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身重の愛妾が自害した川辺の里  

なもた坂出入り口
バス停の油壺入り口から小網代に向かう途中の右側に真光院(浄土宗がある。
この寺の裏に、三崎に通じる旧道で木立に暗い上り下りの急坂があり、これを「なも田坂」という。この坂の途中には昔、名主であった高橋家があり,この高橋家の字名を「なも田」といい、この地の人たちはこの呼び方であることから、この坂を「なも田坂」と呼んでいる。
今は昔、小網代の若衆たちはこの坂を行き来するときに「三崎通いとなも田の坂は親の意見でやめられない」と大きな声で歌いながら三崎に通ったということである。
この坂を下りた奥深い渓谷は、田んぼで山すそを流れる小川には土橋がかかっている。
新編相模風土記には「土橋、小柴に架す。なも田橋といい、三浦道寸の妾自害せし所という。婦人産後に渡れば禍あり」とある。
この渓谷の流れに架る土橋には、三浦道寸の愛妾の出産の忌みの哀史を秘めた伝説が残されている。
永正の昔、北条方の軍勢に追われた三浦道寸の居城新井城(油壺マリンパークの近く)が危うくなった頃、従者を連れた道寸の側室は戦火を逃れてこの坂を下りやっとのことで渓深い小川のほとりに差し掛かると、身重であった愛妾は、この橋のたもとで出産してしまった。こうした無理な行動に子供は死産してしまった。そこで側室は悲しみを秘めて橋のたもとにその子を埋めて、手厚く葬ったあと、若き生涯をこのさびしい川辺で自害果てたということである。
こうした話のあと、この小川に架けた土橋を渡るときには、産後三十三日を過ぎないうちに女性が渡ると必ず同じお産の苦しみを味わうといわれ、また産後に亡くなった女性はあの世でも同じ苦しみに会うという俗説があって渓谷に潜ると小川の中には、白いサラシ布に「南無阿弥陀仏」と書いた小さな旗が野ざらしのまま立っていて、陰惨な中に粛々と秋風に吹きされているさまを見かけたということです。
また此処を通るときは、この白いサラシ旗に水をかけ、濡れてる間は仏が成仏できるといい伝えられ、若き女性がこの旗に川の水をかけながら「かけておくれよ川ざらし」と唱えながら拝む後姿をよく見かけたということである。
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著
本文中の赤い文字をクリックすれば「真光院」にリンクしています
現在、この近辺は住宅地になっており、「なも田坂」はあるものの、川・土橋は見当たりません
mjz22jUCw87oYsh1380540898_1380540912.jpg太子像と庚申塔

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mnhpW67s_HM04Yo1380540940_1380540951.jpgなも田坂

スタート・ゴールとも御崎口駅。バス利用の場合は御崎口から乗って油壺入り口下車で行けます。


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category: 三浦市

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生きながら仏になった入定様  


横須賀ー逗子を結ぶ県道からイトーピア住宅地に曲がる路地奥に地蔵院という寺がありました。明治の初めごろ寺はなくなりました。が、その寺の境内だったところに「千手院圓求大法師」と刻まれた入定様(円求)のたまご型の墓石があります。
円求は桜山中里の矢部長左衛門の息子で、弟の尭鎮(ぎょうちん)は紀州運蓋院(うんがいいん)の住職となり、兄弟そろって名僧といわれています。二人とも神武寺(横浜市)で修行したお坊さんです。
入定とは地中に穴を掘り、その中に入って生き埋めの状態になります。穴の中で正座して鉦を打ちながらお経を唱え続けます。鉦の音が途絶えた時を命の絶えたしるしとしてそのまま葬ってもらいます。
生きながら仏になることです。
円求は諸国を巡って修行した末、ふるさとの桜山に戻りました。
そして寛政六(1794)七月、六十九歳でこの地、地蔵院境内において入定し、七日後仏になったと伝えられています。
出典 「逗子子供風土記」 逗子教育委員会

横浜市金沢区にあるここにもあった入定塚をクリックしてください
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category: 逗子市

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前島密は漢字廃止論者だった  

横須賀市の浄楽寺に墓のある「前島密(まえじまひそか)については、数ある功績の中で、実は漢字廃止を建議している。
次に、前島密の業績について述べて見ます。
資料は「郵政資料館」発行の「前島密業績絵画から抜粋しています

業績「1」・・・「漢字廃止」を建議
 前島密は、慶応二年(1866)に「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出した。これは国民の間に学問を広めるためには難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨のもので、わが国の国語国字問題について言文一致を提言した歴史的な文献である。彼は青年時代、江戸から帰省したとき、みやげの絵草子と三字経を甥に教えてみて漢字教育の難しさを痛感し、漢字廃止を思い立ったという。
その後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んだ。

業績「2」・・・江戸遷都を建言
 明治政府は新しい首都をどこにするか検討していた。前島密は、慶応四(1868)年に大久保利通の大阪遷都論を読んで、これに反対し、遷都の地はわが国の中央にあたる江戸でなければならないと大久保に建言した。この意見は大久保を動かして、その実現を見た。この年江戸は「東京」と改められ、十月に天皇は東京に行幸し、江戸城は皇居となった。
業績「3」・・・鉄道敷設の立案
前島密が明治政府に出任して間もない明治三(1870)年、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積もりを作るように命じられた。当時わが国にはその標準となるような資料は全くなかったが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げた。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという。
彼はこの案に「鉄道憶測7」と名づけている。
品川・横浜間に鉄道が仮営業したのは明治五(1872)年五月、新橋・横浜間の正式開業は九月であった。

業績「4」・・・郵便創業
明治四(1871)年三月一日(新暦四月二十日)、東京・大阪間で官営の郵便事業が開始された。これは前島密の発議によるものであった。そして彼は大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、明治三(1870)年から11年年間もの長い間郵政の長として熱心にこの事業の育成にあたり、その基礎を築いた。そのため「郵便の父」とたたえられている。「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉である。
その他数多くの業績を残している。

浄楽はこちらから

category: 横須賀市

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へそ薬師・・・太寧寺  

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太寧寺と薬師如来立像

海蔵山太寧寺(たいねいじ)
臨済宗(建長寺派)
本尊 薬師如来立像(横浜市指定有形文化財)

この薬師如来は土地の人は、へそ薬師と読んでおり、次のような話が残されています。

へそ薬師
源範頼の墓として有名な太寧寺は薬師如来を本尊としています。
地元では「へそ薬師」として読んでいます。
「へそ」と言っても、おなかの真ん中にある「へそ」ではありません。
昔、紡いだ糸を繰って、小さな玉に巻き取ったものを綜麻(くりへそ)といいました。
その意図だまの「へそ」のことです。
ある時、この村に貧乏な少女がいました。両親に早く死に別れてしまい、父母の命日がきてもお供えするだんご一つ買うことが出来ません。
お金をためて父母の供養をしようと思い立ち、朝早くから夜遅くまで一生懸命糸を紡ぎ、それを「くりへそ」に丸めました。それを機織りの人に買ってもらおうとしましたが、なかなか思うように売れません。
ある日のこと「今日も売れなかった」とくりへそをいっぱい抱えて日暮れの道をとぼとぼ帰ってきました。
その道で一人のお坊さんに出会いました。
聞かれるままに訳を話したところ、なんとお坊さんはその場で全部買ってくれたのです。おかげで立派に父母の命日の供養もできました。
数日後、太寧寺の薬師如来の前に行ってみると、そのときのくりへそがそのまま残っていました。
お坊さんは孝心の篤い少女を助けるため薬師如来様が姿を変えたものだったのです。

