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鎌倉でも安部清明信仰はあった。  

RFPo_k8va_Px7Ce1398851431_1398851441.jpg安部清明大明神

ここに言う清明大明神は、十世紀に陰陽師・天文博士として活躍した安部清明を神として祀ったものであるが。「今昔物語」「宇治拾遺物語」「大鏡」などの諸書に伝えられる超人的な能力は、民間陰陽師や宗教者に広く伝承されて民間信仰の対象となり、このように祀られていると思われる。
この石碑は、明治三十九年(1906)七月の建立であるが、その由来など詳細は不明ながら、当地では二十世紀はじめのその頃以降もなお安部清明に対する信仰されていたことが判り興味深い。

この地にかかわる清明伝説
このあたり山内首藤(やまのうちすどう)氏の邸宅があったと伝えられる。
治承四年(1180)十月、鎌倉に初めて入った源頼朝は鶴岡八幡宮(元八幡)に遥拝ののち義朝がかって居住したという亀ヶ谷の旧跡に行き居館を建てようとしたが、地形狭隘のため取り止め、大庭景義を奉行として、改めて居館(大倉御所)作事にあたることになった。
しかしそれが期日までに間に合わないというので暫定的に「(義朝)知家事(ちけじー家政の担当職)兼道の山ノ内の邸宅を移築した。
その家は正暦年中(990~995)に建ててから火災に遭ったことがない。それは安部清明(921~1005)が槙宅の護符を貼ったからだ」と吾妻鏡に記され、清明の護符の霊力を特記する。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

安部清明関連の関連記事へリンク→八雲神社(北鎌倉



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category: 鎌倉市

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転んでもただでは起きなかった杉山検校・・・江の島  

杉山検校(けんぎょう)肖像画

 杉山検校(和一)は、慶長十五年(1610)伊勢にうまれ、幼くして盲目になりました。
鍼の治療で身を立てようと江戸に出て、鍼医の師匠に入門しましたが、不器用なため術を習得することができずに悩んでいました。
そこでなんとしても神仏にすがり上達したいと思い、江の島にこもり二十一日間の断食をして祈願しました。
満願の日の帰り道に、石につまづいて倒れて気を失ってしまいました。
 すると、夢の中で美しい五色の霧にのって弁財天が現れたので、手を合わせて拝もうとしたところ、なにやらちくちくと身体を刺すものがありました。
そこで夢から覚め、手に取ってみると松葉の入った竹の管でした。
これにヒントを得て管鍼の術を考案してその元祖となり、それによって徳川綱吉の病を治療し、関東総検校に栄進したといわれています。


iazye5Oq6yXiyQN1398591251_1398591261.jpg杉山検校旧墓塔
最初の大鳥居(右側柱)の袂に立っています。

gY_UPu295PVa1Oi1398591290_1398591299.jpg
この墓碑は、一周忌の命日(五月十八日)、次の総検校の三島安一が造立したもので墓碑は笠塔婆型に造られています。
昭和三十八年(1963)藤沢市指定文化財「史跡」に指定されています。

旧墓塔前の道を右へ進んだ右側道路下にあります。

6Q1xOAvn7fXNYyT1398591325_1398591335.jpg福石
この福石は、検校がつまづいて転んだ石とつたえられています。
大鳥居をくぐり、辺津宮へ行く途中の右側にあります

ここをクリックすれば江島杉山神社(東京都墨田区千歳1-8-2)へリンクしています。
よかったらぜひリンク先もご覧ください


ここをクリックすると杉山検校生まれ故郷の三重県の関連にリンクしています。
ここもぜひご覧ください




category: 藤沢市

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江ノ電の車窓から・・・・  

江ノ電の沿線は歴史いっぱい運びながら、のんびりと走っています。
歩くのも良いけど、こういった電車でのんびりするのも良いですね。
この写真は運転席の後ろから撮影しています

