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頼朝が鎌倉に造った三大寺院の一つ・・・勝長寿院旧跡  

V1l3aCNx_LLju4o1414660708_1414660727.jpg勝長寿院旧跡碑
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺で文治元年(1185)十月二十四日に落成し、堂供養が行われた。
「吾妻鏡」はその盛儀の様子を、それに先立つ同年九月三日には京から鎌倉に届けられた義朝の遺骨を、従者正清の遺骨とともに埋葬したこと、十一月には宅間為久が描いた堂の壁画が完成したことなど一連の出来事とともにつたえている。
勝長寿院は、鶴岡八幡宮寺・永福(ようふく)寺とともに頼朝が鎌倉に創建した三大寺院の一つに数えられた。その壮大さから「大御堂」とも呼ばれた。

QwKBwlXo1Xw28yJ1414660757_1414660766.jpg義朝(左)と従者正清の墓
大姫の病気見舞いに静御前が舞った
文治二年(1186)五月二十七日の夜に、この寺に参籠中の頼朝の娘大姫は、静御前を召して舞を見ることがあった。
静御前はこの年四月八日、鶴岡八幡宮若宮回廊において白拍子の舞を披露して「上下皆興感を催す」というできばえであったが、病身の大姫を慰めるため、大姫の母政子が配慮して召したと思われる。
暗殺された実朝、政子の遺骸もここに葬られた
承久元年(1219)一月二十七日鶴岡八幡宮社頭で源実朝の遺骸は、翌日火葬に付されてこの寺の境内に葬られ、貞応二年(1223)に勝長寿院の奥に新御堂と御所を建立して、晩年はそこに住まっていた政子も、嘉禄元年(1225)七月十一日に没すると火葬のあとやはり境内に葬られた。
しかし江戸時代にはすでに礎蹟すら認めがたい廃寺と化し、現在は静かな谷戸の住宅地の一角に石碑・石塔によってその跡を知るばかりである。
出典 本文はすべて「深く歩く鎌倉史跡散策」 神谷 道倫
源実朝・北条政子の墓は現在「寿福寺」にあります。





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category: 鎌倉市

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鬼に代わって火を焚いたお地蔵さん・・・覚園寺  

山門から愛染堂を望む
健保六年(1218)の七月、北条義時が薬師十二神将の一人招杜羅大将(戌神)を夢にみて建てたと「吾妻鏡」にあります。
義時は、この薬師堂の戌神のお告げによって翌年の一月実朝の凶変のとき、別当公卿に斬られずにすんだと伝えています。
また永仁二年(1294)の頃、執権の貞時が元軍来寇の撃滅を祈って伽藍を建てたのが今の覚園寺です。
建武のころ御醍醐天皇の勅願寺となり、のち室町幕府の足利尊氏が祈願所としました。
現在の唐様式の薬師堂(本堂)は文和三年(1354)に足利尊氏が建てたもので、その天井に尊氏の書いた簗牌が残されています。
火焚地蔵
地蔵堂の本尊黒地蔵を別に「火焚地蔵」といいます。
由来は、地蔵が罪人を助けるために、鬼に代わって火を焚いたからです。
地蔵菩薩は衆生救済を本願とされる仏様で、末法の世に現れる仏様として信仰されてきました。

出典 鎌倉案内 小澤 彰

愛染堂裏にある薬師堂(本堂)と地蔵堂は、内部はもちろん外も写真撮影はできません。
心無いカメラマンたちによって、自然が壊されたことがあるそうです。

T81MGVFUEljJFY_1414488785_1414488794.jpg愛染堂内部

ThnlREjacI02vKy1414488823_1414488835.jpg境内に咲く花

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category: 鎌倉市

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護良親王土牢のある鎌倉宮・・・鎌倉  

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護良親王の墓はここをクリックしてください
6R8hoNIIyLNW1Zx1414315481_1414315492.jpg鎌倉宮
御醍醐天皇の皇子である護良(もりなが)親王を祭神とする神社です。
護良震央は、御醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。
幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。
社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。

出典 鎌倉宮案内板

TjBG7QxVDD_Vqsd1414315519_1414315531.jpg本殿脇の撫で身代わり像
村上義光(よしてる)公は、護良親王の忠臣にして、元弘三年(1333)正月吉野城落城(奈良県吉野)の折、もはやこれまでと覚悟を決めた護良親王は別れの酒宴をされました。
そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢をつきたてたすさまじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切るときの手本とせよ」と継げて腹を一文字に掻ききり、壮絶な最期を遂げ、その間に親王は、南に向かって落ち延びました。
このように身代わりとなられた村上義光公を境内の樹齢百三年の欅の大木にて彫りあげ、撫で身代わりとして入魂しました。
出典 鎌倉宮案内板
村上義輝(よしてる)公の墓はここをクリックしてください
リンク先は、奈良県吉野町の公式ホームページです。