出典 「金沢ところどころ」 佐野大和

p5iJoO8jC3kIZJi1380018351_1380018364_2013092419472744f.jpg源頼家の墓
伝源範頼の墓
横浜市地域史跡
鎌倉初期の武将源範頼(みなもとのりより)は、源義朝の六男で、源頼朝の弟です。範頼は義経と同様に兄頼朝に疑われ、伊豆修善寺に幽閉され、梶原景時らの討手を受け最期を遂げたことになっていますが、太寧寺の寺伝では鉈切(横須賀市追浜)間で逃れて、海に向かいて建つ太寧寺へ入って自害したとされます。
また太寧寺の名は範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」からつけられたもので、当寺には範頼公の位牌や画像などが寺宝として遺されています。


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山本周五郎原作「赤ひげ診療譚」のモデルとなった「小川笙船藤原廣正」(雲語子之墓

雲語子之墓の由来
「雲語子」とは、「小川笙船藤原廣正」(漢文十二年壬子(1672)、江戸の生まれ、宝暦十年庚辰(1760)六月十四日、江戸で亡くなる。享年八十九歳)といい、八代将軍徳川吉宗の時代、目安箱に身寄りのない人や、生活に困ってる人々のための医療施設(施薬院)の設立を申し出た。これが幕府に認められ、享保七年(1722)十二月、江戸小石川御薬園内に「小石川養生所」として開院し、初代肝煎(医院長)として活躍した。この業績を認められて、時の町奉行大岡忠相から幕府の医師として推挙する申し渡しを高齢を理由にして辞退し、養生所二代目肝煎役を、倅の隆好に譲り隠居した。その後小川笙船は風光明媚な満
湘としたこの地をこよなく愛し、晩年の三年間を瀬ヶ崎邑ですごし、病気となり江戸に戻った。小川笙船は宝暦十年六月十四日、八十九歳で病死したが、枕元の遺言として笙船がすごした瀬ヶ崎邑の山の手に建つ海蔵山太寧寺に歯を納めた。このとき住職は、笙船は、「山に居るときは海を語り、海に居るときは雲を語る」と聞き知ることから笙船を「雲語子」と名づけ、ここに「雲語子之墓」を建てた。

案内板より

category: 横浜市

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鎌倉の鬼門除け・・・・朝比奈熊野神社  

熊野神社
源頼朝が、鎌倉幕府を開いたとき、鎌倉の鬼門除けに、紀州の熊野権現を勧請したのが始まりだと伝えられます。権現はもと仏教の言葉で、人間界を救うために権(かり)に姿を現した神様という意味です。
元禄八年(1695)、当時相模国鎌倉郡峠村呼ばれていたこの地の地頭、加藤太郎左衛門尉良勝が社殿を再建して以来、安永年間(1772~81)、嘉永年間(1848~54)と。たびたび修築が行われました。熊野権現は里人の間では、安産・子授けの神様として信仰されています。
毎年九月十七日が零細日で、当日午後からは、鎌倉時代からの古式によって湯立て神楽が行われます。

出典 「金沢ところどころ」 佐野大和著
ご祭神:速玉男之命 伊邪那岐命 伊邪那美命

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zqGuJYpY6rQN_km1379920536_1379920551.jpg切通から分かれ道を参道へ

category: 横浜市

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一晩で出来た?朝比奈切通(伝説)  

朝比奈切通頂上付近
仁冶二年(1241)北条泰時が、鎌倉と六浦湊を結ぶために造ったもので、軍事・政治経済的にも、重要な幹線道路でした。現在では鎌倉七口の一つとして国の指定史跡になっています。
詳細な記述は
朝比奈切通にリンクしています

土地の伝説では、むかし朝比奈三郎義秀が一晩のうちに切り開いた峠だといい、それが朝比奈峠、朝比奈町の地名の起源になったものです。
朝比奈三郎義秀は、源頼朝に仕えた侍所の別当和田義盛の三男で、母は女ながらに豪勇で知られた巴御前だといいます。
義秀も父母の地を引いて、怪力無双曽我五郎と鎧の草摺がちぎれるほどの力比べをした話は有名です。
和田氏の安房国朝夷((あさひな)郡に生長したので朝夷三郎と呼ばれました。
北条氏が和田一族を滅ぼしたのが建保元年(1213)ですが「吾妻鏡」によると、この和田合戦のとき、朝比奈三郎も父義盛とともに、勇戦奮闘しましたが、衆寡敵せず、残兵を率いて船で安房国へのがれ消息を絶ったとされています。

出典 「金沢ところどころ」 佐野大和著

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category: 横浜市

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人面蛇神の石仏・・・立石滝不動堂  

立石滝不動堂
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2013092215.jpg 2013092214.jpg
2013092218.jpg奥の院[滝不動]
2013092219.jpg不動の滝
2013092220.jpg人面蛇身
横須賀市内では珍しい「宇賀神」という人面蛇身の石仏であり、宇賀神は水に関する一切の神で、農村においては豊作、漁村では大漁を祈る神として広く信仰されている。

category: 横須賀市

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朝比奈切通し(鎌倉七口の一つ)  

鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口で、現在 一般に言われるのは以下の7つである。 極楽寺坂切通し; 大仏切通し; 化粧坂; 亀ヶ谷坂; 巨福呂坂; 朝比奈切通し; 名越切通し
朝夷奈切通
朝比奈切通は、鎌倉幕府が、仁冶二年(1241)に鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶ重要交通路として、山稜部を開削して建設した道路です。幕府の歴史を記録した「吾妻鏡」には、執権北条泰時が自ら現場に出向いて工事を指揮したとあります。当時の六浦には天然の良港があり、切通の開通によって幕府はこれを鎌倉の外港とし、東国や中国大陸との物流の拠点としました。六浦と朝夷奈切通は、幕府と都市鎌倉を政治的・経済的に支える重要な役割を果たしました。
朝夷奈切通は、その後崩落するたびに改修されて現在に至っていますが、横浜市側に小切通、市境の峠に大切通という山を深く切り下げた特徴的な遺構や、道沿いに中世の納骨施設である「やぐら」が多く残っています。また大切通の南側山腹には鎌倉の守護神と伝えられる熊野神社があり、江戸時代に再建された後、氏子たちによって社殿と祭事が現在も受け継がれています。

横浜市教育委員会
Asaina Kiridoshi Pass is a road that the Kmakura shogunate had built in 1241 as a
major traffic route connecting Kamakura and Mutsura(precent-day Kanazawa Ward,Yokoha-
ma City) by constructing a mountain ridge. According to the "Azumakagami",a historic
-al record of the shogunate the third regent Yasutoki Hojo personally supervised the
construction works. In those days,Mtsura had a good,natural harbor,which the shoguna
-te made into Kamakura's outer harbor as well as into the physical distribution cent
-er for the eastern provinces and mainland China after opening the Pass to traffic.
Mutsura and Asaina Kiridoshi Pass played a major in supporting the shogunate and
Kamakura City politically and economically.
Asaina Kiridoshi Pass has beenn renovated on each occasion of its collapse.On the
Yokohama city side is Ko-kiridoshi(smsll kiridoshi);and on the mountain pass by the
border of Kmakura and Yokohama cities is O-kiridoshi(big kiridoshi);both
characteristic remains made by deeply excavating the mountain.
Along the road are also a number or charnels called "yagura" dating from the medieval
period. The hillside to the south of O-kiridoshi is the site of the Kumano shrine,whi-ch has been passed down as Kamakura's guardian deity. Since the shrine was rebuit
in the Edo period.
parishioners have maintained the buildings and held ritual events up to the present
time.

