歩けば見つかる小さな歴史 ホーム »2014年01月
2014年01月の記事一覧

[PR]ウィルス感染注意

今すぐ↓クリックして早めに予防を。 30日間無料体験できます。

楽天市場

忍者キャンペーン

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

四千五百万年前の地層・・・枕状溶岩  

コンクリートで縁取りされた地層

横須賀市平作川上流の河岸に、額ぶちのようにコンクリートで縁取りされた岩が露出したところがあります。
これが横須賀市指定の天然記念物となっている三浦枕状溶岩です。
枕状溶岩とは、玄武岩などの溶岩が水中に流れ出したときに、溶岩の周りが急に冷やされるので、溶岩の内部に枕状の割れ目と模様ができたもので、今から四千五百万年前頃に生成されたものと推定されています。
ですからこの溶岩は三浦半島で、現在調査されている限りにおいては、もっとも古い地層ということになります。
また近年建久が進んでいるプレートテクにクス研究の面から、枕状溶岩は深海洋底の近くの一部ではないかともされ、それが二次的に壊れ、ブロック化して移動、堆積したものと考えられるようになっています。

出典 横須賀こども風土記 横須賀市民文化財団

05gg8tmmzYdxDDh1391162044_1391162055.jpg平作川上流地域

三浦市諸磯隆起海岸はここからリンクしています


スポンサーサイト

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

賭けに負けてあわや全裸に・・・北条時頼夫人  

この延命寺については、前回の「古だぬき」の項でも紹介していますので古だぬきをクリックしてご覧ください.
また地図もあわせてご覧ください。


延命寺本堂

帰命山延命寺:浄土宗
北条時頼夫人の建立と伝えられるが、寺史は必ずしも明確ではない。
開山は天文四年([1535)に没した専蓮社昌誉能公(せんれんしゃしょうよのうこう)といわれる。
本尊は阿弥陀如来であるが右脇に観音菩薩、左脇に寺宝といわれる地蔵菩薩を安置してある。
地蔵はほぼ等身大の女性の姿をした裸形の立像であるが、ふだんは法衣をまとっている。
珍しいものではあるが、鶴岡八幡宮の弁財天裸像(注)など他にも類例はある。
この地蔵は時頼夫人の念持仏で「身代わり地蔵」と呼ばれている。
この地蔵についての言い伝えとして・・・・
ある日、時頼夫妻が負けたほうが裸になるという賭けをして、すごろくの遊びをしたときのこと。
負けそうになって進退窮まった夫人が心の中で地蔵菩薩を念じたところ、裸の地蔵がすごろく盤の上に立ち現れて夫人を救ったという。
身代わりとなって自分の窮地を救ってくれたというので、守り地蔵としていっそう深く信仰したといわれる。
その言い伝えにちなんで、現在でもすごろく盤の上に安置されている。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫
(注)現在は鎌倉国宝館に保存されています。

PRKZut3WD51RQYq1390987899_1390987919.jpg本堂内右側

O57vKpc60QJ3Ogp1390987950_1390987964.jpg本堂内中央阿弥陀如来

4vlyNsVOKW4_QOE1390988015_1390988030.jpg身代わり地蔵尊
このお地蔵さんは、写真のように、赤い法衣をまとい、すごろく盤に安置されています。

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 0

里人に親しまれた古だぬき・・・延命寺(鎌倉)  

古狸塚
鎌倉延命寺と教恩寺は地境がくっついていて地続きになっていたそうです。
その頃のことです。
この二つの寺をすみかにしていた狸がいました。
しかもそれは数百年のこうらを経た大きな古狸でした。
そのくらいの古狸になるとよく物語りに出てくるように、人間をおどかしたり、化かしたりいろいろ悪さをするものですが、この古狸はごくたちのいいやつで、人なつっこいおとなしい狸でした。
ですから土地の人たちからもかわいがられていました。
当時の延命寺の和尚さんは、とても酒好きな人でした。そして和尚はいつでも酒を買いに行く役をこの古狸に言いつけるのでした。
すると狸は言われたとおり徳利をくわえて酒屋へ行き酒を買ってくるのです。
まさかぱっちょ笠はかぶっていかなかったでしょうが、信楽焼きの狸を思い出して微笑ましくなります。
そんなこんなで古狸は里人みんなの人気者でした。
そのためこの古狸が天寿を全うして死ぬと、人々は丁寧に葬ってやり、塚を築き碑を建ててやりました。
それが即ちいまだに残る「古狸塚」の碑です。