_n17oDa4wMHERs11414315559_1414315570.jpg護良親王の幽閉土牢

U1qlvisQIM8KdHE1414315599_1414315610.jpg土牢内部




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category: 鎌倉市

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史跡公園として復活するか・・・永福寺(ようふくじ)遺跡  

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永福寺遺蹟碑

いま建物はすべて滅び、池の形や石などから盛時を偲ぶほかないが、薬師堂と阿弥陀堂とが二階堂を挟み、三重塔や釣殿も建ちそうな豪華な伽藍であったらしい。
あとのことになるが貞応二年(1223)の紀行記「海道記」(源親行作というが、偽作との説もある)は「ひがしの山のすそに臨て二階堂を礼す。是も余堂のたくしきして感嘆をよびがたし。第一第二の重縁には玉のかはら鴦(おしどり)の翅(はね)をとばし、両目両足のならび給へし台は金の盤鶴灯をかかげたり。
大方魯(ろ)般意匠窮て、威風天に望むにすずしく、ビシュ功をつくせり。発露人の心にもよほす。見れば又山に曲木あり。
庭に怪石あり。地形のすぐれたる仏室というべし・・・・・・・」
とたんかくしている。美文特有の誇張もあるだろうが、建長・円覚寺両寺や大仏も出現していなかった十三世紀前半の鎌倉ではひときわ異彩を放つ寺院であったに違いない。
だが永福寺も何回か火災に襲われ、鎌倉幕府滅亡後は衰退の路をたどり十五世紀ごろには姿を消した。
出典 鎌倉古寺巡礼 三山 進
12fZmDD5RpvhuuI1414144411_1414144420.jpg遺跡採掘現場

zKMmfM1nb5MUCRc1414144445_1414144473.jpg永福寺復元想像CG
(CG製作:湘南工科大学)
永福寺(ようふくじ )跡
永福寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の二階堂大長寿院(中尊寺を模して建久三年(1192)に工事に着工しました。
鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和五十六年(1981)から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。
堂は二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北百三十メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北百メートル以上ある池が造られていました。
鎌倉市では、昭和四十二年(1967)から土地の買収を行っており、現在史跡公園として整備事業を進めています。
鎌倉市 教育委員会
リンク先は岩手県「平泉観光協会」です。






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category: 鎌倉市

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怨親平等・・・討ち取った首を交換  

首塚碑文より
今を距る四百四十餘年 大永六年(一五二六)十一月十二日南総の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち 府 内に乱入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)豪士大船甘糟 渡内福原両氏と倶に里見の軍勢を此處戸部川畔に邀撃し合戦数合之を潰走せしめ鎌府を兵燹より護る この合戦に於て甘糟氏以下三十有五人は戦禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その数を知らず 干伐収て後城主氏時彼我の首級を交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷関死守の霊を慰の怨親 平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 経云我観一切普皆平等
 昭和四十二年八月   玉縄史蹟顕彰會建之


EmkR0aInKRwMfTF1413969398_1413969413.jpg玉縄首塚碑

olkR5MSxTU8lJDo1413969471_1413969493.jpg玉縄首塚碑六地蔵

QzK2hF1fGH2NQfC1413969525_1413969542.jpg玉縄首塚碑

pE0EhAVoQqVTpyV1413969579_1413969614.jpg首塚碑に立つ地蔵

今から四百五十年余の昔、大永六年(1526)十二月に、安房(千葉県房総)の里見氏が、軍船を連ねて海路から鎌倉に攻め込んできたので、玉縄城を守っていた北条氏時(北条早雲の孫で氏綱の弟)は、城兵をくりだして、戸部川の辺りで里見の軍を迎え撃ち激しい戦闘となりました。
この戦いで両軍とも多くの戦死者を出し、氏時方では武将甘糟某をはじめ、三十数名が敵に討たれ首を取られました。
もちろんこちら(北条方)も敵方将士の首をたくさん取ったことはいうまでもありません。
そして戦いがすんだ後氏時は里見方に申し入れて互いに討ち取った首を交換し、甘糟はじめ三十数名の首級を、戦場となった戸部川の近くに葬り、塚を築きその上に榎を植え、勇戦して斃れた将士の霊を弔った。
出典 知られざる鎌倉 沢 寿郎






category: 鎌倉市

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天皇の子でありながら、その首は野ざらしに・・・護良親王の墓  