Board of Education,Yokohama City
朝比奈切通し(横浜側)

2013092202.jpg切通

2013092208.jpg中世の墓といわれるやぐら

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一晩でこの切通を造ったといわれる伝説は朝比奈三郎義秀
鎌倉の守護神熊野神社

category: 鎌倉市

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空に色鮮やかな雲がたなびき・・・岩殿寺  

山門
2013092104.jpg本堂7
相模国三浦郡久野谷村(神奈川県逗子市久木)海前山護国院岩殿寺(現在は海雲山岩殿寺)の由来は、今からおよそ千三百年もの昔、大和の国(奈良県)の長谷寺の開山、徳道上人(656~735)がこの地に下向されたときに始まる。
徳道上人がこの地の近くまでこられたとき、空に色鮮やかな雲がたなびき地上からは一筋の光がその雲に突き入るのを見た。上人がその光の出所をお探しになると、そこにはひときわ高く聳える奇岩の峰があり、三方に屏風のような岩がそば立ち、中央は平らで絨緞のような苔が生えていた。
上人は「ここは清浄無塵の禅窟なり」としてそこに禅床をつくり、坐して勧請された。夜も深まり三更にいたるころ、いずこからともなく十一面観音陀羅尼を唱える声が三方の岩々にこだましつつ聞こえてきた。
不思議なこともあるものだと思いながら更に上人が陀羅尼を念誦し続けていると、一方の岩肌に光明が降り注ぎ、十一面観音のお姿が浮かびあがった。そのとき麓より一人の老翁が登り来て、ともにその尊容を拝した。そして上人に向かって申すに「ここは大悲垂応の霊堂です。。私はそのお姿を拝しており、ずっとその尊容をお守りして久しくなります。この地は花を祭る山です。どうか万民のためのよき霊場を作ってやってください」と語り終えると、老翁はかき消すように姿を消してしまった。
上人は、今の老翁こそ熊野権現の化身に違いないと感じ、そこで木を伐り石を積んで社を構え、仏城興隆の鎮守として祀られた。そして、麓の村人たちに「この山はのちに大悲の浄刹になるであろう」と説いて大和の国に帰られた。 
その数年後行基菩薩(668~749)がこの地を訪ねたところ、やはり同じように瑞光をみてこの嶺に登り、大悲者の影向をみたこと徳道上人のそれと同じであった。
行基菩薩は十一面観音の尊像をイワに彫り、この地を永く青門利生の霊場とされた。この寺が徳道上人、行基菩薩を開基とするのはその由縁による。
当山大悲殿(観音堂)よりは、近くは相模湾に面した逗子の海を、また遠くは三浦半島はもとより、伊豆・房総の半島を一望できる絶景の地であることから。山号を海前山(現在は海雲山)」また、岩窟が自然の殿堂のようであったので寺号を「岩殿寺」としたといわれる。
正暦元年(990)三月十七日花山法皇が来山され、御自身導師となられて百僧供養御法要を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元蜜上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
承安四年(1174)四月十八日後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場にお定めになった。
また、源頼朝公が伊豆の蛭ヶ小島で不遇の日々を送っていた頃、当寺の本尊を篤く信仰し、平家追討の石橋山の合戦での敗戦のおりには当山の観音様が船頭に姿を変えて海路房州(千葉県)まで案内し、無事に護り導くやいなや、たちまちのうちに観世音の妙容をあらわして三浦に飛び去ったとという伝説がある。
やがて鎌倉幕府のじだいになると、頼朝公は毎月欠かさず参詣され、朱印地を寄進された。
当時の記録として、文治三年(1187)に頼朝公の姫が参詣。承元三年(1209)には三代将軍実朝公が参詣されたとある。時代は下って、将軍徳川家康公は代官長谷川長綱に命じて境内の整備と田畑山林、諸堂宇の充実をはかられた。
出典  曹洞宗 海雲山岩殿寺発行の栞から
2013092107.jpg観音堂(大悲殿)
2013092108.jpg奥の院2013092106.jpg弘法大師が彫られたという爪彫り地蔵

横須賀市の爪彫り地蔵はこちらからリンクしています


そのほか、八角堂、三昧堂、神社、泉鏡花の池等、見るところがいっぱいあります。

category: 逗子市

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鎌倉五山(5)・・・浄妙寺(五山第五位)  

2013092002.jpg本堂
寺の略史
当寺は稲荷山と号し、鎌倉五山第五位の寺格を持つ臨済宗建長寺派の古刹である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し。はじめ極楽寺と称した。開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257~1259)と見られる。
歴代の住持には約翁徳倹(やくおうとくけん)・高峰顕日(こうほうけんにち)・竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・天岸慧広(てんがんえこう)など名僧が多い。中興開基は足利尊氏の父貞氏(さだうじ)で、没後当寺に葬られた。
至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭(たっちゅう)二十三院を数えたが、火災などのため暫次衰退し、現在は総門・客傳・庫裏等で伽藍を形成している。

境内は国指定史跡
This temple was built bay Ashikaga Yoshikane,a chief supporter of Mnamoto Yoritomo
since he raised an army at Izu. The founding priest was Taiko Gyoyu. Gyoyu was a high priest,responsible for the conversion of Minamoto Yoritomo and Msako.
It is a Zen temple,the fifth highest ranked among Kmakura's five principle temples.
During the Muromachi Period,it was extremely large.with 23 other temples situated
within its grounds.
Currently the remaining structures are the main gate,the main temple building.the
reception hall,and the utility area.The ceremonial teahouse"Kisen-an"and the Zen rock
garden were restored in 1991 .
Behind the main temple building,is the Kamakura Inari Shrine,which is said to be
where the name "Kamakura"is derived from.

