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門脇に大きな題目塔・・・天王山大泉寺  

天王山大泉寺

t2oxxOISYtHxLoB1388398060_1388398073.jpg題目塔

gGpS306AdxVJa301388398132_1388398143.jpg愛豚ピグの卒塔婆

日蓮宗のお寺で「新編相模国風土記稿」によれば、このお寺は横須賀市衣笠にある金谷山大明寺末寺で、天王山大泉寺と号するとあります。
本尊は三宝祖師(三宝とは、仏・法・僧の称で日蓮宗では、日蓮上人の絵画などを言います。
前述の通り、現在では日蓮宗のお寺ですが、その縁起は応仁元年(1467)に、当地和田に住んでいた内匠長叉という人が日蓮上人の教えを受けて改宗し、日泉上人を開山とし、自分は自ら開基となって、お寺を建てたと伝えられています。
門の右手に大きな題目塔があります。
寛政五年[1793)に建てられました。
このお寺の寺子屋で先生をしていた日静上人を讃えるために弟子達が建てたもので、筆子塚の役目も果たしています。
墓地の中には入江新田を開いた山田惣左衛門父子の墓もあります。

出典 三浦こども風土記 三浦市教育委員会

下線部については、該当する墓は見当たりませんでした。
墓については、別項で紹介してあります。
 
山田惣左衛門の墓

卒塔婆とは・・・

死者の供養塔や墓標として作られ,頭部に五輪形を刻み,梵字などを記した板木。卒都婆,率都婆などとも書く。語源的には釈迦仏の遺骨を収めた仏塔であるストゥーパが漢訳されたもので,広義には三重塔,五重塔,十三重塔などの塔や五輪石塔などをも指すが,今日一般に用いる卒塔婆の意は木製の塔婆を指す。木製卒塔婆には角塔婆,板塔婆,経木(へぎ)塔婆の別がある。角塔婆は主として四角塔婆であり,埋葬上の墓標として,あるいは寺堂の開帳や遷仏供養,護摩法要,施餓鬼,流れ灌頂などに供養塔として立てられる。

出典 コトバンク世界大百科事典第2版より抜粋

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category: 三浦市

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公園に建つ芥川龍之介文学の碑  

公園脇を横須賀線が走る

SCsqXsvFlWENFZB1388311563_1388311582.jpg芥川龍之介文学の碑

TKZ4LVSxZyzQsd91388311678_1388311688.jpg公園入り口に建つ少女

芥川龍之介文学の碑・・・横須賀市吉倉公園
龍之介は、明治二十五年三月一日、東京市京橋区入船町(現、東京都中央区入船町)に父新原敬三、母ふくの長男として生まれ、辰年辰月辰日辰刻の生まれにちなみ龍之介と命名された。
家庭の事情で幼くして入籍した龍之介の養家は本所(現、東京都墨田区領国にあった。このことは「遺された江戸」の面影をとどめる土地柄を通して、彼の個性的成長に見逃せぬ要因となっている。彼はこの地を深く愛惜していたにもかかわらず、”西洋”との出会いは彼を故郷から脱出させることになる。
彼自身の言葉によれば、「中流下層階級」からの脱出を「文学」に賭けたわけである。
「蜜柑」は、彼が横須賀の海軍機関学校教官時代、鎌倉の下宿への帰路、横須賀線内でたまたま出会った出来事を題材にとしている。
横須賀駅を出た記者の中で、ニ・三等車の区別もわからぬ娘が、自分を見送るため待ちかまえていた弟たちに、窓から蜜柑を投げ与えその労に報いた姿をみて、最初にいだいた不快感から一転明るい感動を覚えたことを作品化したものである。
彼は機関学校時代の一時期、横須賀市内汐入五百八十・尾鷲梅吉方(現、横須賀市汐入町三丁目一番地)に下宿していたが、塚本文との結婚で再び鎌倉に移った。機関学校での生活は、時間的拘束や生徒の気風になじめず、彼のいわゆる「不愉快な二重生活」であったようだが、そのためか週末はほとんど田端の自宅で過ごしていた時期もあった。だがそうした感情とは別に、彼は授業に対してはたいへん熱意があり、内容もおもしろく有益なものであったと当時の教え子が述懐している。
昭和二年七月二十四日、龍之介は自ら杯を仰いで一命を絶った。
享年三十五歳であった。

出典 横須賀市

蜜柑
大正八年[1919)短編小説として発表
或曇った冬の日暮れである。私
は横須賀発上り二等客車の隅に
腰を下ろして、ぼんやり発車の笛
をまっていた。
(中略)
するとその瞬間である。窓か
ら半身を乗り出していた例の娘
が、あの霜焼けの手をつとのば
して、勢よく左右に振ったと思
うと、忽ち心を躍らすばかり暖
な日の色に染まっている蜜柑が
凡そ五つ六つ、汽車を見送った
子供たちの上へばらばらと空か
ら降ってきた。私は思わず息を
呑んだ。そして刹那に一切を
了解した。