出典 かまくらむかしばなし 沢 寿郎

碑のある場所は、延命寺本堂裏に建っています。

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 0

竹の寺・・・報国寺(鎌倉)  

報国寺山門

65Tgd_hq1Xat5dO1390988550_1390988560.jpg本堂

功臣山建忠報国禅寺・・・臨済宗
天岸慧広(てんがんえこう)(仏乗禅師)を開山とし、足利尊氏の祖父家時を開基として、建武元年(1334)の創建と伝えられるが、これには異説が或る。
現在でも寺紋は足利氏の家紋の「二つ引両」であり、本道裏の崖中腹にあるやぐらには、足利家時、同義久墓と伝える石塔もあって、足利氏との関係は深い。
本尊は、南北朝時代作の木造釈迦如来坐像で、法衣を垂下した鎌倉地方における宋風彫刻の典型的な像である。
開山の慧広の死後、門弟たちが開山の塔所として休耕庵を建てたがのちに廃絶、その跡地に孟宗竹が整備され、現在のような竹の庭になったという。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫


f2a7HZU5O6Laxis1390729948_1390729962.jpgやぐら
この三つのやぐらの内部に宝響印塔や五輪塔を望むことが出来る。足利一族の墓と伝えられる。
義久の墓といわれるものがやぐらの中にあるのは次のような話による。
永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏が翌永享十一年(1439)二月十日に永安寺で自刃した。
そのときこの寺に逃れていた持氏の嫡子足利義久も、いずれ討手がくると聞いて、同年二月二十八日わずか十歳(十四歳との説もある)で自害して果て死後に供養の墓が設けられたのである。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

pPN8w2kY2OjxOT41390729994_1390730007.jpg孟宗竹

SC9qDGkW1sFkLAq1390730042_1390730053.jpg報国寺参道に建つ庚申塔

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 0

青梅で治った鎌倉将軍の病・・・青梅聖天  


この石段(70段)を昇ると社がある。
za803qi_2YkHr_c1390557163_1390557179.jpg青梅聖天

ACrEdWN8IgbEh2O1390556741_1390556750.jpg社にかかる歓喜天

青梅聖天社
双身歓喜天(鎌倉市指定文化財南北朝時代作)を本尊に祀ります。
当歓喜天様は、「新編鎌倉志」巻之三に「鎌倉の将軍一日疾劇フシテ、時ナラズ青梅を望マル。諸所を尋ヌルニ、此宮ノ前ニ俄に青梅実ノル、是ヲ将軍に奉テ、終ニ疾癒ヌ」とあり、青梅聖天とよばれました。
歓喜天は大聖歓喜天とも称され、仏教を守護し、邪悪を除去し、諸願を成就させてくれる尊体として信仰されてきました。
ご本尊は男神と女神が「相抱き正立」して顔を見つめあう姿に造られた珍しい像で、歓喜天信仰を考える上でも貴重な文化財です。
一般には夫婦和合の利益あり、などとも説かれておりますが、史跡旧巨福呂坂頂上近くに祀られたのは、足柄峠の「聖天堂」と同時に、峠を往来する人々の安全を願ってのことでした。