2013092001.jpg総門
2013092003.jpg足利貞氏の墓
2013092005.jpg本堂内
2013092004.jpg日本庭園

各五山へのリンク
五山第一位:建長寺
五山第二位:円覚寺
五山第三位:寿福
五山第四位:浄智寺

category: 鎌倉市

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田越川原は死骸の埋葬地  

亀井地蔵尊
亀井地蔵尊の由来
田越川原は大昔には死骸の埋葬地でした。
中世は処刑場となり
六代御前三浦胤義の子供たち此処で首を切られました。
吾妻鏡の嘉禄元年九月八日の条には、北条泰時や三浦義村が弁僧正の弟子達供養のため、八万四千基の石塔を建てた旨が記されています。
今、たっているこの場所は大墓といって長い間の共同墓地でした。
かって写経石や土師器(はじき)の破片等が出土しています。
此処にあった墓石は延命寺や妙光寺ほか近くの寺に移されました。閻魔堂がありましたが中にあった閻魔は延命寺に移され今も祀られています。
亀井地蔵尊は此処に尊く葬られています。

多くの霊を供養するために建立されました
謹んで合掌し奉ります

開眼供養 内田武雄
延命寺住職 

文中赤字はそれぞれリンクします。

category: 逗子市

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逗子の横穴古墳群と熊野神社  

い号古墳NWFVWgJCkvtRNZy1379579406_1379579421.jpg2号古墳
bq1jj7dJMqgJQ1F1379579045_1379579067.jpg3号古墳
逗子市山の根地区の丘陵地(JR逗子駅裏付近)には、八十八穴言われる多数の横穴が存在していましたが、昭和初期以降の宅地造成などで多くの横穴が切り崩され、現在では三十数か所が確認されているようです。
昭和二十九年に神奈川県教育委員会で発掘調査を7行いましたが現存する横穴のほとんどは私有地にあり、また管理も不十分で公開されておらず参観できるものはありませんでした。
ここ熊野神社の社殿裏の保安林内の横穴古墳群については昭和四十六年に2基を発掘調査し、その後は参道もないために忘れ去られていました。之が幸いして保存状態は良好で、唯一の公開できる古墳群として見学路を整備し一般に開放することにしました。
ここの古墳は七世紀はじめから八世紀末の200年間に造られた模様で、発掘した2基の中では出土品から推定してNo.1横穴が七世紀はじめ、No.2横穴が八世紀のもので、さらに鎌倉時代(13世紀)の灯明皿の出土から、鎌倉時代に「やぐら」(武士階級の墓)として利用されたようです。No.1とNo.2の横穴では構造が違っており更にNo.2横穴には壁画または梵字らしいものが掘り込んであります。古墳時代の出土品が少ないのは、鎌倉時代に清掃されたからではないかといわれています。
ここ熊野神社神社横穴古墳群は7基からなり、公開しているのはNo.1からNo.3の3基で、No.3からNo.7の横穴は未発掘でこのまま後世に残したいと思っています。
見学路は簡単な階段があるものの、急斜面であり危険な場所です。
また横穴には入らないように柵がありますので、無断で立ち入ったり、落書き・勝手な発掘はしないようにお願いします。
熊野神社氏子総代会
ELSjOrVJlBo8Qoe1379579146_1379579156.jpg熊野神社
由緒
明治二年社殿炎上のため古記録はないが、源頼朝の勧請と伝えられている。当時は荘厳な社殿と松並木が続く参道があったとされる。
明治二年、廃仏毀釈となった旧松本寺(しょうほんじ)の建物を神社の神殿とした。
境内の水鉢は天保四年の銘があり、旧松本寺の遺物である。
なお、旧松本寺はここ熊野神社の下にあったようである。
mKkFfY9ToAEykd91379579189_1379579204.jpg天保四年銘の水鉢

category: 逗子市

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若命家の長屋門と秋谷神社  

長屋門
USpCesjbvTy63qo1379499180_1379499193.jpg秋谷神社

若命家について

若命家の庭続き(写真長屋門の左端に石段があります)に秋谷神社という村の鎮守社がある。神社の由緒書きによれば、神社は元弘三年(1331)若命基盛というものが奉戴して秋谷村に移り来り、現在の地に奉祀舌のが始まりで、爾来村の氏神として村民崇敬の的となっているという。この社伝が真実であれば、若命家の先祖が秋谷村に移り来たのは今から645年前(この文書が書かれたのは昭和52年)ということになる。
また若命家の歴史を語る伝承によれば先祖は平氏の出で、「若名」を名のり、後「若命」に改名したといわれる。
これにより先祖は平氏の流れを汲んだもので、鎌倉時代末期既に秋谷の地に住みつき、爾来代々神社に奉仕していたことが推定される。

(文中の薄い文章はブログ作成者の注釈)
「相州三浦郡秋谷村(若命家)文書上巻より抜粋  横須賀史学研究会編

秋谷神社由緒書き
ご祭神 天照大神  大日孁貴命おおひるめむちのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)
     伊弉冉命(いざなみのみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと)
     木花咲耶姫(このはなさくやひめ)

御由緒
 当社は元弘元年[1332)に若宮基盛が祭神を奉戴し、相州葛原から秋谷へ移り、村民崇敬の守護神になったと伝えられている。
以前は「神明宮」と称していたが、安政六年(1859)に神社号を許され、以来「秋谷神社神明宮」となった。
現在は宗教法人「神明社」となっている。
現在の社殿は、天保七年(1836)に村民の寄進によって再建されたものである。
境内の八坂神社の祭礼は天王祭と称し、この日、神輿は若者衆に担がれ村内を巡行した。
神輿は海辺の御刈屋に七日間滞在し、その前後に湯立神楽が奉納された。
御仮屋の行事は現在のところ行われていない。


スタート地点は、横須賀市民病院


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category: 横須賀市

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逗子市は、一時期は横須賀市だった。  

逗子独立運動発祥の地

記念碑の銘文から・・・・・

逗子は昭和十八年(1943)軍の意向で強制的に横須賀市と合併させられたが、住民の意志で昭和二十五年七月一日に分離独立し、逗子町が誕生した。
戦後の混乱期に青年たちの発意から生まれた独立運動な成功した。
その後市制がしかれ逗子市になった。
ここに六十年を迎え逗子の基礎を築いた方々を顕彰し、独立期成同盟会発祥の地に記念碑を建立する。
平成二十一年十一月
逗子独立記念碑を建立する会




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category: 逗子市

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秋祭り・・・長沢熊野神社  


qyfQG2T21OwBlJm1379229681_1379229692.jpg山車の上で上で・・・KHFxWbSzjYSu9V21379229466_1379229482.jpg山車を先導役tVg8SUxBRwsSmsY1379229521_1379229533.jpgG1ic6Nbcv7YiJB91379229566_1379229578.jpg化粧直し0QDu0Spa69N9vRJ1379229605_1379229638.jpgまだ神輿のほうが楽です。

例年は、神輿は海に入るんですが、今年は台風の影響で中止となりました

category: 横須賀市

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近代郵便制度の功労者はここに眠る・・・浄楽寺  

浄楽寺本堂
金剛山勝長寿院浄楽寺といい、浄土宗である。
鎌倉光明寺の末寺で、本尊は阿弥陀三尊で、中尊の高さは141.8センチ、木造の寄せ木造りである。
脇侍仏は毘沙門天と不動明王の立像である。

国指定重要文化財・・・木造阿弥陀三尊像
阿弥陀三尊像とは、中尊(阿弥陀如来像)と脇侍の観音・勢至両菩薩を総称した呼び名である。
この三尊像は、関東地方では作例の少ない仏師・運慶の作と推定され、鎌倉時代前期を代表する貴重な仏像である。
寺伝によれば、源頼朝が鎌倉に建立した勝長寿院が大風で壊れたので当初に安置したとか、和田義盛が建立した七阿弥陀堂の一つの本尊あるなどの言い伝えがある。
三尊ともヒノキ材、彫眼寄せ木造りで、中尊の像高は141センチメートル、脇侍は178センチメートルである。全身の金箔と脇侍の宝冠、装身具、台座などは、江戸時代後期に補修されたものである。
中尊はどっしりとした量感があり、男性的な力強さを感じさせる。
脇侍は宝髷(まげ)が高く、腰のひねりなどの動きも自然で生き生きとし、三尊とも彫りの深い優れた像である。

