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文覚畑  

以下の文は、明治から対象にかけて加茂元義氏が駐在所勤務の傍ら、地域の歴史を隈なく調査した「浦賀志禄」から抜粋しました。
三浦古蹟集ニ 叶神社ノ後山ヲ文覚畑ト云フ、旧庵ノ遺跡ニシテ文覚上人ハ東鑑ニ北面ノ士遠藤左近将監持ノ子ニシテ遠藤盛遠ト云フ、十九歳ニシテ出家シ高尾山神護寺ヲ再建セントテ勧進帳ヲ拵ヘ後白河法皇ノ御所法性寺ニ至リ勧進帳ヲ読上ゲ狼藉ニ及ビケル故ニ承安四年伊豆国ヘ遠流セラレ、頼朝公ニ対面シテ源家再興ヲ勧メケル、頼朝公天下統一ノ後免ヲ蒙リ都ヘ帰リシガ其後亦後鳥羽院ノ御時ニノ宮ヲ御位ニ即ケ奉ラント企テシガ此事露顕ニ及ビ八十五歳ニテ隠岐国ヘ遠流セラリトアリ

叶神社の裏山に建てられていますが、その場所まで行くには、新興住宅地である「浦賀ヶ丘」から行くことになります。


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category: 横須賀市

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海難除けの観音様・・・東福寺  

延命山 東福寺
曹洞宗太玄派

このお寺は徳川家康が江戸に入城したおりに、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって改宗され、禅宗のお寺になりました。
江戸幕府から御朱印二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず代参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家・酒井抱一が描いた大きな亀の絵馬があります。
また本堂より低いところにある観音堂の観音菩薩は「海難除けの観音様」として信仰されており、次のような伝説があります。
江戸時代の初期、西浦賀紺屋町にあった淡路屋冶兵衛の廻船が、上方から荷物を積んで浦賀に向かっているときに時化にあい、船が沈みそうになりました。
船頭はじめ乗組員が日頃から信仰する観音様に助けを求めていると、不思議なことに船の舳先に観音様が現れ、それと同時に海は穏やかになりました。
船頭や乗組員は、観音様が自分たちの命を救ってくれたとして、浦賀に入港すると東福寺に安置しました。
また、観音堂脇に沸いてた水は「甘露水」といわれたよい水でした。(現在はこの湧き水はありません)

出典 新浦賀案内記 浦賀地域文化振興懇話会

東福寺山門

hTyrmZ_sbRD5Rlr1385717872_1385717883.jpg東福寺本堂

fT6eYmKDNOiGxom1385718050_1385718062.jpg絵馬

Re2aRLkfA28MLW71385717983_1385717997.jpg地蔵堂の六地蔵

E8uFfPmHC5MmMKE1386241026_1386241037.jpg観音堂

rXkaD4GiqeHjvnb1386241107_1386241119.jpg観音堂内部

category: 横須賀市

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馬頭・牛頭観音はよく見かけますが・・・心光寺  

馬頭観音

3S8l5AX3WSJhsh01385632896_1385632908.jpg牛頭観音

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多くの庚申塔が立ち並ぶ中に、目立たないところにひっそりとたたずむ豚頭観世音
残念ながら、製作年月は不明です。

これらの石塔は、三浦市心光寺入り口階段脇に建っている・

category: 三浦市

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海蝕洞窟内の神社  


この洞窟は、城ヶ島(三浦市)京急ホテルへ行く、観光橋のところにあります。
別名「小桜姫洞」と呼ばれ、小桜姫を祀っているといわれています。

小桜姫関連の記事は、本ページ下にリンクを張っていますので、ご覧くださいICPjQguJoVWDabs1385550273_1385550282.jpg

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リンク先
1、小桜姫ここに眠る
2、小桜姫その後
3、小桜姫は烈女の鑑

category: 三浦市

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風化で消え行く磨崖仏・・・法昌寺  

菊名山法昌寺
曹洞宗
この寺は沼間(逗子市)の海宝院末で、開山は本山三世の僧、機宗で開基は長谷川七左衛門長綱である。
本尊は行基作と伝えられる観音菩薩像で、像高六十センチ、寄せ木造り、玉眼嵌入の坐像で肉身のみ漆箔、衣紋部は黒く膝から台座まで垂れ下がった優美な坐像である。
この像については次のような伝説がある。
永正のむかし、三浦道寸の部下に菊名左衛門重氏という武士が菊名に住んでいた。
ある日、重氏は主君のお供をして山への猟を終えての帰り、海岸にくると、どこからともなく美しい琴の音が聞こえてきた。
音のほうへ近寄ってみると、磯の間に清水が湧き出し、観音像が浮かびあがってきた。重氏はさっそくこの観音さまを取り上げて、法昌寺に安置し、お祀りしたのがこの像である。
本堂の真裏に当たる墓地内の裏山の崖の部分にやぐらがあり、五メートルに及ぶ範囲にわたって、総数七基の五輪塔と二基の磨崖仏が浮き彫りされている。
そして中央の方形の基壇の中には、納骨と写経石が祀られている。
このやぐらは規模の大きさから見て、三浦半島一帯を支配した三浦一族の武将を祀った墓と思われ、移り変わる歴史の姿をそのまま見ることが出来る。

