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近所の散歩・・・横須賀市のはずれですが  

今日は天気も良く、久しぶりに近所を歩き回りました。
YRP (Yokosuka Research Park)近辺です
p5rzhaftLyBMxDG1417341470_1417341485.jpg正面のくぼんだところは東京湾ですが・・・

mrlsf8_g1e_5Z521417341518_1417341528.jpg携帯電話系の研究所、一番左奥の低いビルはNTT電気通信研究所

lQAbmGpqKR05_N51417341570_1417341582.jpg研究所敷地付近の水辺公園

aBHrBtgOUShYYjJ1417341660_1417341672.jpg鴨も亀も日向ぼっこ

60gG3MBF5kyztkr1417341614_1417341624.jpg公園内にある”サネカズラ”
サネカズラ(実葛)は別名ビナンカズラ(美男葛)とも言い、昔は弦から出る粘液を整髪料として使ったためである。(Wikipediaより)
最寄り駅はYRP野比になります。






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category: 横須賀市

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姫君と乳母の秘話  

美女石
数ある金沢(横浜市金沢区)の名所名物の中に金沢四石があった。
美女石と姥石は称名石境内の阿字ヶ池(上の写真)にあり、他の二石は枇杷島天神の福石と金龍院の飛石であるが、これらに就いては後日掲載の予定です。
金沢四石については、江戸時代初期の「巡礼物語」にでてくるので、古くから名物として知られていたらしいが、幕末ごろになるとほとんどの案内書に登場し、多くの絵図に描かれている。
美女石と姥石の秘話
その昔、北条の姫と乳母が称名寺の池の周りを散歩していたとき、姫が足を踏み外して池に落ちた。
乳母は姫を助けようと池に入るが、二人とも溺死しやがて石になってしまったという伝説がある。
またおぼれた二人を供養するために、その場所に二つの石を建てたと言う伝えもある。
この伝説には歌まで添えられている・
「称名の みのりの池の美女石も 姥もろともに 蓮のうてなに」
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
tpfvt1H4egDP_Ma1417161503_1417161521.jpg称名寺金堂






category: 横浜市

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鎌倉時代の名裁判官・・・青砥藤綱の墓  

青砥藤綱の逸話へリンクします。

今では馴染みのない名前であるが、正式には青砥左衛門尉藤綱。
鎌倉時代の執権・北条時頼に仕え、引付衆(ひきつけしゅう)を勤めた武将である。幕府の訴訟審理を担当し執権を補佐する役で現在の裁判官にあたる。
藤綱の人物を垣間見る逸話が「太平記」に出てくる・・・・上記のリンク先に逸話を紹介しています。
ただ藤綱については「吾妻鏡」など幕府の公式記録には名前が出ていないことから、実在に疑問がもたれている人物でもある。
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄

xKV6NL0UucmN50L1416993497_1416993511.jpg青砥産土社

yYJLwsDsNVtv8qM1416993600_1416993615.jpg青砥藤綱の墓





category: 横浜市

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江戸城三大刃傷の一を引き起こした父子の供養塔はここに・・・慶珊寺  