横須賀市教育委員会

国指定重要文化財・・・木造不動明王立像・木造毘沙門天立像
不動明王は、仏道を守りあらゆる障害、困難を乗り越える力を持った仏である。
像は、岩座上に立ち火炎光背を背負い、右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持つ通常の姿であるが、力量感に富んでいる。正面をかっと見据えた忿怒相(ふんぬそう:怒った顔の様相)が、この像の凄みを一層増している。
像は寄せ木造りの玉眼入り、高さ138センチメートルで、台座や光背は後に造られたものである。
文治五年(1189)に仏師・運慶によって造られたことが、胎内の銘札により確認されている。
毘沙門天は、古代インドの神であったが、北方の守護神として仏教に取り入れられ、また福徳の神としても敬われている。
腰をひねり、右手に鉾(ほこ)を握り締め、左手には五輪塔を乗せ、両足の下に邪鬼(じゃき)を踏まえた姿である。
像は寄せ木造りの玉眼入り、高さ139.5センチメートルである。均整の取れた体からは躍動感がほとばしり、両目をカッと見開いて正面をにらみ、口元を引き締めあごの張った顔は力強さと逞しさがあふれている。
昭和三十四年に胎内から杓子型の銘札が見出され、仏師運慶が文治五年に製作した像であることが判明した。
従来関東地方に作例がないといわれていた定説を覆した貴重な像である。

横須賀市教育委員会

y6isczXuC_NOL3n1379085723_1379085738.jpg延命地蔵と六地蔵

前島密(まえじまひそか)とは
天保六~大正八年(1835~1919)
近代郵便制度の功労者である。
越後高田藩の出身
明治二年民部省に入って租税権正、駅遞権正、駅遞頭、駅遞局長と進み、郵便制度創始に尽力した。後、東京専門学校長、その後貴族
院議員、諸会社の重役として活躍した。
晩年この地に暮らした。
出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著
z_2mpI1sDDxczS81379085850_1379085859.jpg前島密の墓
meOLgxIvHHrOUjy1379085889_1379085902.jpg前島密像

スタート地点は横須賀市民病院
①浄楽寺  ②円乗院


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category: 横須賀市

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円乗院・・・その(2) へちま加持  

このへちま加持は、真言宗を開いた弘法大師が、庶民を助けるために行ったものと伝えられ、江戸時代の末期に四国のあるお寺から、この寺に伝授されたものといわれています。

この日、大きくなったへちまを持参して「、病苦退散、家内安全を願う人々が毎年中秋の名月の日に数多く寺を訪れます。

まず受付で「譲渡之証」と書かれた用紙に願を書き入れそれをへちまに巻いて提出します。
証書には次のような文面があらかじめ印刷されています。実際は縦書きのようです。


譲渡之証
今般拙者持病   貴殿へお譲り申処実
正也。然ル上ハ貴殿二於テ任意御左右被成候
共、毛頭故障申間敷候。依テ証書如県
   月  日
  糸 瓜 殿


やがて夜になると本堂に山と積まれた糸瓜(へちま)は、檀家の人たちの手によって久留和海岸まで運び出され、中秋の満月の光の中で、住職の読経を合図に糸瓜はなぎさから海へ流されます。
出典 「ときめきの探訪 三浦半島」 辻井善弥著yyksq60W8ypCKsP1379065479_1379065489.jpg境内から見た久留和海岸

円乗院についてはこちらから
円乗院・・・その(1)へ

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円乗院・・・その(1)  

円乗院本堂
この寺は、逗子市延命時寺の末寺で、正慶元年(877)、開山は朝賢である。真言宗
本堂正面には本尊の大日如来が安置され、右側には三浦観音札所二十七番の本尊で、行基作と伝えられる聖観音菩薩像がある。
また境内の閻魔堂には、閻魔大王を中心に十王が並び前には葬頭河婆(そうずかばばあ)がこちらをにらんで座っている。
更に境内中央には三メートルもあろうか石造り、弘法大師の半肉彫りの像がある。
これは弘法大師御遠忌を記念して造立したもので、すばらしい衣文の流れを見せた大師が相模湾を見下ろしている

出典 「三浦半島の古刹めぐり」 松浦 豊著
r6pIrI7NtC6RktG1379059735_1379059747.jpg閻魔堂
l68cVs6zO8Gnjvr1379059779_1379059789.jpg閻魔様と十王
jBcVkAi4zsk61Iu1379059691_1379059705.jpg相模湾を見下ろす弘法大師
lfc5Bf8bYc2_7GO1379059885_1379059897.jpg六地蔵

この寺では「へちま加持の祈祷が行われています
へちま加持の話へ


スタート地点は横須賀市民病院
①浄楽寺  ②円乗院


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category: 横須賀市

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大蛇退治にまつわる名僧物語  

天平時代の頃このあたりいったいは沼地で、しかも人の背丈ほどもある葦が生い繁り、恐れをなして近寄るものがなかったという。しかもこの沼地には恐ろしい大蛇の主が棲みつき、時々村中を荒らし廻っては人命を殺めることも、しばしばあって村人たちは大変困っていた。
この頃、この怪異なうわさを耳にした守護職の長尾左京大夫善応は、時の天皇にこの恐ろしい大蛇を一刻も早く退治してくれるようにと奏上し、部下を集めて度々協議を重ねていた。
ちょうどその頃、僧行基が諸国遍歴の途中、逗子の岩殿寺や神武寺などへ立ち寄っていたので、行基に大蛇の話をし退治方を懇請した。
すると行基は早速十一面観音像を自ら彫刻し、これを小船に奉じ経文を唱えて悪霊退散の祈祷をおこなった。
こうした厳かな修法が度々重ねて熱を増してくると、そのとき一陣の腥風(生暖かい風)とともに怪しい雲が水面に漂い始めやがて大蛇が突然として姿を現した。
三尺あまりの長い舌を火焔のように吐きつつ、しきりに毒熱を放って人々の乗った船に迫ってきたが、さすが観音の功徳によってか、大蛇はついに力尽きて倒れ、やがて巨体を水面に浮かべ動かなくなった。
このときぞと大蛇にその非を懇々と諭した。
すると大蛇はその非を悔い改め、村人たちを救うことを約してついに姿を消したということである。
のちになってこの里人たちは、この大蛇の死をあわれみ、守護職の善応は大蛇の棲んでいたこの池を埋め、諏訪神社を建立してお祀りすることになった。ところが大蛇には頭が七つあったので、頭一つずつ祀る七つの社が建立された。
これが今日この地方で七諏訪神社といわれている神社の由来である。
そして守護職の長尾左京大夫善応は行基の不思議な仏縁に深く感銘して寺の名を「長尾山善応寺」と名づけ
この像を安置したという。
然しいまはその寺もなく、ただ十一面観音像が平安時代の古様を伝えて、法勝寺に祀られている
出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著

