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十月の三浦半島、主なイベント  

三浦市
★10月10日~ みかん狩り(市内各蜜柑園)
★10月下旬~ うみう・ひめうの飛来(城ヶ島)
詳しくは三浦市観光案内をクリックしてください。

横須賀市
詳しくは横須賀観光情報をクリックしてください。

逗子市
詳しくは逗子市の観光情報をクリックしてください。

鎌倉市
詳しくはかまくら観光をクリックしてください。





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category: 箸休め

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顔に張り付いたお面(2)  

この話は、前回(9月26日)掲載の続きになっています。

姑に言いつけられて、実家に帰ってた嫁は、日もとっぷり暮れた多摩川べりを帰る途中、女体神社にぬかずいて「どうぞ私を無事に家へと送り届けてくださいませ」と、手を合わせた。 

嫁を里へ行かせた姑は、夜になると、村の神社の拝殿に忍び込み、祭りに使う「鬼の面」を探すと、それを袂(たもと)に隠し持ってヒタヒタと一本橋に向かっていった。
姑は、鬼の面をつけると、すすきの中に隠れて嫁の帰りをいまや遅しと待っていた。
嫁は真っ暗な夜道を石や草の根につまづきながら小走りに走ってきた。
糸のような細い月が、わずかな光を一本橋に投げかけていた。
嫁は一本橋を注意深く渡り始めた。
そのとき、鬼の面をつけた姑の目がクラクラッとした。
嫁の顔は、弁天様のように美しく、しかも金色に光輝いておった。
姑はあわてて面をとろうとしたが取れない。取ろうとして、もがけばもがくほど、面は顔に食い込んでいく。
姑の顔からは血が流れた。
顔をかきむしりながら草むらにどっと倒れてしまった。
その物音に嫁は飛んできて、抱き起こそうと姑の手に触れると、鬼の面はポロリと外れた。
「あっ!おっ母さんでしたか。遅くなってすみません。私を迎えていてくれたんですか。申し訳ありません。さ、家へ帰りましょう」
嫁は姑の手を引いて家へ帰っていった。
家についた姑は、一部始終を語って嫁に謝りました。
それからはいい姑になり、親子三人で力を合わせて働いたという。

幾日かたって、村のものが一本橋を渡ろうとすると、すすきの中で鬼の面を見つけた。
「あれ?これは鎮守様の祭りに使うお面だが、どうしてこんなところに・・・・・」
村の者は鬼の面を鎮守様にお返しした。
このことが村人に知れると、誰言うことなくこの一本橋を「鬼げ橋」と呼ぶようになったという。


出典 神奈川県の民話と伝説 萩坂 昇





category: 川崎市

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顔に張りついた、お面(1)  

少し長くなりますが・・・・最後までお読みください。(二回に分けて掲載します)

むかし、武蔵の国、橘樹(たちばな)の中丸子と平間の村境の渋川の近くに、母と子の二人暮らしの百姓がおったと。
倅も年頃になり、川崎の宿の向こうから嫁を迎えた。
ええ嫁ごで、おっ母さんおっ母さんと姑を大事にしておったが、姑は、嫁が毎朝、鎮守さまの境内にある弁天様を信じて御詣りに行くのが気にくわなかった。
「なにが水神様だ。ご利益なんてなんてあるもんか。そんな暇があったらわしの肩でももんでおれ」
でも嫁は、姑に気づかれないように、弁天詣でを続けておった。
姑はそれを知ると、恐ろしいことに嫁を追い出そうと思うようになった。
それは秋も深まったころだった。
秋祭りが近づいていた。その日夫は、用事があって泊りがけで江戸へ出かけていった。
嫁は、弁天様におまいりすると、その足で野良へ行き、夫の分まで働いて昼飯どきに家へ帰ってきた。
「おっ母さん、おそくなってすみません。いま飯にするで、ちょっと待ってください」と言ったが姑は「おら、おめえが遅いもんで先に食うたよ。それよりな、これからおめえの里へ行ってくれんか。秋祭りも近いこと、赤飯をたくせいろう借りてきてくれんか」
嫁は腹もへっていたしつかれてもいたが。「はい、それでは日のあるうちに行ってまいります」と野良着のまま在所へと急いだ。
里の親は、久方振りに帰ってきた娘を見て喜んだ。
「せっかくきたんじゃ。一晩ぐらい泊まっていきなよ」
と言ったが、嫁は、おっ母さんが待っているからと、せいろうをかかえると、話もそこそこに帰っていった。
里の親は、娘が見えなくなるまで見送っていた。
つるべ落としの秋の日は短かった。
嫁が、多摩川べりの女体神社のあたりにくると、とっぷりと暮れてしもうた。
<まだ中丸子までは、かなりの道のり。途中で悪者にでも襲われたら・・・>
嫁は女体神社の前にぬかずくと、「女体さまや、どうぞ私を無事に家へ送り届けてくださいませ」と手を合わせた。