_aIN2E5RetNyGyg1413798534_1413798543.jpg墓への参道

護良親王は、御醍醐天皇の皇子で、鎌倉幕府滅亡後、征夷大将軍に任命されるも、御醍醐天皇や足利尊氏と対立したため、鎌倉に下され、やがて現在の鎌倉宮あたりの土牢に「幽閉された。
足利直義は、幽閉中の親王を家臣の淵辺伊賀守義博に命じて親王を殺害させた。
幽閉後約九ヶ月後の事である。
「太平記(巻13)」には
「淵辺が首を掻こうとしたところ、親王はその刀の先端を食いちぎり、首を取られたあとも剣先を口の中に含んで、眼も生きた人のようであった。
このような首は主人には見せられぬと思い、傍らの藪の中に棄ててしまった。」
それに続けて親王の身辺のお世話をしていた南の御方が、動転しながらも気を取り直して、藪に棄てられた首を拾い上げ、のちに理智光院の長老の僧の手により、葬礼の事が営まれたと記す。

出典 史蹟と伝説鎌倉 ニ橋進

7rKQyntIcR9eEdm1413798570_1413798582.jpg親王の墓
現在は宮内庁管理のため、近くまで行くことはできません

_3gqX1uJfioXrWs1413798606_1413798617.jpg理智光寺址碑
碑文
此処ハ願行上人ヲ開山トセシ五峰山理智光寺ノ址ナリ建武二年淵邊伊賀守義博ハ足利直義ノ命を承ケ護良親王を弑シ奉リシガ其御死相ニ怖レ御首ヲ傍ナル藪中ニ捨テ去リシヲ當寺ノ住僧拾ヒ取リ山上ニ埋葬シ奉リシトイフ
鎌倉町青年團




category: 鎌倉市

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いつもとは違いますが・・・大船フラワーセンター  

大船駅から見た大船観音様

puJ9hkCa9VyN_Li1413629278_1413629291.jpgフラワーセンター

7YZxWq7CCizI7sy1413629328_1413629339.jpgフラワーセンター

Xi0ZHr8tlPqSYkO1413629378_1413629387.jpgフラワーセンター

DBUHsEFEd15DN9h1413629418_1413629428.jpgフラワーセンター




category: 鎌倉市

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しょうづかの婆さん・・・平間寺(川崎大師)  

v8EuIOVfzktg4nW1413451729_1413451742_201410161840124fe.jpgしょうづかの婆さん
人は死後三途(さんず)の川を渡るという。
その川の奪衣婆(「だついば)すなわち「葬頭河(そうづか)の婆」が訛って「しょうづかの婆さん」と呼ぶようになったらしい。
その昔、品川のお台場にあったといわれ、「台場の久兵衛様」とか「歯のお地蔵さん」と呼ばれていたこともあったという。
昔から歯の痛みをいやし、容貌を美しくすると信じられ、その他にも健脚や諸願をかける人が多く、香華絶ゆることがない。

-平間寺-
UOrcC8F3TJWmwI71413452313_1413452323.jpgしょうづかの婆さん





category: 川崎市

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わが町の頼りになる接骨院  

自分の勉強のため、試験的に掲載します。


通常の記事は、このページの下になります
 またはをクリックすれば、最新のページへ移動します。 
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掲載期間:10月15日から10月20日
ご迷惑おかけしますが、今後ともよろしくお願いします.




category: 横須賀市

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一芸が身を助けた・・・諏訪神社(鎌倉御成町)  

諏訪神社(鎌倉御成町)の写真は諏訪神社をクリックしてください。
この諏訪神社にまつわる面白い話を掲載しております。


現在鎌倉市役所のある場所は、鎌倉時代には信州諏訪大神の神官の家柄で、諏訪の領主でもあった諏訪氏n邸宅の地であった。
その邸内守護神として諏訪神社を勧請して祀ったのが諏訪神社の起こりで、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)である。
諏訪一族の中で、特に名を知られている者に諏訪盛澄(すわもりずみ)がある。
多年在京し、平家方として鎌倉に参向することが遅れ、鎌倉ではいわば囚人扱いであった。
しかし東国の藤原秀郷流流鏑馬の奥義を極めるとともに、京の滝口武士により催し行われた城南寺(せいなんじ)流の流鏑馬に通じることもあってその射技を惜しまれた。
頼朝もその処遇に思い煩うことがあったが、文治三年(1187)八月十五日鶴ヶ岡八幡宮の方生会(ほうじょうえ)の当日、にわかに召しだし流鏑馬を射ることを命じた。
盛澄が賜った馬は厩(うまや)第一の悪馬であったが、悪条件にもかかわらず流鏑馬の至芸を披露して、頼朝の意に大いに適い、御家人となることを許された。