法勝寺へは下記をクリックしてください
法勝寺

category: 逗子市

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法論で天台宗に勝った寺・・・法勝寺  

本堂
沼間山法勝寺といい、日蓮宗の寺で横須賀市金谷大明寺の末寺である。
本尊は三宝および十一面観音で行基の作と伝えられる。
もと、この地に天台宗の寺があったが、後、永仁二年(1294)日朗の弟子九老僧の一人大前阿闍梨(あじゃり日範)がこの地に来て改宗させ日蓮宗になったという。
法勝寺の名は天台と法論をして勝ったから、法勝寺と名づけられたという。
三宝(仏宝、法宝、僧宝)
  仏宝:釈迦牟尼仏 法宝:法華経 僧宝:日蓮およびその僧団

出典 「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木俊雄著

7IsyXJ15wzMq4qK1378988578_1378988590.jpg

十一面観音像については下記をクリックしてください。
大蛇退治にまつわる名僧

category: 鎌倉市

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源頼朝の父、義朝が勧請した神社・・・五霊神社  


祭神:天手刀男命(あめのたぢからおのみこと)
勧請年月日は明らかでないが、源義朝が沼間城の鎮護として勧請したと伝えられる。

d2b3HdSnZZVkX241378986095_1378986221.jpg神奈川県指定天然記念物
この銀杏の老樹は源義朝が当社の勧請の折に植えられたという。
樹高:25メートル
胸高周囲:6.7メートル
樹齢:約600年(推定)

yqZmSLBBiaLhaVO1378985836_1378985891.jpg   ZoGDrmDJz_vTMYk1378985994_1378986013.jpg
本ページにおける出典は
「三浦半島の仏教寺院と神社」 高木敏雄著

category: 逗子市

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豪傑が祠を背負って当地に鎮座  

白若稲荷
白若稲荷(しろわかいなり
緒書
横須賀市船越町三丁目二十二番地にお祀りする白若稲荷社はその歴史も古く、一説によると当地に鎮座する前は、相模国田越(たごえ)村(逗子市)方面より、船越三郎左衛門(年代不明)なる豪傑が祠を背負って当地に移し、鎮座なされたと言い伝えられている。
当時この地は人家も少なく、僅かな住民によって農業(養蚕・雑穀・野菜作り等)がなされ、おそらく、住民の五穀豊穣を祈念する守護神として祀られたものと思われる。
その後鎌倉街道の路傍に祀られ道行く人の安全を護るとともに、住民の信仰を更に深めるようになった。
また世相の移り変わりと共に、稲荷社はこの下の広場に移されしばらくの間鎮座していたが、守護神としての祠は高台にお祀りすべであるとの敬神者の願いにより、昭和三十五年五月有志により現在地に移鎮祭がなされた。
多発する交通事故を解消するために、現在では交通安全の守護神としても祈祷されている。
参拝者が年々増えていることは、白若稲荷社の発展と共に特筆すべきところでもある。

白若稲荷講中

cdL6CjFG6V20Hke1378981094_1378981108.jpg白若稲荷社参道

category: 横須賀市

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北条氏が戦勝祈願・・・十劫寺の笹塚不動  

十劫寺本堂
三浦氏が敗れ、北条早雲が三浦半島を支配するようになるや、野望に燃えた安房(千葉県)の里見義弘は、弘治二年兵船八十隻をもってをもって対立することになり、しばしば三崎に攻撃をかけ、北条綱茂はそのつど里見の兵舟を追い返してきた。
永禄十年里見氏は再度攻めようと水軍を率いて南下浦菊名沖(三浦市三浦海岸沖)に来襲してきた。北条氏はそのつど海上に出撃したが、折悪しくその日は風雨激しくなり、北条方は方向すらわからない暗闇で、味方の軍船は進退ここに極まった。
そのとき土地の豪族松原新左衛門が海岸に出て火を放ち、目標を教えたために無事に海岸までたどり着くことができたという。
翌日は天候も回復し、風波も収まったので再び里見軍を責め大勝利を得たということである。
その後、北条氏は村人の信仰があつい笹塚不動堂の前で神楽を奏し、新左衛門の功を賞出て感状を授けたという。
時あたかも永禄十年九月二十七日であったことから今でもその日を例祭としているという。
この不動堂は当時、字笹塚(三浦海岸駅前)というところにあって笹塚不動と呼ばれていたが、後、上宮田の村社である諏訪神社に合祀され、明治初年の神仏分離の際に現在の十劫寺に移されたのである。
十劫寺は江戸芝の西応寺の末で、村民新左衛門が堂宇の建造に尽くしたので開基となった。
今客仏として祀るこの不動像は、本堂左側の厨子の中に秘仏として安置されている。
この像は室町時代の作で、像高七十六センチ、寄木造り玉眼嵌入の色彩像で、忿怒の形相はまことに雄渾である。
なお、像底部には「鎌倉大仏所師、法眼、泉円」「天文十五年九月二十八日、本願新左衛門」と墨書銘がある。
仏師泉円は著名な快円の親であり、泉円唯一の作品として貴重である。(三浦市重要文化財指定)
永禄十年この不動尊の御前に護摩を焚きひたすら戦勝の加護を祈願した北条氏を思えばうたた感慨無量である。
またその頃から連綿数百年の星霜が過ぎ、往時神楽を奏しての身の安全を願った新左衛門や里人の姿がほうふつとして思い出される。

出典 三浦半島の史跡と伝説  松浦豊著

I2LrLBIt_Sov5KU1378809573_1378809634.jpg山門前の庚申塔

十劫寺については下記の「そらいろネット」をご覧ください
そらいろネット

category: 三浦市

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念仏布教に生涯を捧げた徳本上人  

徳本上人について
 徳本上人は庶民に信仰を広めるため、市井の中に入り、念仏を唱えながら民衆の教化につとめ、各地を行脚した。そして帰依者の求めに応じて「南無阿弥陀仏」の名号を書き、供養塔を建て念仏の布教に一生を捧げた念仏行者である。
 いま徳本上人の揮毫による念仏供養塔は各地にあるが、三浦半島の浄土宗の寺々だけでも二十数基ある。

 徳本上人は宝暦八年六月、和歌山県日高郡志賀谷久志村の漁師の子として生まれて、俗姓を田伏氏といった。彼は四歳のとき兄を失い、世の中に無常を感じ九歳にして出家を思い立ったという。
 しかし母が彼の願いを許さず、天明四年二十七歳のときようやく母の許しを請うて出家となった。そして翌年大滝山月正寺に於いて一日中縄床に端座し、日夜法衣を着たまま念仏を修行して苦行を続けた。
 寛政六年京都西山比叡の宗祖法然上人の旧跡を参拝し、至るところに念仏布教に勤めながら、行脚した。
 その頃増上寺典海大僧正は彼の徳を称嘆され、関東への招きを願っていたので、友僧鸞州(らんしゅう)上人が京都へ遊学されるのを機に徳本上人に伝言したところ、上人はいたく感激し東国化導を決意されたのである。
文化十一年五月十七日摂津の勝尾寺を出て京都の円通寺を訪れ、桑名・宮・島田・箱根・鎌倉と東海道を下り、神奈川を経て江戸に着き、小石川伝通院に留錫されたと伝えられる。
 そして江戸への布教も終えての帰り鎌倉に入り、葉山から浦賀そして三浦の各寺院に足を踏み入れたのは文化十二年秋も半ばの十月頃であろう。
 こうして上人は各地に散在する浄土宗の寺々を訪れ諸人に十念を授け、多くの人を集めては念仏の功徳を説き、鐘を鳴らしながら遊行し続けたのである。
 上人は文政元年十月六日、小石川一行院にて六十一歳をもって示寂したのである。