次回9月28日へ続く

出典 神奈川県の民話と伝説 萩坂 昇

渋川のリンク先は「川崎市ホームページ」です。



category: 川崎市

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女性にご利益のある女躰神社  

em5oRpepg69iLgi1411551859_1411551868.jpg女躰神社鳥居

この女躰大神はオンメさまという通称で知られたもので、旧南河原村の氏神としてあがめられていた。
「新編武蔵国風土記稿」の「南河原村」の項には・・・・
女躰権現社(村の東南の方にあり、本社六尺に七尺、覆屋二間に一条、拝殿二間に三間あり。
前に石鳥居を建て、村の鎮守にして例祭毎年九月十九日、是も宝蔵院持ちなり」と記されている。
そのいわれについては「神奈川神社誌」の「女躰大神」の項には、創立年月不詳であるが、口碑の伝うる処に依れば、往古女体権現と称え。南河原村真言宗宝蔵院が別当職であった。
当村は元荏原郡八幡塚村の農民が移住して開墾に従事していたもので、当初僅かに二戸であったが、その後民家次第に増加し、永禄年間十数戸を有するにいたった。
地勢が多摩川の南にあったので、南河原と称えたという。
然るに多摩川の土砂堆積の為か、年々出水はなはだしく、沿岸の耕地を浸し、洪水ごとに流域に変化を来たし、非常なる災害を蒙り、遂に一村離散の止む無き悲境に立ち至った。
このときに当り、一人の女丈夫、水中に投じて一身を犠牲に供したため、その後大なる災害もなく住民漸く安堵し、大いにその徳を慕い、壮烈なる行為を後世に永く伝えんため、多摩川側なる俗称「にこにこ松」の下に一祠を建て、その霊を祀ったという。
「にこにこ松」は現在ではその跡形をとどめていない。
女躰大神の祭礼は現在八月第一日曜日である。

出典 川崎の民間信仰 川崎市市民ミュージアム(大島建彦)

ご利益 女性の悩み解消、恋愛系縁結び、子授け、安産祈願、武勇掲揚、勝利祈願、五穀豊穣、出世開運、武運長久 他

T72mRpfdVrMsue11411551937_1411551954.jpg社額

5TqxvIl6qZPoWII1411551894_1411551904.jpg社殿








category: 川崎市

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源義経を討つはずが返り討ちに・・・土佐坊昌俊邸跡  

G7zb4uIrLDfUXNa1411379438_1411379461.jpg土佐坊昌俊邸跡碑
鎌倉宝戒寺前

土佐坊は源頼朝の命により、源義経追討にあたった人物である。
平家追討に数々の戦功のあった源義経であったが、頼朝の許可なく任官したため頼朝の不興を買い、また有力御家人の梶原景時と対立することもあって、ますます頼朝から不信の念をもたれることになった。
文治元年(1185)五月には生け捕りの平宗盛父子を伴って鎌倉に下向し、義経にとってはいわば戦勝の凱旋(がいせん)のはずであったが、頼朝から鎌倉入りを拒否され、義経は腰越に止められた。
義経は頼朝の勘気を解くため自らの立場を訴える「腰越状」を記し、大江広元にとりなしを依頼したがついに頼朝の許しを得ることが出来ず、再び宗盛父子を伴い(近江の国篠原にて処刑①)帰洛の途についた。
同年八月に義経は、伊予守に任官し、また京都における義経の動静を探らせた梶原景時が京より帰参するとただちに報告を受けて頼朝は義経追討を決意する。
その討伐の任命にあたって多くの人々は辞退したが、進んで受けたのが土佐坊昌俊であった。
それは同年十月九日のことで、十月十七日には早くも義経を京都六条室町亭に襲うが破れ、十月二十六日捕らえられて六条河原で斬られた。
以上は概ね「吾妻鏡」の記述にしたがっているが、また平家物語(巻十二)、源平盛衰記(巻四十六)さらに当然の事ながら「義経記」(巻四)などに相応の潤色を加えて取り上げられ、古来人々によく知られた話である。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