芥川龍之介

文学碑から転載したものです

category: 横須賀市

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庚申塔群と六地蔵  



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所在地 横須賀市初声町高円坊
      高円坊出荷場近く


category: 横須賀市

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文覚上人屋敷跡と修行像  

文覚上人屋敷跡

qfBjsPaR2YTK5aB1388136639_1388136650.jpg修行像(鎌倉成就院本堂前

文覚上人はもと、遠藤盛遠と名乗る武士であったが、人妻を誤って殺したことが出家の原因とされる。
「源平盛衰記」(第十九巻)には「遠藤武者盛遠が人妻の袈裟御前に横恋慕し、その夫源渡の寝首を掻いて思いを遂げようと、袈裟と打ち合わせて首を斬ったところ、それは貞節を守るため夫の身代わりとなった袈裟その人の首であった。盛遠はこれを機縁に剃髪出家した」という文覚の発心談として、また袈裟御前の悲話として伝えられている。
文覚は出家の後、熊野の那智にこもって荒行を果たし、効験あらたかな修験者となって、高尾の奥でさらに修行をつんだ。
のちに高尾の神護寺復興を思い立ち後白河院に寄進を強要して院の逆鱗に触れ、伊豆の奈古谷(韮山近傍の山中)
に流されている。ここで同じく伊豆の蛭が小島で配流生活中の源頼朝とめぐり合い、やがて頼朝に、平家を倒すための蜂起を促すばかりでなく、文覚自身の奔走によって平家追討の院宣も取り付けて、頼朝はついに挙兵を決意するのである。以上は「平家物語(巻五)による。

出典 深く歩く鎌倉史跡散歩 神谷道倫

文覚上人に関係する記事へリンクします
六代御前の墓(逗子市
文覚畑(横須賀市
高尾山神護寺(京都

category: 鎌倉市

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杖の一突きで清水湧く・・・日蓮乞水(にちれんこいみず)  

CdQMJvRoeRytzYB1388051177_1388051191.jpg日蓮乞水

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ctfz6p01c5z5hYW1388051290_1388051307.jpg井戸を上から覗く

逗子と鎌倉を結ぶ坂で、(現在はトンネルで結ばれている)を超えて鎌倉に入ったとき、日蓮が水を求めてここに.杖を突き刺したところ、にわかに清水が湧き出し、旱魃にも涸れることがなかったという伝承を持つ。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

この記事は13.12.21「日蓮の杖一本で清水湧く」の再掲です。

category: 鎌倉市

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鎌倉十井(5)・・・銚子の井  

路地入り口に立つ銚子の井石塔

6qBAXG9ShrG5YQk1387964842_1387964853.jpg狭い路地の右側に銚子の井がある

8ANOvIn13glPDWn1387964767_1387964784.jpg銚子の井



これまで紹介した鎌倉十井へのリンク()内の数字には意味はありません

(1鉄(くろがね)の井
(2)甘露の井
(3)底脱の井
(4)星の井
(5)銚子の井(本ページ)

category: 鎌倉市

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女の恨みは身を滅ぼす・・・鶴が岡八幡一の鳥居  

宝篋印塔(ほうきょういんとう)
puJTioi5d7d8ThE1387880688_1387880702.jpg横から見た写真
鎌倉市指定有形文化財
高さ3.4mを超える、鎌倉市内でも大型の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、鎌倉幕府御家人、畠山六郎重保墓塔と伝えられます。塔の基礎には「明徳第四 葵酉霜月三 日大願主 比丘道友」と刻銘があり、作風からも明徳四年[1393)造立とみられます。
3EntLRcD0BmiAYs1387880741_1387880753.jpg正面からの写真
この宝篋印塔(ほうきょういんとう)は鎌倉一の鳥居の近くにあるもので、畠山重保の墓と伝えられる。
畠山六郎重保は、土地の人から六郎様と呼ばれている。
重保は頼朝の重臣畠山重忠の息子である。
北条時政の後妻牧の方の娘婿と口論、悪口をいったことから、牧の方に恨まれ、牧の方は時政、義時を動かして重忠を二俣川で、重保を由比ガ浜で討ち取らせた。元久二年(1205)六月二十二日のことである。
実際は、北条家にとって独裁政治の邪魔になる畠山氏を滅ぼす手段であったともいわれている。
タブの大樹が春秋笠となる重保の墓は、いつもきれいに清掃され、供物や供華が上がっている。これは重保が
咳の神様として今も信仰されているからである。
従者三人と由比ガ浜へ逃げた重保は、滑川のほとりで持病の喘息(ぜんそく)がおこった。
川へ下りて滑川の水でのどを潤しているとき、後から襲われて無念の最期を遂げたという。このため人には咳の苦しみを与えまいと、咳の神様になったと伝えられている。

出典 鎌倉・三浦半島 竹村節子著

畠山重忠公関連リンク先 横浜市歴史博物館     埼玉県嵐山史跡の博物館
畠山重保公関連リンク先 横浜市戸塚区

category: 鎌倉市

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霊験あらたかな辻の薬師様  

辻薬師堂
辻薬師堂の「薬師如来立像」は、承元三年(1209)十月十日鎌倉中寺社奉行民部大夫(二階堂)行光が永福寺の傍らに一伽藍を建立、円城寺明王院僧正公胤を導師として供養した(吾妻鏡第十九巻記述)医王山東光寺の本尊です。
「行基」作の鎌倉では数少ない平安仏で、建武元年(1334)この寺の土塗籠の獄舎に後醍醐天皇の王子「護良親王」が幽閉され翌年(1335)七月二十三日足利直義の家臣渡辺義博により生害され、のち寺は廃寺となり薬師本尊等諸仏は名越字御岳の古義真言宗医王山長善寺に移された。
元禄十六年(1703)十一月二十二日の地震により寺は損壊、妙本寺派本興寺復興「中興開山」に伴い山門前の鶴が岡砂丘上(源頼朝の御家人佐貫四郎廣綱屋敷跡)に再移転(薬師如来像胎内銘札)した。長善寺は文化・文政(1804-1829)の頃には「霊験あらたかな薬師さま」といわれ、遠く江戸からも参詣に来る人も多く寺は繁盛した。
しかし、幕末に長善寺は火災で焼失、薬師堂の諸仏は難を逃れたが以来無住となり今日まで村人たちの宗派を超えた奉仕により護られてきた。(現在は辻町自治会有志により維持管理)
ここに安置してある薬師三尊像の本物は、鎌倉市立国宝館に保存展示されている。