出典 「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著
徳本上人関連の寺院へのリンク
光念寺へ
覚栄寺へ
西浜地蔵堂へ

龍円山福泉寺
所在地:三浦市三戸
浄土宗
宗祖:法然上人
開宗:承安五年(1175)
本尊:阿弥陀如来


rvLNtnwWVYazRx01378721756_1378721779.jpg徳本上人念仏供養碑
fWC7XEDEuUIRcjG1378721712_1378721725.jpg鐘楼
CZ2wvshKZFcK7WQ1378721665_1378721678.jpg六地蔵
wV5Dgon6pu2Aq0W1378721821_1378721871.jpg
六十六部供養碑(両脇)と「一切亡虫魚墓」(真ん中)

category: 三浦市

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大蛇の宿した英雄・・・祖母神社  


元和二年(1616)に日向(宮崎県)の姥山嶽明神を分霊して祀った社といわれる。

日向の国(宮崎県)の塩田の里の長者の娘に「花の木」という人がいた。
娘は村一番の美人で箱入り娘であった。
この娘に、遠く近くの村々からたくさんの縁談が申し入れられたが長者は一人娘とあって、どれもこれも断っていた。
ところがいつの頃からか二十歳ぐらいの美男子が毎晩娘の寝屋にやってきて、夜更けにひそひそ話をするようになった。そして夜もまだ明けきらない暗いうちにどこかへ姿を消してしまう。
長者夫婦は娘を呼んで聞いてみたが、娘はその男の名もどこに住んでいるのも知らない。ただ水干立烏帽子(すいかんたてえぼし)の貴公子が毎晩訪ねてきて朝早くかえって行くことを親に伝えた。
話を聞いた長者夫婦は大変怪しんで、娘に、今晩男が訪ねて「きたならば、おだまきに針をつけてその針を男の着物の襟にさしておくように言いつけた。
その夜、娘は親の言いつけどおりに男の襟に糸のついた針をつけておいた。それを知らない男はいつもの通り夜明けにどこへともなく立ち去っていった。
夜がすっかり明けて、長者親子は意図をたどって男が去った道を訪ねていった。
糸は姥が嶺の洞穴に続いていた。
親子が洞穴の入り口に立つと、中で何かに苦しみうめく声が聞こえてきた。毎晩通ってくる男の声であった。
胸にさされた針のため、息が詰まるばかりの中で「長者の娘の花の木は男の子を生むであろう。男の子はやがて世の勇者になるだろう。大夫惟基(だいふこれもと)と名づけよ。」とかすかに聞き取れる声でいった。
長者は夢かうつつかの出来事に気も遠くなるばかり。
「どうか姿をあらわしたまえ」と祈った。
すると洞穴の中からしずしずと姿を現したのは大蛇であった。この大蛇は姥嶽明神(うばがだけみょうじん)の主であったという。
その後長者の娘花の木は男の子を産んだ。男の子に「大夫惟基」と名づけた。惟基の胸にはうろこがついていた。それから五代目の子孫が尾形三郎惟能で勇敢な武将として名をあげた。

出典 「三浦半島の民話と伝説」 菊池幸彦著

…胝が蛇のうろこ状の肌を連想させるところからの命名であろう。惟義はその大太から5代の孫にあたり,《源平盛衰記》には〈蛇の子の末を継ぐべき験にやありけん,後に身に蛇の尾の形と鱗の有りければ,尾形三郎と云〉と記している。惟義の先祖にかかわる伝承は,《古事記》崇神天皇の条にある,大和三輪山の神,大物主大神が,活玉依毘売(いくたまよりびめ)に通って意富多多泥古(おおたたねこ)命を設けた,いわゆる三輪山伝説(蛇神婚姻譚)と同型で,緒方氏の祖が大神(おおみわ)(大三輪)氏より出たところから,在地の豪族の伝承として再編されたものであろう。… kotobankから抜粋

この神社前にあった「錦島三太夫供養の碑」は、現在無量寺山門前に移されています。
無量寺へ

スタート地点を市民病院(京急YRP野比駅から「市民病院行き」に乗車し、終点で下車


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category: 横須賀市

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かやぶきの山門・・・無量寺  


鎌倉風のかやぶきの小さな門をくぐると、境内の静寂の中に石地蔵がさまざまな姿態で並び寺歴の古さを思わせる。
この寺は浄土宗鎌倉光明寺末寺で、文治五年、和田義盛が鎌倉無量寺谷戸より後年子に地に移したといわれ、開基は和田左衛門尉義盛、中興開山は僧元誉寿道と伝えられる。
本尊正面には本尊の阿弥陀如来の坐像が安置され、右側には三浦観音札所第二十九番の本尊聖観音菩薩像が祀られている。この像は六十五センチ寄木造り、玉眼嵌入の坐像で肉身のみ漆箔、その他は彩色をを施した像である。
左側には未式敷蓮華を持つ観音の印相で、昔と変わらぬ慈悲の光をひとみにたたえた美しい像である。
この寺は間宮家の菩提寺で、半ば埋もれた雑草の中に間宮家の墓がある。
間宮家は徳川家康より相模国三浦郡と上総国望陀郡において1200石を賜り、三浦郡長坂村で700石あまりの知行地を有したといわれる。
またマミヤ高則の子真澄は元和元年五月二十六日大阪夏の陣で戦死し、この無量寺に葬られたといわれている。
往時、この地を支配した水軍の将も今では半ば埋もれた雑草のなかにむなしく苔むして、永い時の流れを思わせる。

出典 三浦半島の古刹めぐり 松浦豊著

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山門をくぐると左側にある。
mrLZ7QJoyvaA07z1378542722_1378542751.jpg水子(子育て地蔵
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錦島三太夫の供養碑
錦島三太夫の墓は、三浦市南下浦のバス停近くにもあり、もうひとつが横須賀永坂の祖母神社前にあったものが、近年になってこの無量寺の山門脇に移されている。
この碑は明治元年(1868)に没した四代目年寄三太夫の供養のため、死後50年忌にあたる大正二年に、三浦半島の門弟たちが建立したものである。
ここに供養される錦島三太夫は横須賀市長井の井尻の安西家の出身でいまでも当家には土俵開きに使われたと伝えられる御幣が残されている。
出典 ときめき探訪 三浦半島 辻井善弥

三浦の三太夫の墓へのリンクは錦島三太夫の墓(三浦市

スタート地点を市民病院(京急YRP野比駅から「市民病院行き」に乗車し、終点で下車


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アメリカから返ってきた梵鐘・・・浄土寺  


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この寺は、畠山重忠の創建と伝えられ、古くは天台宗であったが、天正年間浄土宗に改宗されたと伝えられる。
この寺には三浦安針(ウィリアム・アダムス)の守護仏であるという銅造りの観音菩薩像がある。
像高約三十センチ、構造は頭部まで空洞の一鋳で、八角王冠をつけた像の容姿は、善光寺式阿弥陀三尊の脇侍仏として製作されたものであろう。

