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ぽっくり地蔵にはこんな話が・・・横須賀市  

ぽっくり地蔵

昔、長井(横須賀市)の里に、美津という娘がおりました。
こうじ山の中ほどで寝たきりのじいさまと、やさしくて働き者のばあ様と暮らしていました。
じい様は元気な頃は、気性の激しい漁師でしたが、あるとき急に病に倒れ、それ以来ずっとばあ様が看病してきました。
ばあ様はいやな顔ひとつすることなくじい様の面倒見ていましたが、なにしろ寝返りひとつうてないじい様は、いつもばあ様に当りちらしていました。
美津は、毎日近くのお地蔵様のところに行っては「じい様を楽にしてやってけえな、じい様を楽にしてやってけえな」と拝んでいました。
やがてじい様が看病のかいもなく息を引き取ると、ばあ様はたいそう悲しみました。
長い間の看病疲れもあったのでしょう。
まもなくばあ様が床に伏すようになると、美津はまたお地蔵様のところへ出かけていきました。
「ばあ様を楽にしてやってけえな。ばあ様を楽にしてやってけえな」
何日か過ぎ、いつものようにお地蔵様を拝んで帰ってくると、ふすま越しにばあ様に呼びかけました。
「ばあ様、今おいしいお粥を作るから待ってるだよ」
ところがいつもの返事がありません。
「ばあ様、寝てんのかよ」
美津がそっとふすまをあけると、ばあ様は穏やかな顔をして息を引き取っていました。
このはなしが村中に伝わると、誰言うともなしに、美津の拝んだお地蔵様を「ぽっくり地蔵」と呼ぶようになり、楽に死んでいきたいと願う人々が遠くからおまいりに来るようになったということです。

出典 三浦半島 ふるさとの昔話ー母は語り部ー あしたばの会

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category: 横須賀市

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スペイン人宣教師を救った三崎奉行・・・三浦市  

dkn4Ok9DiLIoYyW1403943160_1403943171.jpg見桃寺
キリスト禁教令から二百九十年間、徳川幕府の弾圧、迫害にもめげず、巧みに奉行の眼をそらした信徒が、あらゆる礼拝物を仮托しつつ、ひそかに信仰の祈りをささげた遺物が三浦半島の各所に見られる。
慶長十三年江戸と伏見に修道院が再興されたときフランシスコ派の人々によって、江戸を距てた小港東浦賀須崎(横須賀市)の山の手に按針屋敷や修道院が建てられたことが伝えられている。こうして浦賀には按針屋敷が修道院を必要とするほど。多くの南蛮人や船の往来がひんぱんであったことがうかがわれるのである。
こうした情勢も慶長十七年には、幕府が切支丹布教を禁止したことにより、修道院は廃止され、異国船の入港、貿易は長崎に決められ、浦賀はこれらの船も人もみられなくなってしまった。
こうした時、江戸を中心に布教していたスペイン人でフランシスコ会士日本布教長であったディエゴ・デ・サン・フランシスコは宣教中に捕らわれ入牢していた。
そのとき三崎船奉行向井将監忠勝は、これはいたずらに信徒を憤激させるのみであると、時の将軍に申し入れ、彼を処刑から許して牢から出したという。
そして秘密裡に向井の屋敷に泊め、夫人を側に坐らせ、三人一緒で食事をし大歓待したということである。
そして一子息まで洗礼受けさせたほどの切支丹の保護者であったといわれている。
後日になってディエゴは、残酷な死刑から助けられ許されてメキシコに帰ることになったが、向井将監は親切にしてやったディエゴとの夜の宴会によって、メキシコ国王と貿易の斡旋をとりなしてもらうことを依頼した。
そして元和二年(1616)九月三十日宣教師がメキシコへ帰国するとき、多数の信者が訣別のため集まり、悲嘆と号涙のうちに再び(日本に)帰ることを約束して日本を離れたのである。
しかしその帰国の航海途中に船は湿気にあい、四人の水夫まで流されてしまったという。日本人の水夫は真水がなくなったため海水を飲み、体が腫れて病気にかかり死んだものが多くあったという。
困難な航海が続きようやく五ヶ月後にアカプルコの手前バンデラス港に着岸したのである。
そして一同はメキシコ副王を訪問し、向井将監との貿易の話しをしたところ副王はすべてを聞き入れて約束を果たしたという。
その後この宣教師は再び日本に上陸し、山形県で宣教中に捕らわれ長崎に送られて殉教した(一説には行方不明になったとも言われる)
向井将監忠勝の墓が三浦市見桃寺にあります