出典 三浦半島の古刹めぐり 松浦豊著pjgRcfqAv4HOV0t1385453348_1385453359.jpg参道に建つ牛馬観世音

2lw65PTmTBAGwL_1385453395_1385453408.jpg磨崖仏
風化が進んでおり、もう一基は跡形もない

DcBkvCmKNAhqVmm1385453451_1385453464.jpg納骨と写経石

52F_NVreACnjggX1385453497_1385453515.jpg観音像が浮き上がった琴音岩
対岸に薄く見える半島は房総半島(千葉県)

category: 三浦市

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海軍婆さんの碑  

馬門山墓地
明治十五年、海軍省が開設した墓地である。かっては美しい松林があったが文化年間(1804~1818)佃島(東京)砲台を築くため157本の松の木が伐採され、今日僅かな松が残るのみである。
面積24528平米、もとは横須賀鎮守府の管理下であり、軍艦筑波、河内などに乗船した軍人1592柱が眠る。終戦による海軍省の廃止に伴い、横須賀市が昭和24年に引継ぎ、一般市民の墓地も造成されている。


海軍婆さんの碑
この墓地内には「猿丸重野女史留魂碑」と刻む、海軍軍人にかかわったユニークな女性を讃えた碑がある。
(題字は元海軍中将大川内伝七の書)
猿丸女史は明治十四年兵庫県芦屋に生まれ、長じて上海に渡り、そこで駐在の日本海軍部隊に厚く待遇されたことに感奮し、生涯を海軍のために尽くさんと、特志看護婦となり、海軍婆さんの愛称で親しまれていた。しかし昭和二十年病を得て帰国し衣笠共楽荘(横須賀市)で養生していたが、再起することなく、八年後永眠した。
七十二歳であった。
想い出を持つ有志によって分骨され、海軍軍人の眠るここに埋葬されたのである。

出典 三浦半島の史跡みち 鈴木かほる著

なお、出典記事では参道正面に建っている様になっているものの、場所を引っ越したものか見当たらない

6Ivy427ESPNsQuG1385373480_1385373494.jpg拝礼堂

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category: 横須賀市

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盆栽のような保存木と福徳稲荷  

福徳稲荷
逗子市池子の福徳稲荷社の境内に、幹のねじれた大きなエノキ(ニレ科)が、巨岩の上に横たわり、あたかも大きな盆栽のようだ。
奇木で面白いため、「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」と「逗子景観賞」に選ばれている。
ねじれた先は七本の枝に分かれ、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)のようにも見える。
樹高は約十二メートル、周囲は約二メートルある

出典 三浦半島際発見 百景ぶらり探訪  神奈川新聞社横須賀支社
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category: 逗子市

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ペリー提督は今の日本を予言していた  


ペリー提督の予言
実用的ならびに機械的分野の諸技術において、日本人は卓越した手先の器用さをもっている。
彼らのy使う道具の粗末さや、機械に関する彼らの不完全な知識を考えるとき、彼らの手作業の能力の完全さは驚くべきもののようだ。
日本の手工業者たちは、世界のいずこの手工業者たちにも劣らず熟達しており、この国民の発明的能力が、もっと自由に発揮されるなら日本人はいつまでも最も成功している工業国民に遅れをとったままではいないであろう。
他諸国民が、なし遂げた物質的進歩の諸成果を学ぼうとする彼らの好奇心と、それらを自己の用途に適応させようとする敏達さはもし今まで彼らを国民的な対外交流から孤立させている政府の排外政策がもっと緩められるなら、彼らを間もなく世界で最も恵まれた国々と並ぶ水準にまで押し上げるであろう。
ひとたび文明世界の過去及び現在の技能等を手に納めたら、日本人は将来機械工業の成功をめざす競争に、強力な競争者として加わるであろう。

出典 碑文より転載   -日本遠征記1856年版よりー

In the practical and mechanical arts,the Japanese show great dexterity;and when
the rudeness of their tools and their inperfect knowledge of machinery are considere-d,the perfection of their manual skill appears marvellous.
Their handicraftsmen are as expert as any in the world,and,with a freer development
of the inventive powers of the people,the Japanes would not remain long behind the
most successful manufacturing nations.
Their curiosity to learn the results of the material progress of other people,and
their readiness in adapting them to their own uses,would soon,under a less exclusive
policy of govemment,which isolates them from national communion raise them to a level
with the most favored countries.
Once possessed of the acquisitions of the past and present of the civilized world,the
Japanese would center as powerful competitors in the race for mechanical success in the future.


GrH1zGpyaAFZZkm1385200896_1385200908.jpgペリー提督

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写真中央の石について
この石は米合衆国ロードアイランド州ニューポート市(ペリー提督ゆかりの地であり、米合衆国海軍の歴史的軍港地)から運ばれてきました。在日米海軍司令部(司令官J.D.カーシィ少将)並びに米海軍横須賀基地司令部(司令官S.Hハウエル大佐)が永年に亘る友誼の証として横須賀商工会議所創立60周年を記念して贈呈されたものであります。

このペリー提督予言板は、横須賀市商工会議所、正面玄関入って、正面にあります。
横須賀市小川町一丁目

category: 横須賀市

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百庚申塔・・・専養院  


この百庚申塔は専養院の境内(本堂横)に設置されています。

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自然石に「庚申塚」の文字を数多く刻んだ珍しい石塚が十四基ほど「建っている。
百庚申と呼ばれ明治五年に太田和の名主の浅羽仁右衛門が建立したものである。
「庚申塔」の書体は、楷書、行書、隷書で書刻され、一基に一体のものから一基に十九体のものまで、総体として九十九体の庚申塔を祀っている。
浅羽日記に、六十日毎に巡ってくる庚申の日に、一日がかりで村内と近隣の庚申塔百二十三基におまいりしたことが記されている。
このことから多くの庚申塔にお参りする代わりに、一箇所に祀られた庚申塔でご利益を得られるようにと建てられたと思われる。