出典 辻薬師堂保存会説明文より抜粋

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category: 鎌倉市

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厳しい寒さの中で水浴びの荒行  

7n6e3cQ7XrTXRbn1387705768_1387705784.jpg長勝寺山門

ofFzumaKGS0BkPv1387705833_1387705848.jpg本堂

aElZLbpLJoRhyNr1387705936_1387705948.jpg辻説法の日蓮上人

法華堂

gmYQTMCp7AQ378p1387705974_1387705984.jpg六地蔵
宗派 日蓮宗
山号寺号 石井山(せきせいさん) 長勝寺(ちょうしょうじ)
創建 弘長三年(1263)
開山 日蓮大聖人
開基 石井長勝
伊豆に配流されていた日蓮が、鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵を結んだことが当寺の発祥です。
京都本国寺の前身と伝えられており、日静(にちじょう)の代、貞和元年(1345)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し、今日に至ります。
境内の建物のうち、法華堂は県指定重要文化財です。
室町時代末期の造営と推定されています。また日蓮大聖人の銅像は鎌倉辻説法を写しています。
毎年二月十一日國祷会(こくとうえ)といわれる厳しい寒さの中で冷水を浴びる荒行が行われます。


石井長勝略歴
鎌倉幕府の有力御家人三浦氏の一族とされる(傍系の佐原流という)。文応のころ鎌倉松葉ヶ谷付近の地頭職をつとめており、その際、迫害されていた日蓮を保護し、屋敷を庵として寄進した。それが、現在の鎌倉市材木座の長勝寺である。宝治合戦で三浦一族が滅亡の後、出家して日隆と号した。後に武蔵国鹿骨村(現在の東京都江戸川区)に移住したようで、鹿骨鹿島神社の由緒に、石井長勝以下中代氏、田島氏、牧野氏、他系の石井氏の5名が同地に来住したと伝わっている。また、長勝の子孫の一人は、現在の埼玉県八潮市に移住し、そこにも子孫が現存している。
なお、本土寺過去帳では、鹿骨村に住む長勝の子孫と思われる石井隼人佑の名がみられる。

出典 wikipediaより抜粋

category: 鎌倉市

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日蓮の杖一本で清水が湧き出た・・・日蓮乞水復興記念碑  

3ENQyD_5itiL18L1387622831_1387622845.jpg日蓮水の周辺
写真で見える金網はJR横須賀線が走っている。

24iScGaU0wDDf7A1387622749_1387622761.jpg日蓮水正面

日蓮乞水裏面
霊跡日蓮水復興記念との銘が刻まれている。

この記念碑から線路沿いに約150mほど歩いた右に日蓮乞水があります。

category: 鎌倉市

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鎌倉幕府、150年の幕はこのやぐらで・・・腹切りやぐら  

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十四代目の執権だった北条高時は、元弘三年(1333)五月、新田義貞軍に追われて東勝寺に逃げ込むが、抵抗かなわず自刃。
約百五十年年続いた鎌倉幕府は終わりを告げた。
その最期の場所は宝戒寺裏手の滑川対岸に「腹切りやぐら」として伝えられている。
やぐらの中は薄暗く湿っており、今でも北条一門の怨霊が漂っているようで不気味である。
出典 三浦半島再発見・百景ぶらり探訪 神奈川新聞社横須賀支社

category: 鎌倉市

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東の身延・・・本覚寺  

本覚寺山門

I9eiGtugtB3gv_01387444166_1387444176.jpg本堂
妙厳山本覚寺、日蓮宗
この寺は永享八年(1436)に開山、一乗坊日出(にっしゅつ)がもと天台宗の夷堂を日蓮宗に改めて創建したものである。
本堂に安置されている木造釈迦如来像及び文殊・普賢両菩薩坐像(鎌倉市文化財)は旧夷堂の本尊で、南北朝期の作である。
夷堂は文永十一年(1274)三月、日蓮が佐渡の配所から鎌倉に戻ったときしばらく滞在したところともいわれている。