出典 三浦半島の史跡と伝説 松浦 豊

oSw2l5xVhCP1Dq21403943198_1403943209.jpg向井一族の墓

一族の墓の説明(三浦市ホームページ)へのリンク三浦市ホームページ
向井将監についてwikipediaへのリンク;wikipedia
再来日後のディエゴ・デ・サン・フランシスコへリンク山形で布教活動

見桃寺は他の大椿寺とともに三崎三御所といわれています
大椿寺へのリンク;椿の御所
本瑞寺へのリンク:桜の御所
見桃寺へのリンク:桃の御所

category: 三浦市

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三崎港内に深く沈んだ永楽銭・・・三浦市三崎港  

三崎港(左は城ヶ島
海外の交通熱が盛んになってきた天文十二年(1543)頃、種子島に鉄砲が伝わり、九州にはキリスト教が渡来し、ポルトガル人デゴを介して西洋文化が江戸にまで広がり始め、外国との貿易を迎える新しい時代となった。
しかし、それ以前三崎にも唐船が入港したということが「相模風土記」にある。
「応永十年八月唐船当初に着岸す。
船中永楽銭数百貫ありしを、足利義満は命じて鎌倉管領左(佐)兵督満兼に与えられる。
その頃関東に此銭流布す」とある。
また、武家盛衰記には
「抑々永楽銭日本に渡ることは、応永十年八月二日の大風にて、同三日申の刻唐船二艘、相州三崎浦へ漂着したり。
時鎌倉足利佐(左)兵督満兼下知にて、伊藤備前守義高奉行にて検儀す。船中も実験するに、明朝永楽銭数百貫あり。
此旨将軍義満へ被下。
夫より関東に此銭を用ひらるる云々」とある
わが国では銭貨の需要は十分に満たしえなかったため、中国からは多量の銭貨が輸入され、これをそのままわが国の通貨として永楽通宝として通用されていたのである。
こうした時、三崎に入港する唐船が台風のためさまよい、港に漂着し、永楽銭を積んだまま沈没したものか、大量の永楽銭が港内深く沈んでいたのが大正末期ごろ出土されている。

出典 三浦半島の史跡と伝説 松浦 豊

uSyW3YdAo5hYtBK1403770751_1403770763.jpg城ヶ島大橋

ta8qy9DRbAFPEPL1403770796_1403770810.jpg城ヶ島とをつなぐ観光連絡船

category: 三浦市

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何気に渡る橋にも物語がある・・・鎌倉十橋(逆川橋)  

MrAcOwwzCDQY86E1403603884_1403603903.jpg逆川橋
南(材木座海岸)から北(山側)に流れる川
源を東の方、名越谷の内黄金窟辺に発して流れ来たり、名越の辺りにて名越坂及び松葉谷辺より流れ来る小流合して一流となり、西南にて前のえんま堂川に入る(「新編相模国風土記稿」)
えんま堂川とは滑川の下流のことであるが、それの支流である逆川は合流地点近くでは三間(5.5m)もあったのみならず、名越の通りを出てから橋のところまでZ型に蛇行して、南北つまり海とは反対方向に流れて、そこで逆川とは名づけ得て妙である。

出典 鎌倉趣味の史跡めぐり 長峯五幸

HhT14p_KYEf__521403603933_1403603960.jpg逆川

iEmecgHMbVW5K6K1403603990_1403604013.jpg逆川の碑

鎌倉十橋その他の橋の紹介先リンク・・・歌の橋
                  ・・・乱橋
                  ・・・十王堂橋



category: 鎌倉市

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いよいよ夏に向かって・・・七月のイベント案内  

イベントについてはリンク先をクリックして確認してください
海開き前の海の家開設工事
いよいよ七月から夏のイベント満開です。
鎌倉・逗子・横須賀・三浦を中心に主なイベントを紹介します。