出典 三浦半島の史跡を訪ねて 横須賀郷土史研究会

category: 横須賀市

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親子二代で新田開発・・・墓は淋しく  

藪に包まれた墓石群
江戸時代に、入江新田(現在の三浦市初声町)を開発した山田惣左衛門の墓である。
入江新田は三浦郡誌、初声村誌等によると、古くは宮田湾の東岸の入江で、耕作の難しい汐入りの湿地帯であったという。
宝永五年(1708)惣左衛門が和田・宮田村の許可を得て着手し、惣左衛門の没後、その子儀左衛門が引き継ぎ、元文三年(1738)に三十年かかって約十五町歩(四万五千坪)の新田を完成させたという。
この墓は五三の桐を上部にあしらった墓塔の右側面に「享保十四年十一月二十七日山田惣左衛門是重 寿等五十歳」とあり、左側面には「享保五十六年二月二十日孝子山田儀左衛門是次」とある。

出典 三浦半島の史跡を訪ねて 横須賀郷土史研究会

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あまり訪れる人もいないのか、周りは草ぼうぼうである。

桐紋
桐紋(きりもん)とは、ゴマノハグサ科のキリの葉や花を図案化した家紋の総称である。桐花紋(とうかもん)とも呼ばれる。

足利幕府では小判などの貨幣に刻印され、これ以来皇室や足利幕府や豊臣政府など様々な政府が用いており、現在では日本国政府の紋章として用いられている。

古代中国で鳳凰が棲むといういわれのある桐とは、アオギリ(梧桐)である。日本で使用されている桐紋はこの伝承に倣ってのものであるが、桐紋としてデザインされているのは別種のキリ(白桐)である。

当初は菊紋章とともに皇室専用の家紋であったが、後に皇室以外の戦国大名などの諸侯も用いるようになり、皇室は専ら菊紋章のみを用いるようになった。
3本の直立する花序と3枚の葉から構成されているものが基本的図案である。花序につく花の数が3-5-3の五三桐(ごさんのきり・ごさんぎり)が一般的で、花序につく花の数が5-7-5となっているものは五七桐(ごしちのきり・ごしちぎり)という。ほかに、「乱れ桐」・「桐菱」・「光琳桐」・「桐車」など140種以上の図案がある。

参考資料 ウィキペディアより

category: 横須賀市

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冬の風物詩・・・三浦海岸の大根干し  


三浦海岸の大根干し
夏は海水浴客で大賑わいの砂浜も、この時期は畑で取れた大根を干します。
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category: 三浦市

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願海和尚が一時寄宿した寺・・・専養院  


写真の左に見えるのが「願海和尚の碑」

古跡山専養院 浄土宗 
本尊 阿弥陀三尊
開基 不明


太田和城(横須賀市・衣笠城の支城の一つ)から程近いところにある。無住の小さなお寺で近年本堂を焼失したが再建され、東漸寺で管理している。
古跡山という山号は珍しいが、太田和城跡があることにちなんでつけられたと思われる。
本堂には戦時中に軍需供出を免れた文政八年(1825)銘の半鐘がかけてある。


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この石塔には「南無阿弥陀仏」と一緒に小さく「願海」と書いてある。
出典 三浦半島の史跡を訪ねて 横須賀郷土史研究会



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京急津久井浜からの歩きの地図ですが、京急YRP野比駅から、市民病院までバスに乗り、そこから歩くことも出来ます。

category: 横須賀市

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願海和尚はここで水行を・・・武山不動の滝  

滝の水が流れ込む池

m1r8M0_c1iF_ujc1384767373_1384767390.jpg山崩れで瓦礫の沢

oS_LSP8DvTU0Xvg1384768814_1384768839.jpg武山不動の滝

fVKMo68W3iGyKUJ1384767467_1384767477.jpg滝近くの山肌に残る台座

LI2iuex1hTSmwS41384767512_1384767537.jpg沢に転がる願海水行の碑
よく読み取れませんが「願海上人水行 十ヶ年満足之場所也」と書いてあります。
願海和尚については「願海和尚」でリンクしています。

不動滝への注意
山道で獣道になっています。
岩石がごろごろしています。
水も流れていますので、濡れた岩には注意してください。


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category: 横須賀市

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ペリ来航で活躍の中島三郎介父子の墓・・・東林寺  

東林寺本堂

m6172v2yACWzVNL1384685745_1384685758.jpg本堂内

寺誌によれば、開山は唱阿上人です。しかし「新編相模国風土記稿」には「いにしえは、今の寺院を分かち唱えて二ヶ寺なりしを、大永三年(1523)僧良道合わせ一寺とす。故に此の僧を開山と称す」とあります。
本堂の正面に本尊「阿弥陀如来」が安置されています。実はこの阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊ということになります。
さらにこの脇にもう一体阿弥陀仏が安置されています。この仏様は「善光寺式阿弥陀仏」といわれ、長野県善光寺の本尊を模して造られたもので室町初期の作風をよく顕しているということで、横須賀市指定の文化財になっています。
本尊の阿弥陀仏と善光寺の阿弥陀仏を見比べると阿弥陀仏の作風の変遷が見られます。また鎌倉時代の作といわれる市指定の重要文化財「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が保存されています。

出典 新浦賀案内記 浦賀地域文化振興懇話会

黒船に最初に乗り込んだ男
浦賀奉行所与力 中島三郎助
浦賀奉行所与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永六年(1853)ペリー来航の際、最初に黒舟使節団との折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の様式軍艦「鳳凰丸」を建造しました。
三郎助は文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏」と称し、人々から敬慕されていました。
明治維新では、幕臣としての意志を貫き、函館の千代ヶ岡台場で二人の息子と共に戦死しました。
享年四十九歳、父子の墓は当寺ですが、函館中島町に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。