P2PhGpDllkvvS9P1387444208_1387444219.jpg夷堂
写真で見える足場は、正月を迎えるための工事用足場です。
二世日朝はのちに身延山久遠山の住持になったが、その間に身延にあった日蓮の遺骨をこの寺に分骨した。それで東身延と称され本山ともなっている。
日朝に対する敬慕の念から俗に「日朝様」とも呼ばれ、また日朝が眼病を患ったとき、法華経の功徳により治癒したとの伝えから「眼病治癒の寺」として親しまれている。
oTsFlVDMon37hyS1387444302_1387444314.jpg鐘楼
この鐘楼は応永十七年(1410「)の銘があり、もと上総の木佐良津(千葉県木更津]八幡宮の鐘であったものを日出が同宮別当泉蔵寺での法論に勝ち、従者石渡新造左衛門に持ち帰らせたものとの伝えをもつ。鐘楼前の「石渡新造左衛門之碑」の裏面にその間の経緯が記されている。
OUL3MJjBJZpgtz11387444254_1387444265.jpg石渡新造左衛門之碑
写真はありませんが、仁王門は江戸時代の建物といわれ、この寺で最も古いものであるが、明治の初め他所から移築したものといわれている。
この寺が若宮大路に背を向けているのは、かって若宮大路に面して出入り口を作ることが禁止されていた名残である。妙隆寺、大巧寺も同様の名残である。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

category: 鎌倉市

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産女霊神(おんめさま)を祀るお寺  

大巧寺山門

MNUQBegBy8hmjWf1387359960_1387359982.jpg本堂
このお寺は「おんめさま」ともいい、産女霊神と書きます。
大巧寺(だいぎょうじ)は、もと正覚院大行寺といい、十二所(鎌倉市)の梶原邸の中にあった。源頼朝が大行寺で軍評定をして勝利を得たので大巧寺とあらためられたと伝える。
元応元年(1320)に現在地に移る。真言宗であったが、住職が日蓮に帰依して日蓮宗となった。
おんめさまの由来は次のようだ。
天文五年(1532)大巧寺五世日棟が比企谷の祖師堂に参詣のため、朝の暗いうちに滑川の橋を渡る。
すると痩せた赤ん坊を抱いた髪ぼうぼうの女が川原で泣き苦しんでいた。
そこで日棟が問うと女は「大倉住んでいる秋山勘解由の妻です。難産で死に、この川を渡ろうとするのだが、水がきたない血になって深さが分からず、その上子どもが乳房に吸い付いて泣くので苦しくてたまりません。どうぞお助けください。」そこで日棟は仏の教えを説き題目を唱えた。題目を唱えているうちいつの間にか女の姿は消えていた。
それから数日後美しい女が日棟を訪ね「上人のおっしゃったように題目を唱えたら苦しみがなくなりました。お礼に私のためたお金を持ってきましたから、これで塔を建てお産で苦しむ人を救ってやったください。」という。
日棟は女と塔を建てる約束をしてから秋山勘解由に会うと、お金の包みは確かに亡くなった妻がためていた金包だといわれた。そこでさっそく塔と産女堂を寺の境内に建てる。
これがおんめさまと呼ばれるお産の神となった。
いまでも安産を祈願する人の参詣が絶えない。

出典 史跡と伝説鎌倉  二橋 進
mxPb9HyAO2V2qVW1387360019_1387360032.jpg本堂内部

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category: 鎌倉市

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日蓮上人辻説法はここで・・・・  

辻説法跡の碑

bYomjCTdqO7wasA1387276564_1387276580.jpg日蓮腰掛けの石
日蓮上人は建長五年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(まつばがやつ)(現在の長勝寺、安国論寺のあたり)に草庵を結びました。
鎌倉時代、このあたりは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(1260)、五代執権・北条時頼に提出した「立正安国論」が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。

出典 案内掲示板より 鎌倉市

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焼き討ちにあった日蓮上人は・・猿に導かれての項にリンクしています。赤い字をクリックしてください、

category: 鎌倉市

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路上で頓死・・・鎌倉の堂守  

窟堂(いわやどう

7jRkdLN1Fb7rIGb1387187169_1387187186.jpgお堂入り口の不動堂碑

この奥突き当たりに岩屋堂

<uchRo34NUdwo9gk1387187235_1387187247.jpg岩屋堂

UZ2iz7IokOKt0bb1387187279_1387187290.jpg堂内の不動尊

文治四年(1186)十月十日、窟堂の聖阿陀房が、勝長寿院に参詣した帰り道に路上で頓死した。
八十四歳であったという。
「稀有なことなり」として「吾妻鏡」は記すが、この僧が永く堂守であったとすると、平安時代後期から存在したと考えられ、源頼朝が鎌倉入りする以前から存在した数少ないふるい堂ということになる。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

路地の右側は、「不動茶屋」といい近辺を散策後は、ゆっくり癒しを求めることが出来ます。

category: 鎌倉市

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「お・も・て・な・し」で幸せに・・・新箸の宮  

新箸の宮が合祀されている久木神社久木神社
y7Zequ3JHJpOxYw1387100955_1387100965.jpg久木神社
uBAzxD7xgodt1zk1387100997_1387101021.jpg MJeGI9GVGhWCy6h1387101080_1387101089.jpg