江ノ電鎌倉駅

U6yaHqNwjjdnlNG1398332439_1398332448.jpg江ノ電は単線です

113yc9tpe7xTT711398332476_1398332485.jpg極楽寺付近

eAKhwemGShCwZ8m1398332583_1398332600.jpg単線のためすれ違い

Qj8tXPFJudzK1Es1398332510_1398332518.jpg車窓から見える江の島



category: 鎌倉市

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松源寺の怪談・・・鎌倉市  

松源寺のあったところ
松源寺址
鎌倉鉄の井を左に曲がり、右側の山すそあたり、松源寺がありましたが、明治初年に廃寺になっており、現在はこの寺はありません。
この寺の本尊は地蔵様で、俗に日金(ひがね)地蔵と呼ばれていました。
頼朝がまだ伊豆にいたころ、深く信仰していた日金山の地蔵をここに移したものだと伝えられていたものですが、今では東漸寺に祀られています。
漸寺は横須賀市にあります。赤い字をクリックしてください。
山すその松源寺には墓場があったそうで、いろいろな話が伝えられています。


松源寺の怪談
いつのころか定かではありませんが、いづれ江戸時代になってのことと思われます。
雪の下(鎌倉)の飴屋へある晩遅く、水飴を一文買いにきた女がありました。
色の青白い、やせ細った女でした。
亭主は言われるままに割り箸に水飴をまいて渡しましたが、うなだれて出て行く女の後ろ姿に、ついぞ見かけたことのない女だが、どこの人だろうと不思議に思いながらその夜は寝てしまいました。
次の日から毎晩その女は、判で押したように同じ時刻になると、水飴を一文買いに来るのです。
飴屋の亭主は、日ごとに段々薄気味悪くなってきました。
「水飴を・・・い・・ち・・・・もん」と細いかすれた声で言うだけで、ほかには一言も言わずに首うなだれてとぼとぼと帰っていくやせこけた青白い顔の女。
しかもどこの者かも一向にわからないのですから、いっそう気味悪く思われるのでした。
女がきはじめてから六日目の晩でした。
またいつものように水飴を買いにきた例の女が、帰りしなに亭主に向かって「いつもありがとうございました。明日からはもう参りません」と涙声で言うと、深くお辞儀をして出て行きました。
亭主はなんだか急にかわいそうになって、そのわけを聞こうと表に出てみると、もう女はだいぶ先のほうへ行っているので、「もし、ちょっと」と声をかけましたが、女は振り向きもせず歩いていきます。
飴屋の亭主は何かに引かれるように女の後を追いましたがどうしても追いつけません。
やがて気づくと女の姿は松源寺の墓場の辺りで消えるように見えなくなってしまいました。
さては幽霊だったのかと亭主は襟元からぞっと寒気がして立ちすくんでしまいました。
するとそのときどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
亭主はその声に誘われるように、ふらふらと墓場の中へ入っていくと、どうも赤ん坊の泣き声はまだ新しい土饅頭の中から聞こえてくるようです。
肝をつぶした飴屋は早速、庫裏を叩き起こして和尚にこのことを話しました。
それから大騒動となり、その土饅頭を掘り返してみると棺桶の中に女の死骸にすがりついている裸の赤ん坊がいました。
母親の手には割り箸にまいた水飴があり、しかもその膝の下には、なめてしまった割り箸が五本、折られもせずありました。
臨月の女が死んで葬られたのですが、赤ん坊が生まれたので、乳の代わりに水飴をなねさせていたのだろう。
その銭は六道銭として入れられていた一文銭六つを、一日一文づつ使っていたに違いない。
と、人々はまたあたらしい涙にさそわれた。

出典 つれづれの鎌倉 沢 寿郎



category: 鎌倉市

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平家滅亡を願った源平池・・・鎌倉八幡宮  

nw_23IlvXs84Irz1397990818_1397990839.jpg旗上弁天社
旗上弁天社御由緒記
治承四年(1180)八月、源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総(千葉県)に転じ、十月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。
夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182)大庭景義に命じ、境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池ー八幡宮に向かって右側)には三島を配し三は産なりと祝い、西の池(平家池ー八幡宮に向かって左側)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。
この池が現在の源平池である
そして東の池の中の島に弁天社を祀ったのが当社のはじめで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔とともに除かれた。
その後昭和三十一年篤信家の立願によって再興され、さらには昭和五十五年九月鶴岡八幡宮創建八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。

出典 鎌倉八幡宮

iBzkePs6qwPIB7p1397990864_1397990872.jpg源氏池

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元々はここにあった鶴岡八幡宮・・・元八幡をクリックしてください

category: 鎌倉市

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自ら実践・・・母の教え(松下禅尼の話)  

