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2014年07月の記事一覧

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これは珍しい庚申供養塔・・・江の島(藤沢市)  

iDLHCdel16MTzcq1406716059_1406716075.jpg珍しい庚申供養塔

多数の猿がその本尊である山王神たたえ、祝っているという大変珍しい庚申供養塔です。
花崗岩で造られ、総高143センチ、塔身高86センチ、幅42センチです。
建立された年も寄進した人も刻まれていませんが、江戸時代後期のものと思われます。
基壇は岩座のように造られ、塔身の基座には蛇が巻きついているように作り出されているのは、弁財天信仰にちなんだものです。
塔身の四面には合計36匹の神猿がそれぞれ異なった姿態で山王神の神徳に奉賽しているという構図です。
猿は古くから日枝山王神社の使者として知られています。
「新編相模風土記稿」には、下之宮(現辺津宮)の絵馬堂の近くに山王神社が祀られていたようですが、それに奉納する意味でこの庚申供養塔は建てられたのでしょう。

出典 藤沢市教育委員会(説明板)

oVyUCGZVYvFISj01406716109_1406716130.jpg庚申供養塔

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category: 藤沢市

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八月の三浦半島、主なイベント  

横須賀市

★艦隊コレクション 7月14日~10月31日 :リンク先へ飛びます。
 特別展三笠秘蔵連合艦隊

★ヨコスカサマーフェスタ 8月2日 :リンク先へ飛びます。
 普段知ることの出来ない海上自衛隊の内部を公開

★ヨコスカフレンドシップデー 8月2日 :リンク先へ飛びます。
 よこすか開国祭にあわせて横須賀米軍基地が一般公開されます。

★第2回Dobuita Street アームレスリング大会 8月9日 :リンク先へ飛びます。

★浦賀港祭りと花火大会 8月23日 :リンク先へ飛びます。

★西地区納涼花火大会 8月30日 :リンク先へ飛びます。
 自衛隊武山駐屯地のお祭り&花火大会 

三浦市

★三浦海岸納涼祭り 8月7日 :リンク先へ飛びます。

★みうら夜市(三崎港) 8月13・14日 :リンク先へ飛びます。

★三崎夏祭り 8月15日 :リンク先へ飛びます。

★お精霊流し 8月16日 :リンク先へリンクします。


逗子市

★精霊おくり 8月16日 :リンク先


鎌倉市

★ぼんぼり祭 8月6日~9日 :リンク先へ飛びます。

★黒地蔵縁日(覚園寺) 8月10日 :リンク先へ飛びます。

★四万六千日詣り(杉本寺・長谷寺・安養院) 8月10日 :リンク先へ飛びます。


★鎖大師御開帳 8月16日 :リンク先へ飛びます。

★鎌倉宮例大祭 8月19日~21日 :リンク先へ飛びます。


★玉縄塚まつり 8月23日 :リンク先へ飛びます。


category: 箸休め

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牛と蛇と按摩(あんま)・・・・田辺が池(鎌倉)  