新箸の宮の伝説
このお宮はもとは久木(逗子市)の名越旧道にあったが、今は久木中学校のそばの久木神社に合祀されています。
話は今から七百八十年ばかり前、治承元年(1177)七月二十六日、伊豆の蛭が小島に流されていた源頼朝が、三浦方面へ二度目のお忍びの旅をされたときのことでした。頼朝はこのとき三十才を少し越えたぐらいの年でした。
従っていた家来は真田余一義忠と、義忠の家臣柳川弥次郎の二名だけです。
鎌倉の八幡様におまいりして、山越しに逗子のほうへ出ようとしたとき、山道に踏み迷ってしまいました。
あちこちと道を尋ねたあげく、一軒の草家の前に出ました。かすかに機(はた)を織るおさの音が漏れてきます。
頼朝主従は馬をかたわらのモチノキにつないで、義忠が案内を請いました。障子をあけて一人の少女が出てきたので「山道に迷って困っておる者だが、暫く縁先に休ませてもらいたい」と頼みました。
少女は丁寧に会釈をして「見苦しいあばら家でございますが、どうぞお入りください」と長い黒髪を重そうに垂れて顔を赤らめながらわずかに答えました。主従三人は縁先に腰を下ろして眼の下に広がるすばらしい眺めに見入っております。遠くは伊豆、するがの山々、近くは鎌倉・三浦を一目に納めて、すぐ目の先には田越川が群青色に横たわっております。やがて少女は庭先に湧く清水を汲んで、門口につないである馬に飲ませ、急いで焚いた粟の飯に、かやの茎を切って作った新しい箸をそえて頼朝主従にすすめました。
頼朝は「これは源氏がやがて栄えるめでたいしるしである」と言って大変に喜ばれました。
景色も美しいし、粟飯は美味しかったし、もてなしてくれた少女の態度はいともしとやかに美しかったので、頼朝たち主従三人はすっかりうれしくなってしまいました。義忠が「そなたの名は何と言われるか」と訪ねますと「申し上げるほどの者ではございませんが、父は久野谷六大夫、私はその娘で機織りをしております広尾と申す者でございます。親子二人で貧しく暮らしております。」と遠慮がちに答えました。
床の間に立てかけてあるうつぼ(矢を入れて腰につける道具)とくつわに目をふれた義忠は「あのうつぼとくつわの由来をお聞かせください」と遅れて縁先に出てきた六大夫に尋ねました。
六大夫は「私は若い頃馬を扱う心得が少しばかりございましたので、源家の若殿義平様の沼間(逗子市)のお屋敷へ召されまして厩(うまや)につとめ、おおくらの合戦には義平様の馬のくつわをとってお供をいたしました。平治元年に義平様が京都へ上れますときには「私が再び京から帰ってくる日を待っておれ」とおおせられ、この品をいただきました。ところがご武運つたなく、ながのお別れになってしまい、わたくしはまたもとの卑しい身分になってしまいました。あの品は若殿様の記念として大切に保存しておる次第でございます。」と涙を流して物語るのでした。
頼朝もすっかり感激して「わたしは義平の弟の右衛門佐頼朝である。お前の主人を思う心にはすっかり感心してしまった。」とおっしゃったので六大夫父娘は平伏して頭を上げることもできないほどでした。
のちに頼朝が征夷大将軍として鎌倉幕府をつくってから六大夫をたずねて久野谷の名主にしました。
そして六大夫の願いを入れて将軍自ら仲人役をして柳川弥次郎を六大夫の娘広尾のお婿さんとしました。
和田義盛の代官として名を知られた久野谷弥次郎というのはこの人だといわれています。
村の人々が山の中に草家を記念としてお堂を建て「新箸の宮」といいました。
この新箸の宮はまた疱瘡ばあさまと呼ばれています。
種痘のなかった昔は、天然痘は大変恐ろしい病気でした。ところがここのお宮は疱瘡を治すのに大変霊験があらたかであったといわれています。

出典 逗子の伝説 逗子教育研究会国語部(昭和31年3月21日発行)

category: 逗子市

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東京湾内の戦争遺産・・・うみかぜ公園(横須賀市)  

第三海堡兵舎
東京湾要塞と海堡(かいほう、かいほ
江戸時代、鎖国を続けていたわが国にとって欧米列強の近海出没は脅威でした。幕府は江戸湾への敵艦侵入を警戒し、大砲を据えた台場を沿岸に建設しました。
明治に入り、大砲の威力が弱いため射程が短いという性能上の問題から、東京湾の真中に人口島を築き放題とする必要がありました。これが海堡です。
明治十四年(1881)年、観音崎(神奈川県横須賀市)と富津(千葉県富津市)を結ぶ線上に東京湾防衛の要塞(東京湾要塞)として三つの海堡建設が始まりましたが、最後に着工された第三海堡の建設は困難を極め、大正十(1921)年にようやく完成したものの、わずか二年後に発生した関東大震災で被災してしまいました。以後、徐々に沈下して暗礁化し、近くを航行する船舶の障害となりました。このため平成十二(2000)年に構造物の引き上げ撤去が始まり、大型兵舎については、横須賀市うみかぜ公園で復元されています。


大型兵舎
建設された海堡には、多くの兵士たちが交代で常時警備につくことになっていました。その兵士たちが寝食したり、休養をとったり、時には敵の攻撃から避難する場所として、兵舎が必要でした。この兵舎と考えられる構造物には、二つの居室部分と左右の砲台間を行き来するための連絡通路があります。
郷土を保つため居室部分の天井は半円形のアーチ状に、入り口はレンガで積まれています。

RiGRISde7XPu1S61387013968_1387013984.jpg第三海堡兵舎

ブログ内関連記事へのリンクです。
人口島を作った男
海堡の設置場所と運命

追記
第一海堡・・・現在は海上保安庁によって灯台が設置されている。
第ニ海堡・・・第一と同じように灯台が設置され、今後も灯台と消防演習場として存続。

category: 横須賀市

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地蔵にもいろいろありますが・・・・  

お地蔵さんの名前もいろいろありますが、これは山形県朝日町にある「よだれ地蔵」です
口の周りはあんこです。いつもは赤いよだれかけをしていますが・・・
この写真の提供は朝日町に住んでいる「りんごほっぺ」さんからのものです。
「りんおのほっぺ」さん、ありがとうございました。
このお地蔵さんについては、「あさひまちエコーミュージアム」にリンクをはってありますのでご覧ください。