神奈川県海開き情報 リンク先:神奈川県海開き情報(提供元:神奈川県観光協会)
神奈川県花火大会リンク先:神奈川県花火大会情報(提供元;神奈川県観光協会)

よこすか開国祭 7月27日~8月2日 リンク先;よこすか開国祭

おっぱままつり 7月13日 リンク先:おっぱままつり

みさき白秋祭碑前祭 7月9日 リンク先:みさき白秋祭碑前祭

久里浜ペリー祭 7月12日 リンク先:久里浜ぺりー祭

陸上自衛隊久里浜駐屯地納涼祭 7月17日 リンク先:陸上自衛隊久里浜駐屯地納涼祭

海南神社(三浦市)夏の例大祭 7月19~20日 リンク先;海南神社夏の例大祭

よこすか海風カーニバル2014  7月19~20日 リンク先:海風カーニバル2014

6月のイベント情報をご覧になりたい方はこちらから・・6月のイベント

category: 箸休め

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庶民救済事業で活動・・・・極楽寺(鎌倉)  

極楽寺山門
正元元年(1259)北条重時、忍性(にんしょう)菩薩を招き、自邸に寺を開いた。
極楽寺は釈迦如来や十大弟子像、密教法具など貴重な寺宝を伝える寺として知られ、中に「太平記」ゆかりの武具も見られる。
黒漆のはげた鞍と鎧は大館宗氏の遺品と伝える。
極楽寺口の戦いの折、宗氏は大仏貞道(おさらぎさだみち)の家臣本間山城左衛門の奇襲を受けて討たれた。
また陣太鼓は新田義貞か大館宗氏のものだろうと推測している

AlILXDOFCG0f25_1403258858_1403258868.jpg本堂

極楽寺の行った社会貢献
極楽寺は、庶民の救済事業を積極的に行うという、他に例のない活動をした。
庶民に医療や土木建築の面で職業指導を行い、高度な技術を持った職業人を育てたのである。
極楽寺切通しなど七切通しを開いたり、材木座に貿易船が接岸できる話か和賀江島(日本最古の築港)
の港を修復・管理したのも寺の養成機関を卒業した人たちだった。
医療事業では、二十年間に治療を施した患者数は46800人に上ったという。
忍性は人々が嫌がるらい病患者を、境内の療養院に入れていろいろ手当てをしたので極楽寺のことを「かったいぼ寺」といった。かったいぼとはらい病患者のことを指す。


こうした活動は、奈良の西大寺を再建した叡尊律師(えいそんりっし)が始め、鎌倉では弟子の忍性が命じられて行った。
事業には莫大な費用がかかる。
北条氏がこれを支援した。
港の使用料などが極楽寺に認められた。
しかし、北条氏の権力に近い寺は新田氏の攻撃にさらされた。

出典 「鎌倉のもののふと伝説の道を歩く」大貫昭彦 「史跡と伝説鎌倉」二橋進

qwdxRcPjmnbMcJe1403258909_1403258918.jpg製薬鉢
R4EEhDUJRlO4gFh1403258952_1403258963.jpg千服茶臼
製薬鉢と千服茶臼は、開山忍性菩薩が施薬悲田院、らい病所を設けた折に使用されたとつたえられる。