霊光寺田辺が池
むかし、七里ガ浜(鎌倉)の田辺が池には千年を経たという蛇神が棲んでいました。
しかし、誰もその正体を見たものは一人もいませんでした。で、そのことは親から子に言い伝え、語り伝えられてきて、長い間村人の恐れとなっていました。
ある初夏の日、そよそよと若草の萌えるのどやかな日に、この村の一人の農夫が、近寄ってはならぬという戒めを忘れて、この池のほとりに牛に食べさせる草を刈りに来ました。草は蛇神の祟りを恐れて、誰も刈りにこないので、緑の丘を幾重にもつくって風にそよいでいました。すると、人家もないこの池のほとりに一頭の牛がいて、さもうまそうに草を食べていました。
農夫は、毛のつやつやしてよく肥えた牛を、しばらく眺めていましたが、この牛は村では見たこともない牛なので、不思議な思いが頭の中を過ぎていきました。それは、これこそ、うわさに聞いた悪い神、蛇神に違いないという思いでした。
そう思うと、農夫は鎌を構えて、力いっぱい骨まで通れと、牛に投げつけました。
悪い神にも、たまには油断はあるものです。
鎌はウナリをたててグサッと牛の眉間に突き刺さりました。
すると、牛は恐ろしい大蛇となって、大音響とともに雲を呼んで、片瀬山を越えて西方に飛んで行き、箱根山を七巻き半巻いて姿を消しました。
さて・・・・箱根のある温泉です。
年寄りの按摩が、数日前から湯治に来ていました。そして山鶯の沢渡りの声などを、湯船に浸かってうっとりと聞いていました。
すると、少し妙な音とともに一人の男が「ごめんよー」といって入って来ました。
やがて男は、「ひとつ背中を流しましょうか」といって話しかけて来ました。しばらく男は、よもやまの世間話などをしたあとで、眼の見えない按摩に向かって、「実は俺は大蛇だ」といいました。そしてさらに「俺の嫌いなものは、鉄や檜の煙だ」と、うっかり自分の素性・弱点を話してしまいました。
やがて、その男は按摩に向かって「お前が、誰かにこの話をしたら、気の毒だが、お前の命はないぞ」とダメ押ししたのです。
これを聞いて、按摩は大変驚きました。
湯から上ると、着物もそこそこに、あたふたと山を下って、こんな悪いやつがいては、世の中の人が、どれほど難儀をするかわからない。たとえ自分の生命がなくなろうともーと決心して、代官所に転がるように駆け込みました。そして大蛇から聞いた話をすべて話しました。
しかし、按摩はその話が終わると、舌が急にもつれて息を引き取ったのです。
村では、代官所の命令で半鐘を鳴らし、檜の枝を集めました。やがてこの檜の枝と、鉄の棒や、鎌、鍬などを持って山に登りました。
そして人間に化けて温泉につかってのびのびとしている千年も経た大蛇を退治しました。
いま、その大蛇のすんでいた沢を蛇骨川と呼びます。

出典 鎌倉案内 小澤 彰

この池は、日蓮上人が雨乞いをした池として知られています
雨乞いの池にリンクします

category: 鎌倉市

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徒然草に見る、お茶目な北条時頼・・・鎌倉  

irzhoBaAcrHxgE21397298816_1397298827.jpg時頼廟所

0EzXOb1xErfX7hF1397298854_1397298868.jpg北条時頼の墓

北条時頼の素顔
北条時頼は、とかく近づきがたい執権というイメージが強い。
北条氏の独裁体制を仕上げた人物である。
米の浪費を心配して、酒の売買を禁止し、実際に各家から水瓶(みずがめ)一つを残して、すべてを提出させ、市中の壷
3万7千個を破却させた。
厳しさは自分にも向けられた。
禅を信じ身を正した。
三十七歳で世を去るときも、いささかも動揺することなく、袈裟をつけ座禅をし、泰然として往生したのである。
辣腕を振るい、善政を施し道義に生きた人、これが北条時頼のイメージである。
ところがこの人には、飾り気がなくお茶目なところがあったらしい。
「徒然草」二百十五段の話だ。
執権に次ぐ連署(れんしょ)まで上った北条宣時の思い出話である。
ある夜、時頼殿からお呼びがかかった。
家の者はみな寝てしまい手持ち無沙汰だから飲みに来いという。
相手は時頼だ。
仕度に手間取っていると「夜中だ、格好はどうでもいいではないか」と再度の催促である。
あわてて伺うと。つまみもないが台所を見てくれというので、探すと皿に味噌が少しついているのを見つけた。
するとこれで十分だといって機嫌よく飲んだという。
続く「二百十六段」にはお茶目な時頼が登場する。
足利義氏の邸を訪ねたときだ。
親しい仲でもあったのだろう。
ご馳走になった上にお土産を催促した。
憎めない執権、これが周囲の時頼評だったにちがいない。