深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫




category: 鎌倉市

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偶然出来た「久寿餅」・・・川崎大師  

久寿餅

久寿餅」の伝説
くず餅は川崎大師の名物となっている。
普通葛餅と書くが川崎大師では「久寿餅」と書き、次のような伝説がある。
昔、天保のころという。
大師河原に久兵衛という百姓がいた。
ある年のこと、幾日も雨が降り続いて久兵衛は、納屋にしまっておいた小麦粉を水浸しにしてしまった。
もったいないときれいに洗って樽に入れてしまっておいた。
次の年は日照りが続き、作物ができず飢饉になった。
食べられるものは食べつくしてしまった久兵衛は、樽に入れておいた小麦粉を思い出して蓋を取ってみると、発酵して匂いがあるが底にはきれいなデンプンが沈んでいた。
それを蒸して団子をつくって食べてみるとうまかった。
久兵衛は喜び、大師の住職隆盛和尚のところへ持っていった。
和尚は「これはこれは、淡白で上品な味覚。どうじゃ、これを大師のみやげ品として売り出さんか」と舌鼓をうった。
久兵衛はみやげになるといわれて恐れ入ったが、住職はその名をつけてくれた。
「くずもちとしなさい。「く」は久兵衛の「久」をつける。「ず」は長寿の「寿」をつける。
すれば久しくめでたいということになる。
出典 神奈川ふるさと風土図 萩坂 昇

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category: 川崎市

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長十郎梨はここから始まった・・・川崎大師(平間寺)  

川崎の桃・梨つくりは、今は多摩川に沿って上流へ移ってしまったが、そもそもは大師河原から始まった。
「江戸名所図絵」には「河崎湾口より大師河原までの間にして、田んぼことごとく桃樹植えたり、故に開花もときにいたれば、紅白色交えて奇観たり」と記されている。
大師河原村での梨つくりは古く、天保のころ(1830年代頃)にはすでに栽培していたとある。
梨は東海道の道端で戸板の上に並べて、旅人に売ったり、江戸の町へも行商に行ったが「ナシ」は「無し」になるといって縁起をかつぐ江戸市民には、そっぽをむかれたという。
で、「ナシ」を改めて「ありのみ」にしたら売れたという。
その「ありのみ」を長十郎梨にして全国に広めたのが大師河原村の当麻辰次郎である。
辰次郎は、文政九年十一月に大師河原村で生まれ、明治二十六年梨の大敵黒星病に強く、甘味があって収穫の多い品種を作り出した。
これが長十郎梨で「長十郎」の名は辰次郎の屋号からつけられた。

出典 神奈川ふるさと風土図 萩坂 昇

xKRfmCkRPGmjTLr1412932730_1412932742.jpg川崎大師境内にある「種梨遺功碑




category: 川崎市

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川崎大師はこうして出来た・・・川崎大師  

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fMbV0hLjK6Yj5Gi1412760087_1412760097.jpg川崎大師山門

Ewlj_wW3Dp3xQyh1412760124_1412760135.jpg川崎大師本堂

川崎大師は、正確には大本山金剛山金乗院平間寺といいます。
むかし、大治二年(1137)という。
源義家の家臣平間兼乗(ひらまかねのり)は、無実の罪で尾張の国を負われ諸国を流浪していたが、いつしか川崎の海辺に住みついて漁をして暮らしていた。
兼乗は四十二歳の厄年を迎え、日夜かかさず厄除け祈願をしていた。
するとある夜、一人の僧が夢枕にたって告げた。
「われ、むかし唐(中国)に在りしとき、わが像を海上に流せしが、まだ有縁の人にめぐまれず海に沈んでいる。すみやかに網をうってわが像をあげ供養せよ。すれば汝(なんじ)の厄は変わって福となろう」
夢からさめた兼乗は、沖に出ると闇の中に不思議な光を出しているところがあった。
そこに網をうつと一体の像がかかってきた。
それは兼乗が信仰していた弘法大師の像だった。
兼乗は草庵をつくって像を安置していると、諸国行脚にきた高野山の導賢上人が立ち寄った。
兼乗は夢枕にたった僧のお告げを話し像を見せた。
導賢上人は感動して、寺をつくって安置しましょうぞと、兼乗と力を合わせて、大治三年に一寺を作った。
寺の名は兼乗の姓からとって平間寺とした。これが川崎大師のおこりであるという。
やがて兼乗は罪も晴れて尾張の国へ帰っていった。
この伝説から厄除け大師とされ、村は大師河原村となり、像が発見されたところは夜光町となっている。

