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2014年03月の記事一覧

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許婚を父に殺された・・・大姫の物語(鎌倉岩船地蔵堂)  

岩船地蔵堂
大姫は、源頼朝と政子の間に生まれた最初の子供である。
鎌倉入りした頼朝のあとを追って駆けつけた、大姫を伴い親子三人の感激の対面をしている。
この時おお姫は2~3歳であった。
頼朝挙兵に呼応するかのように、同じ源氏の木曽義仲は平氏討伐の旗をあげた。
頼朝・義仲の対立が深まり、あわや武力衝突もおきかねない状況だったが、義仲の長子わずか十一歳の義高を、大姫の許婚者として鎌倉に送り、両者は和解したのである。
十一歳の許婚者を迎えた大姫は5~6歳であったと思われる。
親たちの政争の具に使われているのも知らず、二人は兄と妹のように仲良くなった。
しかし翌年には頼朝は、京にいた義仲を攻撃し、義仲は北陸路へ逃げ延びるが、途中近江粟津で首級をあげられてしまった。義仲はまだ三十一歳の男盛りであった。
冷酷にも頼朝は、娘の許婚者である義高まで殺してしまった。
それを知った大姫のショックは大きく、まるで自分の兄を父に殺されたようなショックだったにちがいない。
熱を出したり、うわごとを言ったり、日増しに衰弱していった。
以来病弱となった大姫の身体は生涯治らなかったようだ。
大姫が死んだのは建久八年(1197)七月で、二十歳の若さであった。

出典 鎌倉謎解き散歩 湯本和夫

tzppjogZt5p7AlZ1396173284_1396173294.jpg地蔵尊

「海蔵寺」説明板より
亀が谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘おお姫を供養する地蔵堂として言い伝えられてきました。
木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、新たに木造を造立した旨が記されています。
「北条九代記」にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。




追記
FC2ブログ「野火止用水」さまより、貴重なコメントをいただきましたので紹介します
義高は武藏に入り、入間川河畔でとらえられたとされます。この話は余ほど地元の人々に熱い想いで伝えられたのでしょう、義高を「清水八幡宮」として、まつっています。
 建て替えられる前の地蔵堂が懐かしく思い出されます。

野火止用水様ブログへのリンク
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category: 鎌倉市

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「十六夜日記」の作者阿仏尼の墓・・・鎌倉市  

英勝寺近くのやぐら
dPxG6xVVpPKIJKz1396003255_1396003266.jpg阿仏尼の墓と伝える多層塔
阿仏尼(あぶつに)は若くして安嘉門院(あんかもんいん)に仕えたので安嘉門院四条ともいった。
のち藤原定家の子為家の側室となり、為相(ためすけ)、為守らを生み、この為相が成人して冷泉(れいぜい)家の祖となる。
夫の死後、異腹の長子で二条家の祖となった為氏と播磨(はりま)の国細川荘の相続について争い、弘安二年(1279)十月十六日京を発ち、訴訟のため鎌倉に下った。
東海道を鎌倉に下った折の紀行と、翌年秋までの鎌倉滞在中の記が「十六夜日記」である。
折から蒙古襲来の前後にあたり、訴訟は進展せず、阿仏尼は弘安六年(1283)に没して、生存中に解決を見ることはなかった。
墓(供養塔)と伝えられるものは京都・鎌倉ともに存在する。
六十余歳で没したと見られるが、京都西九条大通寺にも阿仏尼の墓(阿仏塚)と伝える小五輪塔が存在する。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫
上記赤字「大通寺」をクリックすれば、大通寺の案内にリンクします


category: 鎌倉市

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本尊は海を渡ってきた・・・長谷寺(鎌倉)  