本文中の①は滋賀県観光情報にリンクしています







category: 鎌倉市

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幽霊のような地蔵でも・・・医王寺(2/2)  

お地蔵を祀ってあるお堂

WxAM9lSznuR96Fe1411207465_1411207475.jpg塩どけ地蔵

医王寺本堂に向かって左手に「塩どけ地蔵」が安置されている。
骨と皮だけの真っ白な地蔵で幽霊のような姿になっているが、今も袋につめた塩が供えられ、八月二十四日には、盛大な地蔵盆が行われている。
戦前は弘法大師道の筋に立っていたが、工場の進出で、交通量が増えたため安全なここ医王寺に移ってきて、その昔を語っている。
今のように良い薬もなく、医者もいなかった昔。
久根崎にできものがはやって子供が苦しんだ。
親たちは、海辺の塩浜の塩田から塩を買ってきて、地蔵にお浄めの塩をこすって、子供の身代わりになって下されと願掛けをした。するとご利益あって子供のおできは治ったが、地蔵様は、塩でとけたような姿になったと伝えられる。

出典 神奈川県の民話と伝説 荻坂 昇

qx4qEH9ARO7vJYz1411207504_1411207514.jpg七福神の並ぶ池

琵琶湖を模した医王寺の池の周囲に1998年に七福神が祀られている。
出典 神奈川県の民話と伝説 荻坂 昇

category: 川崎市

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必死に鐘楼を守った蟹たち・・・医王寺(1/2)  

HgCQ5sDKxe9491Q1411023696_1411023708.jpg医王寺本堂

y89MKy3gH8W59eF1411023792_1411023804.jpg医王寺鐘楼

天台宗医王寺は川崎市川崎競馬場のちかくにある古刹である。
開山の祐長法院は、延暦二十四年(806)寂である。


昔、川崎宿久根崎の医王寺の鐘つき堂の下の池で暮らす魚、カニたちは、寺参りに来る人が下さる食べ物を分け合ってのんのんと暮らし、ときどき、池から顔をのぞかせて、寺をよけるように飛んでいく白鷺の群れを眺めて「つり鐘さまのお陰じゃ」と鐘に感謝していた。
池の魚、カニたちは空から襲ってくる鷺を恐れているが、医王寺の池には来なかった。寺の小僧さんが朝に夕に撞く鐘の響き、唸りが不気味だったのだろう。
小僧さんがやってくると、続々と蟹が現れて、「ご苦労さん、一つお願いします。」と、はさみを振って迎えていた。
ところが或る夜・・・・
寺の近くから出た火事が、風にあおられ、家を焼き払い、医王寺へ襲い掛かり山門、本堂を焼き、鐘つき堂に迫ったとき、蟹がぞくぞく、ぞくぞくとあらわれ堂をよじのぼって、あぶくを吹いて火を消そうとしていた。
それは、炎と蟹の戦いだ。
カニたちは焼かれて落ちていく。でも、負けてはいない。焼かれても焼かれてもつぎ、つぎの蟹がのぼっていった。
怖い一夜が明け太陽がのぼった。
一面の焼け野原のなかに鐘つき堂だけが残っていた。
避難していた和尚さん、小僧さんが心配そうに走ってきた。
「あ、鐘つき堂だけが・・・」
「よく、助かったなあ。本堂も山門も灰になってしもうたのに・・・」
「和尚さん、見てください。カニたちがこんなに・・・」
堂の下には何百という蟹が炎を浴びて死んでいた。
「おーおー、そうだったのか。おまえたちが守ってくれたのか。ありがとう、ありがとう」
和尚さんと小僧さんは、蟹に手を合わせお経と念仏をあげた。
池の魚が集まって聞いていた。
それから医王寺の池の蟹は、炎を浴びたように背中が赤くなったという。