出典 巨福呂坂町内会案内板
VS0lC2juyiVliyu1390556884_1390556900.jpg旧巨福呂坂(こぶくろざか)
この坂の途中、左側中腹に青梅聖天社は建っています。
なお、この坂は頂上付近からは、民有地であり行き止まりである。


category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 4

社は小さくても、こんな昔話が・・・鎌倉御成町諏訪神社  

諏訪神社

ここの諏訪神社と葉山の森戸神社は夫婦の社と言い伝えられ、森戸が男神、諏訪が女神とされていたそうです。
そのためこの二つの神社のお祭りは同じ日(九月八日)に行われていました。
ただし同じ日であっても諏訪は朝祭り、森戸は夜祭ということになっていたといいます。
また不思議なことに、そのお祭りの日には、かならず諏訪神社の森から一羽の白い鳩が飛び立って森戸のお宮まで行ったものだそうです。
その鳩はお諏訪さまの変身だとも、また神様のお使いだとも言われていました。
いつの頃かわかりませんが、或る年のお祭りの日、いつものように白い鳩は諏訪の森を飛び立ち、空高く舞い上がると、葉山をさして飛んでいきました。
どの辺まで飛んで行ったときでしょう。
猟師が神様の鳩とも知らず、それを撃ちました。
鳩は腹の辺りを射抜かれ、白い羽毛は真っ赤な血で染め、石のように落ちてきました。しかし地べたまで落ちないで力いっぱい羽ばたきして目指す方向へ飛び続けました。
疵口から血を滴らせながら森戸へたどり着くと、力も尽き果てて死んでしまいました。
それ以来、諏訪さまには鳩がいなくなったそうです。

出典 かまくらむかしばなし 沢 寿郎

xa4XOKh2qdzMeIg1390382112_1390382122.jpg         TipnihnbWGmO9gG1390382157_1390382167.jpg

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 2

一夜で鎌倉ー福岡を往復・・・志一稲荷(鎌倉)  

志一稲荷

iTrOZXIrSGwPkD31390211381_1390211394.jpg志一稲荷社殿

訴訟のため鎌倉に来た筑紫(福岡県)の僧志一(しいち)が、証拠文書を筑紫に忘れ、きつねを使って、一夜で取り寄せたが、きつねはそのまま息絶えた。
勝訴することの出来た志一は、そのきつねを祀り当社を建てたという。
志一は「太平記」(第三十六巻)に外法(荼吉尼天)に通じた上人としてその名が見え、その道では名の知れた実在の人物のようである。
祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)である。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

9LFz41Pvp7aiR0q1390211422_1390211433.jpg社そばの崖に祀られているお地蔵さん

WfcuejP7PXhnrT51390211467_1390211480.jpg上の写真のアップ

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 0

この歌の作詞者は横須賀市の人  

三笠公園入り口の歌碑
昭和二十一年の春、茶木滋親子は小田原市郊外の小川のほとりを歩いていました。
幼い義夫くんが突然声を上げました。
「お父さん、めだかがいるよ」
滋はすぐ川を覗き込みましたが、めだかは一匹もいませんでした。
「おまえが大声を上げたからびっくりしてにげたんだよ」
すると義夫くんは
「待ってればくるよ。ここ、めだかの学校だもの」
昭和二十五年の秋、NHKから”春らしい明るい歌”の作詞を頼まれたとき、ふとこのときの会話が浮かび、童謡「めだかの学校」は生まれたのです。
作詞者の茶木滋は明治四十三年一月五日、横須賀市汐入町に生まれました。
汐入小、横須賀中・鎌倉中を経て明治薬学専門学校に学び、薬剤師になりましたが、中学時代から童話や童謡に興味をもっていました。
なお作曲家の中田喜直は大正十二年八月一日東京に生まれました。
早春賦」は喜直の父が作曲しています、



G8MzYJqTXGoLd3d1390124806_1390124826.jpg三笠公園入り口
歌碑はこの公園の入り口に建っています。
入り口正面には日露戦争で活躍した軍艦「三笠」が横たわっています。(日本のマスト)