あさひまちエコミュージアムへはこの赤い文字をクリックしてください。

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_9plOuhuFJKdii51386825774_1386825796.jpg口の周りはあんこだらけですが、ご利益はあるようです

9D1hvh0k_wh3h1f1386825598_1386825607.jpgあさひ町にある庚申塔

category: 山形県

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もうすぐ私の出番です・・・ウォーミングアップ中  

今、街はクリスマスイルミネーションできれいですが、それが終わると私の出番です
そうです!来年は馬(午)年です。・・・・がんばらなきゃ

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夏は海水浴客でにぎわう砂浜を、出番を待つ馬がウォーミングアップしています
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category: 未分類

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掘り出された日蓮像と入定墓・・・妙光寺  

妙光寺山門
江戸時代の終わりごろに書かれた「新編相模国風土記稿」という書物の中には「室町時代のはじめごろ、今から五百六十年位前、松岡さんのご先祖は、鎌倉松ヶ岡に住む富永三郎左衛門という。
足利持氏(第四代公方。鎌倉市大町の別願寺に供養塔がある。)に仕える武士でしたが、長く続いた戦いが嫌になって武士をやめ、名を松岡富永と変え、久野谷(現在の逗子市久木)に移り住み、百姓の暮らしをするようになりました。
そんなある日、賢信という旅の僧が訪ねてきました。信心ぶかかった富永夫妻はこの僧を厚くもてなしました。僧は久野谷や柏原、山の根、池子などの村々をお経を唱えてまわり、松岡家の裏にある岩穴の中で修行しました。
ある夜のこと、富永の夢の中に、日蓮上人という偉いお坊様があらわれて、土の中に埋まっている自分の像を掘り出してまつってくれと頼みました。
目覚めた富永は不思議に思って賢信にそのことを話すと、賢信も地中から聞こえてきたお経の声のことを話しました。
そこで声の聞こえたあたりを掘ってみると日蓮上人の小さな像が出てきました。富永はこの像をお祀りするためのお堂を建てました。
富永夫妻が亡くなった後、子の雅楽之助は、父の法名法久と母の法名妙光をとって法久山妙光寺と呼ぶ新しいお寺を松岡家の地所に建てたといわれます。
掘り出された日蓮像は今も妙光寺にまつられています。

出典 逗子子ども風土記 逗子教育研究会調査部

EQ1U9MRNUKcNEnT1386756478_1386756489.jpg本堂

KWakkUOv8IMz3YD1386756550_1386756561.jpg鐘楼

山門を入って右側の墓地に一心坊墓碑があります。
一心坊は柏原村名主関家の向う山で入定された旅の僧と伝えられます(時未詳)
医薬等の乏しい頃、病にかかった人が願をかけ、治るとお礼に酒入りの竹筒をあげたので、祠の柱にはたくさんかけられていたそうです。

C182ZwB34EvrBKn1386756596_1386756606.jpg一心坊入定墓
入定塚(墓)については下記のリンクも見てください
1.生きながら仏になった入定様
2.ここにもあった入定塚

category: 逗子市

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ご存知ですか?、♪真白き富士の嶺♪・・・逗子開成学園  

逗子開成学園正門
写真の右側の木立の中に碑があります。

現在の開成学園は、開校当初、東京神田にある東京開成中学校の兄弟校で、逗子第二開成中学校といい、明治三十六年四月八日、池子東昌寺を借りて学校を開きました。その後、池子に新校舎という話もありましたが、現在の逗子市新宿の土地が寄付されて校舎が建てられました。
明治四十三年(1910)、開成中学の生徒十一名と小学生の弟一名の乗ったボートが江の島沖で沈み、全員おぼれて死んでしまうという事件がおきました。
その生徒たちの名とこの悲しい事件に捧げられた「真白き富士の嶺」の歌詞を刻んだ碑が正面右側に建てられています。

出典 逗子子ども風土記 逗子教育研究会調査部
MjyzHcrUeguS7rk1386669550_1386669560.jpg歌詞を書いてある碑
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この碑には「明治四十三年一月二十三日七里ヶ浜に於て遭難せる生徒の霊を慰むるため昭和三十八年本校創立六十周年に当たりこれを建つ」と同時に十二名の遭難者の名前を刻んである。

真白き富士の嶺
   真白き富士の嶺 緑の江の島
   仰ぎ見るも 今は涙
   帰らぬ十二の 雄々しきみ魂に
   捧げまつる むねとこころ
     作詞 三角絹子
     作曲 ガードン



category: 逗子市

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星の井の黒石は虚空菩薩の化身だった?・・・鎌倉十井(4)  

虚空菩薩堂
明鏡山(または星月山ともいう)円満院星井寺(せいせいじ)
井戸(星の井)に星の輝きを見て、底をさらってみると黒光りする石(明星石という)が現れた。行基はその石を虚空菩薩の化身と思い、虚空菩薩を彫って安置したところと伝える。
虚空菩薩は虚空のように広大無辺の智慧・功徳を蔵する菩薩といわれ、明星は虚空菩薩の化身ともされる。
現在は成就院が管理し、境外仏堂となっている。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫著