出典 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

CCDAbbGP5UWcppI1384685795_1384685811.jpg中島三郎助父子

LEqeMBVjXezTBy51384685529_1384685644.jpg三郎助と英次郎の墓
1LHksateQL4If3w1384685674_1384685717.jpg恒太郎の墓



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category: 横須賀市

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小林一茶の碑・・・専福寺  

専福寺本堂

TUiPr7BxqsAbu5q1384593035_1384593056.jpg阿弥陀三尊
永昌山戒寿院 専福寺 浄土宗鎮西派
永正元年(1504)僧・久悦によって開かれたお寺です。
小さな石段を上る途中に呑龍上人の碑があります。呑龍上人といえば「大田(栃木県)の呑龍さん」の名で親しまれ、病弱な子どもの立派な成長を願うお参りが絶えなかったといわれます。しかし専福寺とのつながりはよく分かっていません。
本堂前に観音像と小林一茶の日記の一節が刻まれた碑があります。
文化三年(1806)頃、この専福寺を一茶が訪れた記録があります。
一茶研究家の説によると、一茶の初恋の人がここに葬られているので、その菩提を弔うために訪れたといわれます。その墓が関東大震災による山崩れで見つからなくなっている現在ではこの碑は意義あるものといえよう。


BBFJeczvUkj59FO1384592992_1384593004.jpg呑龍上人の碑

h6_5XxMp7kNX4Ps1384593110_1384593121.jpg小林一茶碑

かてきさまの像
明治末期から大正初期にかけて、本堂に仮安置された大きな厨子の中には「かてきさま」(貨狄尊者)(かてきそんじゃ)と呼ばれる異様な様相をした木の立像が納められていました。この「かてきさま」が実はオランダ生まれのカトリック聖職者エラスムス(1466~1536)の像であることが分かったのは昭和の戦後のことでした。慶長五年(1600)英人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)が初めて浦賀港に入ったとき、乗船であるオランダ船「リーフデ号」の船首飾りとなっていたものだといわれます。その船は二年後には幕府に没収・解体されますが船首のエラスムス像は取り外されどこかに保存されたのでしょう。
慶長十七年(1612)には切支丹布教が禁止されていますので、カトリック聖者エラスムス像を廃棄されることを恐れ「貨狄尊者」の名で偽装し、密かに保存されたものといわれます。
貨狄とは、中国の古代神話にあらわれる船の創造者でエラスムスとの関連はありません。その頃東浦賀の洲崎の山の手には按針屋敷があり按針が勧請した社宮祠があったと記録されており、エラスムス像はそのあたりにあったのかも知れません・その後この像は行方不明となりましたが栃木県佐野市の竜江院(りゅうこういん)に納まり「かてきさま」として信仰されてきたといいます。


呑龍上人
呑龍1556~1623)
江戸初期の浄土宗の僧
武蔵国(埼玉県)岩槻城主の家臣の次男として生まれた。
十三歳で出家し、曇竜と称した。1613徳川家康が上野国太田(群馬県太田市)に創建した大光院に開山として入寺し、悪竜を呑む夢を見て名を呑龍と改めた。
貧困のために行われていた堕胎や間引きの惨状に対して、寺の禄米を施し、、禄米流用の非難が起こると、困窮者の子弟を形だけ剃髪させ、弟子の名目のもとに慈善行を続けた。
民衆と苦難をともにして教化に尽くし子育て呑龍と呼ばれた。


本ページにおける資料は「新浦賀案内記」(浦賀地域文化振興懇話会)による。



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category: 横須賀市

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遊女解放し、自らは仏門に・・・・  

2gs0jymJz4l9U2F1384509356_1384509367.jpg三浦稲荷社前に建つ六字念仏塔

南無阿弥陀佛と刻まれた六字念仏塔は、祐天寺六世祐全上人による名号石塔で、江戸屋半五郎によって建立されました。
名号の彫りも深く、半五郎の信仰の深さがうかがえます。
半五郎はここ浦賀で遊郭を営み繁盛していましたが、後にすべての財産を処分して遊女たちに分け与えて解放してやりました。
自らは京都青龍寺で得度し、生き仏といわれた徳本上人の弟子深本(深心)となり仏門に帰依しました。

また「浦賀事跡考」によれば、この稲荷社前では文化六年(1809)、当時の花形力士の雷電為右衛門の相撲興行が行われたと記されています。

三浦稲荷社

三浦稲荷社の稲荷神は倉稲魂で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神です。
出典 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

江戸屋半五郎←墓の所在地はこちらです。



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虫歯によく効く姫の位牌・・・常福寺  



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文明年間(1469~86)に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、本陣(御用寺院)の役割をし、奉行交代の儀式を行いました。
庫裡の築山泉水庭は、唯一現存する浦賀三庭園の一つです。
当寺に虫歯によく効くという「珊誉女(さんよめ)」の位牌、狩野常信が描いた「地獄極楽之図」があります。

出典 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

ここの墓地には、浦賀奉行所与力の墓碑や江戸屋半五郎の墓があります。

位牌の伝説

この寺に「良樹院珊誉昌栄禅尼 寛永十一年八月八日」と彫った位牌がある。
これは備後の福山城主の女とか因州城主の姫とかいわれ、生前虫食歯でなやんでいて没した人だということだ。彼女が死ぬ前から、もし虫歯で苦しむ人は私の位牌に祈れば必ずその効験が得られると遺言したというので、祈願するものも多かった。
虫歯の痛みが祈願で治ったちきには紅や白粉の化粧品の類を納めるという。

