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国指定重要文化財の五輪塔・・・東昌寺  


旧慶増院五輪塔(国指定重要文化財
地輪(ちりん)に乾元二年七月八日(1303)紗弥行心帰寂の銘が刻まれ、水輪(すいりん)に梵字で大日如来を表す梵字が彫られています。(下の写真参照)
この文字は「バン」と読みます。
鎌倉幕府九代執権北条定時公の御家人、二階堂信濃守行心入道の墓と伝えられています。
この五輪塔は昭和時代初期まで葉山町堀内に存在した真言宗慶増院境内にあったが、合併合祀に伴い、昭和五十一年に昌寺に移転安置したものである。


五輪塔
下から台形=地輪(ちりん)、円形=水輪、笠形・屋根形=火輪(かりん)、半円形=風輪(ふうりん)、宝珠形=空輪(くうりん)とされ、宇宙の構成要素・元素と考えられた五大(空・風・火・水・地)を象徴している。
出典 五輪塔前の案内板による。
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大日如来を表す梵字・・・・これは「バン」と読みます



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category: 逗子市

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立てば丈六の阿弥陀如来坐像・・・東昌寺  

阿弥陀堂

bWsdwBHUZh_7Ud01383051296_1383051306.jpg木造阿弥陀如来坐像
東昌寺は池子にあるただ一つの寺です。寺の縁起によると今から約六百五十年前に、新田義貞の鎌倉攻めで幕府が滅亡したとき北条高時一族は鎌倉葛西ヶ谷(かさいがやつ)の東勝寺に逃げ込み、寺に火を放ち自殺しました。このときに信海和尚が本尊を火の中から救い出し池子の郷に逃げてきて池子東勝寺を建てたと伝えています。
「鎌倉東勝寺」の寺史を「池子東昌寺が引き継いだわけですがはっきりしたことはわかりません。
本尊の大日如来木造は元禄十三年(1700)の作です。
寛永十四年(1637)になって池子村が、鎌倉扇ヶ谷(おうぎがやつ)英勝寺の寺領となったとき(英勝寺は尼寺で尼僧は代々水戸家からきた)水戸家への配慮から東勝寺の「勝」を改めて東昌寺としました。
境内の阿弥陀堂には、大きくみごとな丈六(じょうろく)阿弥陀如来坐像(丈六とは立つと一丈六尺、「約五メートル」があります。
この像は、源実朝の死を悲しんで、母の政子が仏師運慶に彫らせ、阿弥陀ヶ谷戸(県立逗子高校の奥)にお堂を建て、この像をまつらせたということが語り伝えられています。
寛文年間(1661~1672)に、英勝寺の命令で、この阿弥陀堂を東昌寺の境内に移しました。しかし享保十二年(1727)の東昌寺の火事で阿弥陀堂は焼け、そのとき運慶作と伝えられた像も失われてしまいました。
現在の阿弥陀堂と像は、棟札から宝暦六年(1756)に鎌倉扇ヶ谷の三橋宮内忠文とその息子の幸右衛門、政次郎が再建したことが分かります。

出典 逗子子ども風土記 逗子教育委員会調査部編



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category: 逗子市

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東昌寺・・・村の中心的存在  

東昌寺山門
東昌寺は、江戸時代、池子村が鎌倉の英勝寺の寺領であった以前から、須加神社をはじめ村内八箇所にあった神社・別当を勤めた村の中心的な存在でした。
享保十二年(1727)の火災により、本堂と共に阿弥陀堂も焼失しましたが、英勝寺や村の内外の人々の寄進によって本堂・山門・庫裡と順次再建され、宝暦五~八年にかけて、阿弥陀堂を焼失した阿弥陀如来坐像も再興されました。
丈六の木造阿弥陀如来坐像(像高二.六メートル、逗子市指定重要文化財)は三浦半島で最大の木造の尊像です。
境内の五輪塔は「紗弥(二階堂)行心帰寂乾元二年(1303)七月八日」と亡くなった人の名と年代が具体的に刻された、鎌倉時代末期の優美な安山岩製石塔で国の重要文化財になっています。
ちなみに逗子開成学園は明治三十六年(1903)東京開成中学校の分光としてここで開校されました

出典 山門前にある案内板   逗子市・自然の回廊プロジェクト

dqhrwva3lkFV5xo1383047803_1383047816.jpg本堂

IcCuGMYJCf8M6Vj1383047710_1383047723.jpg本堂内部

E2ZYQQCAX0yLcId1383047891_1383047903.jpg六地蔵尊



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category: 逗子市

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古式豊かに神輿渡御・・・池子神明社  

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池子神明社と神輿渡御
明治十年(1877)の合祀令(一村一社にまとめる)によって、池子村の小字にあった六社大明神(県立逗子高校の裏にあった)などの七社は、須賀社のあった地に「村社神明社」としてまとめられ、明治四十五年(1912)新殿を建て、合祀されました。

江戸時代池子村は鎌倉の英勝寺(徳川家康の側室お勝の方が開山)の寺領でした。
天明八年(1788)と天保十二年(1841)、池子村に「はやり病」が蔓延しましたが、そのたびに英勝寺から除病祈願の神輿と葵御紋の提灯が下賜され、「病封じの」の村内巡行が行われるようになりました。毎年七月、金色の金具に黒と朱漆の見事な神輿を、白衣(はくちょう)に烏帽子姿のひとが担ぎ、神主、木遣り、おはやしの山車が続く古式豊かな神輿渡御が行われます。


神明社の前の道は、昔は金沢街道(神奈川県逗子市、横浜市金沢区)と呼ばれ、金沢から池子、山の根を通って亀岡八幡宮の脇を通り、鎌倉、藤沢方面へと続いていて、荷物を馬に引かせる商人などが多く通った道でした。
出典 境内案内板より 「逗子市・自然の回廊プロジェクト