十一面観音像は国宝のため写真撮影は出来ません。
当ブログ掲載の写真は、当寺で販売しているハガキから転写したものです

十一面観音像
海光山 慈照院長谷寺ー浄土宗

開山徳道、開基藤原房前、創建は天平八年(736)と伝えるが、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の縁起に習ったものと思われ、事実上の創建年次は明らかでない。
本尊の十一面観音菩薩像は、大和長谷寺の本尊と同木同作と伝えがある。
徳道上人が、一本の楠の霊木から二体の十一面観音像を造り、木本(木の根元側)で造った尊像を大和長谷寺に祀った。
木の末で造ったもう一体の尊増は、縁ある地に出現し、人々を救済してくださいと祈って海に流したところ、年を経て三浦半島の長井浦(横須賀市)に漂着した。これが都に聞こえ、藤原房前が鎌倉に下って堂宇を建立して、尊増を安置し、徳道上人を迎えて開山したのが当寺の始まりと伝承する。
当初は、大和長谷寺に対して、新長谷寺と称していたことが、梵鐘・懸仏銘(かけぼとけめい)から知られる。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

流れ着いたところは・・・横須賀市長井(仮屋が崎
赤字をクリックしてください

HEr3Wm0LNC5TIIy1395832603_1395832611.jpg十一面観音像

category: 鎌倉市

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何気なく渡る橋にも物語がある・・・鎌倉十橋(乱橋)  

乱橋と石碑
鎌倉市材木座三丁目バス通りにかかる目立たないが、名前は乱橋(みだればし)という橋があります。
新田義貞が、鎌倉攻めの際、守る北条方の軍勢は、この橋のあたりから敗走をはじめた。
つまり乱れ始めたということでこの橋の名前がつきました。
敵(新田勢)は、稲村ガ崎を突破したときから、すでに士気は天を突き、勝算満々としていましたから、材木座海岸では、もはや水際作戦もうまくいくはずもありません。
鎌倉勢の足並みは乱れ、さんざんの負け戦で多くの将兵が討ち取られたのです。

出典 鎌倉趣味の史跡めぐり 長峯五幸
SE5CI961RfSuSTY1395654073_1395654083.jpg

鎌倉十橋 歌の橋へはこちらから・・・歌の橋
稲村ガ崎と新田義貞へはこちらから・・・新田義貞鎌倉攻め(唱歌付き

category: 鎌倉市

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悲恋を伝える教恩寺・・・鎌倉  

教恩寺
宗旨:時宗ー一遍上人が開いた宗派で、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることを本分としています。
   総本山は藤沢の遊行寺です。
本尊:阿弥陀如来・観音・勢至菩薩の立像で源頼朝が平重衡(しげひら)に、平家の菩提を弔うように与えられたと伝わる。

本尊の阿弥陀如来については「新鎌倉志」に次の説明がある。
「本尊阿弥陀、運慶作。相伝ふ。平重衡囚われに就いて、此本尊を礼し、臨終正念を祈りしかば、弥陀の像、打ちうなづけるとなん」
こも阿弥陀如来は伝えでは「一の谷戦い」に敗れ、須磨の浦で捕虜となって鎌倉に連行された平清盛の子、重衡の念持仏とある。

源頼朝は幽閉中の重衡を慰めるために像を贈り、千手(せんじゅ)という舞姫を差し向けて一夕酒宴を催した。
「平家物語」の中でもとりわけ哀れが深く、美しい場面である。
一夜の出合いは二人の絆を堅くし、一年後に重衡が奈良で処刑されると、千手は長野の善光寺で髪を下ろし、それでも恋慕の情を断ち切れず、数年後二十四歳の若さでこの世を去った。
こも寺の阿弥陀三尊は。二人の悲恋を目の奥に秘めつつ、ひっそりと立ち続けている。