出典 三浦半島の口碑伝説百選 横須賀文化協会

このブログでは六地蔵がよく出てきます。←こちらに簡単に説明してありますのでご一読ください



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海から出現した聖徳太子幼年像  

本堂
太子堂の名で親しまれている日蓮宗のお寺です。
昔、佐原の聖徳院で火災があり、お堂が浦賀に疎開しました。地元の人に太子信仰として敬われ荒巻の太子堂として定着しました。
本堂には背中に元徳三年(1331)と刻まれた聖徳太子の像形の幼年像が祀られています。
この木造は浦賀水道の海から出現したといわれています。
太子は、仏・法・僧の三宝を説き広く仏教の布教につとめました。
ものづくりの神体としても知られ、職人たちの信仰を集めています。

出典 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

IhXiD9w8iCApbvo1384339295_1384339385.jpg海中から出た幼年像

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三浦・北条の戦いの跡  

古戦場跡
横須賀市にある黒石という地名は、道の脇に地中から、頭だけをのぞかせている大きな岩があるところから名づけられたものと思われ、今でもその岩は民家の敷地内にその姿を見せています。
この黒石のあたりは、永正十二年(1515)に小田原の北条氏と新井城に本拠を置く三浦道寸義同が争ったときの古戦場の一つとして知られている。
秋谷(横須賀市)の大崩れで踏みとどまって抵抗した三浦側は、ここで北条方に破れ、更に長坂と黒石で抵抗を試みましたが、北条方の勢いを止めることが出来ず、やがて新井城に敗走したといわれます。
この古戦場跡を小さな川が流れており、身洗川といいます。

出典 横須賀こども風土記(下) 辻井善弥著

uxBWBKwSX3gVnwN1384252727_1384252739.jpg黒石と六地蔵

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途中バスの便もありますが、ハイキングで道中を楽しみましょう


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問答に勝ち真言宗から日蓮宗に・・・本住寺  

本住寺WS1DIHPSlRGd0J61384163181_1384163196.jpg木造日蓮上人坐像

横須賀市指定重要文化財
木造日蓮上人坐像
本住寺の日蓮上人坐像は、像及び畳座の銘文から、永禄十二年(1569)年、仏師法眼長勤により造立され、その後、江戸時代に三度にわたり修理されたことがわかります。法眼長勤は、室町時代後期の代表的鎌倉仏師の一人で、津久井(横須賀市)往生院の木造阿弥陀三尊像(横須賀市指定重文)の作者としても知られています。
構造はヒノキ材の寄木造で、玉眼嵌入、彩色が施されており、像高は五十一・二センチです。左手に経巻、右手に笏を持ち、上畳座n安置する通形の説法像です。
両膝上に流れる袖先が膨らみをもって反り返る形は、中世から近世への過度的な形式の一つです。彫技は伸びやかさには欠けるものの、総体に穏やかで丁寧なものとなっています。
造立年代、作者ともに明確な中世後期の肖像彫刻として、資料的価値の高い作例です。

出典 横須賀市教育委員会

u1arlph4a9PeO2x1384163225_1384163242.jpg三本塔(墓塔)

Aa0WJBm6_ECKxun1384163273_1384163287.jpg花立て

この寺は古くは真言宗の寺であったそうですが、この寺が改宗したいきさつについて次のような話が伝えられています。真言宗の時代には印行坊という僧がこの寺にいたそうですが、あるときそこへ日蓮宗の九老僧の一人であった日相上人が乗り込んできて、問答を申し込んできました。印行坊はこれをうけ論争をたたかわしましたが負け、そのため寺を明け渡したということです。
印行坊は寺を出た後、裏山にこもりここで一生を終わったと伝えられ、その山を印行坊山と呼ばれていたといわれます。問答に勝った日相は「風土記稿」によると、永享六年(1434)に没しています。
この寺で目につくのは、本堂左手に立つ高さ三メートル以上もある「三本塔」と呼ばれている墓塔です。
このうち二基は慶安二年(1649)の銘があり、他の一基には寛永十七年(1640)とあります。
いずれも江戸時代初期に建立されたもので、当時このような立派な塔を建立するにはよほどの財力がなければなしえません。
昔からこの塔の花立に溜まる水をつけるといぼや腫れ物が治ると伝えられています。

出典 横須賀こども風土記(下) 辻井善弥著

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旧浦賀道と道六神  

横須賀市田浦の長善寺を通り城の台へ向かう坂道(大田坂:おったざか)の途中に小さな石碑がある。天保12年(1841)に建立された道祖神(道六神)だ。道祖神とは村境や道の辻、峠道などに祀られ、そこから内へ伝染病などの悪霊が入り込まないようにと境を守る神として塞の神、道陸神などとも呼ばれている。また、道行く人を守る神ともされた。十三峠を越えてきた悪霊をここでさえぎることができると、当時の人は考えていたのだろう。昔、旅人がこの道六神の前まで登ってきてやれやれと一休みし、旅の安全を祈り登っていったことだろう。この急坂(大田坂)も今は階段となっている。この道祖神には、「念仏講中、世話人、七右衛門、六右衛門」と書かれていることから、夜集まり念仏(南無阿弥陀仏)をとなえてお茶やお菓子などを食べる念仏講の人たちがこの石碑を立てたと考えられる。
出典 横須賀市HPより抜粋(市民部田浦行政センター)

KaiTNYuROrc5w611384069287_1384069300.jpg長善寺脇の旧浦賀道


MzSbjkPM7CwJUXf1384069334_1384069348.jpg人家を抜けると急坂へ

1dU63ipyoBqUBKe1384069378_1384069402.jpg階段で整備されている

5NtaIhEkQ7EVlXF1384069441_1384069451.jpg崖にたたずみ旅人を見守っている。

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京急田浦駅ー長善寺ー大田坂(浦賀道)-道六神ーのの字坂ー防災トンネルー京急安針塚駅