Rq5tiL9EcAyhpau1403259003_1403259018.jpg極楽寺の井
山門を掘り起こしたときに発見された井戸です。鎌倉石を八段積み上げての大きなものです。
ここで開山忍性菩薩が粥を施したと伝えられます。
昔の人々にとって憩いの井戸であったろうと思われます。


category: 鎌倉市

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むかで注連縄を張る神社・・・白山神社(鎌倉)  

g4fk4bn756mi31k1403086687_1403086701.jpgむかで注連縄と白山神社
白山神社と呼び始めたのは、終戦後のことで、それまでは毘沙門堂というのが通り名でしたから、今でも地元では毘沙門様とと呼んでいます。
言い伝えでは、この毘沙門堂は頼朝が創建したもので、本尊の毘沙門天は頼朝が上洛したとき、鞍馬寺に参詣し、同時に安置された二体の毘沙門天のうち一体を請いうけて、鎌倉に持ち帰りここに祀ったのだといわれています。
また頼朝が特に今泉の地を選んだのは、鞍馬が京都の艮(ウシトラ)すなわち東北の鎮護なので、それに倣って鎌倉の艮(ウシトラ)にあたる今泉に安置し鬼門の鎮めにしたといいます。
ここのお祭りは一月八日で俗に「大注連祭り」(おおしめまつり)といわれてます。
そのわけは、祭りの日に地元の人たちがそれぞれ藁(わら)を持ち寄ってつくった大きな「むかで注連」を社前に張るところからそう呼ばれているのです。
「むかで注連」はその名の通り、たくさんの足?が出ています。これはたとえば、八幡様は「鳩」、お稲荷さんは「狐」というように神仏にはそれぞれ「つかわしめ」がありますが、毘沙門様のつかわしめは「むかで」なのでそれを注連によって示しているのだということです。

出典 知られざる鎌倉 沢 寿郎
E9zAGGdT0g_hqbA1403086748_1403086761.jpgむかで注連

同じ境内には「子守神社」が合祀されています。
it4X9lnsUbIyg9y1403086798_1403086810.jpg子守神社
ご祭神 天之水分神・国之水分神
もとは水の配分をつかさどる神であるが、このみくまりをみこもりと訛って早くから子守神として信仰があった。
豊臣秀吉はその子、秀頼のために祈り、本居宣長はその父母の祈請により誕生したとして参詣を重ねたことが和歌や「菅笠日記」によって知られる。
当地では、初宮詣・七五三詣に先立ってこのお社におまいりするのが古くからの慣わしです。

出典 子守神社説明板

この神社の入り口に狂歌師「酒仙」の句碑があります。
赤字をクリックしてください 宵越しの金のない狂歌師


category: 鎌倉市

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宵越しの金は持たないのはこの人の事?・・・酒仙  

Kray6zRoNVP4PG91402906015_1402906027.jpg白山神社

この白山神社の入り口に自然石に刻まれた狂歌の碑があります。
z6v_UBjv75Wn0Hz1402905976_1402905988.jpg酒仙句碑
   くむ酒は是風流の眼なり
    月を見るにも花をみるにも
これを詠んだ人は、宝暦六年(1756)にここ今泉に生まれてのち、江戸でその名を知られた狂歌師天広丸(あまのひろまる)となった磯崎広吉です。「狂歌人物誌」という本によると、彼は「青年の頃江戸に来たり、四谷鮫ヶ谷に住す。井田某に就いて易を学びて出藍の名あり。」とありますから、彼は易者としても相当なものだったとおもわれます。
狂歌の道に入ったのはいつごろかはっきりしませんが、唐衣橘洲(蜀山人、朱楽菅江と並んで天明狂歌三大家といわれた人)の門に入って頭角を現し、やがて橘洲派の判者(歌の可否優劣を判定する人)の一人として知られるようになりました。
彼は別号を酔亀亭といいましたが、その別号のとおり大の酒好きで、寝てもさめても徳利を手から離さず、外出するときも必ず徳利を持って歩きながら呑んだと伝えられているくらいです。
また着物にも徳利の紋をつけていたというのですから、まさに「酒仙」と呼んで良い人だと思われます。
このような人ですから、金が入ればもちろん全部呑んでしまうので、他のことには手がまわりません。
屋根が破れ、雨が漏っても修繕が出来ないありさまでした。
あるとき広丸の家で狂歌の会がありましたが、あいにくその日は雨降りだったので、家中雨漏りだらけでした。
集まった人は仕方なくみんな家の中で傘をさしながら会をしたという話です。
広丸は生涯の中十冊以上の歌集を出しています。
広丸は文政十一年(1828)九月十五日七十三歳でなくなりました。