出典 鎌倉もののふt伝説の道を歩く  大貫昭彦

6j0hs6Xp75s2FIX1395483960_1395483971.jpg本尊

category: 鎌倉市

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鶴が岡八幡宮はここから始まった・・・鎌倉鶴が岡八幡宮  

元八幡宮
源頼義が、前九年の役(1051~1062)で奥州の安倍頼時貞任父子を討伐して、京へ帰る途中の康平六年(1063)八月、この鎌倉由比郷鶴ヶ岡の地に、岩清水八幡宮の分霊を勧請して祀り、源家の氏神とした。
永宝元年(1081)二月、頼義の子八幡太郎義家は当社に参詣し、社殿を修復した。
源氏が八幡神に対し、直接祖神の信仰を持ち始めたのは源頼信とされ、頼義・義家は特に岩清水八幡を崇敬した。
なかでも義家は寛徳二年(1045)七歳の折、岩清水八幡宮の社前で元服し、八幡太郎と称した。
その後義家は後三年の役(1083~1087)で奥州の清原氏を滅ぼし、源氏は東国に確固たる地位を築くことになる。
源頼朝は治承四年(1180)十月六日鎌倉に入ると、翌日早速父頼義・義家ゆかりの由比郷鶴ヶ岡の八幡宮を遥拝し、同十二月、現在地に遷座した。
これが現在の鶴ヶ岡八幡宮のはじまりで、旧社殿の所在地の名称をそのまま引き継いだ。
遷座後も旧地の社殿の祭祀は続けられ。「若宮」とも「元八幡」とも呼ばれ尊崇された。
現在も鶴ヶ岡八幡宮の境外末社として存続し国史跡になっている。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

BVPfzHXm9CxnPuK1395307517_1395307529.jpg元八幡社殿

QMAvek73P9v9eRb1395307560_1395307570.jpg源義家旗立の松

category: 鎌倉市

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灼熱の鉄なべを被せられたお坊さん・・・妙隆寺  

妙隆寺本堂
叡昌山妙隆寺 日蓮宗
日英を開山とし、鎌倉幕府の有力御家人千葉氏の子孫、千葉胤貞(たねさだ)を開基として至徳(元中)二年(1385)に、千葉氏の邸跡に建立したと伝える。
千葉胤貞は建武三年(1336)にすでに没しているので招請開基ということになる。
第二世の日親上人は、祖師日蓮の教えを真に継承し、法難にも屈することなく「法華経」の信仰を生涯貫きとおした傑僧として知られるが、応永三十四年(1427)二十一歳の時には所願成就のため、寒百日間の激しい荒行を試み、生爪をはがした血の水で墨をすって「曼荼羅」を書いたという。
本堂前の池はその「忍力行法」の池であると伝えられる。
永享八年(1436)京都に本法寺を開いて活動の中心拠点として全国に足跡を残しているが、関東では師の日英が開いた妙隆寺を布教の拠点としたのであった。
永享十一年(1439)には、室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)に諫曉(法華経の教えを実践し、他宗の信仰を捨てるよう諭す)して退けられ、翌年「立正治国論」を献じて再度の諫曉を企てたところ、事前に露見し捕らえられ、さまざまな拷問を受けた。
最後には灼熱した鉄鍋を被せられたが屈しなかったので、のちに「鍋かむりの日親と呼ばれたという。

出典 鎌倉史跡散策 神谷道倫

<KB9nbDNBZz2jFSJ1395123241_1395123251.jpg忍力行法の池

4ZjZqbQhnVQR8_h1395123296_1395123307.jpg鍋かむりの日親上人象




category: 鎌倉市

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清水観音に救われた命・・・盛久首座  

>盛久首座
「盛久首座」(もりひさくびざ)
平盛久ほ義経に捕らわれた平家の大将、平盛国の子である。
源氏に破れ平家敗走のなか、盛久は捕らえられ鎌倉に送られ、この由比ガ浜の地で首を切られることになりました。
盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続け、処刑前夜に観世音の霊夢を見ました。
そして、いざ処刑のとき、持っていた経巻(きょうかん)から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を取り落とし、太刀も二つに折れてしまいました。
これを聞いた源頼朝は盛久を招き「自分も同じ夢をみた、観世音のお告げである」といって助命し、盛久は所望されて舞を舞うのでした。