松下禅尼は北条時頼の母であり、わが子に倹約の教えをおのずから教えたとして、「徒然草」(吉田兼好)に残されています
北条時頼の墓は、アジサイ寺で有名な明月院にあります。クリックしてください時頼の墓

松下禅尼の生涯
元仁元年(1224年)、六波羅探題となった時氏に従って上洛。のちに鎌倉に戻り、寛喜2年(1230年)の時氏の死後、出家して実家の甘縄邸に住んだ。『徒然草』184段に、障子の切り貼りを手づからしてみせて時頼に倹約の心を伝えたという逸話がみえ、昭和期の国語教科書などにも取り上げられた。
時氏の早世後は息子の経時や時頼の養育を務めた。第8代執権・北条時宗は松下禅尼の甘縄の邸で誕生している。
没年は不明だが、弘安5年(1282年)10月以前には死去している。

松下禅尼のわが子に教える内容が徒然草に残っている

徒然草
吉田兼好・・・・新日本古典文学大系より

第百八十四段
相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松の下禅尼(ぜんに)とぞ申しける。守(かみ)を入(いれ)申さるる事ありけるに、煤(すす)け明り障子の破ればかりを、禅尼手づから、小刀(こがたな)して切りまはしつつ張らなければ、兄人(せうと)の城の介義景(じやうのすけよしかげ)、其(その)日の
経営(けいめい)して候(さうらう)けるが、「たまはりて、なにがし男に張らせ候はむ。さ様の事に心えたる物に候」と申されければ、「其男、尼が細工によも勝(まさ)りさぶらはじ」とて、猶(なほ)一間づつ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥(はる)かにたやすく候べし。まだらにもみぐるしくや」と重ねて申されければ、
「尼も、後はさはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は、破れたる所ばかり修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心付けんためなり」と申されける、いとありがたかりけり。
世を治むる道、倹約をもととす。女性(にょしょう)なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれけるは、まことにただ人にはあらざりけるとぞ。


category: 鎌倉市

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阿鼻叫喚の地獄の中でも容赦なく・・・九品寺(鎌倉)  

九品寺(くほんじ
この「九品寺」と山門にかかる「内裏山」は新田義貞の筆跡を模したもので、直筆と伝えられるものは本堂に保存されてます。

内裏山九品寺(だいりさんくほんじ)
開基は新田義貞、開山は京都から招いた風航順西(ふうこうじゅんさい)と伝える。
元弘三年(1333)五月、新田義貞が鎌倉攻めで鎌倉幕府を滅ぼしたのち、戦死者の冥福(めいふく)を祈るために新田軍の本陣跡地に建立したといわれ、建武三年(1336)の創建という。
鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺である。。
本尊は木造阿弥陀三尊像で南北朝の作といわれる。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫
Bj_r6w5fQt6m4aZ1397643195_1397643213.jpg阿弥陀三尊像

太平記に「浜面の在家、ならびに稲瀬川の東西に火を懸け足れば、をりふし浜風はげしく吹きひて車輪の如くなる災し黒煙りの中に飛び散って、十町二十町が外に燃えつくこと同時に二十余ヶ所なり。
猛火の下より源氏(新田)の兵乱入りてー煙に迷える、童べとも追ひたてられて火の中、堀の底ともいはず逃げ倒れたるありさまー
語るに言葉もさらになく、聞くに哀れを催して皆なみだにぞ咽びける」とあります。
このとき鎌倉の在家、社寺七堂と、逃げ惑う女子供をもなさけ容赦なく一緒くたに焼き払い、焼き殺しました。
この新田軍が陣を布いたのがこの九品寺のところです。

出典 鎌倉案内 小澤 彰

category: 鎌倉市

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鎌倉十井・・・甕(かめ)の井と泉の井  

甕の井
明月院の境内にあります。水がめのような小さな井戸ということで、甕の井とも呼ばれています。
現在でも、この水は使用されてるようです。
十井のほかに、この明月院はアジサイ寺とも呼ばれ、5月6月は参拝客で込み合います。