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category: 逗子市

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旧道を見守るように佇む地蔵と庚申塔  

池子神明社参道入り口

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srmVoYMzCPrWoZN1382873204_1382873217.jpg池子神明社消防署脇の庚申塔



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category: 逗子市

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六地蔵とは・・・  

六地蔵尊
六地蔵とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つを表します。
人間の死後六道を輪廻転生(りんねてんしょう)するといわれ自身と死者の死後の世界の幸せを願って祀られたものです。

出典 浅間神社の案内板より・・・三艘町内会
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204GRkRlnB_oMTD1382869680_1382869698.jpg社殿

qB3h_eHyegb8B2R1382869728_1382869739.jpgイワを抱く銀杏の大木

この神社は、横浜市金沢区六浦南一丁目付近にあり、京急線六浦駅から、線路沿いを5分ほど歩いた右側にあります。


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category: 横浜市

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桜稲荷大明神  



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この神社は山の中腹にあり、妙悟尼の墓を探す場合は、この神社を目指せば探しやすいです。



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category: 三浦市

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祠は小さくても耳の神様  

道祖神

JR横須賀線、池子踏み切り(逗子市)を渡った右手に大きな銀杏の木があります(現在は上部は切られてますが・・・)
その傍らに「道祖神」の額のかかった祠があります(現在では額はありますが、字は薄れて読めません)
道祖神は、地境を守り悪霊の侵入をさえぎる神ですが、村の境や道辻に祀られることから行路を守るという性格を持つようになりました。また猿田彦や地蔵信仰とも一緒になり、いろいろな性格を持つようになりました。
道祖神は犀の神とも呼ばれますが、ここの道祖神は特に「耳だれの神」という珍しい信仰があります。
耳に病気がある人が、おまいりして願いをかけるとよく治るということです。
病気が治った人がお礼に、海岸から穴のあいた貝殻を拾い供えています。
出典 「逗子子ども風土記」 逗子教育委員会調査部編

5LDCnWfSCrq6SvN1382692559_1382692572.jpg格子扉に下げられた貝殻

64cScpxBac39HzQ1382692715_1382692725.jpg茶碗の左側は貝殻

ALJcmfNG4syXFPl1382692755_1382692766.jpg祠裏にある道祖神

poriJzl45BM1X6n1382692804_1382692815.jpg石の祠の地蔵さん



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category: 逗子市

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八暮坂・・・戦いすんで迷子のすえ・・・  

後のビルはNTT通研ビル
NTT横須賀通研下は、現在では通研通りと呼ばれ、京急YRP駅と武山を結ぶ幹線道路である。
治承四年(1180)八月のこと、平家の武将大庭三郎景親は、三浦一族の衣笠城を攻め立てた。だがすでに合戦はおわっていたので、このあたりまで引き返してきた。
ところが道に迷いやっとのことで山道にたどりついた。
そのとき、昼間だというのに、急に暗くなり、周囲の山から水が流れ出した。
たちまち水浸しになり、武士たちは山へ逃げたり、木に登ったりして大騒ぎ。
その中に占いをするものがいた。
占いの結果「世の中は乱れる兆候がある。平家は滅びる。このまま平家に従う主人に仕えていてよいものか」と出た。
これを聞いてお互いに目を合わせ、出るのはため息ばかりだった。
やがて夜が明けて水が引き始めた。
一同山や木から下りて無事を喜び合った。
これは三浦大介義明が日ごろ無益な殺生を嫌い、生き物の命を大切にしたので、鳥獣がその恩に報いるため大庭の軍勢を困らせたと伝えられる。
この坂道はいつの日か八暮坂(やつくれさか)坂と呼ばれるようになった。
横須賀風土記(平成元年刊)にこうある。
「坂の名である[八暮]とは八つ時(午後二時)を意味し、にわかに夜中のように暗くなったことに由来するのでしょう。また大水が出たことからこのあたりは”越水”とも言われるそうです」

出典 神奈川新聞横須賀版連載「坂道風土記・三浦半島」 石井昭著


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dKpFJVYTyUn_J4I1382440346_1382440360.jpg坂上に建つ研究所

LE5RHnzPMVSTstA1382440388_1382440397.jpg坂脇に建つ石塔

category: 横須賀市

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頼朝側室の生涯・・・妙悟尼の墓  

正面の石段が入り口です
三浦市大椿寺は、頼朝の別荘跡と呼ばれ、三崎三御所の一つで「椿の御所」として知られ、往古は境内に椿の老樹がうっそうと繁っていたと伝えられる。
大椿寺は頼朝の側室妙悟尼が開基で、開山は鎌倉建長寺の旭永和尚である。
建久の昔、権勢を極めた、時の将軍源頼朝の寵愛一身にあつめた側室妙悟尼は、向ヶ崎の永塚家の娘で長塚家のことを「小大椿」であると7いわれ、また一説には本名を妙子といったようであります。
「実録三浦党」岩間尹著書の中に・・・
「頼朝は妙子を鎌倉伏見広綱の許に託して置いたが、北条時政の後妻の牧の方がこのことを知って政子に告げたため、生来妬悍の政子は、牧宗親に命じて広綱に命じて、広綱の家を破壊して妙子を放逐した。
妙子は三浦義明の三男太田和義久の葉山の鐙摺(あぶずり)の居城に逃れ保護を求めたのである。
頼朝はこのことを聞き、義久の邸を訪れて牧宗親を呼び、叱責してその髻(もとどり)を切り懲戒した。
頼朝は妙子を太田和義久に託して、三崎の椿御所に居宅を設けて匿い、三浦党よりの招待に事寄せてたびたびここを訪れ静養した」とあるが、諸説があってその真相は定かでない。こうして頼朝は北条時政や牧の方、政子との対抗はいよいよ表面化してしまった。
正治元年(1197)頼朝五十三歳のとき、相模川の橋供養に出かけ、途中落馬して世を去ってしまった。
こうして頼朝没後、悲しい日々を過ごさねばならなくなった妙子は有為転変の人の世を嘆いたであろう。
そして愛しい人の菩提を弔うため名を妙悟尼と改めて尼僧となり、頼朝の別荘跡に一寺を建立して開基となり、ひとりこの小庵に読経三昧の寂しい明け暮れの生涯を終わったのである。
妙悟尼の墓は三浦市晴海町の奥深い山すそに五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の残欠を遺して七墓が草繁るなかに淋しく並んでいる。