出典 鎌倉もののふと伝説の道を歩く 大貫昭彦

北条時頼の墓は、鎌倉明月院にあります。下の赤字をクリックしてください
明月院と北条時頼


category: 鎌倉市

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現存最古の救瀬(らい)施設を作った忍性・・・・鎌倉  

桑ヶ谷療養所跡
ここ碑の建っている場所は、北条時宗が忍性に命じて貧民救済のため療養所を設けた跡である。
忍性が大旱魃(かんばつ)による飢饉(ききん)の施粥(せじゃく)の炊き出しをしたと伝えられる地である。
やや伝承を交えた説明となっているが、忍性の事績として桑ヶ谷療養所の建設は弘安十年(1287)、この近辺(大仏谷)で五百余日粥(かゆ)を施したのは文永十一年(1274)の頃といわれている。
二十年間に収容した病人のうち治癒(ちゆ)した者は46800人、死亡したものは10450人であった(元亭釈書)という。
また、永仁六年(1298)には坂ノ下に馬病舎を設け、傷つき病み衰えた馬の世話をする施設としたという。
現存最古の救瀬(らい)施設として奈良北郊に残る北山十八間戸(国史跡)は忍性の創設と伝えられるが、忍性は鎌倉においても慈善救済に十分努めた。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんど
奈良県奈良市川上町にあるハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。京都に抜ける街道の奈良坂に近い丘陵上に所在する。鎌倉時代に活躍した西大寺の僧忍性(にんしょう)の創建とされ、当初は北方にある般若寺の東北にあったが、1567年(永禄10)の三好・松永の乱で焼失したものを寛文年間(1661~73年)に現在地に移し、1693年(元禄6)に修築された。南北に細長い棟割り長屋で、切り妻造りの本瓦葺き。1921年(大正10)に、中・近世における社会事業史を考察するうえで重要とされ、国の史跡に指定された。建物は東西約38mあり、内部は18室に区切られている。1室の広さは2畳ほどで、東端には仏間がある。仏間には一段高く仏壇があり、裏戸には「北山十八間戸」と縦書きの銘が、東側にはもと炊事場があり、南側には庭園と井戸2ヵ所が残されている。ここで衣食住を提供された収容者の数は、延べ1万8000人といわれる。近畿日本鉄道奈良線近鉄奈良駅から奈良交通バス「今在家」下車、徒歩約3分。
参考:「コトバンク」

S_3igoCWuGT0zp91406028089_1406028103.jpg桑ヶ谷療養所跡碑

忍性については極楽寺へリンクします。

category: 鎌倉市

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囚人に帰依し、我が家をお寺に・・・・光則寺(鎌倉)  

1xSc8SLE5Sx8VgY1405848551_1405848560.jpg光則寺山門

twO2Y8RO5UQun9J1405848589_1405848604.jpg光則寺
土牢付近から見た光則寺本堂

開山は日蓮の弟子の日朗上人、開基は宿谷(やどや)左衛門尉光則といい、ときの執権北条時頼の近臣で、日蓮の執筆した「立正安国論」を時頼に仲介した人でした。
光則は文永八年(1271)、日蓮が龍ノ口の刑場で斬られようとした時、日蓮とともに捕らえられた日朗、日真、その檀那の四条金吾を囚人として預かっているうちに、日蓮に帰依して熱心な法華経の信者となって家をお寺にしてしまいました。
山号行時山は父の名、自分の名「光則」をもって寺号としました。
土牢の傍らに、佐渡に流されていく日蓮が、土牢の中に入れられた日朗にあてた手紙が石に彫られています。
それには法華経の行者としての信仰の深さと、寒い冬に向かって土牢に幽居する弟子への思いやりが読む人の胸にせつせつと打ち響いてきます。

出典 鎌倉案内 小澤 彰

f4gi_XwTS6cSe501405848633_1405848645.jpg土牢

TPpLNthr4WWMnw11405848679_1405848690.jpg土牢の内部
土牢へは本堂を正面に見て、右側に入っていきます



category: 鎌倉市

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琵琶を弾く盲目の少年の物語・・・琵琶橋(鎌倉)  

鎌倉十強の一つである「琵琶橋」にまつわる物語です。
 琵琶橋(写真)と地図へリンクしています。

今は昔、鎌倉報国寺あたりに一人の少年が住んでいました。
毎夜この橋(琵琶橋)の勾爛に身をもたせて琵琶を爪弾きました。
どうもその少年は眼が悪く、一人歩きも困難なようでした、
そのためにこの少年には、いつも一人の美しい女性(にょしょう)がお供をしていました。
ある夜少年が「平家」を弾いていると、この橋のたもとに一人の老僧がいて、誰に言うともなくこういいました。
 「今、都には如一検校(けんぎょう)というえらい法師がござる。平家はこの人に限る・・・・・・・・・・・・・・・」
少年と女性は、そのかすかなつぶやきに心を驚かせて、その声の主の方を見ました。
が、薄暗い松の梢の光に、ただそれらしい影がゆれうごいただけで、いつの間にかその僧の姿は消えていました。
その明くる夜から少年も美しい女性も、この琵琶橋に見ることは出来ませんでした。
そしてこんなうわさが、この鎌倉の街に流れました。
それは或る日、その盲目の少年と美しい女性が、一人の年老いた侍と下僕をつれて、片瀬川を渡って京に上るのを見たということでした。
これは雨夜の検校といわれた明石覚一(あかしかくいち)の少年の頃の物語です。