出典 知られざる鎌倉 沢 寿郎

category: 鎌倉市

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桜田門外の変を起こした犯人の一人がこの寺に・・・上行寺(鎌倉  

上行寺山門
法久山大前院上行寺(ほうきゅうさんだいぜんいんじょうぎょうじ):日蓮宗
開山は日範で正和二年(1313)創建
本尊は一塔両尊(題目塔と釈迦・多宝如来)で、ほかに日蓮上人像と日範上人像を安置する。
本堂右手にある稲荷堂は瘡守稲荷と呼ばれ、皮膚病ほか諸病に効験ありということで知られており、、その道内の左側は稲荷堂と区別され鬼子母神(きしもじん)を祀っている。
qwvqAbp8jk4M4RM1402745316_1402745326.jpg瘡守稲荷堂
Jx9OGW_BEFaV4XQ1402745368_1402745377.jpg瘡守稲荷
写真にはありませんが、瘡守稲荷の左側に鬼子母神が祀られています。
ーここまでー出典 鎌倉史跡散策 神谷道倫


なお、この寺の寺伝によれば、おできに苦しんだ頼朝が政子とここにお参りしたところ、治ったとのことである。

桜田門外の
井伊大老を襲撃した水戸浪士の一人である広木松之助については次のような話が残っています。
広木は桜田事変ののち、探索の網をくぐって、鎌倉に逃れ、材木座にのある魚屋の家に潜んでいました。
しかし、そのうちどうも捕史の目が光ってきたようなので、ある夜(冬の寒い晩だったそうです)魚屋のお内儀さんが広木を背負籠の内に隠して上行寺に運び込み、住職の通善和尚に事情を打ち明けて、彼をかくまってくれるよう頼みました。
広木はこうして一年ばかり上行寺にかくまわれていましたが、同志の人たちが皆刑死したり自殺したことを風の便りに聞き知ったのでしょうか。
事変後二年たった文久二年(1862)の三月、上行寺の縁側の南東の端で切腹して果てました。

ー以上 つれづれの鎌倉 沢 寿郎
I3yJbo9g2mbYteV1402745408_1402745417.jpg広木松之助の墓

category: 鎌倉市

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足利持氏の墓(伝承)・・・別願寺(鎌倉)  

いつもご訪問いただきありがとうございます。
本文中の赤字はリンク先を示しています。クリックしていただければリンク先へ飛びます


別願寺
稲荷山超世院別願寺
もとは真言宗の能成寺といったが、弘安五年(1282)に住職の公忍が一遍に帰依して覚阿公忍と改め、開山となって時宗の別願寺としたという。
本尊は阿弥陀如来立像で室町時代の作。
他に厨子入りの魚藍観音などを安置する。
YttZdiPWo7IYefi1402559517_1402559557.jpg阿弥陀如来立像
室町時代には、鎌倉公方足利氏の菩提所のひとつとして栄えた寺で、境内には鎌倉公方四代の足利持氏(1398~1439)の墓(供養塔)と伝承される安山岩製の石造宝塔がある。
相輪は後補といわれ、相輪を除く総高は256センチという大きなもので、塔身の四方に鳥居型の四門を浮き彫りにした珍しいものである。
各部に表された手法から鎌倉時代後期のもので、伝承のように室町期のものではないといわれている。
なお、持氏の墓塔は足利基氏、氏満、満兼の鎌倉公方歴代の墓塔とともに瑞泉寺にある。
出典 鎌倉史跡散策 神谷道倫
Q9TWTdpjkecsJAX1402559587_1402559597.jpg足利持氏墓(伝承)


category: 鎌倉市

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日蓮、伊豆配流船出霊跡の寺・・・妙長寺(鎌倉)  