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旧浦賀道を見守るお地蔵さん・・・長善寺  

京浜急行のガード近く、旧浦賀道ぞいに浄土宗の西林山長善寺がある。寺が開かれたのは永禄元年(1558)といわれ、開山和尚は天正4年(1576)に亡くなった嘆蓮社讃誉長善(たんれんしゃさんよちょうぜん)といわれる。本尊は阿弥陀如来像。江戸時代に入り、元禄のころ災害によって創建の建物がこわれたため、享保15年(1730)に村民の石川太右衛門や多数の檀家の協力により復興した。
明治になり、吉水幽誉(よしみずゆうよ)和尚が伊勢の津市からきて住職となった。明治7年(1874) 長善寺本堂に田浦学舎ができる(後の田浦小学校)。明治30年、本堂などの改築を行い、明治37年に完成した。
寺には、室町時代前期の地蔵菩薩像や古文書など貴重な文化財がある。明治のはじめまで大作谷戸にあったといわれる久遠寺の本尊像も移されている。また、境内にある不動明王像は、三浦道寸の守り本尊で、落ち武者の菩提を弔うために安置したといわれている。
ここは浦賀道(浦賀街道の難所・十三峠の山越えに備える所であった。享保年間(1716~1736)に祀られたというお地蔵さまが、山門正面にある。浦賀道(浦賀街道を往来する旅人が「旅の安全」や「家内安全」を願って、お参りしたという。

出典 横須賀市HPより抜粋(市民部田浦行政センター)



onpYddhGAJ6EWz61384054629_1384054712.jpg旅人の安全・家内安全を願うお地蔵さん

QZ7aGPdN5pctdpF1384054740_1384054778.jpg法然作の宗歌


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唐衣と白狐・・・白狐を成敗したばかりに・・・  

月見台からの景色
残念ながら、「白狐稲荷」は見つけられませんでしたが、それにまつわる伝説を紹介します。

田浦谷戸と失かま谷戸を境している丘陵は南北に延びその頂上は「月見台」と呼ばれて市営住宅が立ち並んでいる。
ここは「城の台」といい里人たちは「しろんだ」ともいっている。

その昔、北条義時・経時のころその重臣に秋田城の介景盛という武士があった。城の介は鎌倉扇が谷に上屋敷を田浦が谷戸のこの丘に下屋敷をもっていた。この下屋敷は高台にあるので眺望はよくとくに月の景はまた格別なところであった。景盛の嫡子左ヱ門尉義景は日ごろからこの景時の下屋敷が好きで始終ここで暮らしていた。毎年八月の十五夜九月の十三夜には観月の宴がここで催されるのが例となっていた。
今しも九月の十三夜、折からの秋晴れに恵まれて例年に増した月見の宴が開かれた。七ツ少々下るころ扇ガ谷からわざわざ招いた父の景盛を正座に据えて酒宴の席を東の大広間で開いた。
庭先には泉水をひかえ老松が面白い枝振りをさしかざしている中の島へは苔むした石橋が掛けられている。
この池の彼方は小高い山となり、その山の間からは広々とした海原が手に取るように見え遥か遠くに「いさり火」が点々と浮いている。小山の頂上は深い茂みの大樹の中に田浦稲の古びた祠がかすかに見える。
(現在、田浦稲荷は盛福寺境内にある)
家来たちはてんでに景盛義景父子のご機嫌を伺い酒宴の相手をしているうちに、十三夜の月はゆっくりと海上はるかに上り、しだいに田浦稲荷の森に影を沈めていった。景盛父子をはじめ家臣一同は月の景色を賞でながらしきりに盃をあげているところに、左ヱ門尉義景の愛妾「唐衣」が静々とこの宴たけなわの席に出て、しとやかに会釈して席についた。
この「唐衣」はもと京都の白拍子であったが夫人を失った義景に迎えられて妾となった人である。家中の者たちは奥方のように尊び親しんでいた。
唐衣は当年二十七歳。あくまで白いかんばせは残んを欺くばかり、たけなす黒髪は実に漆を塗ったように、自然にそなわる愛嬌をたたえている。やがて静かに手なれた琴を調べ始めた。これは夫の命を受けて月見の宴に興を添えようとする心遣いであった。侍女数名も唐衣のうしろに控えこの席に時ならぬ花の風情を副えた。やがて掻き鳴らす琴の調べにつれて歌うは平の重衡であった。彼は鎌倉に捕らわれの身となったときの困難を極めた次第を作った琴歌で実にあわれを催すばかりであった。続いてかなでる「はやりの歌」は身も心も浮き立たせ、さえ渡る月に溶け込むような有様で秋田父子をはじめなみいる面々一同はただただ余念もなく一心に我を忘れて聴き入るばかりであった。
そのうちどうしたことか琴の音色が何となく陰気に沈んでいった。調べている唐衣も不思議な気持ちで調べをつづけていたが、しだいに掻き鳴らす糸のさばきも乱れ勝ちとなってきた。いよいよ不審に思い覚わず四方に眼を見張った。すると廊下の隅の手摺の辺りに見なれぬ年の頃十三四の一人の小姓がいるのに気がついた。頭を唐輪に結び、紫染めの振袖を着て膝に両手を組んで、唐衣の琴の調べをじっと聴き入ってた。これに眼をとめた殻衣は、グキリ」と棟にこたえるが早いかハタと弾く手をやめた。とたんに傍らに置いてあった小さな箱の中からなにやらピカリと光る細いものを取り出してツト立ち上がった。
秋田父子をはじめなみいる一同はこれはと思う間に、何も気付かず首をたれて廊下の隅にいた彼の小姓の側にヅカヅカと近づくが早いか彼の着物の裾の最中めがけて持っていた針でエイとばかり力いっぱい刺し通した。
キャッと物すごい一声と共に、もはや小姓は動くこともできなくなり顔色は青ざめ体を震わせながら、唐衣に向かって両手を合わせしきりに拝んでいる。唐衣はこやつ怪しいものに違いないと気色ばんだ、するどい眼じりでにらみつけた。するとどうしたか、今まで優しく見えたこの小姓の姿はたちまち消えうせて年経た狐となってその招待をあらわした。この様子を見た一同はびっくりし城の介父子は非常に怒って、直ちに家来に命じて真っ二つに切り捨てさせた。
この谷戸には、古くから百年以上も年経たという白狐夫婦が棲んでいた。その牝が無残にもここで殺されてしまった。この死骸は田浦稲荷の小祠のそばに埋められた。
このこと以来、残された牡狐は唐衣をうらむこと一方ならず、ついに唐衣にのりうつって僅か五年でさしもの秋田家を断絶にまで追い込んでしまった。
これより先、唐衣は義景の胤を宿し、断絶寸前に女の子を生み、これを家臣に預け名を小万と呼んでその成長を祈っていた。秋田家断絶の憂き目にあった唐衣や何も知らない小万は、昔の栄華もどこへやら、よる辺のない流浪の実となってその日その日の困難と戦いながら流れ流れてついに大阪に足を止めた。がしかし唐衣はとうとうここでこの世をさってしまった。
後、小万は成長し女侠客となり奴の小万とその名を高くした。
出典  横須賀雑考 横須賀文化協会、田浦町史