3zdBnXTf9yUT7Y01390124870_1390124895.jpg
特にタイトルとは関係ありませんが・・・・三笠公園にいたる歩道に置かれています。

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 2

旅と酒の歌人・・・若山牧水  


しら鳥は かなしからずや 海の青そらのあをにも そまずただよう” 牧水

ZNFvY06ToMskQN_1389951435_1389951448.jpg
旅姿の牧水
大正十一年十月((三十八歳)”みなかみ紀行”のたびの折、日光中禅寺湖畔で写したもので、画面が白いのは雪である

xuqjmRVRsPXkL711389951492_1389951504.jpg
牧水の妻 喜志子(26歳の頃

39e2ZS2GSy69KDP1389951548_1389951563.jpg
喜志子が酒を買っていた店・・「源仲」(げんちゅう

掲載の写真は長岡半太郎記念館に併設の若山牧水資料館の、常時展示してあるものの中から写真コピーしたものである。
なお、牧水の体型は、身長156センチ、体重50㎏
酒量は一日ニ升六合であった


また、牧水については歌碑を含め下の赤字をクリックしてください。
若山牧水と歌碑

沼津市ホームページ

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 4

御成敗式目はここで制定・・・宇都宮辻幕府旧蹟  

宇都宮稲荷神社

fM1sOWvav_voLPY1389780532_1389780572.jpg宇都宮辻幕府蹟

嘉禄元年(1225)六月十日に、幕府重臣の大江広元が七十八歳で没し、同年七月十一日に尼将軍北条政子が六十九歳で没すると、にわかに将軍御所の移転新造の議が具体化(十月三日)し、早くも十二月二十九日に新造なって、新御所に頼経(三寅)は移り、同二十九日に元服(八歳)、翌年一月二十七日に将軍宣下があるというあわただしさであった。
この御所の移転にあたっての理由については、従来からいろいろ言われているが、御所の移転を契機に人心の一新を図り、幕府の施政の徹底を期したものと思われる。
泰時が評定衆をおき、鎌倉大番役の制を定めたのも移転の翌日のことであり、貞永元年(1232)八月には、五十一か条からなる御成敗式目(貞永式目)を制定したのもこの政庁であった。
宇都宮稲荷神社については、鳥居の脇に掲げた縁起によれば、宇都宮辻幕府をこの地に設営したとき、幕府の守護神として幕府敷地内に祀られたこと、もとは頼朝の御家人宇都宮朝綱の邸地であって、宇都宮神社の分霊を祀った
のを始まりとすることを記す。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 0

文化勲章第一号はこの人・・・長岡半太郎博士  

長岡半太郎博士
慶応元年(1865)六月二十八日、肥前国(長崎県)大村藩の四十石扶持の藩士長岡治三郎と幾久の間に生まれた。彼は戊辰戦争に官軍の一員として参加した父に連れられて東京に上京し、湯島学校に入り、その後東京英語学校に入学、明治十五年(1882)東京大学理学部へ進学した。
1901:ジュネーブ物理学、自然史学会名誉会員
1912:ロンドン物理学会名誉学位
1925:ケンブリッジ大学名誉学位
1926:電気学会第一回浅野博士奨学祝金
1928:旭日重光章
1930:ソ連科学アカデミー名誉会員
1930:電気学会名誉会員
1931:ロンドンローヤルインスティチューション名誉会員
1932:勲一等瑞宝章

1937文化勲章
1950日本物理学会名誉会員
1970国際天文連合より、月の裏側のクレーターが「ナガオカ」と命名された

世界的物理学者が、三浦半島に五軒しかないという古い建物一軒を、明治43年頃から、昭和二十五年九月まで別荘として住んでいた。
a37OeXApoZubwtr1389598138_1389598151.jpg魂の机
長岡半太郎博士が、生前読書や、休憩に愛用した野外机で「来訪者は必ずここに座らせられた」という、博士自慢の机。
目の前に広がる海は東京湾、その向こうは房総半島

3zZZ84e9A3jVgEb1389598081_1389598095.jpg長岡半太郎記念館
この長岡半太郎記念館は若山牧水資料館が併設されており、牧水に関する資料が展示されています。