Ag36dIJtOSiCTOP1386582211_1386582223.jpg舟形地蔵尊

category: 鎌倉市

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柳原の妖怪蜘蛛・・・鎌倉八幡宮  

鎌倉八幡宮
「朝蜘蛛は福蜘蛛」といって喜ばれもしたが、「夜蜘蛛は親に似ていても殺せ」といわれていやがられもした。また蜘蛛は水界の主とも考えられていた。
鎌倉の八幡宮のあたりは以前は「柳原」と呼ばれて、池の周辺に柳の木が多く生えていた。
昔、一人の修行者が八幡宮におまいりに来た帰り道に、柳原の池のほとりで一休みした。すると池の中から小さな蜘蛛が出てきて、行者の右足のかかとに糸をかけて池の中へ入っていった。それは五つの色に輝く糸だった。
行者は気味悪く思って、糸を太い木の杭にすりつけておいた。するとまた蜘蛛が出てきて左のかかとに糸をかけて池へ戻っていった。行者は同じ杭に糸をすりつけた。
すると突然地鳴りがして、太い杭が根こそぎ池の中へ引き込まれていった。
行者はたちまち寒気がして顔が青ざめてゆくのを感じた。
化け蜘蛛退治のため、行者は七日七夜祈りの行を続けた。
満願のその日、今までよく晴れていた空は急に暗くなり、黒い雲があらわれたかと思うと、細い糸の雨がふりだした。池の真ん中から白い泡が立ち、大きな音と共に五色の束になった蜘蛛の糸が天高く吹き上がって、ちょうど東の山に虹がかかったように降りそそいできた。
行者は一心に妖怪蜘蛛の退散を祈り続けた。すると真っ黒い蜘蛛が姿を現して、五色の糸に乗って東の空に消えていった。
それから蜘蛛は二度と柳原に姿を現すことはなかったという。
柳原池は舞殿の右奥にあります。

出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦著
EFpQhHQWDvOtxY61386486289_1386486304.jpg柳原池

下記の写真は上記の妖怪蜘蛛とは関係ありませんが、柳原池ほとりに置いてある鶴亀石です。
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相模国風土記稿に「水をもって石面を洗うときは、鶴亀の紋様が輝きあらわれる」と記され大変めでたい石である。

category: 鎌倉市

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妻や子も異郷の地で淋しく・・・会津藩士の墓  


墓地への案内を示す道標

ここ腰越墓地には会津藩士及び家族の墓二十三基が存在する。
この歴史は文化七年(1810)藩主松平容衆(かたひろ)が幕府の命令を受けて、三浦半島の海岸警備ならびに台場(砲台)構築の任務にあたったことに始まる。これは当時、漂流民の引渡しと通商を求めて日本沿岸に出没する外国船に対して、鎖国をしていた徳川幕府としては、それら外敵からの江戸城防衛のため、緊急の大事であった。
幕府は多くの大名から敢えて会津藩にこの大役を命じたのは同藩に対する信頼が篤かったためと考えられ、そうした幕府の期待に応えるべく、藩主は直ちに家老西郷頼母をはじめ八百余名の藩士ならびにその家族を同年十一月に送り込んだ。
そして観音崎・浦賀平根山・城ヶ島に台場を構築した。文政三年(1820)十二月にその任務は解かれたが、その間、会津藩士はいずれも一家を挙げて、居をこの地に移して海防の任務にあたった。
彼らにとって、はじめて経験する異郷での十年間にわたる生活は厳しいものであったに違いない。
いま三浦半島の八ヶ所(鴨居西徳寺能満寺走水円照寺など)に存在する墓石がそれを如実に物語っている。
あわせて、我々はこの台場構築という重大な土木工事のために地元横須賀の人々も働いていたことも忘れてはならない。
そして嘉永六年(1853)には、ペリーが浦賀に来航し開国への道をすすむ。
この会津藩士墓地は開国という大きな歴史の流れの中で、江戸湾(東京湾)及び三浦半島を守るために活躍した藩士と幕末の横須賀を知るうえで貴重な史跡である。
横須賀市教育委員会
G3aMKTodBP8M7Uu1386410270_1386410284.jpg墓地内

8SoxFxlOK0zLuLj1386410317_1386410327.jpg会津鶴ヶ城

三浦市にも会津藩士の墓はあります。下のリンクからご覧ください
三浦市会津藩士の墓
三浦市最福寺

category: 横須賀市

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再び登場・・・猫地蔵菩薩・・・清伝寺  

猫地蔵菩薩
三浦市の清伝寺(カッパ伝説で有名)境内の、目立たないところにたたずむ「猫地蔵菩薩」
製作年不明・・・石は古くもなく新しくもありません。
愛猫家が建てたものかもわかりませんが・・・・
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category: 三浦市

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権現様の像を網で救い上げた漁師・・・亀崎神社  

岩窟の亀崎神社

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昔この神社は、(横須賀市観音崎近くの)東と腰越の間にある亀崎半島の付け根(切り通し)の岩窟の中にありました。岩が崩落してしまったため、道路の反対側(現在地)に祀られています。
「新編相模国風土記稿」を読むと、鴨居村の亀崎権現社の記事があります。現在は鴨居八幡神社に合祀されています。
「浦賀町郷土史(全)」(明治45年発行)によると、祭神は「咲屋比亮命」で無格社、創立は元禄元年(1688)、祭日は七月一日とあります。
同署に「口碑によれば、本社は弟橘姫カメノオ(遺骨の一部)の漂着せしを祭れるなり」とあります。
聞き取りによれば、古くから住んでいた亀崎という人が、漁労中に権現様の像を網にかけ、庵を造り祀ったんので「亀崎権現」と呼ばれ、里人の信仰の対象となったと伝えられています。
現在、社の中には何もありません。