京急田浦駅ーのの字坂ー京急安針塚


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哀れ餓死の子連れの旅人  

旧浦賀道と子育て地蔵

逸見(へみ)子育て地蔵
子育て地蔵は、江戸時代の元禄十一年(1698)、往来する子連れの旅人十六名が飢えのためこのあたりで死亡し、それを哀れんだ里人が冥福を祈って祀ったという。

出典 三浦半島ハイクガイド  鈴木かほる著

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お堂の前は、旧浦賀道であり、江戸と浦賀を結ぶ当時は険しい道であったと思われる。



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古色蒼然の山門・・・盛福寺  


禅宗様式の山門と奥に見えるのは本堂

当山は田浦山と号し、最初は天台宗として開創されたが、鎌倉北条の時代に臨済宗円覚寺派に転属した。
山門禅宗様式の特徴を持ち、建立当時は草葺の古色蒼然たる門で「慶長二年(1597・豊臣秀吉の頃)屋根葺換をなす」との棟札が納められている。天保七年(1836)の火災でも焼失を免れた唯一の堂宇
昭和三十六年(1961)行山代銅版葺に葺き買換。
平成二十年三月(2008)横須賀市指定重要有形文化財

本堂
創建当時の七堂伽藍は二度の火災により焼失。後に第十三代行應禅師の苦心奮闘の末、明治二十九年(1869)本堂落慶
当山の案内板による。

山門
横須賀市指定重要有形文化財(建造物)
盛福寺は田浦山と号する臨済宗(円覚寺派)寺院で、境内地は南に開く小さな谷戸に構えています。この矢とは江戸から浦賀に通じる浦賀道に面し、浦賀道からわずかに北へ入った一段高い場所に山門があります。
盛福寺の山門は、桁行(けたゆき)9.5尺、梁行(はりゆき)7.4尺の棟持柱式の四脚門です。
四脚門とは2本の親柱の前後に計4本の控柱を設けた格式の高い門です。屋根は切妻造、瓦棒銅版葺です(本来は茅葺です)
柱や礎盤形状をはじめ、親柱上の組物で棟木を支え親柱から控柱へ向かって海老虹梁を掛け渡す軸部形式、頭貫木鼻、組物および親柱筋台輪など、全体的に禅宗様建築様式で統一されています。
横須賀市内における禅宗様四脚門の代表例です。
建築年代は、16世紀末~17世紀初期頃と推察され、市内の寺院建築最古例として、その歴史的・文化的価値が高い建造物です。
出典 横須賀市教育委員会

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婦人の夢枕に立った観音様・・・田浦観音堂  

田浦観音堂
田浦山盛福寺前の水道トンネルを出て、右側の階段を登ると、駐車場に出る。さらに階段を登ったところに杉林に囲まれひっそりと観音像を祀ったお堂が建っている。
昔、このあたりには、守り神として馬頭観音が祀られていたが、戦前、軍がトンネルを作るとき埋めてしまったそうだ。
戦後になって、田浦在住の婦人がある夜、観音様が夢枕に立ち、埋められたことがわかった。
その人が成田山の住職に相談し、田浦観音となづけた像を彫ってもらった。
昭和36年にお堂が完成し、稚児行列をくりだして観音様を奉納した。
古老によると、昔はいろいろな催し物が行われ、出店もたくさん出て、大変な賑わいだったという。
お堂内の観音様は木造で、奉賛会の人たちが維持している。

出典 横須賀市ホームページ
問い合わせ先 市民部田浦行政センター
        メール:ta-ci@city3yokosuka.kanagawa.jp

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歯の神様を祀るお稲荷様・・・田浦稲荷  

田浦稲荷
この田浦稲荷は、盛福寺境内の右側崖の中腹に存在する。
ここには、稲荷のほかに白山(歯の神)、天神(勉学の神)、弁天(福富の神)も祀ってある。
歯が痛むときに拝むと治ると言い伝えられていた。古老によると、地元では「石宮」と呼んでいたという。
この稲荷は、昔は城の台にあり、この地に屋敷をかまえ住んでいたとされる鎌倉時代の武将、秋田城之介義景の守り神だったという。
地元では他に畠山重忠・重保の畠山家の守り神だったとする説もある。
慶長年間(1596~1614)に、盛福寺の守り神(鎮守)として境内右側の小高い場所に移された。