明月院と北条時頼をクリックしてください

gGgym1VlEKlgKBC1397469222_1397469231.jpg泉の井石碑
zGQ2OnddYZdWxfO1397469259_1397469271.jpg泉の井
扇ヶ谷の浄光明寺の近くにあります。


そのほかの十井の案内
銚子の井

鉄の井
星の井
甘露の井
底脱の井

category: 未分類

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明月院と北条時頼・・・鎌倉  

明月院総門
平安後期、この地の武将山内俊道の供養のために、嫡子常と経俊が創建した明月庵が始まりです。
役百年後に、北条時頼建立の最明寺を、時宗が開山に蘭渓道陸(らんけいどうりゅう)を迎え禅興寺として再興。
さらに約百年後、室町には関東管領領上杉憲方が庵を院に改め、禅興寺の塔頭運(たっちゅう)に併せ支院の首位に置き、寺容を整えました。
方丈には本尊聖観世音菩薩、開山堂に歴代祖師、左のやぐらは上杉憲方の墓、総門ちかくの禅興寺旧跡に北条時頼の墓があります。
irzhoBaAcrHxgE21397298816_1397298827.jpg時頼廟所
0EzXOb1xErfX7hF1397298854_1397298868.jpg北条時頼の墓
北条時頼にまつわる話
晩年の時頼には、一笠一杖に身を任せて六十余州を行脚しながら、貧民の声を聞きあさった。たとえば「鉢の木」などの名物語がいくつか今に伝えられている。
時頼は二十歳で執権となったが、三十歳のとき赤痢にかかって辞職する。
そして弘長三年(1263)十一月二十二日、三十七歳で病死した。臨終の際は袈裟をかけて縄床にのぼり「業鏡高懸・三十七年・一槌打砕・大道担然」の遺偈(いげ)を唱えて、大往生を遂げたというのである。

鉢の木の物語
ある雪の日に行き暮れた時頼は、佐野源左衛門の荒れ果てた茅屋に泊まった。これが時頼ともしらずに泊めた源左衛門は、貧しい粟飯と、そして暖をとるには乏しい薪木代わりに、大切な鉢の梅の木を焚いて時頼を待遇した。あげく幕府から指令がとべば「いざっ鎌倉」とばかり、我が馬にうち乗って馳せ参じるつもり、と屋内の庭の片隅から首を出している痩せ馬を指しながら語りつぐ。
その忠節ぶりに時頼が感激する物語である。

仁徳物語
摂津国難波の浦では、重労働をすr4う塩汲み海女の貧しい風態を見て、わざわざその海女の家をのぞきにいった。
すると月の光が射し込むようなあばら家から老尼がでてきた。
時頼が一夜の宿を申し込むと、老尼は、敷物は藻塩草しかなく、食べ物は磯菜のみ、といtt断った。
がしいて頼み込んで泊まると、餉(かれい)の調理などの不慣れな手つきから、その身分を問い尋ねました。
老尼が語るには、かって小さな領主であった夫が死に、子にも別れて、頼れる人もなくなった。
そのあと今度は惣領の地頭に所領も取り上げられた。
この二十余年は、まったく食うや食わずの生活をしているので、粗食も許したまえ、と泣く泣く語った。
翌朝、時頼は、亡夫の位牌の裏に「難波潟 潮干に遠き 月影の また元の江に 澄まざらめやは」の一首を書き残して立った。
鎌倉に帰った時頼は、さっそく難波の老女を、というより老女の夫の位牌を幕府に召しだした。
そこへ地頭も喚びだし、横領した領地を没収して、これを老女に与えた。


これらの話については、生存中の時頼はほとんど鎌倉に居を構えており、鎌倉から外に出た形跡が無く、まして六十余州を行脚するほどの余裕は無かったという史説もある。

出典 鎌倉史話散歩 御所身直好

5q_ZE1KRCttZc991397298894_1397298903.jpg方丈の丸窓

category: 鎌倉市

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英国軍人、暴漢に惨殺される・・・下馬(鎌倉)  