出典 新浦賀案内記 浦賀地域文化信仰懇話会
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神社から見た鴨居港

category: 横須賀市

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道寸の狐か、狐の道寸か・・・  

三光坊への参道
この三光坊稲荷社はいつごろ出来たものか、資料となる書き物はないし、言い伝えにも残されていない。
ただ、相模風土記という本の「金田」という項に「稲荷社 三光坊稲荷と称す」とあるから、その頃はあったというだけしかっわからない。
小さな祠の後には五輪塔や宝篋印塔が並べてある。

出典 南下浦の歴史探訪記 浜田勘太著

この三光坊稲荷について、次のような伝説がある
三浦の油壺の新井城に立てこもった三浦道寸義同は、一匹のきつねを飼っていた。
永正十五年(1518)北条早雲が新井城に攻め込んだときにもこのきつねは道寸に味方して戦いを有利にしたという。
ところがある時きつねは道寸に向かって「私はあなたのきつねですか?。それともあなたがきつねの道寸ですか?」ときいた。
道寸は「おまえは道寸のきつねである」とこたえた。
するときつねはがっかりして、それからは道寸の味方にはならなくなったという。北条早雲に攻められて三年間新井城にたてこもった義同であったが、食糧攻めにあってついに城を明け渡さなければならなくなった。
三年間疲労こんばいしたきつねは蛭田の里に逃れて「さんこうぼう稲荷」に祀られたとという。

出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦著

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category: 三浦市

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鎌倉十井(4)・・・星の井  

星の井
水底に光る星の井戸
行基と井戸の話は鎌倉の極楽寺にも伝えられている。極楽寺の登り口にあるこの井戸は「星月の井」とも「星月夜の井」とも呼ばれて、この井戸のそばには「虚空菩薩堂」が建っている。
天平二年(730)に行基が全国修業の旅をしてこの土地に来たとき、井戸の水底に三つの星が光るのを見つけた。
光は岩に映って七日間鏡のごとくに輝いていた。不思議に思った行基は、土地の人に頼んで井戸の水をくみ上げてもらった。すると水の底からは、黒く光る不思議な形をした石が出てきた。
これは水の精が化身に違いない。
この話が聖武天皇(724~846)の耳に入って、天皇からは菩薩像をまつるようにとの指示があった。
井戸の中からこの石をすくいだしてからは井戸の中に星の光はなくなった。
井戸の側に建っているお堂を星月寺と呼び、お堂の裏山は鏡山と呼ばれるようになったという。
鎌倉の枕詞は「ほしづきよ」であるのも面白い。

出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦著

過去記事における鎌倉十井の紹介
鎌倉十井(1)・・・鉄の井
鎌倉十井(2)・・・甘露の井

category: 鎌倉市

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果たして損か徳か?・・・  

青砥藤綱旧蹟

青砥左衛門尉藤綱は、北条時宗・貞時二代の執権に仕え、引付衆(訴訟の審理にあたる役職)の要職にあったが、ある時、夜になって出仕したおり、誤って銭十文を滑川に落とし、五十文の松明(たいまつ)を買って、水中を照らし銭を求め、ついに探しあてた。
これを聞いた人々は十文のため五十文を費やすのは「小利大損」ではないかと嘲笑った。
藤綱は、「十文を川底に沈んだままにしておくのは天下の損失にあたる。五十文は商人の手に渡って、十文ともども天下の利となるのだ」といったという。・・・これは「太平記」(巻三十五)に載る有名な逸話である。
貨幣経済の世となるにつれ、貨幣流通の意味、大切を知らせる内容の話であることは確かである。

出典 深くあるく鎌倉史跡散策 神谷道倫著

oqQ5wgS5YHmBtHn1385977323_1385977334.jpg 旧蹟下を流れる滑川

category: 鎌倉市

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久里浜にカッパ出現?・・・いえいえ昔話です  

日の出橋
昔大津(横須賀市)のあたりは、水が溜まりやすい湿地帯で数軒のあめやさんがあったという。
あめやさんたちは縁日があるたびにあちこち出かけて商売をしていた。
あるあめやが下浦のほうへあめ売りに出かけた。
帰りが遅くなって、池田のほうへ抜ければ近道であったが、根岸のほうに用事もあり、内川新田の大矢部川のふちを回って井田から根岸のほうへ帰っていった。すると内川の先のほうで、小僧のような者が歩いていくのを見た。こんな遅い夜の道を小僧が歩くはずがない。もしや小矢部川に住むカッパではあるまいか。
あめやは小僧の後についていった。
内川からずうーっときて井田のほうへ向いたところに馬洗い場があった。
当時はその辺まで海の潮が寄せてきていて、よくそこで馬を洗ったので「馬洗場」と呼んでいた。その馬洗場にくると小僧は川に飛び込んでいった。
暗くてその姿をはっきり見とどけることはできなかったが、内川にかっぱが現れるといううわさが広まった。
出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦著

oEtfJ2d2binoqY31385892851_1385892865.jpg日の出橋
川は平作川

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国道と平行して流れる平作川(橋は日の出橋

このほかにカッパの話をいくつか載せてありますので、下記のリンクから飛んでください。
三浦市にかっぱがいた・・・清伝寺
かっぱ伝説・・・走水神社

category: 横須賀市

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