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 2

鎌倉唯一の浄土真宗のお寺・・・成福寺  

親鸞聖人
亀甲山法得院成福寺:浄土真宗
本尊:来迎印(上品下生)の阿弥陀如来立像である。
鎌倉で唯一の浄土真宗のお寺である。
成仏(北条泰時の末男で俗名泰次)を開山として、貞永元年(1232)に創建された。
泰次ははじめ天台宗の僧として沙門院泰次入道を名乗っていたが、のち親鸞に帰依して成仏と名をあらため浄土真宗の寺を開いた。
本堂裏手にある亀の窟で念仏修行したといわれる。
新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏が滅亡したときの住持四世成円は、北条高時の実弟ということで追放され、室町時代までの七十余年間無住の寺であったという。
その後永禄三年(1560)に没した九世宗全の時代に小田原北条氏の浄土真宗迫害に遭い、宗全は伊豆国北条(現伊豆の国市)の成福寺に退いたという。慶長十七年(1612)十一世西休のときに旧知に戻り当寺を再興した。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

zMs2Id_ezOaYVJB1389520233_1389520247.jpg山門

EkEslsbuIgOAbR21389520281_1389520293.jpg本堂

gAsg0zOQ5rYWiTW1389520390_1389520402.jpg修行したといわれる亀の窟





category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 2

歌舞伎にもなった蒲冠者範頼伝説  

岡村製作所の敷地内に十八個の横穴がありました。これは古墳時代のお墓(墳墓窟)でした。
この横穴群は、この地域では蒲冠者範頼の伝説とともに語られていました。

建久四年(1193)八月、範頼は兄頼朝に反逆の疑いをかけられて伊豆修善寺に押し込められます。
範頼は兄の誤解を解こうと、ひそかに修善寺を逃れて、榎戸港(横須賀市)に上陸したのです。
付近に住む平兵衛は、落ち武者らしい範頼主従に同情し、一行を案内して程近いこのやぐら(岡村製作所の敷地内にあった)にかくまい、何かと世話をしておりました。
やがてこのことが鎌倉の間者(スパイ)に知られることになり、ついに襲われます。
平兵衛は鉈(なた)をふるってこれを倒しますが、範頼はもはや逃れぬことを悟り、隣地の金沢室の木(横浜市)にある太寧寺(現在は横浜市金沢区片吹に移転)に入り、主従ともども自害したといわれます。
明治三十年頃、この伝説を聞いた劇作家竹柴其水は「蒲冠者」の戯曲を作り上げ、明治三十三、四年ごろ「鎌倉山蒲桜重咲」「蒲冠者後日聞書」「祖先輝光磨鉈切」などの外題で、花形役者であった市川左団次、市川権十郎らによって上演されています。

出典 横須賀こども風土記 横須賀市民文化財団

qPG48z_YXp6PfmU1389433723_1389433737.jpg墳墓窟のあったといわれる岡村製作所
埼玉県北本市ホームページ>←クリックすれば源範頼の記事にリンクします

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 0

吉倉洞道碑・・・横須賀市  

洞道碑
吉倉から逸見トンネルを出ると右手に「吉倉洞道碑」が建っています。
碑文によれば、横須賀から金沢方面に行くには海路によっていましたが、軍港の拡張によって船の発着場が変更され、十三峠行くか、または山を越えて吉倉に出て船を利用するかの他には交通することは出来ませんでした。
しかし吉倉に出るには通称、七曲りといわれる昼でも暗い山坂を通らなければならず、ここは白昼でも追いはぎが出ると恐れられていました。
このような交通の不便を強く感じていた逸見村の有志が金を出し合い、トンネルを開削したのです。
トンネルは掘りぬいたままの小さなものでしたが、その完成は逸見・吉倉の人たちだけでなく、吉倉港を利用する大勢の人たちのたとえようもない喜びでした。
現在は国道下り新逸見トンネルが開削されて姿を消しました。
なお、旧トンネルの中ほどに、お不動様が祀られ、行き交う人たちから信仰されていましたが、現在では新逸見トンネル(下り)入り口左側に安置されている。