下馬(げば
ここは幕末の元治元年(1864)10月23日に、当時横浜に駐留していた英国陸軍第二十連帯(赤い制服を着ていたので俗に「赤隊」と呼ばれていた)
そこの士官ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が、攘夷浪士に襲われ、惨殺された場所である。
加害者は清水清次と間宮一という浪人でした。
二人はこの四つ角の右側にあった大きな榎の木陰に潜んでいて、英人たちが大仏を見物して馬で帰ってくるところを襲ったのでした。
士官もピストルを撃ったりしたのですが、弾丸ははずれ、たちまち清水らの刃に斬られ、まもなく息を引き取ったのでした。
もちろん英国は幕府に抗議し、犯人の引渡しを要求しましたが、犯人を外人に引渡し、そちらの手で裁判されては幕府の面目丸つぶれになるので、幕府側も懸命になって探索し、その年の暮れに清水を逮捕し処刑しました。
間宮もそれから半年ほど経って同じく処刑されました。
一説には清水の正体は、当時稲妻小僧という異名をとった盗賊だったということですが、結局はわからずじまいとのことです。

出典 つれづれ鎌倉 沢 寿郎
Q2ImJqBhEGRi7eZ1397114819_1397114827.jpg下馬の交差点
この四つ角正面が八幡宮、左に行くと長谷大仏にいきます。

category: 鎌倉市

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瑞泉寺に「むじな」塚があるのを知ってますか?・・・瑞泉寺(鎌倉)  

瑞泉寺
鎌倉公方(鎌倉幕府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院です。
山号の錦屛山は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屛風のように美しいことからつけられたといわれています。
また境内は、四季を通してさまざまな花を楽しむことが出来ます。
開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉~南北朝期に禅宗で重きをなした僧です。
作庭にも才を発揮し、昭和四十五年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は国師の作として、国の名勝に指定されています。
宗派;臨済宗円覚寺派
山号寺号;錦屛山瑞泉寺
建立;嘉暦二年(1327)
開山;7夢窓疎石
中興開基;足利基氏

qZ3HeH0x8HZTXci1396951517_1396951535.jpg錦屛鐘楼
むじなにまつわる二つの話
その1
昔、夢窓国師がこの寺を開かれたころ、ここに古くから住みついていた「むじな」が、国師の徳を慕って爺さんに姿を変えて寺男として豆豆しくはたらき、朝に晩に国師の法話を聞いているうちに、仏果を得て、大往生をとげました。
国師は畜生ながら見事に求道の志を成就したことをめでて、その亡骸を葬ってやりました。
それが今に残る「むじな塚」だということです。

ZgYf95BAhqA00UX1396951565_1396951576.jpgむじな塚
その2
瑞泉寺の近くにあった永安寺(ようあんじ)の門番の爺さんと瑞泉寺の門番の爺さんは、年頃も似ていたし、また同じような仕事なので、お互いに話が良く合う仲で、暇をみては訪ねあっていました。
ところが瑞泉寺の裏山に住んでいたむじながそれをうらやましく思ったのでしょうか。
瑞泉寺の爺さんが出かけない晩をねらっては、爺さんに化けて永安寺の爺さんを訪ねていくのでした。
とてもうまく化けているので永安寺の爺さんは気がつきませんでした。
しかしむじなは食いしん坊で大食いでしたから、来るたびに何か食わせろとねだります。
そんなことが度重なると永安寺の爺さんも変に思い始めました。
ふだんはちっともそんなことをしたことのない瑞泉寺の爺さんが近頃急にひどく食い物をねだり始めたのですから、妙に思うのも当然です。
これは怪しい、狸かむじなが化けてくるのに違いない。取っ捕まえて退治してやろうと爺さんたちは相談を決めました。
それからまもなくのことです。
雪の降る寒い寒い晩だったそうです。
永安寺の爺さんのところへ、またむじなが瑞泉寺の爺さんに成りすましてやってきました。
例によって食い物をねだりました。
永安寺の爺さんは、いま何かこしらえてやるよといいながら、囲炉裏に差してあった太い火箸をむじなの横腹に突き刺しました。
ぎゃっと叫んでむじなはやがて正体を現して死んでしまいました。
二人の爺さんは瑞泉寺の和尚さんに願ってむじなを瑞泉寺の門の脇に葬ってもらいました。

出典 かまくらのむかしばなし 沢 寿郎
むじな塚は、鐘楼の裏側に祀ってあります。

瑞泉寺にはどこもく地蔵があります。下記の赤字をクリックしてください
どこもく地蔵



category: 鎌倉市

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国際的にも有名なエイズ除け神社・・・かなまら祭り(川崎市)  