出典 三浦半島の史跡と伝説 松浦豊著

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これが妙悟尼の墓といわれています。
墓には「續焔塔」と書かれています。




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この場所は非常に分かりにくいところです。
行ってみたい方は、地図を参考にしながら、道路から比較的探しやすい「桜神社」を探すと見つかりやすいです。)
桜稲荷大明神に向かって左側20mのところに入り口があります(この写真も参考になります1

category: 三浦市

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三浦三稲荷の一つ・・・白壁稲荷  



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この稲荷については「東岡城辺稲荷」と呼ぶ記述もありますが、ここでは三浦市教育委員会発行の「三浦こども風土記」に書かれている内容を記述します。span>

三浦市立三崎中学校や三浦市役所に登る石段のわきにある稲荷社を「白壁稲荷」とよんでいます。
大乗寺(日蓮宗)の開基である日範上人によってまつられたので、大乗寺の末寺となっています。
手洗いに文化八年(1811)十月とみえるところから、江戸時代後期にはかなり信仰を集めていたのでしょう。
三浦市内では初声の円徳寺の「赤壁稲荷」同じく初声の延寿寺の「黒壁稲荷」とともに「三稲荷」としてしられています。
稲荷は「稲ナリ」が転化したものといわれ、稲をはじめとする五穀をつかさどる倉稲魂を祀った神社を「稲荷社・稲荷神社」とよんでいます。
御食津神(ミケツカミ)が三狐神(ミケツカミ)と同じように呼ばれたことから、稲荷の神の使いが狐であるように思われました。
油揚げ豆腐を備えるのは、狐の好物であるものをそえて、願い事を稲荷社に伝えてもらうtめなのです。
したがって狐が神様ではなく、狐は単なるメッセンジャーボーイなのです。


この地図は三崎口駅から徒歩のコースです。
駅からバスで東岡までのって、底から歩いても①は10分程度です


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category: 三浦市

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狭い路地の奥に・・・・  



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路地奥に、人知れずたたずむ神社ながらも、境内はきれいに清掃されています。

category: 三浦市

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わびしく建つ古城の碑  

三崎城跡碑

三崎城跡
このあたり一帯(三浦市市役所・三浦市立三崎中学校等)は城山といい、古城の跡である。三崎城は海にのぞみ丘陵に地の利を得、土塁、空堀を幾重にも組み合わせた中世の城で、築城の年月は不詳であるが永正十五年(1518)七月十一日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壺)に亡ぶとき、三崎城もまた落城した。
その際囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れなお抵抗を続けたという。
その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円に領域を拡げていった、三崎城は三浦一族累代の居城新井城の背後をまもる重要な支城であるとともに水軍の根拠地でもあったといわれている。
落城の後、北条氏はこの城に五代にわたり兵を置いたことからいまに北条山の地名が残っている。
しかし、天正十八年(1590)豊臣秀吉に攻められ小田原北条氏の滅亡にともない三崎城は廃城となった。

三浦市
dOqA50JuNoE7GxB1382012048_1382012073.jpg白い建物は市立三崎中学校

このあたり一帯は「城山」と呼ばれてきましたが、以前は「宝蔵山」または「北条山」「陣屋山」などとも呼ばれていました。今でも土塁(土手)の一部が残っています。
その理由は永正年間(1504~1520)の頃、油壺にあった新井城の城主であった三浦道寸義同の持城(出城・支城)だったことに由来します。
新井城は油壺にあったので、房総方面を望むことは出来ません。そのため、当時房総半島一帯を支配していた里見氏の軍勢の様子を直接見張るため設けられたのが三崎城でした。
永正十三年(永正十五年ともいわれます。)の七月、三浦道寸義同が北条早雲と戦ったときは、養父にあたる時高の弟だといわれている三浦三郎高信がこの城を預かっており、出口次郎左衛門尉と称して道寸親子を応援していたといわれます。
しかし新井城が滅ぼされると出口次郎左衛門尉は、三富実右衛門、亀崎兵部、鈴木某氏等の同志とともに城を捨て、城ヶ島に渡って籠りました。城ヶ島を一名「尉ヶ島」と呼んだのはこうした由来によるものといわれています。のちにこれらの人たちは北条氏と講和を結び「三崎十人衆」として北条氏に従い三崎一帯を守りました。
その後は横井氏がこの城を守り、天文年間(1532~1554)至りました。
弘治二年(1556)に梶原備前守をはじめ富永、遠山氏らは、対岸の安房(千葉県)から攻めてきた里見義弘氏と城ヶ島やこの城で戦いました。
永禄八年(1565)三月上旬に北条氏康はこの城に来て三崎や城ヶ島の桜花を観て楽しみました。
以後、何人かの城主が代わり小田原開城におよんで朝比奈弥太郎に渡して退き、後に廃城となりました。

出典 「三浦こども風土記」 三浦市教育委員会

category: 三浦市

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隆起海岸・・・三浦市諸磯  

諸磯遺跡の碑
国指定天然記念物「諸磯隆起海岸は、この碑の右の道路を下っていきます。
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qV8QaiGPh0FuGs61382007696_1382007717.jpg穿孔貝の巣穴跡