出典 鎌倉案内 小澤 彰

この少年は、のちに検校(けんぎょう)となりました
足利尊氏の従弟で明石を領し、中年まで播州(兵庫県)書写山の僧であったが、急に失明し琵琶法師となった。彼は自分の屋敷に当道座を設立して、みずから惣検校となり、明石検校とも言われている。江戸時代まで続く検校制度を確立した。当道座は現在洛央小学校となっている。彼は琵琶の名手で、耳なし芳一のモデルと言われている。[誰?]一方(いちかた)流の流祖如一の弟子[1]、一方流中興の祖と呼ばれる。天皇・上皇・親王らのための御前演奏をおこなうことが多かった。琵琶以外にも按摩(あんま)・鍼灸(しんきゅう)の達人でもあったと伝えられている。(参考資料 Wikipedia)

category: 鎌倉市

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暑さをものともせず・・・60 ですが、チャリで日本一周中です  

aXyiZUm6UsyN7hk1405504691_1405504702.jpgチャリの後ろに看板かかげて・・・

今年三月の定年退職を機に一念発起し、札幌市東区の自宅を出発したのが四月十四日。
見慣れぬ景色に心躍らせながら日本海側を南下・・・・
鹿児島からフェリーで沖縄に・・・・

本土は道が狭い、交通量も多くて走りにくい。
今日、この方と出会ったのは横須賀市の野比海岸
これからは東京都心を避けてフェリーで千葉に渡って北海道へ帰るそうです。

この日本一周が終われば・・・・又働くそうですが・・・・

まだ先はながいですよ
道中、気をつけて・・・

ちなみに、ここまで5000キロの走行だそうです

YDx3Rjyk7bLbkip1405504817.jpg完全装備の自転車

JD3gqSzNTO_fOmB1405504850_1405504861.jpgAKIOさんです

とても60には見えないですねえ

北海道の方々、道中で見かけた方応援してあげてください

写真はいずれも横須賀市野比海岸で撮ったものです。

category: 横須賀市

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北条方の奇襲に十一人が命を落とす・・・十一人塚(鎌倉)  

t8m0xWlCKDLzTQK1405333519_1405333531.jpg十一人塚

極楽寺口で、北条方の奇襲を受けて命を落とした大館宗氏等の眠る墓である。
「新編鎌倉志」には、昔は十一面観音堂が建っていたとある。
十一面観音は修羅道に落ちた命を救う仏といわれている。
十一は討ち死にした武士の数でもあろうが、観音を意味する数字でもあろう。

出典 鎌倉もののふ伝説を歩く 大貫昭彦

HVljP2EzkMYeebN1405333559_1405333578.jpg大館宗氏の墓

F1RW7DHbMiQWV211405333654_1405333662.jpg十一人塚碑

元弘三年五月十九日、新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ、極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシニ、敵中、本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大館ノ本陣に听込み、為ニ宗氏主従十一人戦死セリ。即チ遺骸ヲ茲(ここ)ニ座メ、、十一面観音ノ像ヲ建テ以テソノ英魂ヲ弔シ、之ヲ十一人塚ト称セシト云フ。
出典 鎌倉町青年団

IFEbaa7KFSnxzM41405333619_1405333629.jpg出土人骨埋葬地
昭和三十四年晩秋、極楽寺橋付近の造成現場で、鎌倉時代末期の武士ものと見られる多数の人骨が発見されました。
発掘調査ののち、鎌倉時代の人々を知るための貴重な研究資料として、その多くは東京大学人類学教室に運ばれました。一部は、地域の人によって丸い石の下に埋葬されたことが、当時を知る人から伝えられている。

出典 鎌倉市教育委員会

category: 鎌倉市

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白狐が守ってくれた武将・・・御嶽神社(鎌倉)  