慶珊寺
横浜市富岡八幡宮に近いところに慶珊寺はある。
寺を創建したのは豊島秋重公。豊島公といえば武蔵国に一大勢力を張った豪族であったが、室町時代に大田道潅との戦いに敗れ、四百年以上にわたり支配した所領のすべてを失い没落していた。
かっての名門豊島氏に、ようやく日の当るときが訪れた。
後北条氏が滅亡し、家康が関東に入国して間もない文禄三年(1594)、秋重は家康から召しだされ旗本に列せられたのである。戦死した父頼重の戦功もあって富岡郷(横浜市金沢区)に千七百石の領地を賜った。時に秋重十六歳であった。
孝養心の篤い秋重は、両親の菩提を弔うため花翁山慶珊寺(かおうさんけいさんじ)を建て、また領内の繁栄を願って富岡八幡宮の社殿を造営するなど領民から篤い信望を得ていた。
そんな平和の続く寛永五年(1628)、降って湧いたような大事件が起こった。こともあろうに、秋重自身が江戸城内で老中・井上主計頭(いのうえかずえのかみ)を殺害したのである。
ことの怒りは、今をときめく老中・井上家の長男と、大阪町奉行・島田家の娘の縁談であった。仲人の労をとったのは秋重である。
ところが、いよいよ婚儀の日が近づいたとき、井上家側から今回の話はなかったことにする、と一方的に破談を申し入れてきた。
しかも井上家では山形の二十二万の大名・鳥居家の娘を迎えるというのだ。
仲人として面目は丸つぶれとなり、納まらないのは秋重である。井上を問い詰めるが「上意である」と言い逃れをするばかり。この裏には大奥で強大な権勢を振るっていた春日局(かすがのつぼね)の意向があったらしいのだ。
秋重は、武士としてあるまじき井上の二枚舌と、将軍の威光を傘に上意をかざす理不尽な横やりに激昂した。そしてある決意を固め、妻子にはひそかに意中を打ち明けてあった。
運命のときが訪れる。八月十日、秋重は西の丸殿中で井上に出会うや「武士に二言はないはずだ!」と絶叫し一気に井上を切り伏せた。城内はたちまち大混乱となる。
止めに入った小姓を振りほどき、秋重はもはやこれまでと太刀を逆さに持ち替え自分の腹を刺し貫いた。
その四日後、息子の継重(十四歳)も連座して切腹を命ぜられた。
ここに名門豊島家は断絶となったのである。
江戸城内での刃傷といえば、この豊島事件から五十六年後に若年寄稲葉石見守が、大老の堀田筑前守を殺害した事件、さらに十七年経った元禄十四年(1701)、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介にきりつけた松の廊下z件がある。
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
井上主計頭の墓については、本ブログリンク先「掛川市」を見てください
tK0WmQkESGPryUS1416822401_1416822411.jpg豊島父子の供養塔






category: 横浜市

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亀の恩返し・・・宗三寺  


残念ながら、本堂は工事中でした。
旧東海道川崎宿沿いの、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。
勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
「江戸名所図会」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。

出典 門前の案内板(川崎市)
寺伝による亀の恩返し
寺伝では十三世紀のころ、僧領室玄統が開山した宗三寺、玄統がまだ若く、諸国修行の旅に出たとき、この地を通ったが、しきりに水を求めていた。
そのとき小さな亀が現れて、玄統を池に案内し、水を授けた。
やがて大僧正となった玄統はそのとき亀を思い出し池に行くと大亀が現れた。玄統は亀の恩に報い一堂を建てた。
これが宗三寺のはじめという。
それから月日の流れたある年のこと、この堂が多摩川の氾濫で押し流されそうになったとき、大亀が現れ濁流に向かっていった、すると濁流は不思議に亀に押されるようにひいていき、堂は難を逃れた。
だが今までどんな旱(ひでり)でも涸れたことのなかった亀のいた池は、それから水のない池となり亀もいなくなったという。

出典 神奈川の伝説 永井路子・萩坂昇・森比左志

Mujmt0wXYot8Yqs1416650178_1416650416.jpg
守護猫?の怒り





category: 川崎市

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乱暴狼藉の男が寺を開創・・・光傳寺  

DIxhTNRViV6Gkpq1416469440_1416469470.jpg光傳寺
創建は天正元年(1573)と伝えられ、本尊は阿弥陀如来である。
この寺の十二世の慧通住職が次のような「光傳寺縁起」を書き留めている。
昔、六浦(横浜市金沢区)の地に長野六右衛門という恐れを知らぬ豪勇の男がいた。
各地を横行し、乗っている馬が疲れると、他人の馬を奪っては次々に乗り捨てる、という傍若無人の男だった。
ある夜、千葉の白浜を通っていたときのこと、乗っていた馬が立ち止まって進もうとしない。
と、そのとき、暗がりの中に怪しく光るものが近寄ってきた。六右衛門は馬から飛び降りるや、その光を一太刀で突き刺し、刺したままにしてその場を立ち去った。
翌朝、その場に行って驚いた。なんと阿弥陀様の御首が落ちており、自分の太刀が御首を突き刺しているではないか。
さすが蛮勇の六右衛門も仏罰の恐ろしさに身を震わせ、前非を悔いて御首を大切に抱えて六浦に帰った。
すぐに草庵を建て御首を安置し、やがて導師を招いて光傳寺を開創したという。
だがご本尊は御首だけ。どうしたものかと思案していた六右衛門は、夢のお告げで「鎌倉の二階堂に胴体だけの仏がある」ことを知る。
早速、その胴体を譲り受け、御首をのせ整えたのが現在のご本尊だという。
御首は春日の作、御胴体は三尺二寸の運慶作と伝えられる。