国指定天然記念物諸磯の隆起海岸・・・案内板より
この崖の表面にみられる小穴の列は、穿孔貝の巣穴の跡で、堆積時期を異にするシルト岩質の地層の側面に、小規模のものを含めて六列ぐらい数えられる。
巣穴の多くは風化され、形はさまざまであるが、一般に下部の列のものほど、よく保存されている。
穿孔貝は、ほとんどがイシマテガイ(別名ヒミズガイ、三崎ではシミズガイと呼んでいる)で、波打ちぎわで岩をほり、巣穴をつくってその中で生活する。したがって、古い巣穴の跡があれば、これから過去の汀線の位置や高度を知ることができ、また、これによって、歴史上の大地震の間隔や隆起量などが推定される。
この崖の巣穴の跡は、この種の推定を試みるにあたって、その出発点となったもので、それぞれの列はいずれも、ある時代に汀線だったことを示している。そして列の数や巣穴の保存状態から、この場所が過去なん回かにわたって隆起したことを物語っており、歴史上の大地震を知る上で貴重な資料といえる。

三浦市教育委員会

国指定文化財等データベース(文化庁)より抜粋
溪谷ニ臨メル第三紀凝灰質砂岩ノ絶壁ニ往古ノ汀線ヲ示セル穿孔貝ノ穿テル穴ノ遺蹟アリテ四段ヲ成ス第一段ハ大正ノ大地震以前ノ汀線第二段ハ元禄十六年ノ大地震第三段ハ弘仁九年ノ大地震直前ニ於ケル汀線ナルコトハ口碑及岩壁ニ働ク風化作用ノ速度ヲ計算シテ知ルヲ得ベシ隆起海岸ハ必ズシモ稀ナラザルモ明カニ古代地震ノ際ニ隆起セルコトヲ推定シ得ルモノハ其ノ類例甚ダ稀ナリトス

穿孔貝とは・・・日本地質学会HPより抜粋
穿孔貝(boring shell)は、岩石や材に穿孔するという習性をもつ貝のことで、 二枚貝が多いことから「穿孔性二枚貝」と呼ばれることもある。自ら岩石等の内 部に埋没するように穿孔し、その中で成長する。その結果、穴の開口部(入口) は貝殻よりも小さく、外部に出るようなことはない。そこをとらえて「墓穴を掘 る貝」と揶揄する人もいる。

三崎口駅から城ヶ島方面のバスで天神で下車し、バス停近くの信号から入る。

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category: 三浦市

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80基以上のみこしが練り歩く  

10月20日(日)は横須賀集合

米海軍も参加
三浦半島のみこしが参加でわっしょい

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パレードを見るには、京急横須賀中央駅またはJR横須賀駅下車です

この地図は京急横須賀中央駅からのパレードコースです。
この地図②では荷物検査が米軍によって行われます


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この地図はJR横須賀駅からパレードまでの案内です
③でパレードと合流します
④では、米軍による荷物検査があります


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category: 横須賀市

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枯れることのない六方の井戸  


この井戸はたて三・六メートル横四・五メートル深さ十五メートルの長方形の井戸で古い石に囲まれています。
いつ誰が掘ったかははっきりしませんが、弘法大師の作ったものだといわれています。
昔から鎌倉は水の少ないところで、水を売りにくる人の姿をよく見かけたと年寄りの人はいいます。
ひでりのたびに鎌倉の水は水ききんに頭をいためたものでした。
ところが六方の井は不思議なことに決して水のかれたことのないといふのです。
明治十七年と二十七年のひでり続きに近在人々はこの井戸に水を汲みに来たといふことです。
井戸をのぞくと側面にちょっと出張っている所があります。竜頭といってますが水がこの竜頭までへると、きっと雨が降り出すと付近の人はいっています。
尚またこの井戸は妙本寺の蛇形の井戸と通じ、家宝を守っている主の蛇はこの二つの井戸を往復しているとも伝えられています。
吾妻鏡  
子供風土記

井戸脇に立つ案内板より
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category: 鎌倉市

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水戸の御寺・尼僧の寺  

仏殿
英勝寺のあらまし
宗旨:浄土宗
山号:東光山
創建:寛永十三年(1636)
開山:玉峯清因
開基:英勝院尼(大田道灌五代の子孫)
本尊:阿弥陀如来(徳川三代将軍家光寄進と伝えられる)