出典 神奈川県の民話と伝説 萩坂 昇

8pXx8QQsA_XKScz1411023849_1411023862.jpg蟹塚

category: 川崎市

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鎌倉に2箇所あるぼたもち寺  

鎌倉にはぼたもち寺と呼ばれるお寺が二ヶ所あります。
一つは常栄寺というお寺、もう一つが今回紹介する法源寺です。
常栄寺に就いては既に紹介してますので
常栄寺をクリックしてご覧ください。

cYbxkHeazmCLW4p1410862028_1410862047.jpg法源寺(ぼたもち寺

のちに常栄寺となる場所に住んでいた桟敷の尼が、龍の口法難の折、日蓮に胡麻のぼたもちを奉げたが、この地は尼の出生地で、法源寺にはその子孫(尼の実家)の墓があるので「ぼたもち寺」と呼ばれているのである。

ただしこの寺の題目塔の下の法源寺縁起には、常栄寺との伝えとは若干異なる内容が記されている。
それによると桟敷の尼にあたる茶店の老婆が、法難の日はたまたま小動岬近くの実家にいて、自宅前を通った日蓮に握り飯を差し出したところ、つまづいて握り飯は砂まみれになり、胡麻をまぶしたようになってしまった。
しかし日蓮はこの供養を喜んで受けて食した。
後世になって日蓮が処刑を免れ、命長らえたことにちなんで「延命のぼたもち」「御難除けのぼたもち」と呼ばれ、握り飯はいつしか胡麻のぼたもちになったのだという。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

GjK307AT7Teq06G1410862074_1410862083.jpg法源寺(ぼたもち寺)

category: 鎌倉市

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素晴らしきかな、老いも若きも秋祭り・・・横須賀市  

昨日今日は、地元(横須賀市長沢)の秋祭り
連休でかつ、空も抜けるような青空で祭り日和でした


iBCuLjckopUS5qR1410687294_1410687304.jpg熊野神社

hS2bBasJ6VBlIUE1410687373_1410687384.jpg暑さに負けず

5t8Ce6dK2ppDd5z1410687338_1410687348.jpg山車の中でもがんばります

PJDCaG4IKazjTRC1410687492_1410687502.jpgほうびだあ

q0SffjV2QKcsv_91410687409_1410687428.jpg海上渡御

NUs0m9m3OpJMqOf1410687454_1410687465.jpgおつかれさま

土地の人の話によれば、昔は海岸で夜の演芸会が出来たそうですが、今ではその砂浜もなくなってしまい、猫の額ほどの駅前広場が演芸会場になっています。

神輿海上渡御の場所

category: 横須賀市

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泣きんずら橋・・・・梶原橋  

お詫びと訂正・・・・このなきんずら橋(梶原端)の写真に就いては、確証が取れませんでしたので、地図とともに一緒に削除します。

ただ故事・伝説等を大切にしたいために、「なきんずら橋」については、出典を明らかにし、そのまま掲載します。
読者の皆様には今後ともよろしくお願いします。
また「なきんずら橋」に該当する橋の場所等をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひお教え願います。


橋の名は「梶原橋」といいますが泣きんずら橋」とも言います。
その名の由来は、正治二年(1200)梶原一族が鎌倉を追われた時、ここに住んでいた源太景季が妻に吾が形見にと、小袖を切って渡し、涙を落として別れを惜しんだところからと伝えます。
こうした故事で、この梶原から嫁に行く娘たちは、また嫁いでくる花嫁たちもこの橋を渡ることを忌み嫌って、他の橋を渡ったといいます。

出典 鎌倉案内 小澤彰

*リンク先源太景季の墓は・・・・
いま原発再稼動で名前だけは全国区になっている、鹿児島県薩摩川内市甑島(さつませんだいしこしきじま)にあります。
ちなみに私の生まれたところは甑島ではありませんが、薩摩川内市(旧薩摩郡入来町)です。

category: 藤沢市

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日蓮上人、龍の口法難・・・龍口寺  

刑場跡

当地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。
幕府の公式記録である「吾妻鏡」には腰越。龍の口において斬首との記録が多く見られる。。
奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・文覚が龍口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来したときは首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。
これによって龍の口が処刑場になったと旧記にある。
文永八年(1271)九月十三日子丑の刻(午前二時)、日蓮上人は「立正安国論」の換言により、幕府に捕らえられ、この刑場・敷皮石(首の座にすえられた。
しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島のほうより満月の如き光りものが飛び来たりて、執行人どもは眼がくらみ、この奇端のため、ついに日蓮上人の首を斬ることはできなかった。
かくして此処は日蓮上人龍口法難の霊場であり、世の安寧のために身命を賭けられた寂光土と称される所以である。