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男根を祭神として、商売繁盛・子孫半値院・安産・縁結び・夫婦和合、またエイズ除けの神様として国際的にも知られています
詳細については、下記の赤字をクリックしてください
金山神社

Xl855hcvqg8Z2Bt1396769831_1396769852.jpg男根の形をした飴
efosXfU7o9HkmG11396769884_1396769895.jpg飴をしゃぶる外国の女性
EPlmmbiy8nazgII1396769963_1396769980.jpg  dCLqNixZUXfwRLI1396770006_1396770017.jpg
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DBXHyIXGPy9fJ9i1396769925_1396769936.jpg絵馬


category: 川崎市

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鎌倉にいたずらかわうそがいた・・・鎌倉えんま橋  

えんま橋
 昔、鎌倉材木座のえんま橋の下にカワウソが住んでいた。
夕暮れのときに、川端で泣きわめく赤ん坊を背負って悲しくたっている女の姿があった。
それはカワウソのいたずらであった。
カワウソはローソクを好んで食べていた。
日暮れに若者がえんま端の辺りを通ると女の泣き声がする。
落ち着いて声をかけると、女はドボンと水音をたてて川の中へ消えていく。
ところが気の弱い男が泣く女を恐れてしり込みすると、何かがポンと肩に乗ってくる。
悲鳴をあげて放り出すちょうちんのローソク目当てのいたずらであった。
投げ出したちょうちんを拾いに行くと、中のローソクが必ず無くなっていた。
みんなローソク欲しさからするカワウソのいたずらだったとか・・・・・

出典 三浦半島の民話と伝説 菊池幸彦

pG0Gfu1bK_Q3yDD1396606228_1396606243.jpgえんま橋

go9SsWT02g0LFZ91396606316_1396606327.jpg橋のかかる滑川

category: 鎌倉市

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敵の施しは受けず・・・景清土牢  

土牢跡
悪七兵衛景清の本名は、上総七郎兵衛景清といって、上総介忠清の三男(次男との説もある)でした。彼が悪七兵衛と呼ばれたのは、平家が滅びた後、景清は身を隠すため、摂津にいる伯父の大日坊を頼って身を寄せていましたが、伯父が平家の落人である自分を源家へ訴えでて、捕らえさせようとしていると思い込み、伯父大日坊を刺し殺したので、世人が悪七兵衛と呼ぶようになったのだとの話ですが、どうもあまり信じられません。
ともかく景清は、平家方の武将としては勇名で知られていました。
それゆえ彼を主人公とした物語はたくさんあります。
殊に景清が頼朝を仇敵として、平家の恨みを晴らそうと付け狙ったが、遂にその志をとげることが出来なかったという話は、さまざまに潤色され、物語や芝居になっています。
 景清は、頼朝が奈良東大寺の大仏供養に参列した。
建久六年(1195)の三月十三日に、自分から名乗り出て降伏人となりました。
頼朝は景清の身柄を和田義盛に預けました。
ところが景清は和田の邸に傍若無人に我儘勝手な振る舞いをするので、義盛も手を焼き、誰か他の人に預けてくれるようにと、頼朝に願ったので、今度は八田知家に預けました。
そのうちに景清は自ら飲食を絶って翌建久七年三月七日に死んでしまいました。
これは長門本「平家物語」に載っている話です。
景清の娘「人丸姫」が父を訪ねてはるばる鎌倉に来たのですが、すでに父は亡き人となっていたので、その菩提を弔うため、土牢の傍らに草庵を結び、景清の守本尊であった十一面観音を祀り、念仏三昧の年月を送った末さびしく死にました。
土地の人々は哀れに思って塚を築いて葬り、人丸塚と名づけたということです。

出典 知られざる鎌倉  沢 寿郎

dAU9DKrWnBZ6Tpv1396432252_1396432263.jpg景清の土牢碑
はるばる鎌倉まで追ってきたにもかかわらず、父親の死に目に会えなかった人丸姫の「人丸塚」は現在では安養院に祀られています。

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写真左の土牢前の坂道を登ると「化粧坂(けわいざか)」です

category: 鎌倉市

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