出典 横須賀市ホームページ
問い合わせ先 市民部田浦行政センター
        メール:ta-ci@city3yokosuka.kanagawa.jp





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八百年前の城跡  

怒田城跡
京浜急行久里浜線線路脇に怒田城跡が存在する。
新編相模国風土記稿西浦賀文郷の項にある怒田城蹟にはこう書かれている。
怒田城蹟 村の西界山上にあり、字台崎と云、闊二千坪余今は陸田なり。内川新田開墾の前は入海の出崎にして要害の地なり。相傳ふ三浦大介義明の持城なりと。按ずるに「源平盛衰記」衣笠籠城の條に、怒田城と載るもの是なるべし、曰、義盛申けるは、衣笠は馬の足立よき所なれば、寄手の為には便なり。急落されなん。怒田の城は、三方は石山高して、馬も人も通ひがたき要所なり、一方は海口に道を一つ開たれば、よき者一二百人あらば、縦敵何万騎寄たりとも輙く責落すべからずと申、大介申、怒田と云は僅かの小所人是を知らず、衣笠こそ聞へたる城よ、三浦の者共小坪の軍に打勝ってやがて衣笠に引籠て散々に戦て討死しけりと云ば、嗚呼さる名誉の城あり其所はよき所也など、人も沙汰すべし、怒田城にて討死といへば、怒田とはどこぞ、未知と云れん事面目なしただ衣笠に籠れ急げ急げと云。義盛が云けるは、怒田も衣笠も皆領内なり、就中軍と申は身を全うして、敵に物を思はせ日数をへて戦ふこそ面白けれ、衣笠に籠りたりとも、やがて追落とされれば無下に云甲斐なし。能々御計候べしといへば大介腹を立て、やをれ義盛よ、今は日本国を敵に受けたり、身を全うせんとも、何日何月か有べき、縦命生べくとも人のいはんぬる事は、三浦こそ一旦命を延さんとてさしもの名所を閣て怒田城に籠りたりけれどと沙汰せん事も口惜し、若干百人が中に一人なりとも、生残りて佐殿世に立給ひたらん時、父や祖父が骸所とて知行せんにも、衣笠ぞ知たりけれど大いに
語り云ければ、力及ばず孫引きつれて衣笠城に籠りけり。と書かれている。
衣笠合戦は一日で落城し三浦党の面々は怒田城の舟倉の軍船にのり久里浜の住吉明神住吉神社に武運長久を祈願して
江戸湾を房州さして落ちゆくわけで、怒田は戦の場とはならなかった。
今、現地に立つと六千年の昔から縄文人の住所となり、その後千を単位に何回か住む人々がかわり、歴史の上では八百年前三浦氏の一族が衣笠の出城としてこの丘を中心に生活し、山を降りれば舟倉地区は三浦水軍の根拠地であった。

出典 久里浜の社寺と古跡 久里浜地域文化振興懇話会
この城跡の前の地域は、現在でも「舟倉」という地名が残っています。


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夢から生まれたお寺・・・神武寺  

山門

EWC2vRCZ_3berpI1383308442_1383308456.jpg本堂薬師堂
医王山来迎院神武寺は天台宗のお寺です。
今からおよそ千二百年前、奈良の大仏を造られた聖武天皇の夢の中に薬師如来が現れて、「東方に寺を建てよ」とお告げをしました。
天皇は行基菩薩にそのことを頼みました。
行基ははるばるこの地にやってきて山にこもり、一刀三礼(一つのノミを入れるのに三度拝む)の礼をもって、十一面観音、釈迦如来、薬師如来をお造りになり、それを祀って神武寺を創建したと寺の縁起は伝えています。
江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」には「境内総て岩山なり、その山間を穿ち平らげて堂宇を建つ。山裾に総門あり・・・」と書かれています。
神武寺は神の嵩(こうのだけ)と「呼ばれていた山岳信仰の霊地(百メートルほどの高さ)に建てられたお寺で、当時うっそうとした深いシイの森の中にありました。
三浦半島でも高いところにある寺の一つです。
来迎院という客殿が寺の本堂と思われていますが、鐘楼堂の上にある薬師堂が本堂です。慶長三年(1598)の年号がある屋根替えの棟札と思われるものが残されています。
このことからも薬師堂は逗子市内でもっとも古い建築の一つです。
鎌倉時代のことを記録した書物「吾妻鏡」にも三代将軍実朝が参拝したことが書かれています。
その後大火などにより、寺の勢いは衰えましたが、江戸時代に入ると各地域からの寄進があり、火災と復興の繰り返しがありました

出典 逗子子ども風土記 逗子市教育委員会調査部編

TN7pUXfwztlaZfx1383308559.jpg客殿

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車地蔵・・・神武寺  



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8dG5wzmEvJyTb131383304290_1383304301.jpgシロヨメナ

車地蔵
JR横須賀線東駅裏から、神武寺参道入り口の急な坂を進み、桜並木を過ぎると、曲がり角の崖の上にお地蔵様がすわっています。
土地の人はこのお地蔵様を「車地蔵」と呼んでいます。
このお地蔵様は、神武寺住職体安(たいあん)和尚が、今からおよそ三百年前につくったもので体安和尚は、それまで荒れていた寺を立て直そうと力を尽くした方です。
その頃から神武寺と海宝院の土地争いがたびたび起き、ちょうどお地蔵様のところが神武寺と海宝院の地境になります。

出典 逗子子ども風土記 逗子教育委員会調査部編



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