英勝寺の歴史
英勝寺の地は、古くから亀ヶ谷、扇ヶ谷などと呼ばれてきました。平安時代、ここには源頼朝の父義朝の屋敷が建っていました。しかし没後義朝の霊を祀る亀谷堂に、鎌倉時代の初めには寿福寺に変わりました。
鎌倉幕府が滅ぶと、鎌倉は足利氏の支配地になり、扇ヶ谷は補佐役の上杉氏に与えられました。上杉氏の家臣の太田氏も、上杉屋敷の一角に居を構えました。
しかし、太田氏は道灌のとき、扇谷、山内両上杉氏の対立に巻き込まれ、暗殺され、家は没落してしまいます。文明十八年(1486)のことでした。
大田道灌の死から百年、関東の支配者になった徳川家康は、自分が源氏の血筋であることを理由に、ご先祖の地「鎌倉」の復興に努めました。税を軽くし、鶴岡八幡宮をはじめ多くの神社や寺院の再建を助けたのです。
家康は、また没落した関東の名家の救済にも力を入れました。道灌五代の孫重政も招かれましたが、当時は京都に滞在していたため、妹のお八が代わって江戸城に参上しました。
これが家康の夫人になる奇縁となったのです。
家康の寵愛を受けたお八は、名をお梶とあらため、戦場にまでお供しました。すると、家康軍は連戦連勝、関が原合戦の勝利を祝って、縁起のいい「お勝」の名を賜りました。
慶長十二年(1607)、お勝は一女に恵まれました。しかし、喜びもつかの間、市姫と名づけられた子は四歳で亡くなってしまいました。成人すれば、伊達政宗の嫡男の忠宗に嫁がせる約束までしていたのですが・・・。
そこで家康は、悲しみに沈むお勝の方に、水戸頼房の養育を命じました。25万石の藩主とはいえ、いまだ八歳の少年、お勝の方は、母となって頼房を育て、さらに徳川御三家の一つ水戸徳川家の基礎も築きあげました。
元和二年(1616)四月、徳川家康逝去。お勝の方は出家し、名を英勝院と改めました。それから二十年、還暦に近づいた英勝院は、先祖を供養し、自分の後生を祈るため、寺を開きたいと願いました。
願いは許され、寛永十三年(1636)十一月二十三日、太田家ゆかりの扇ヶ谷に仏殿が完成、翌年には水戸頼房の娘の小良姫が住職として入寺、寛永十五年(1638)には三百石の寺領が許されました。
しかし、英勝寺が本格的な歩みを始めて七年、英勝院は病に臥すことが多くなりました。将軍も直々に見舞い、回復を祈りましたが、その甲斐もなく、寛永十九年(1642)八月二十三日逝去、享年六十五歳でした。
葬礼を機に寺領は百二十石加増され、仏殿一つの境内には祠堂や山門、鐘楼などが加えられ、住職が暮らす姫御殿、その他の僧侶、医師、料理人たちの下御殿、御長屋、代官所なども整えられました

以来、英勝寺は水戸家の御寺と称えられ、三百七十余年の歴史を重ねてきました。
USEVpTt0KjuVfEt1381744547_1381744562.jpg本尊:阿弥陀如来

c8f73ZAh7PpX7B41381744590_1381744601.jpg山門(奥は仏殿)

category: 鎌倉市

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主家を守る蛇形の井  

蛇苦止堂
妙本寺山門の手前を左に登ると、蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)があります。境内の右側に井戸があります。
鎌倉に幕府がおかれた頃の鎌倉大町はにぎやかな町であった。
将軍頼家の愛人だった若狭ノ局は一幡(いちまん)を産んだ。
一幡の傳(めのと)の比企能員(ひきよしかず)一族の屋敷は比企が谷(ひきがやつ)にあった。
頼家が伊豆の修善寺で暗殺された後、次の将軍選びで頼家の弟の千幡(せんまん、実朝派と比企能員派の対立となった。
将軍の血筋を保とうとする北条時政は、その子供義時、畠山重忠、和田義盛らをつかわして比企一族を滅ぼした。このとき若狭ノ局は家宝を抱いて比企が谷の身を投げて死んだ。
この若狭ノ局が入水した井戸は「蛇形の井戸」(じゃぎょうのいど)といわれる。
入水した若狭ノ局は蛇に化身して家宝を守り続けた。
その後、執権であった北条政村の姫君がもだえ苦しむ重い病になったのも若狭ノ局の怨霊のたたりであった。
それを知った政村は比企が谷に祠を建てて局の霊を祀った。
これが「蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)」のおこりだといわれる。
なお、若狭ノ局が入水した「蛇形の井戸」と松葉が谷にある「六方の井」とは水脈が通じていて、家宝を守った蛇はその両方の井戸を往復していた。
蛇形の井戸に蛇がいるときは井戸にさざ波がたち、六方ノ井戸に行ってるときは波が止んだといわれている。
時代は下って応永二十九年(1442)に佐竹氏と上杉氏が争って、負けた佐竹上総介入道常元は、妙本寺のお堂で自刃して死んだ。そのとき佐竹氏を追い込んだ上杉氏はお堂に火をつけた。
時の日行上人は急いで日蓮の書いたという曼荼羅を取り出して、蛇形の井戸にそれを隠した。
するとたちまち井戸から黒い雲が立ち上って蛇の姿が現れたかと思うと激しい雨になり、上杉氏がつけた火は消し止められた。
それは若狭ノ局の化身である蛇のなすわざであったという。

出典 「三浦半島の民話と伝説」 菊池幸彦著
HfmCfuDS_iuwnBS1381670038_1381670050.jpg蛇形の井戸

0ZqoXhGIOXKcqMJ1381670081_1381670092.jpg井戸に掛けられている法華経

なお、「三浦半島の民話と伝説」では若狭ノ局ですが、妙本寺発行の冊子「第59号」では讃岐の局になっています。
また、一幡之君は、比企一族と北条家との戦いで火責めの犠牲となり、僅か六歳の幼さをもって焼死しました。
一幡之君の着衣を袖を供養した五輪の塔が妙本寺の境内にひっそりと建っています。(一幡之君袖塚)




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妙本寺  

妙本寺総門

Hcqxmb4Fx2n8sUB1381663369_1381663379.jpg妙本寺二天門
この寺一帯の谷を比企谷といい、源頼朝の重臣・比企能員(ひきよしかず)らの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました。(比企の乱)
その後、乱から逃れていた末子能本(よしもと)が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。
四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やかな花をつけ、静かな境内を彩ります。


The whole area around this temple is known as the Hikigayatsu Valley and was the
site of the mansion of a senior vassal of Minamoto Yoritomo,Hiki Yoshikazu and his
clan.Hiki clan was destroyed entirely when the military forces led by the Hojo clan
fought for the right to succeed the second shogun Minamoto Yoriie
Following that,the youngest Hiki Yoshikazu's child Yoshimoto escaped the fight and
became devoted to the holy priest Nichiren,and built the Hokkedou Meditation Hall on the land that had once been home to the mansion of the Hiki clan
This is said to be the beginnings of the Myohonzi Tenple
From April through to August,many flowers,such as cherry blossom,Chinese trumpet
creeper,Hall's flowering crabapple,and fringed iris adorn the quiet temple ground.


