を創設
                 従前の制度を乙種飛行予科練習制度と改称
       九月一日    甲種予科練習生入隊(甲一期)
昭和十四年三月一日      霞ヶ浦海軍航空隊へ移設

海軍航空発祥の地記念碑

右に夏島、左に野島を望見し、海に向ってのびていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った追浜神社や気象観測所があった。
1912年、同隊において実施された”日本海軍の初飛行”を記念して、当初の碑は1937年この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、戦後五十年目の1995年、この碑は関係者により現在地に移設された。

海軍砲台跡

公園頂上から見た現在の追浜



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category: 横須賀市

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榎戸薬師・・・横須賀市正観寺  

医王山正観寺(横須賀市浦郷2--79)
正観寺山門

本堂

薬師堂(五一薬)

薬師如来

浄土宗鎮西派 良心寺の末寺である。
本尊は阿弥陀仏(木像)
薬師如来とともに智証大師の作と伝えられ、開山称誉源公上人夢中感徳の霊仏であるという。
爾来守護本尊仏として日夜尊崇し、諸国修行中も笈(物をいれ背負う箱)中に奉安して供養せられた。
ある日、三浦半島を一周された帰途、走水から榎戸港に上陸せられたところ、土地幽静(奥深くて物静か)で風光明媚であったので「之我が有縁の地なり、之我が往生の地なり」と終に笈を下ろして庵を結び、薬師如来を安置して朝夕供養せられた。
土地の人々もいつしかその徳に化せられ、厄除け、本尊薬師如来として崇拝するようになった。
今では榎戸薬師として親しまれている。
出典 三浦半島の仏教寺院と神社 高木俊雄著


本堂前で迎えるお地蔵さん



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