出典 寂光山 龍口寺
敷皮石(首の座)は本堂内に祀ってありますが、本堂内は撮影禁止です。

日蓮袈裟掛けの松
にリンクしていますので、あわせてご覧ください。

btDIja0A5dxLxxW1410347224_1410347241.jpg刑場跡の碑

huIo_CGLR5R_fg21410347828_1410347840.jpg御霊窟
龍口法難の際、幕府に捕らえられた日蓮上人が、一晩幽閉されたと伝えられる洞窟

138C92Fqhngcrfx1410347267_1410347281.jpg龍口寺山門

category: 藤沢市

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源義経と腰越・・・満福寺  

満福寺(階段下を江ノ電が走ります

yaz0AfivKYX3sZr1410167362_1410167374.jpg本堂玄関で皆様に挨拶する猫

行基菩薩が開いたといわれる寺で、本尊は薬師如来である。
腰越が宿場としてにぎわい始めた頃、町に蔓延した病を追い払うために祀られたものと思われる。
寺には義経が幕府に宛てた嘆願書、すなわち「腰越状」の下書きと伝えられるものが残っており、文章といい内容といい、判官(ほうがん)びいきに切なる心情を訴える。
その書き出しは・・・・・
「源義経、恐れながら申し上げ候意趣は、御代官のその一つに選ばれ、勅宣の御使いとして、朝敵をかたむけ、会稽(かいけい)の恥辱をすすぐ。勲賞おこなはるべき処に、思ひのほかに虎口(ここう)の讒言(ざんげん)によって、莫大の勲功を黙せらる。義経犯しなうして咎(とが)をかうむる。功あって誤りなしといへども、御勘気を蒙るあひだむなしく紅涙に沈む・・・・・・」以下略

出典 鎌倉もののふと伝説の道を歩く 大貫和彦

今でもこおろぎの鳴かないお寺・・・この寺に伝わる伝説
「腰越状草案のいわれ」
腰越状を草庵するとき弁慶が墨をすっていると、草むらでこおろぎがしきりに鳴いていた。
そこで弁慶がやめろと叫ぶと、こおろぎはぴたりと鳴きやみ、境内は静かになったという。
今でもこの境内ではこおろぎが鳴かないと伝えられる。

0US7UCWGezWL5sm1410167143_1410167154.jpg弁慶の手玉石

pxvSMlHA1JSil631410167103_1410167113.jpg弁慶の腰掛石

ewDUuup4G3bSU2d1410167176_1410167188.jpg硯の池

NhTNgZUz_nambGF1410167215_1410167226.jpg義経手洗いの井戸

eDU8zLnOjPOVwte1410167284_1410167297.jpg開山行基菩薩御加持瑠璃光水

H4bzvP6Z2Pm1Z8Z1410167328_1410167339.jpg義経が頼朝に宛てた腰越状


category: 鎌倉市

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都恋しさに松の枝を捻じ曲げた西行法師・・・西行戻り松  

道標と西行戻り松

昔、西行法師が東国に下ったとき、この地に来て枝葉の見事な松の木を見て都が恋しくなり、思わず都のほうを振り返り、枝を西方にねじり曲げたためこの名があるという。
枝が西を望むように伸びていて、ひときわ目立つ松の大木があったゆえの伝承と思われるが、近年植え継いだと思われる現在の松も幹の途中から西方に曲がっていて、伝承を忠実に再現しようと意図していることが伺われる。

出典 鎌倉史跡散策 神谷道倫

案内板による「西行戻り松」の説明
西行戻り松の伝えは、西行法師が片瀬・江の島道の松のところで、村の童(わらべ)が鎌を持って歩いているので、「どこへ行く」と聞いたのに対し、童が「夏枯れて冬ほき草を刈りに行く。」と和歌の上(かみ)の句の形式(五七五)で答え、驚いた法師はもと来た道を引き返してしまったというものです。
西行法師は人々には漂泊の歌人として親しまれた存在で、各地に伝説が残されていますが、この伝えは法師が鎌倉へ向かう際に、江の島道を通ったとされることから生まれたものと思われます。
童の歌に読まれた「ほき」とは、植物が生長し繁茂する意味の「ほきる」が転じた言葉で「夏枯れて冬に生長する草」とは麦の事です。
童は麦刈りに行くことを洒落て答えたわけですが、和歌と故実に通じていたとされる法師もすぐには意味がわからず、村の童に一本取られてしまったわけです。