G3KV_LeEF5L8MIo1381663107_1381663115.jpg鐘楼

Y3etv0bB47eDMIv1381663139_1381663151.jpg祖師堂



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ぼたもち寺  


幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。
日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった九月十二日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除の「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。
こじんまりした境内にはあふれるように草花が植えられています。
慧雲山 常栄寺
建立 慶長十一年(1606)
開山 日詔
開基 日祐法尼

When Nichiren was being taken around the city of Kamakura as a captive of the
shogunate,he passed Joeiji Temple on his way to be executed at the Tatsunokuchi
gallows(located at Ryukoji Temple in Fuzisawa city).Here it is said that an old
woman gave him botamochi,a treat made from rice and sweet red bean paste.
This is how the temple got the nickname Botamochidera Temple.
A miracle saved Nichiren from execution due to religious persecution,and Joeiji
Temple still celebrates September 12 by distributing botamochi sprinkled with
sesame seeds,the same treat given to Nichiren by the old woman.
The temple is busy throughout the day with visitors who come on receive these
"lifesaving botamochi"as charms against bad luck.
The temple grounds are cozy due to an abundance of flowers planted all around it.

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観音様の夢のお告げで井戸が・・・  

十六井へのトンネル
鎌倉海蔵寺の境内の南側(山門の左側奥)の岩窟中にある鎌倉時代の井戸。
窟の中央に石造りの観音菩薩像を祀り、その下方に弘法大師を安置する。
井戸の名は窟底に径七十センチ、深四・五十センチくらいの井十六穴がおのおの清冽な水をたたえているのにちなむ。
伝承では金剛功徳水と名づけられ、観音菩薩が中興開山に夢に告げて曰く「来世の衆生身心つたなくして身に難病をうけて定業を終えずして死す。故に弘法大師に告げ、金剛功徳水を以って加持し、この水を授け、薬を煎じて与えれば、悪病ことごとく蕩除け(はらいのけ)たのだが、鎌倉は数度の天災のためこの井埋もれり、禅師願わくはこの井を掘り出し掃除をなさば、清水湧き出で再び霊験あらわれん。」と。
夢から覚めた禅師がその通りにすると観音菩薩像が出現し、窟中の水を加持し衆生に施したところ、霊験あらかたであった。
察するに、その数十六とは、十六(金剛)菩薩(薩・王・愛・喜・寶・光・憧・笑・法・利・因・語・業・護・牙・拳の各菩薩)を表現しているもので、その菩薩に供え捧げる水が閼伽という功徳水である。
閼伽(あか)
一部の歴史家には墓所と称する説もあるが、湧水地と十六という数字を思えば、墓所とは考えられない。

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出典 扇谷山海蔵寺略縁起より



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化粧坂(けわいざか)  

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鎌倉切り通しの一つで、国指定の史跡になっている。
古道の面影を残した道で、岩肌がむき出しになって、くねくねと曲がっている。
ここは鎌倉時代の重要な防御拠点のひとつで、藤沢や武蔵方面への出入り口でもあった。
化粧坂という名の由来についてはいくつかの説がある。
一つは、討ち取った平家の大将の首を、ここで化粧して首実検をしたというもの。
もう一つはこの坂の上に町屋があって、化粧した女たちがいたからというもの。さらには木がよく生い茂っていたので木生えとか気生えからとする説もある。
このあたりは、鎌倉時代後期に最も栄えた場所のひとつだったらしい。
「吾妻鏡」の建長三年(1251)十二月三日の条に、鎌倉の中で小町屋および売買所を構えてよい場所のひとつとして「気和飛坂山上」の名が見える。
現在は化粧坂と書くが、かっては気和飛、毛和井、気生、形勢などとも書いたようである。
出典 「鎌倉・三浦半島おもしろ地名考」 三浦一男著
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全体の距離は短いですが、山水が染み出て、ぬかるんでいるところがあります。



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鎌倉十井(3)・・・底脱の井  


この底脱の井(そこぬけのい)は鎌倉十井の一つです。
中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みにきたとき、水桶のそっくり抜けたため・「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」とうたったことから、この名がついたと云われています。
井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。

出典 鎌倉青年会議所

そのほかの鎌倉十井へリンク・・・鉄の井、甘露の井



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鈴木文吾の造った天水盤  

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八雲神社略記
祭神 須佐之男命 稲田比賣命 八王子命 佐竹氏の霊
由緒
 永禄年中新羅三郎源義光公の勧請と伝う。
    室町時代関東管領足利成氏公は公方屋敷に渡御した当社の神輿に奉幣を行うを例とした。
    戦国時代小田原城主北条氏直公は祭礼保護の「虎印禁制状」を下賜し、慶長九年徳川家康公は永楽
    五貫文の朱印地を下賜された。
    古くは祇園天王社と称したが、明治維新に八雲神社と改称された。


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_deLlCs68YxMibl1381312052_1381312066.jpg天水盤
武州鋳物師「鈴木文吾氏」により、「惣型法」にて鋳造された。
鈴木文吾氏は東京オリンピックの開催された東京国立競技場の聖火台を造った人である。