文字色御嶽神社

御嶽神社は昔は「大太刀持ち稲荷」と呼ばれていた。
今は御嶽神社の鳥居をくぐり、木の茂みを分け入ると、奥に「大太刀稲荷神社」の額をつけた社殿がある。
しかし山岳信仰の人たちが管理するようになって御嶽神社が合祀されると、それが一般の呼び名になってしまった。
3AA64ADQFsczSVP1405160372_1405160387.jpg大太刀稲荷社鳥居と社殿

1vlJ1fVuyVwlunH1405160412_1405160424.jpg社殿にかかる「大太刀稲荷神社」

この「大太刀稲荷神社」にまつわる土地に伝わる話として、・・・・・
ある武将がこのあたりで敵と斬りあっていたとき、太刀を落としてしまったが、白狐が現れて守ってくれたという。
この社のご神体はそのキツネだということです。
大館宗氏(おおたちむねうじ)には、新田義貞より先に干潟を渡って鎌倉に入ったという話がある。
しかし援軍がなく、本間山城左衛門の家来と刺し違えて砂の上に倒れた。
場所といい「大太刀稲荷神社」という名前といい、宗氏の最期はこのあたりであったのではないかと思われる。

出典 鎌倉もののふ伝説の道を歩く 大貫昭彦

3OZeQ9LRTvHKSGU1405160457_1405160466.jpg神社から見える稲村ガ崎海岸

大館宗氏については次回載せる予定です。


category: 鎌倉市

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今は松はありませんが・・・日蓮袈裟掛けの松(鎌倉)  

onxw8CDTMk6FtSu1404980510_1404980520.jpg日蓮袈裟掛けの松碑

文永八年(1271)九月十二日、諸宗を攻撃し、幕府に換言したため、捕らえられて龍ノ口刑場に護送される途中の日蓮が、着ていた袈裟を脱いで松に掛けたところと伝える。
尊い袈裟が処刑の地で汚されることを恐れ、脱いで松の枝に掛けたのである。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

下の写真は、このテーマとは全く関係ありませんが、「袈裟懸の松」近くの一般道にあるものです。
vMGqQnIAL7vEMJe1404980597_1404980606.jpg手動式汲み上げポンプ

category: 鎌倉市

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子供二人を鷲(わし)にさらわれた・・・塔の辻(鎌倉)  

塔の辻
鎌倉彫り「寸松堂」脇の路地を入ったところにあります。

5VEuQK5NSRQJgPP1404814806_1404814816.jpg辻の石塔
寸松堂前の理髪店左脇にあります

里俗の云、由比長者太郎太夫時忠と云者、三歳の児を鷲につかまれ、方々尋ね求めて、道路に棄てたる骨肉のある所ごとに、是やわが子の骨肉ならんかとて、菩提のために立てたる石塔なり。
この故にところどころに塔の辻と云ところ多し。「新編鎌倉志」
「新編鎌倉志」はさらに、染屋太郎太夫時忠は、関東八カ国の総追捕使として下ってきた人物で、藤原鎌足の子孫でもあり、東大寺の初代の別当となった良弁僧正の父であるとも説明している。
良弁もまた鷲にさらわれて東大寺の杉の木の下に落とされた人である。
すると、染屋太郎は子供二人まで鷲にさらわれたことになる。
鎌倉大町の妙法寺も辻の寺の呼び名があり、寺には幼子が鷲に乗った神様が祀られ、鎌倉のお酉様として信仰される。

出典 鎌倉もののふと伝説の道を歩く 大貫昭彦

category: 鎌倉市

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何気に渡る橋にも物語がある・・・鎌倉十橋(琵琶橋)  

mNJvI_kbKaH98Wa1404641183_1404641196.jpg琵琶橋
鎌倉八幡宮から海までの間の参道にかかる橋

若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間はびわ小路と呼ばれ、橋の名はこれにちなんで名づけられたという。
昭和三十年頃までは、擬宝珠のついた朱塗りの橋であった。
琵琶小路の由来は、道筋に弁財天を祀る祠があり、、このため道が曲がっていたが、その曲がり具合が琵琶の曲線に似ていたことによるとする説と、弁財天が琵琶を抱いていたからとする説がある。
なお。祠は鶴岡八幡宮の池の傍らに移され、道をまっすぐにしたと伝わる。
琵琶橋は、若宮大路を横切って滑川に注ぐ佐助川に架かり、鶴岡八幡宮参道を維持する上で古来から重要な箇所である。
また、和田合戦の舞台の一つになったという伝承から、軍略上の拠点箇所でもあったと考えられる。