出典 謡曲史跡保存会(首座に建つ碑より)

category: 鎌倉市

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こんな趣味もあります  


ブログのほかに、木彫もはじめました。
まだまだ超初心者で、ここで公開するものではないと思いますが・・・・
指を動かすことで、自分自身のボケ防止に役立てればと思っています

あくまでも自己流です・・・・

お地蔵さん
たて150ミリ
横100ミリ


HZ6_5Bupg2Eh7gE1394792334_1394792349.jpgお地蔵さん
たて90ミリ
よこ30ミリ
奥行き30ミリ


おそまつでした

category: 箸休め

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フビライの使者はここに葬られる・・・藤沢・常立寺  

龍口山(りゅうこうさん)常立寺(じょうりゅうじ) 日蓮宗
常立寺本堂
当時、江の島片瀬川の河口は、昼なお暗い森だったという。
誰姿森(ただすもり)と呼ばれていた。
その暗さを利用して、ここでは盛んに処刑が行われた。
頼朝を治承四年(1180)の「石橋山の戦い」で苦しめた大庭景親、北条氏に敗れた和田義盛の残党など、多くの敗者もここで処刑された。
日蓮が斬られようとしたおなじみの話も誰姿森での出来事である。
奥州平泉の「衣川の戦い」で討たれた源義経の首実検もこのあたりで行われた。
またこの寺には、蒙古の使者五人を葬った元使塚がある。
皇帝フビライの国書を手に、日本に朝貢(ちょうこう)を迫った彼らも、この地に連行され、処刑されたのだった。
塚には、故国で帰りを待つ妻子に宛てて詠んだ杜世忠(とせいちゅう)の詩が刻まれている。
寺は利生山回向寺という真言宗であったが天文元年(1532)日蓮宗に改宗。
出典 鎌倉もののふと伝説の道を歩く 大貫昭彦

このブログの読者から指摘があり、一部補足します。
常立寺が刑場であったかのように書きましたが、実際は戦で戦死した人々を葬ってある寺で、刑場は、この近くの龍口寺付近にあったとされています。

XJEMZvPFYP6NWZq1394619154_1394619166.jpg元使塚

5Xgyl5NLlHliwrD1394619192_1394619202.jpg杜世忠の碑

tBETkb5zo6V02gQ1394619118_1394619130.jpg本堂前の六地蔵

category: 藤沢市

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静御前の悲劇・・・由比ヶ浜・坂の下海岸  


鎌倉大仏の長谷駅から海岸(由比ヶ浜)へ、バス停「坂の下海岸」付近での話です。
健康的で明るい風景は。歴史のかなたに忘れられた源義経の愛妾「静御前」の悲しみを秘めている。
「吾妻鏡」の文治二年(1186)閏七月の記事より
「静男子を産生(さんしょう)す。これ予州(よしゅう)の息男(そくなん)、・・・・
しかるにその父関東に背き(そむき)たてまつり。
謀叛(むほん)を企て逐電(ちくでん)す。
その子もし女子たらば、はやく母に給ふべし。男子たるにおいては。・・・未熟の時命を絶つ条(じょう)、よろしかるべきの由(よし)治定(じじょう)す。
よって今日、安達新三郎に仰(おおせ)て、由比の浦にすてしむ。
静あへてこれを出さずに、衣に纏(まと)ひて抱(いだ)き臥(ふ)し、叫喚数刻剋(きょうかんすうこく)に及ぶ間、安達しきりに譴責(けんせき)す。
磯禅師(いそのぜんし)殊に恐れ申し、赤子を押し取りて、御使いに与ふ。
このこと御台所(みだいどころ)御愁嘆、なだめ申されるいへども叶(かな)はずと。

静御前が「吾妻鏡」に登場するのは、文治元年(1185)十一月の記事
頼朝に追われ、都落ちする義経の中にその名がある。
しかし翌年吉野で捕らわれ鎌倉に連行、身籠っていた義経の子を「坂の下」海岸で殺される。
その後京へ帰されるが、翌年十九歳で往生を遂げたとされる。
生没・生い立ち不詳。
歴史の光を浴びたのも二年足らず。
すべてにはかない舞姫であった。