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姫小島・・・照手姫が松葉いぶしの難にあったところ  


この島は、その昔、照手姫が美人のため、姫を助けた漁師の女房のやきもちにより、松の青葉のいぶしに遭った所から、土地の人哀れみ呼んで、姫小島と呼んでいる。
この隣が水門である
照手姫の物語については小栗判官と照手姫をクリックしてください

category: 横須賀市

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照手姫と小栗判官ゆかりの地  

侍従橋
小栗判官と照手姫の伝説ゆかりの地は各地に存在しており、このブログでは横浜市金沢区六浦にある侍従川について述べます・・・・長くなりますが最期までお読みいただければ幸いです
室町時代の頃、常陸国(現:茨城県)小栗の城主、小栗満重は謀反の疑いで、鎌倉公房・足利持氏に攻められた。小栗満重主従の必死の応戦も空しく、応永三十年(1423)八月二日、ついに落城した。
満重は十人の家来を引き連れて、三河国(現:愛知県東部)を目指して落ち延びて行った。その途中、武蔵と相模の国境・境木の権現堂(現:横浜市保土ヶ谷区)の前に差し掛かったときのことである。
「もし、そこのお侍様方、これからどちらへおいでなさる?」
一人の男が近づいてきて、満重らになれなれしく声をかけてきた。満重は、どことなく目つきのよくないその男の風態をうさんくさそうに見つめながら、返答に窮していた。
「どちらへおいでなさるか分からんが、まもなく日も暮れます。この先には盗賊が出没する物騒な峠もございます。いかがでございましょう。今宵一夜私どもの家にお泊りになりましては・・・・。かような辺鄙な村ゆえ、なんのおもてなしもできませぬが、せめてお体だけでもごゆるりとおやすみになってくださいまし。」
親切な男の言葉に、疲れきっていた満重の心は動かされた。しかし、そこから敵の持氏がいる鎌倉はちかい。用心しなければなるまい、と満重は己の心を戒めた。
「殿、せっかくのこの男の申し出、お受けなさってはいかがでしょうか。殿には大分お疲れのご様子。それに暗くなりましてはこの男の申すとおり物騒かと心得まする。」
そういう家来の顔にも疲労の色が濃かった。満重は男の好意を受けることに決めた。
満重主従が案内されたところは、盗賊たちの住処だった。彼らは街道を通る旅人を、そのようにして誘い込んでは、金品を強奪して生計をたてていた。
「しめしめ、久々にいいカモが迷い込んできたぞ。だが、待てよ。カモとはいえ、奴らは曲りなりにもサムライだ。まともに戦を挑んでは、到底勝ち目があるまい。さてと、なにかよい術はないものか」
盗賊の首領は腕を組み、頭をひねって考えた。その結果、首領は近くの宿場から女たちを連れて酌をさせ、毒を入れた酒をサムライたちに飲ませて殺してしまおうという策略を考え出した。
そんなこととは露知らぬ小栗主従は、久々に女たちの酌で飲んだ酒が体中に回って、すっかりいい気分になっていた。
酌をしていた女たちの中に「照手」と呼ばれる女がいた。その照手が何を思ったか、満重のそばに酌にやってきた。満重の杯に酌をして、女はさりげなく口を満重の耳元に寄せた。
「そのお酒、お飲みになってはなりませぬ。」照手は低く押し殺した声で言った。
満重は杯の手を止めていぶかしげに照手の顔をみた。
その表情からただならぬ気配を読み取った。周囲に目を配ると、ほとんどの家来ははや杯を口に運んでいる。時すでに遅し、と見て取った満重は、盗賊たちに気を配りながら、かわやに行くふりをして、さりげなく座を立った。外に出た満重は、林の樹木につないでおいた名馬鬼鹿毛にまたがり、藤沢めざして駆け去った。
後に残された満重の家来と宿場の女たちは、まもなく酒に入ってた毒が体にまわり、ばたばたと倒れて息絶えた。盗賊たちはころよしと見て、サムライの懐から金を抜き取り、死体は近くの川に流してしまった。
死んだふりをして、他の女たちの死体とともに川に流された照手は、水中で一心に観音様に祈り、救いを求めた。その願いが通じたのか、照手は、やっとの思いで、とある川岸に這い上がることができた。
そこは金沢八景の野島の近くで、親切な土地の漁師が、照手を自分の家へ連れていって介抱してくれた。
照手の身は、六浦の堤から川に投ぜられたが、その近くにある千光寺(現在は朝比奈一丁目ー京急六浦駅から徒歩5分)という寺の本尊の千手観音が身代わりとなって救い出されたのであった。照手はその後暫く野島の漁師の家にかくまわれていた。
ところが、その家のおかみさんは美しい照手にやきもちをやき、ある日、亭主の留守に照手を松の青葉でいぶし殺そうとした。危機一髪、照手は千手観音によって再び命を救われた。不思議にも松葉をいぶした煙は、照手の方にはいかず、横になびいてしまったのだった。→いぶしに遭った姫小島はこちらから
一方照手の乳母侍従は、化粧道具をたずさえ、照手の行方を追って六浦までやってきた。が、ついに照手とめぐり合うことかなわず、悲嘆のあまり千光寺近くの川に身を投げた。それからこの川を侍従川、堤は油堤と呼ばれるようになった。
小栗満重はその後、三河国から出てきて照手を探し出して宝を与え、盗賊どもを退治したと伝えられる。

出典 「横浜の伝説散歩」  重富昭夫著

小桜姫に興味のある方は小桜姫烈女小桜姫のその後・小桜姫ここに眠るをクリックしてください


Me5CkHp8Z4etxnh1381058623_1381058641.jpg侍従川
TOlII9TyYSMR4_q1381058699_1381058716.jpg侍従橋




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category: 横浜市

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ここにもあった入定塚  

入定塚
入定とは、仏教の言葉で、精神を統一集中して、無我の境地に入ることです。
伝説によれば昔、伝海という高徳の行者がおりました。
地中にどうご(銅籠?)を埋めてその中に入り、地上に息通いの竹筒を出して七日七晩、鐘をたたきながら念仏を唱え続けついに入定しました。
いまでは付近は開発されて住宅地になり、目の前に海の公園が造成されて、塚のあとには現在供養塔が立っています。
塔は高さ十六センチの台石の上に安山岩で高さ九十八センチの塔身が載っています。
大日如来の坐像を彫刻した上方に「頼覚院伝海行人の菩提のために建てた」と刻み付けてあります。
「延宝四丙辰年七月十七日」建立。