出典 横須賀こども風土記 横須賀市市民文化財団

EqrldoO1ZwcJ4tK1389348700_1389348710.jpg穴守不動

RW2mX5SqAd93wFx1389348650_1389348663.jpg現在の新逸見トンネル

category: 横須賀市

tb: 0   cm: 2

これでも貴重な文化財なんです・・・北鎌倉  


この岩塊は貴重な文化財です
平安時代後期よりこのトンネルのある岩塊は、鎌倉の北の境界でした。
もとは前面の鎌倉街道まで伸びていたもので、鎌倉時代中期には第三代執権についたばかりの北条泰時が、鎌倉を災いから守る四角四境祭をこの岩の外側で行っています。
また鎌倉時代後期には円覚寺の西側境界ともなりましいた。
一遍上人が第八代執権北条時宗に出会う「一遍聖絵」の有名な巨袋坂の場面は、この岩塊の先端の路上です。
鎌倉時代の鎌倉を今にとどめる貴重な遺跡です。

出典 北鎌倉史跡研究会(立て札)

この文化財は、JR横須賀線北鎌倉駅(下りホーム)後ろ側から見れます

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 6

新田義貞と稲村ヶ崎  


尋常小学校読本唱歌(明治43年)
なお、この曲は鎌倉駅ホームの発車ベルとして使われています。ご存知でした?

唱歌「鎌倉」歌詞
1 七里ヶ浜(しちりがはま)の磯づたい
  稲村ヶ崎(いなむらがさき)名将の
  剣(つるぎ)投ぜし古戦場

2 極楽寺坂(ごくらくじざか)越え行けば
  長谷観音(はせかんのん)の堂近く
  露坐(ろざ)の大仏おわします

3 由比(ゆい)の浜辺を右に見て
  雪の下道(したみち)過ぎ行けば
  八幡宮の御社(おんやしろ)

4 上(のぼ)るや石のきざはしの
  左に高き大銀杏(おおいちょう)
  問わばや遠き世々(よよ)の跡

5 若宮堂(わかみやどう)の舞の袖
  しずのおだまきくりかえし
  返せし人をしのびつつ

6 鎌倉宮(かまくらぐう)にもうでては
  尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに
  悲憤の涙わきぬべし

7 歴史は長き七百年(しちひゃくねん)
  興亡すべて夢に似て
  英雄墓は苔むしぬ

8 建長(けんちょう)円覚(えんがく)古寺の
  山門高き松風に
  昔の音やこもるらん



稲村ヶ崎(手前は七里ヶ浜
後醍醐天皇は元弘の乱によって反北条氏勢力が全国的に広がったのを察知し、元弘三年(1333)閏二月、流刑地隠岐島(島根県)を脱出して伯耆国に上陸した。
これを機会に諸国の有力武将が蜂起し、幕府の命を受けて上洛、足利高氏(後の尊氏)も丹波国において天皇側にはせ参じたことは、幕府にとっては大打撃であった。
関東では、高氏の同属で名門の新田義貞が同年五月八日上野国新田庄の生品(いくしな)神社(群馬県新田郡)で倒幕の旗揚げを敢行し、鎌倉目指して南下した。
義貞の軍は、鎌倉防衛の第一線であった多摩川の中流、分倍河原(ぶばいがわら)で、北条高時の弟泰家の軍と衝突、戦勝して軍を進め、藤沢の渡内で軍を巨福呂坂と極楽寺坂の二手にわけ、鎌倉総攻撃の態勢を整えた。
同月二十一日稲村ヶ崎に到着した義貞は「万里の外に潮を退け、道を三軍に開く」ことを竜神に祈り、太刀を海に投じて、潮の引いたのを機に軍を率いて岬をまわって鎌倉へ乱入した。
このとき三浦半島からも、また相模から数千騎が討幕軍に加わった。また下総国(千葉県)の千葉貞胤は江戸湾に沿って武蔵に入り南下して六浦金沢にいたり鎌倉に攻め込んだ。
五月十八日からはじまった市街戦は二十二日になり町全体を戦火につつみ、北条一門は全く袋のねずみとなってしまった。
北条高時は、小町の屋形に火が迫ったので諸将とともに、葛西ヶ谷にあった北条氏代々の墓所東勝寺に移った。
北条氏の武将たちはここで父子・兄弟相刺し違え、高時も燃え盛る屋形を前にして自刃、鎌倉幕府百五十年の歴史はここに幕を閉じたのである。