出典 神奈川ふるさと風土図 萩坂 昇

vyLUozzi1yz4sZj1412760172_1412760228.jpg八角五重塔




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category: 川崎市

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鎖大師・・・青蓮寺  


青蓮寺山門
弘仁十年(819)、東国を巡錫していた空海(弘法大師)が鎌倉の地(青蓮寺の裏山)で一七日(いちしちにち)七日間の護摩の秘法を修行していたとき、美しい天女(江の島弁天様)が現れて力を貸してくれた。
大師が無事修法を終えたとき、天女は一粒の仏舎利(骨)を大師に託して池に姿を消してしまった。
その仏舎利を密教の法具である五鈷に納めて一夜を過ごし、翌朝目覚めると、池に青色の美しい蓮華の花が咲きそろっていたという。
飯盛山(はんじょうさん)仁王院青蓮寺(におういんしょうれんじ)の寺号はその故事にちなんでいる。
また別名「鎖大師」という名の由来は、本尊の弘法大師の両足の間接が鎖でつながれているため、自在に動かせるようになっているところからきている。
江戸時代初期の「新編鎌倉志」等覚院の項に「弘法自作の木造大師像あり。鎖大師と言う也、鎖を以って膝を屈伸するように作る故に名づく」とある。
信仰上の意味としては「大師様を信仰する人と大師様が、鎖のように強いご縁で結ばれますように」との祈願が込められている。
出典 鎌倉の寺小事典 かまくら春秋

aLbe6snm0lUw9z51412587226_1412587237.jpg青蓮寺本堂

hMsBQeFozmZx9Wo1412587316_1412587327.jpg青蓮寺鐘楼






category: 鎌倉市

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夢枕にたった親狐の恩返し・・・光明寺  

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光明寺山門
材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八壇林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。開山は記主善師然阿良忠(きしゅぜんじねんなりょうちゅう)、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条常時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、常時が、佐助ガ谷(さすけがやつ)に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。
元禄十一年(1698)建立の本堂は国指定重要文化財。また、弘化四年(1847)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は鎌倉に現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。
当寺はいまなお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。
十月十二日から十五日の間に行われる「十夜法要」は今でも夜市がたち、大勢の人でにぎわいます。
またこの期間は山門の二階に上がることが出来ます。

<光明寺>
LymucTfh08yVcqE1412415581_1412415592.jpg本堂

4dRfSxbowZJsSJq1412415540_1412415552.jpg
後花園天皇の真筆で裏に永享八年に賜ったことが記されている。

「繁栄稲荷大明神」キツネの恩返し・・・
3N7hzvA55byZ1r81412415633_1412415645.jpg繁栄稲荷大明神

良忠上人が佐助谷蓮華寺に住んでいたとき、村の子供に捕らえられ殺されそうになっていた佐助稲荷の使いの子狐を助けたことがあった。
そののち上人の夢に親狐の白狐が現れ、お礼とともに薬種袋を残していった。
疫病が流行したとき、三日のうちに生長した薬草の効能により、人々の病苦はたちどころに癒えたたいう。
現在光明寺境内に祀られている「繁栄稲荷大明神」はこの伝承に基づいて勧請されたものである。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫




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category: 鎌倉市

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乳出し地蔵  

2mI7krZSTyvtvq71412247466_1412247480.jpgみすぼらしい堂宇ですが

地図には載っていませんが、川崎市川崎区殿町の一角に、みすぼらしい堂宇があります。
この中に祀られているのが「乳出し地蔵」と呼ばれる地蔵様です。
この地蔵は、その名の通り、乳の出ない人が祈願すると乳が出るようになるといわれていました。
「東京内湾漁撈習俗調査報告書」(1967「)によると、乳の出ない人は、堂の中にある左になった藁縄を借りてきて乳が出るように祈願し、乳が出るようになると、お礼に新しく左になった縄を奉納したという。
今日では乳出しを祈願する人はほとんどなく、左になった縄も見られないが、近隣の年寄りが花や線香をあげて拝んでいくという。
小さい祠は旧上殿町の武州御嶽講の人たちによって祭られていた御岳山の祠である。
出典 川崎の民間信仰 川崎市民ミュージアム(佐藤照美)

scp1TS655YKWuN51412247505_1412247515.jpg乳出し地蔵

9JmkdP1kXzHediA1412247542_1412247552.jpg御岳山の祠






category: 川崎市

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