出典 「金沢ところどころ」 佐野大和著

海の公園手前にある「入定(にゅうじょう)塚」(江戸時代)とは密接なかかわりがある。この塚のあたりは野島と小柴とを結ぶ海岸通りだったが、海が荒れるたびに道が流されてしまっていた。これに心を痛め、立ち上がったのが、この寺の修行僧・伝海だった。自ら掘った穴に入り、7日間念仏を唱え続けたすえに入定(即身仏になること)。以後、道が流されることはなくなったという。のちに、住民たちの手で彼の功徳を称える塚がつくられ、現在まで受け継がれている。

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逗子市の入定塚をクリックしてください

京急金沢八景駅から金沢文庫駅まで


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category: 横浜市

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天明年間に建設された姫小島水門・・・復元  


沿革
この地の昔の様子は、現在地から金沢文庫駅まで浅瀬の海が続き、付近には多くの入り江があり、そこに漁業や塩田を営む寒村が点在していたようです。鎌倉時代に源頼朝が「六浦湊」として開発し、その後この美しい水辺は遊覧の場となり、また北条氏の時代には「金沢文庫」が開かれ、学問の拠点にもなりました。
室町時代にはこの地の伝説「照天姫の物語」で、この付近がします。中之島をいつしか通商「姫小島」と呼ぶようになりました。
江戸時代になると生活必需品を、江戸へ水運により供給し、その繁栄により豊かな生活が営まれました。幕府儒官永島佐伯(号は泥亀)は、この人々と協力して、干潟の埋め立てを始めました。
江戸中期には金沢の入り江全体を開発するまでになり、新田を開くため入り江口にある姫小島を利用して汐除堤が築かれました。spして島と堤の間にこの水門が建設されました。江戸後期は名所「金沢八景」として知れ渡り、美しい風景は人々を魅了させました。その前後に新田と水門は幾多の水害を受けましたが、永島家代々の当主により守られて来ました。第二次大戦後には耕作していた人々によって管理されてきましたが、昭和35(1960)に八景団地造成事業が始まり、昭和39年に団地中央を通る泥亀バイパス道路建設により水門と姫小島は撤去されました。
このように、この地の二百年に及ぶ埋め立て事業の歴史的物証として意義ある水門であります。


構造
この水門の構造は開閉式門扉(通称は煽り水門)と呼ばれ、用途は汐除用水門で寸。石柱四本と門扉三枚で構成され、姫小島の両脇に二門ありました。この島の位置は、現在の公園脇に流れる宮川の中にあり、その東側の一門をここに復元しました。水門両脇の石柱は創建当時のものを使用していますが、この大きな柱はどこで誰の手によって造られたものか判っていません。門扉は木製で数年毎に交換していたようで、この作業は村人総出の大仕事だったようです。門扉を見ると上部に支える金具があり、門扉下部が外海側の前方のみ、開くようになっています。これは通常、水田への海水の侵入を防ぎ、干潮時には入り江に溜まった河川の水を外海へ排出するように出来ています。
江戸時代の汐除容水門は、関西方面に中央が開く観音式が多く見られます。
このような大きな水門で、下側が開くような合理的な発想と独創的な構造は大変貴重な水門です。
また、この地の高い経済力と技術力があったことを証明する土木遺構であります


oknElHxP75TCq791380976681_1380976725.jpg満潮時

bt_KfnEEMuk7tEW1380976501_1380976517.jpg干潮時

KoUcG5J5zUgYvOU1380976560_1380976622.jpg仕組み

姫小島は公園として残っています
また泥亀は地名として残っています




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category: 横浜市

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歩いて見つけたこんな庚申塔  

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見逃しそうな庚申塔ですが・・・・じつは

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矢印をよーく見てください



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category: 三浦市

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観音・地蔵一体の石塔・・・三浦33観「観音寺」  

佛光山観音寺
観音寺 三浦観音第六番札所
俗に松輪観音堂と呼ばれる佛光山観音寺
本尊は行基作と伝えられる聖観音菩薩立像で、像高二十九センチ、一木造り彫眼の木肌を現わにしたすすけた像である。像の容姿は宝髻(ほうけい)高く比較的長身で美しい像である。
境内右側の崖に面したところに、苔むした小さな石地蔵が寂然と並んでいる。その前には文政十年正月、村人十四人の連名で、徳本上人と目食上人の念仏供養塔が建っていて往古をしのぶことが出来る。
徳本上人は文化文政の頃、全国を遍歴し、市井に立って説教し六字名号の碑を建て、念仏布教に努めた高僧である。
またこの碑と並んで「観音と地蔵」を一体にした珍しい石仏がある。頭上の宝冠は確かに観音菩薩であるが、右手に錫杖を持って立つ容姿はまさに地蔵菩薩像である。これは生きていては地蔵の恩恵にあずかり、死んでは西方極楽浄土に連れて行ってもらおうとする、観音と地蔵をも加えて造立した珍しい石仏である。
出典 「三浦半島の古刹めぐり」  松浦豊著

6IVZ9Be_fWM9kY_1380867917_1380867927.jpg観音・地蔵一体の石仏

C4kRRlVI9HgkZV41380867860_1380867872.jpg崖面におかれているお地蔵様

SNATFdqIlmL4Ujf1380867822_1380867832.jpg御詠歌
本堂玄関上に掲げられている御詠歌
「くるかと仏は我をまつかな また後の世をまつは観音」


dI2Q_sa03f5N8zi1380867958_1380867968.jpg江奈湾
本堂から見た江奈湾



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