妙長寺
開山は元弘元(1331)年に没した日実
創建は正安元(1299)といわれる。
もとは材木座の沼浦にあったという。
そこは弘長元(1261)年五月十二日、伊豆に配流される日蓮が船出した場所であり、日蓮の「伊豆法難船出霊跡」の寺といわれる。
伊豆配流の折、伊豆の岸に船が近づくと、船頭は日蓮を満潮時には水没するまな板岩」に置いて漕ぎ去ってしまった。
たまたま通りかかった川奈の漁師弥三郎が助け上げて、ひそかに供養を続けたという。
その弥三郎の子(一説には本人)がこの寺の開山となった日実といわれている。
現在地に移転したのは延享3(1746)年八月鋳造の小鐘銘に「相州鎌倉沼浦 海潮山妙長寺」とあるので、それより以降の事となる。
境内には日蓮の伊豆法難を記念して建立された高さ十一メートルの相輪塔がある。
建立由来によれば関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の旧二の鳥居の一部を利用して、昭和八年五月十二日に成った。
その前面には日蓮が伊豆配流の際乗った船の縮尺六分の一の石造り模型が置かれています。
ほかに鎌倉近隣の漁師・魚商たちの手による「鱗供養塔」(明治十一年)があり古くから庶民に親しまれてきた寺であることがわかる。

出典 鎌倉史跡散策 神谷道倫
JSVlwL6_XW11q0e1402393408_1402393420.jpg伊豆法難記念相輪塔
emfCLq3EIJGpaTw1402393321_1402393335.jpg配流の際乗った船の模型
kSdH1K6wIMhyJZO1402393365_1402393377.jpg鱗供養塔


category: 鎌倉市

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徳川家・蒲生家と縁の深いお寺・・・鎌倉薬王寺  

UuCyzGRHHbcCZkM1402220611_1402220619.jpg薬王寺
もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。
日像(にちぞう)上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。
徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く、寺紋に三葉葵(みつばあおい)がもちいれられるなど格式の高い寺でした。
明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し、現山容を整えました。


薬王寺については本寺のホームページをごらんください・・・・・薬王寺
また、蒲生忠知については松山市のホームページをごらんください・・・・松山市

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i9y0BLA2hRsD3_m1402220724_1402220735.jpg蒲生忠知の妻と息女の墓

MW4uCqe_eUi5qQA1402220684_1402220696.jpg観世音菩薩
ご縁があって、観世音(観音)菩薩様が当山においでになりました。
より多くの皆様より近くでおまいりしていただくために、本来釈迦堂であるこのお堂にお迎えすることにいたしました。