高時の腹切りやぐらへリンクしています。
出典 神奈川県の歴史 中丸和伯著

LhRRkK9iAE_BV8I1389000246_1389000258.jpg史跡稲村ヶ崎新田義貞渡渉伝説地碑

bo8f6ySKrAtrEaS1389000292_1389000303.jpg明治天皇歌碑
 
      明治天皇御製
        投げ入れし剣の光あらわれて
          千尋の海もくがとなりぬる

        海軍大将 岡田啓介謹書
千尋;広い  くが;陸地


category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 1

雨乞いの田辺が池・・・霊光寺  

霊光寺田辺が池

qr3L4Tqff_wN4U51388915077_1388915087.jpg雨乞いの日蓮上人

鎌倉市七里ガ浜駅の近くを流れる細い川「行合川」をさかのぼると「田辺が池」という沼地がある。
この池も古くから雨乞いの霊地といわれている。
文永八年(1271)この付近一帯は大旱魃におそわれた。その当時の執権であった北条時宗は、極楽寺の僧良観僧正に雨乞いの行を命じたが、いっこうに雨の降る気配はなかった。
次に良観に代わって日蓮上人が選ばれた。
太陽はじりじり照り付けて、草や木も焼き焦がすかと思われる炎熱の日に、日蓮は「田辺が池」の岸辺に立って法華経を唱えて経木を池に投げ入れた。経木流しの作法というのだが一巻、二巻、三巻、四巻目の経木を池に投げ入れると、池に水気が立ち上って、池は霧に包まれていった。五巻目になると雷鳴が響き、六巻目になると大粒の雨になった。
雨は付近一帯にわたって三日三晩休む間もなく降り続いた。
その三日目の後ははたと止んで晴れ上がった。
村人たちの喜びはこの上なかった。
村人はこの池を「雨乞いの池」「雨乞いの霊地」として日蓮上人と八大竜王を祀って竜王山霊光寺を建立したという。
霊光寺境内の日蓮立像が下界を見下ろしている。
そのほかにも、境内にはいろいろな石塔が建っており、少し時間をかけてみて回りたい。

出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦著

wFVOTplNnBkY1Bo1388914865_1388914877.jpg霊光寺山門

rhe8SA0ZGMN3WRY1388915124_1388915136.jpg霊光寺本堂

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 1

あのボート遭難はここでおきた・・・鎌倉七里ガ浜  



明治四十三年[1910)、小学生一人を含む逗子開成中学生12名の乗ったボート遭難は、七里ガ浜で起きた

HcaVV2bOmDbTAhw1388827580_1388827590.jpg右に七里ガ浜、左に江の島、中央に富士山(天候不良でこの写真では見えません.この写真は稲村ヶ崎からです。

七里ガ浜・江の島・富士山の見渡せるこの地に「遭難の碑」が建っている
y2Z_C0kvIaQcFlC1388827504_1388827517.jpg稲村ヶ崎に建つ遭難の碑

ご存知ですか?←クリックすれば関連記事にリンクします

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 2

山門の欄間に「クルス紋」が・・・光照寺(北鎌倉)  