また本堂左側の軒縁(現在では本堂右側の建物の玄関脇)に、延享四年銘の梵鐘が置かれている。
この梵鐘は第二次世界大戦のとき、拠出されたが幸い鋳潰されず、海軍工〇内に放置されてあったのが、一度アメリカに持ち出された。
後日浄土寺のものとわかり、昭和三十六年に当寺に返還された。

1fHf6rK_hWHZQQt1378451864_1378451882.jpg返還された梵鐘
GxFgvz6VIQ2n3WH1378451920_1378451937.jpg梵鐘を吊り下げる部分
ORuRtn01U_SpXfL1378451979_1378451993.jpgいろいろ銘のある梵鐘の側面



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鎌倉五山(4)・・・建長寺(五山第一位)  

建長寺は巨福山(こふくさん)建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の大本山です。今から約760年前建長五年(1253)に鎌倉幕府五代執権北条時頼(1227~1263)が建立したわが国最初の禅寺です。
 建長寺の開山(創始者)蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、中国の高僧無明慧性(みみょうえしょう)に学び、寛元四年(1246)三十三歳で来日し、九州、京都を経た後、鎌倉に入り北条時頼に請われて建長寺に迎えられました。蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅をそのまま導入し、建長寺を天下の禅林として多くの僧を集め、中国文化の受容、勉学の場として一時は千人を越える修行僧を指導しました。
その教えは現在国宝として寺に残る「法語規則」に見ることができます。
「鞭影(べんえい)を見て後に行くは即ち良馬に非らず、訓示をもって志を発するは実に好僧に非らず~」(法語規則)
蘭渓道隆はその後、京都に建仁寺、甲斐の東光寺等にも移り、弘安元年(1278)に再び建長寺へ帰り、66歳で亡くなり、後宇多天皇より大覚禅師という禅師号を賜りました。これは日本で最初の禅師号です。
なお、「建長汁(けんちんじる)は建長寺発祥の料理です。
北条時頼は、建長寺を建立し、大覚禅師や、第二世住職兀庵普寧(ごったん ふねい)に師事し、禅の教えに深く帰依しました。
また時の権力者として経済的にも建長寺を支え、全国的に禅宗を広め、自らも出家して法名を覚了房道崇(かくりょうぼうどうすう)と名乗りました。

総門
建長寺は今から七百五十年前、鎌倉時代。建長五年(1253)。禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の発願により、中国の禅僧・大覚禅師)蘭渓道隆を開山として創建された、日本で最初の大道場です。
建築は総門・三門・仏殿・法堂(はっとう)、方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式に基づいています。
今の総門は、江戸時代、天明三年(1783)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和十五年に移築しました。。額「巨福山(大きな福をもたらす寺)は、中国僧一山一寧(いっさにちねい=一山国師)禅師(建長寺大十四世)の筆です。


三門
三門(三解脱門の略)
空・無相・無作を表しこの三門くぐることによってあらゆる執着から解き放たれることを意味します。
開山様の言葉に「福山は揮て松関を掩じず無限の清風来たりて未だ已まず」とあり、建長寺はあらゆる人々(修行者)に門を開放していることを表しています。
楼上には、五百羅漢(修行を完成された人)を安置しています。
この建物は江戸時代・安永四年(1775)に万拙碩誼和尚などの努力によって再建されました。
創建当初は三門後方左右に大座禅堂、大食堂がありました。


nBQXi0gzI4OHPNm1378121625_1378121635_20130902204136c65.jpg梵鐘(国宝)
この鐘は、北条時頼公の発願により広く施主をつのり、開山大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、関東鋳物師「の筆頭である物部重光(ものべしげみつ)によって建長七年(1255)に鋳造されました。銘文の中に「建長禅寺」とあります。

2DQXqrJP8xMJLAM1378121674_1378121685.jpg撫で仏
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ
佛弟子十六羅漢第一番
神通力第一と称せられる

撫佛です。どうぞ撫でてください
三門の下に座っています。



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各五山へのリンク
五山第二位・円覚寺
五山第三位・寿福寺
五山第四位・浄智寺

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六歳の子供がお経を・・・・最福寺  

最福寺の写真は次の赤字をクリックしてください
最福寺の写真へ

明治のはじめの頃の話である。
師走に入ってから凪ぎの日は少なく、みぞれまじりの寒い日が続いて、碌々稼ぎもないうちにつきの半ばはさっと過ぎ去ってしまった。
小さな船主の善六は足掻いても仕方ないと思いながらも年老いた母親と女房子供を抱えての年の瀬を考えるとあせりを隠せなかった。
ある朝、曇ってはいたが風も幾分おさまって漁ができそうな空模様となった。善六たち六人の漁師は北風に身を竦(すく)めながら善六丸に乗り込んだ。そして「あかぎ」の夜松輪の沖へ漕ぎ出したが、これを花暮れの浜辺で見送った善六の女房はまさか、今生の別れになるとは思いもよらなかった。
天候は小康を保っただけで、午後からまた風が強くなって激しい雨まで降り出した。風が強くなったので早目に切り上げた僚船が、遠くの善六丸に声をかけた。しかし魔がさしたとでも言うのだろうか善六丸は釣りをを続けていた。
善六丸の遭難者たちの通夜に、最福寺の永覚和尚が呼ばれた。
折悪しく和尚は風邪気味だったので、六歳になる子息の雲覚が替わってお勤めすることになった。
雲覚は提灯を下げた乳母に伴われて通夜に行きかわいい姿で座布団に座ると、三部経仏説無量寿経の上巻を我々如是と、小児らしいきれいな声で読誦した。湿ったその場の人々の心を慰めるに充分であったろう。
ところが、中途で経文を間違えてしまった。そこは子供のこと、大切な通夜なのに乳母と顔をあわせると照れ隠しに笑いを漏らしてしまった。
乳母に目で叱られ、ようやく真顔になって読経を続け通夜の勤めを終わり帰った。
しかしこのことを父に言わなかった。
雲覚は激しい水音で眼を覚ました。
父の永覚が、庫裏の前の井戸で経を誦じながら水を浴びていたのである。雲覚はこんな父の姿を見たことがなかった。
やがて父は身体を拭きながら庫裏に入ってきた。
そして雲覚に向かい「お前が戻ってしばらくすると、私の枕元に六人の仏がやってきて、今夜はありがたい三部経を私どもに上げてもらったが、中途で間違って呼んだので成仏できない。
もう一度お願いしたいといった。それだから風邪をおして経を読んであげたのだ。」
雲覚は身が縮まる思いだった。

出典 「三浦の伝説と民話」 三浦市観光協会

歩行開始はバス油壺入り口から


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日本武尊と弟橘媛命  

日本武尊と弟橘媛命
伝説の地 御所ヶ崎

古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐の折、走水から上総(かずさ:千葉県)へ船で渡ろうとしたとき、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを鎮めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊(たけるのみこと)がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」に侍女たちと共に身を投じたと伝わります。
港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
<古東海道>
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ、足柄峠を越えて相模国(神奈川県)に入り、三浦半島を横切って衣笠・宗源寺・天神坂あたりから安房口神社、小原台、走水から上総へわたる道順と考えられます。

出典 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

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弟橘媛尊の入水の姿(走水神社蔵)

地図では浦賀駅をスタートにしていますが、浦賀駅から観音崎までバス便もあります、


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