出典 鎌倉もののふと伝説の道を歩く 大貫昭彦

vHCENoNfcB_XaYw1394443346_1394443359.jpg坂の下バス停付近の海岸

category: 鎌倉市

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今は健康的なこの海も・・・鎌倉・由比が浜は戦場だった  

由比が浜
この海岸一帯が、昔は戦場となったことはたびたびありました。
たとえば、治承四年(1180)八月には、頼朝が石橋山で敗れたと聞いて、途中からあきらめて引き返してきた三浦義澄が、そのころはまだ平家方だった畠山重忠と戦ったのもこの海岸であり、建保元年(1213)の五月には和田合戦の舞台となり、元弘三年には新田義貞の軍が海岸から、鎌倉になだれ込んだのです。
そのほか小さい騒ぎを数えたらキリがないくらいこの海岸は闘争の場になっていたわけです。
また、文治二年には、悲しい出来事も起きていますが、この話については次回に譲りたいと思います。

源実朝が陳和卿に造らせ、渡宋の夢を託した唐船が大きすぎ、重すぎたためか、この海が遠浅であるためか、ついに浮かばず、砂上に朽ちてしまったのもこの海岸である。

出典 つれづれの鎌倉 沢 寿郎

1bb3pQaYtzHCav51394272083_1394272132.jpg由比が浜

category: 鎌倉市

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江の島はこうして出来た・・・(旧)龍口明神社  

旧龍口明神社鳥居
龍口寺西隣に位置しています・・・現在は立ち入り禁止で、柵の外からしかみることは出来ません。
また昭和五十三年に、湘南モノレール「西鎌倉駅」徒歩十分のところに新しく遷座されています。
ご祭神:・・・玉依姫命、五頭龍大神
ご例祭・・・・十月第一土曜日・日曜日
御創建・・・・欽明天皇十三年(552)


昔、深沢の森の湖に頭が五つある龍がすんでいた。
田畑を荒らし、人に害を与えている龍は、村人に恐れられていた。
津村の長者には十六人の子供があったがみんなこの五頭龍に呑み込まれてしまった。
村人は、五頭龍が子供を呑み込んで帰っていく道を、死んだ子が山を越えることから「子死越」(腰越:こしごえ)と呼んで悲しんだ。
欽明天皇の十三年(552)四月十二日に、この腰越に大異変がおこって村中が大騒ぎになった。
湖から五頭龍が出てきたからである。
南の海の上に黒い雲が巻き起こり、雷がとどろいて、波は荒れ、天地は震えて村人たちは生きた心地はしなかった。
恐ろしさに震えていると、金色の光が空に輝いて、その光は五頭龍に近づいていった。
見るとそれは、美しい子供を両側に仕えさせて、紫色の雲に乗った弁財天であった。
空からは石が降り、海の底からは土がわきあがった島が出来た。
弁財天はこの島に降りていった。「江の島」はこの時できた島だといわれる。
五頭龍は弁財天の美しさにすっかり心を引かれて好意を伝えた。
五頭龍から好意を申し入れられた弁財天は、今まで村人を苦しめてきた五頭龍の悪事を責めて、申し入れを断ってしまった。
がっかりした五頭龍は今までの悪事を後悔して、すっかり心を入れ替えて弁財天に従うことを約束した。
こうしてついに五頭龍は、江の島の弁財天と夫婦になり、村人を助けて愛される龍に生まれ変わったという。