出典 琵琶端案内板より

hYhtHaltc8zSKIC1404641225_1404641234.jpg佐助川

掲載済みの鎌倉十橋
十王堂橋へリンク 
逆川橋へリンク
乱橋へリンク
歌の橋へリンク

category: 鎌倉市

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奥津宮・・・江の島神社  

_lrPf5QKdLWQ1J51404465306_1404465314.jpg奥津宮(江の島神社

江の島島内三ヶ所のお宮(辺津宮・中津宮・奥津宮)を総称して江島神社といいます。
江島神社は、福岡県の宗像神社と同じく、多紀理比賣命(たきりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比賣命(たきつひめのみこと)の三柱の女神を祀ってます。
奥津宮は三女神のうち多紀理比賣命をお祀りしています。
昔は「本宮御旅所」と称されていました。この由来は、岩屋本宮に安置してある仏像を、岩屋本宮に安置してある仏像を、岩屋付近の荒い波から避けるため毎年四月中旬から十月中旬までここに遷座したことによります。
天保十二年(1841)に焼失し、翌十三年に再建されたものが現在の社殿です。


nk35ysPVRBT28s51404465227_1404465238.jpg奥津宮鳥居
鎌倉幕府を開いた頼朝は政治の方策としての信仰を、大きく取り上げ、各地に社寺伽藍を創建したが、そのひとつとして江島神社にも数度にわたって参詣、参籠しそのつど信仰上の対象を寄進しています。
吾妻鏡によれば「頼朝は養和二年(1182)奥州平泉の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁才天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居をしました」とあります。
現在の鳥居は平成十六年(2004)の台風で破損し補修されたものですが、頼朝寄進の鳥居は、これに似たものが建てられたと伝えられています。


mu0gyy_0SAsFKe11404465347_1404465370.jpg八方睨みの亀の絵
江戸時代、享和三年(1803)画家・酒井抱一が描いた「正面向亀図」です。
どこからみてもこちらを睨んでいるように見えるところから「八方睨みの亀」と呼ばれています。
正面向きの亀を桐材に金箔を押し、強い線で描かれ、元は胡粉、緑青、丹色で彩色されていました。
原絵は海風の浸害から守るため、江島神社宝殿に納められています。

(お参りするとき、天井を見てください)

h9X_Uj_ILoIeyLI1404465266_1404465278.jpg亀甲石
古い標文に「鎌倉四名石のひとつで、またの名を「蔵六石という」とあります。
「武江年表」に文化三年(1806)弁秀堂という人が弁才天を信奉して金光名最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)を写経しここへ納め、上に置く石を探したところ、亀の形をした石を発見したので江の島に奉納したと書かれています。
大いちょうの木の下に置かれています。

出典 案内板より

category: 藤沢市

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江の島の裏側にこんな悲恋物語が・・・稚児が淵  

稚児が淵

江の島の裏側(相模湾側)に稚児が淵というところがあり、ここから眺める富士山夕焼けの相模灘の美しさは、まさしく「かながわ景勝50選」のひとつに数えられるものです。
ここの稚児が淵にまつわる話として次のような話がのこっています。


むかし、八幡宮の相承院に白菊という信夫(福島県)生まれの美しい稚児がいました。
稚児は、建長寺広徳院の自休和尚に大変可愛がられていました。
あるとき、白菊が自休を訪ねると、和尚は碁をうってて囲碁に夢中でした。
白菊が「和尚様はいられますか」と取次ぎの男に頼むと、その男は多少変な男で、よく部屋の中を確かめないで、障子の外から白菊の来たことを告げました。
そのとき偶然にも、自休の石は死石となったので「死んだー」と叫びました。
取り次いだ男はこれを「死んだ」と聞き間違え「和尚は死んだ」と伝えました。
白菊はこれに驚き悲しんで、「白菊のしのぶ里の人とわば思い入り江の島と答えよ」との歌を残してこの淵に身を投げました。
自休もその後を追ったという。

出典 鎌倉案内 小澤 彰

aleCkyET6wrmos91404298432_1404298443.jpg稚児が淵のがけ上から相模湾を望む

category: 藤沢市

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