光照寺四脚門
西台山英月院光照寺 時宗
弘安五年(1282)三月、一遍上人が鎌倉入りを果たそうとして、折から山ノ内に向かう北条時宗の一行と出会い、時宗の供の武士に追払われて阻まれ、一遍一行がやむなく山中に野宿し、念仏をして一夜を明かした法難霊場の地といわれる。その際、鎌倉の僧俗の人々が食物を持って一遍らを訪ね供養した。
一遍一行は時ならぬもてなしを受けてすっかり疲労を回復することが出来たといい、翌日には片瀬の館の御堂のち浜の地蔵堂に移って念仏法門を広めたといわれる。
帰依の貴賎直俗が群集し、紫雲橘が降りはじめるなどの奇端が続いたという。
この浜の地蔵堂跡がこの史跡の標識の立っている場所と伝えられる。
開山は一向俊聖で弘安十年(1287)頃までに創建と伝える。
本尊は阿弥陀如来立像
山門の四脚門は東渓院から移建されたものといい、内側の中央頭上に掲げてあるクルス紋は珍しい。門には「切支丹遺構くるす門」と記された小さな木札がかけられているが、山門のそれはレプリカで、本物は本堂外陣の正面頭上に掲げられている。
東渓院そのものは直接キリシタンと関連があるわけではなく、クルス紋は東渓院の開基豊後の国岡藩主中川氏の紋所で中川久留主と十字架の一種である。
中川氏は天正十一年(1583)賎ヶ岳(しずがだけ)で戦死した摂津の国茨木を領した中川清秀を始祖とするが、戦国時代に摂津はキリシタン信仰が盛んで、中川氏も当初信仰する時期があってクルス紋を用いたと思われる。
しかし徳川幕府からの疑いを避けるため「轡紋(くつわもん)」として説明したと思われる。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫
h1zjumA3Cy1S23c1388743551_1388743565.jpgクルス紋

AUzBCprCR45NbPY1388743638_1388743649.jpg本堂

TeefgnVYI90KDhU1388743595_1388743605.jpg本堂内部

A1TrHuXlhm_wEaT1388743698_1388743713.jpgこそだて地蔵

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 0

陰陽師安部清明が残した石・・・八雲神社(北鎌倉)  

八雲神社鳥居

DsCfxOHC8N3PMR61388656948_1388656959.jpg八雲神社本殿
鎌倉市山ノ内の鎮守で、元は牛頭天王社といった。
祭神は素戔嗚尊 (スサノオノミコト)で社伝によると、文明年中(1469~1487)に、のちに関東管領となる山ノ内上杉憲房が、京都八坂の祇園社の神霊を勧請したという。
なお、元仁(1224)十二月、鎌倉に疫病が流行した際に、鎌倉の四境(六浦、小坪、稲村、山ノ内)で、疫病撲滅のための祈願祭(四角四境祭)を行ったが、この神社の地が山ノ内の斎場跡地といわれる。
四角四境祭は陰陽道の祭祀で、これにより鎌倉内に鬼気(この場合は疫病)の侵入するのを追却したのである。
平安時代の陰陽師安部清明が残したとの言い伝えがある「清明の石」で、除災の石として信仰を集めている。
この石はかって鎌倉街道(山ノ内十王堂橋近くの真中にあり「道行く人が知らずに踏めば足が丈夫になり、承知して踏むと足が悪くなる」といわれていたという。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫
BIvUM3ubjuxgg9o1388657004_1388657017.jpg清明の石

wSfdnD9Cz0KBsMH1388657061_1388657073.jpg神社がけ下の庚申塔群

category: 鎌倉市

tb: 0   cm: 0

新年明けましておめでとうございます  

房総半島から昇る初日の出
新年明けましておめでとうございます

本年も昨年以上の、ご支援ご指導、ご愛読をお願いします

1xONNa_qViaG_RJ1388539288_1388539297.jpg午年です。応援してください

category: 箸休め

tb: 0   cm: 7

プロフィール

コメント・メールお待ちしています。

セブンフリーエリア

自宅で注文、お店で受け取り

セブンネット検索

フリーエリアセブン

このブログのQRコード

健康BMI

カテゴリ

貧血防止に

やわた

カラミーショップ

愛犬用のサプリメント

タニタのグッズ

早いもの勝ち

あなたの口臭大丈夫?

家族葬儀のご提案

フリーエリア

フリーエリア

カード作るなら楽天におまかせ

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

メールはこちらから

▲ Pagetop

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。