出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦

江の島の弁財天は、日本三大弁財天として親しまれているとともに、江の島「江島神社」とこの「龍口神明社」は夫婦神社として人々に崇敬されています。
yW59RBHmVDljFEb1394092851_1394092861.jpg旧社殿

oGoBh3NzQK2uWf01394092888_1394092909.jpg社殿にかかる額


category: 鎌倉市

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娑婆はどこも同じ・・・どこも地蔵  

瑞泉寺地蔵堂
昔、智岸寺ヶ谷(鎌倉市)の智岸寺という寺に地蔵堂があって、そのお地蔵様は「どこも地蔵(または,どこもく地蔵)」と呼ばれていました。
むかしむかし、この地蔵堂には堂守のお坊さんが、たった一人で住んでいましたが、なにしろ寂しい谷戸の奥にぽつんと置き忘れられたようなお堂なので、参詣に来る人もなし、お堂も荒れるにまかせで、ご本尊に供えるお供物にも事欠くありさまでした。
で、堂守はこれではどうにもならぬから、いっそここから逃げ出し、どこか他所へ移るより仕方がないと考えました。
するとその夜、お地蔵様が夢枕に立って「どこも、どこも」といわれたと思うと目がさめました。
堂守のお坊さんは、これはきっとどこへ逃げ出したところで、やはり苦労の付きまとう娑婆で、結局はどこも同じだとのお告げであろうと悟って、一生をこの谷戸でお地蔵様のお守りをして終わったのでした。
現在ではこのお地蔵様は、瑞泉寺内の地蔵堂に安置されています。

出典 つれづれの鎌倉 沢 寿郎

0F58_NG20E2Zy1N1393925314_1393925325.jpgどこも(どこもく)地蔵

category: 鎌倉市

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頬焼阿弥陀と塩嘗地蔵・・・光触寺(こうそくじ)  

光触寺本堂
岩堂山光触寺 時宗
開基は一遍知真、開山は作阿で、弘安二年(1279)の創建とする。

伝では、もと真言宗の寺であったが、作阿が一遍に帰依して時宗に改めたという。
本尊阿弥陀如来増(脇侍とともに国重)は、頬焼阿弥陀(ほほやけあみだ)として知られています。
寺蔵の「頬焼阿弥陀縁起絵巻」(国重文)によると・・・・
昔、鎌倉に町の局(つぼね)という女性がいて、仏師運慶に阿弥陀三尊を造ってもらい、持仏堂に安置していた。
この家の下部(しもべ)の万歳法師というものは大変信心深く、常に念仏を唱えていた。
あるとき盗みの疑いを持たれ、女主人の命により、頬に焼印を押されることがあったが、その夜女主人の夢枕に阿弥陀如来が現れて、汝のためにわが面に焼印を受けたとのお告げがあった。
驚いておきて確かめてみると、如来の頬に焼印のあとがあり万歳法師の頬の焼印はあとかたもなかった。
阿弥陀如来が信心深く、念仏を怠らない万歳法師の身代わりになったのである。
このことを恥じた町の局は、ひそかに仏師に阿弥陀如来の頬の修復を頼んだ。しかし二十一回修理を繰り返しても傷跡は結局は元にもどらなかった。
この傷跡を隠すのはかえって仏意に背くことになると悟った町の局は、その後は世間に公開することにしたところ、参詣者が門前市をなすありさまとなったので、比企ヶ谷に岩蔵寺を建立し、阿弥陀如来を安置した。
「縁起絵巻」の本文中にある岩蔵寺は光触寺の前身と考えられ、現在「岩蔵山」という山号にその名をとどめている。

出展 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

TKcqeKR2FPBnHVL1393733344_1393733355.jpg一遍上人

塩嘗地蔵(しおなめじぞう
HBEij2aFBNIXTwX1393733253_1393733264.jpg塩嘗地蔵
もとは金沢街道の傍らにあり、六浦(横浜市金沢区)の塩売り商人が、鎌倉に商いに行くときに、朝のうちにここを通り、この地蔵に初穂として一つまみの塩を供えていくのが習いであった。
帰りに塩はなくなっているので、この地蔵が塩を嘗めてしまうのだろうといわれて、このような名前がつけられたのでしょう。

出展 深く歩く鎌倉史跡散歩 神谷道倫

category: 鎌倉市

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