出典 片瀬・江の島まちづくり協議会

7aFpANNZyLpLGPA1409998096_1409998106.jpg道標
江の島弁財天道標
この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。
江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられ、現在市内外に十数基が確認されている。
すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られています。
この文言は、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いがこめられています。

またこの道標の裏側には、「西行のもどり松」と刻まれています。
出典 藤沢市教育委員会



category: 藤沢市

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江ノ電と人力車の大喧嘩  

江ノ電の開通で人力車引き手は失職の憂き目に

人家ぎりぎりを走る江ノ電

明治三十五年に江ノ電が開通する以前、藤沢から鎌倉への交通は人力車が主な交通手段だった。
引き手は周辺の農家の人たちで支えられ、農家の大切な現金収入だった。
それを奪われるというので江ノ電側と人力車側が火花を散らした。
江ノ電が開通(藤沢ー片瀬)したのは明治三十五年(1902)九月一日。
それ以前、景勝地である江の島までの人々の足の便はどうなっていたのだろうか。
当時三百台近くの人力車が活躍したという。
引き手は近隣に在住の男たちで、人力車は彼等にとって大切な現金収入の一つであった。
江ノ電が開通すれば、人力車側はたちまち困窮してしまう。
当然のように反対運動が起きたのだった。
人力車側が大挙して江ノ電の開設事務所に押しかける騒動になったといわれる。
鉄道関係者の身辺にも危険が迫ったほどだったという。
会社側は暴力で対抗しようとした。・・・・がその不毛さに気づき、流血の抗争にはならなかった。
江ノ電が開通して運転が始まると、人力車も自然と消滅していった。
江ノ電が開通したといってもしばらくは人力車と江ノ電は競合していた。
その後時代の流れとは不思議というほかはない。
交通手段として去った人力車は、現在は復活し、観光用として人気を得て鎌倉・北鎌倉駅周辺を中心に走り回っている。

出典 鎌倉なるほど事典 楠本勝治

cwMXcUiJ5gXuFxG1409816610_1409816620.jpg小町通り付近

category: 鎌倉市

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たとえ、意地悪な継母でも・・・正宗の井  

正宗の井
石垣の上にふたのように置いてあるところが「正宗の井」である。
現在は私有地であるため、中を見ることは出来ません。
また案内板もないため、見過ごしそうです。
場所は下の地図で確認してください


この井戸の伝説によれば、正宗が、自分をいじめる意地悪な継母の病気治癒を祈って、水垢離をした井戸といわれています。

五郎正宗は相州物と「いわれる一派の代表的な人物である。
銘のある作品が少なく、それゆえに偽物も多く、しかも伝説めいた話が多い人で、実在の人物ではないという説があるほどである。

相州伝がもっとももてはやされたのは、鎌倉末期から南北朝じだいであるが、そうした頃の激しい戦闘を思わせるような豪壮な造りで、皆焼刃であることが特色である。
正宗十哲などと呼ばれる多くの名工を正宗が世に送り出した点である。
正宗という名は日蓮上人につけてもらっている。
日蓮が配流先の佐渡から鎌倉に戻った日蓮は、松葉ヶ谷に庵はなく滑川のほとりの夷堂に身を寄せた。
その頃に正宗の父行光が息子(正宗)を伴って日蓮を訪れ、教えを乞うた。
日蓮に帰依した正宗の墓は本覚寺境内にある。
本覚寺
やじるし出典 鎌倉謎解き散歩 湯本和夫

FkuVpRegXDsVu8i1409646261_1409646293.jpg
正宗を継ぐ、現在は二十四代の店

Yl0oQQlUvbdTqEE1409646325_1409646336.jpg正宗の碑(本覚寺

idR0u9vj1FAuUsJ1409646357_1409646371.jpg正宗の墓

正宗の井の場所は・・・


category: 鎌倉市

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