category: 鎌倉市

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六月三浦半島の主なイベント  

日本列島梅雨に入りました
今回から毎月末に、翌月の主なイベントを掲載します。
ウォーキング、サイクリング、ハイキング等にご活用していただければうれしい限りです。


①5月20日~7月31日 三浦市サッカー展「SAMURAI BLUE」
      リンク先 三浦市

②6月1日から6月30日  花しょうぶ祭り・・・コンサートや花殻摘み女性の風情を楽しむことが出来ます。
     リンク先 ここはヨコスカ

③6月14日   虎踊りの奉納舞・・・神奈川県指定重要文化財の民俗芸能
     リンク先 >ここはヨコスカ

④6月14日~6月15日   よこすかYYのりものフェスタ2014・・・横須賀に電車・艦船・自動車が大集合
    リンク先 ここはヨコスカ   

⑤6月14日~6月15日   八雲神社祭礼・・・横須賀市東浦賀
    リンク先ワインセラーみやまさ

⑥6月16日   森戸神社潮神楽・・・羽山町無形文化財に指定されている神楽
    リンク先森戸大明神

⑦6月30日   夏越の大祓 茅の輪くぐり・・・大津諏訪神社
    リンク先ここはヨコスカ

category: 未分類

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妹救出のために・・・おりょうの武勇伝  

元冶元年(1864)春、三十歳の坂本竜馬は、おりょうさんと恋仲になった。
竜馬は乙女姉さん、乳母のおやべ宛てに、おりょうを次のように紹介している。
「京都医者楢崎将作は、勤皇の志を持ち、頼三樹三郎(頼三陽の子)や梅田雲浜らの同志であったが、安政の大獄で処罰され病死した。
その残された家族は妻一人、娘三人、男子二人であり、長女のおりょうは二十三歳であった。
将作が生きてるころは裕福な生活でしたが、家族はバラバラに奉公に出ることになってしまった。
おりょうの十三歳の妹は美人で、悪党がだまして島原(京都花街)に舞妓として売られた。
十六歳の妹も母親がだまされて、大阪に女郎として売られてしまった。
それを知ったおりょうは、自分の着物を売って大阪に行き、そそ悪党二人と喧嘩した。
おりょうは死ぬ覚悟だったので、飛び掛って悪党の胸ぐらをつかみ、顔を殴り、ふところの刃物に手をかけた。
悪党も「殺すぞ!」といいましたが、おりょうも負けてはおらず「それは面白い、殺せ殺せ」というのでさすがの悪党も根負けし、おりょうは妹を取り返し教徒まで連れ帰してきた。と戯曲風にまとめ、おりょうの武勇伝をつたえている。

竜馬の手前、おりょうは同志や海援隊士から、あからさまには表さなかった、陰で生意気な女とかごうまんな女だと嫌われ、悪い印象をもたれていた。
竜馬の死後、東京に出てきたときも、竜馬の仲間から酷い対応を受け、頼る者もいなかった。

厳しい人間関係の中、おりょうは回顧録の中で「原の底から親切であったのは、西郷さんと勝さん、寺田屋のお登勢の三人でした」と涙を浮かべて語った。

やがて再婚し横須賀市で所帯を持つことになる。
おりょうは明治三十九年一月十五日に息を引き取った。
おりょうは竜馬の妻としての生活はわずか二年であり、再婚後の「西村ツル」としての生活は三十年におよぶ」
それにもかかわらず、坂本竜馬の妻として眠った。
おりょうの遺言で骨は京都東山の竜馬の墓に分骨され、天国に召されることになり永遠の竜馬の妻となることが出来たと思われる。

出典 坂本竜馬とおりょう 湘南海援隊 斉藤秀一

おりょうの墓>へリンクしています
おりょう終焉の地へリンクしています

category: 横須賀市

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足利尊氏の墓と歯・・・長寿寺(鎌倉)  

長寿寺本尊
宝亀山長寿寺
建長寺派の末寺だが、元は足利尊氏を弔うため、初代関東管領でもあった足利基氏によって建立され、開山は古先印元(こせんいんげん)。
いまでこそかわいらしい寺であるが、当時は七堂伽藍をそろえた関東諸山第一の大寺だったといわれる。
境内には尊氏の束帯像を祀るお堂があり、象の中には京都等持院にある廟所から招来した尊氏の歯が治められているという。(赤字をクリックすると「京都LLove」にリンクしています。
また栗の裏手のがけ下には尊氏の墓と称する小さな宝篋印塔(ほうきょういんとうがある。

出典 鎌倉謎解き散歩 湯本和夫

Pgo1CoHQStSGe_n1401709878_1401709891.jpg足利尊氏の墓

_4Lbg5A1F1GaTHK1401709786_1401709796.jpg聖観音像

長寿寺略縁起
足利尊氏が邸跡に建武三年(1336)創建し、諸山第一位の列に定めた。
尊氏は延文三年(1356)四月二十九日、五十四歳で京都において没す。
法名を京都では等持院殿と称す。
関東においては長寿院殿と称す。
尊氏没後、父の菩提を弔うため、初代鎌倉公方足利基氏によって、七堂伽藍を備えた堂宇が建立された。
開山古先印元禅師は薩摩に生まれ、八歳で円覚寺桃渓禅師のもとに投ず。
(中略)
境内裏山には、尊氏の遺髪を埋葬したお墓がある。
Q6mbNhkYOfB_wPM1401709829_1401709843.jpg観音堂

iy6IPMBPQ5g4v8k1401710038_1401710054_20140602211356d68.jpg書院から望む日本庭園

このお寺は季節・曜日限定ですが拝観できます。
春季(4,5,6月):金土日および祝日
秋季(「10,11月)金土日および祝日
時間:10時~15時(雨天は中止)


長寿寺山門左にある坂は亀ヶ谷坂といい、この道を進むと岩船地蔵があります。

category: 鎌倉市

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