出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
eYlSG3vmcujJZbJ1416469502_1416469514.jpg鐘楼と厄除け地蔵尊





category: 横浜市

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海中から観音出現  

長浜観音堂
ZeLvKUyPNCZ_rUq1416296650_1416296664.jpg長浜観音堂跡

StwlOq5_xPLMWJZ1416296704_1416296723.jpg長浜観音堂跡
横浜市金沢文庫称名寺山門(赤門)に隣接して小高い岩山がある。かって、ここには長浜山慈眼院福聚海寺と呼ぶ小さな寺があり、長浜観音が祀られていた。本尊は高さ1メートルほどの立像で、今は称名寺の金堂に安置されている。
この長浜観音にはどんな由緒があるだろうか。
観音功徳を記した「長浜観世音縁起和讃」という一書が称名寺に伝えられている。
この和讃によると、富岡と柴の境にある長浜は、その昔「長浜千軒」といわれるほど栄えた漁村だった。ところが応長元年(1311)、大津波に襲われ村は海の中に呑み込まれてしまった。
だがこれほどの大災害にも関わらず村人には一人の犠牲者も出なかったという。「福聚海寺の観音様が身代わりになってくださったに違いない」と、村人はその功徳に手を合わせた。
その後、37年ほど経ったある夜のこと。
観音様、海中出現
柴村の漁師が海中にまばゆいばかりの光を放つ物をみつけ、村人たちは光をたよりに恐る恐る網をいれた。と、その光の主こそ、大津波のとき身代わりになった長浜の観音様だったのである。
長年、海中に沈んでいたためカキ殻が前面に付着。村人は「貝付観音」といい、べつに「海中出現の観音」とも呼んだ。
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
d3g1o_XfpG2EGjv1416296910_1416296926.jpg称名寺赤門(山門
この赤門に向かって右側に長浜観音堂跡がある。

qApGWVXZ8TZaOwo1416297107_1416297117.jpg称名寺金堂





category: 横浜市

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珍重された金沢猫の塚・・・千光寺(横浜市金沢区)  

金沢猫(唐猫)については、以前このブログでも取り上げてますが、今回はその猫塚について取り上げてみます。
金沢北条時代の頃・・・
中国から長い航路の唐船には猫が乗せられていた。これは、積荷や食糧をネズミの害から守るためであり、とくに貴重な仏典や書籍などがネズミにかじられることは絶対に防がねばならなかったのである。
このことは、船に限らず経典類が保存されている寺院も同じことで、ネズミの害を避けるため猫を飼うことが通常だったという。日光東照宮にある左甚五郎作の「眠り猫」にもそんな願いがこめられているといわれる。
さて、船内での大切な役目を終えた「唐猫」は、金沢の地に住み着いて繁殖し、その子孫は「金沢猫」と呼ばれ愛好家に珍重されたらしい。
金沢猫については諸書に記述はあるものの、どんな特徴をもっているのか実態はわかってはいない。
とはいえ、中国船に乗せられて金沢(横浜市)についた猫が金沢に住みついて繁殖し、金沢猫と呼ばれ珍重されたことは間違いないだろう。
この寺に金沢猫の供養塚が・・・
あるとき、珍重されていた金沢猫の死骸がみつかり、村人たちはこの千光寺境内に葬って供養の「猫塚」をつくった。
山門をくぐって左手の茂みのなかにひっそりと自然石が建ってる。これが俗に言う「猫塚」である。
又この周辺には金沢猫を埋めたといわれる「猫畑」という地名が残されている。
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄
Zjyf7lNjJY8Zk7U1416124817_1416124830.jpg千光寺山門

1tgNPeSbUeuSu0B1416124956_1416124972.jpg猫塚





category: 横浜市

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疱瘡の守り神・・・芋観音  

長昌寺(芋観音

n0QanvM6WPxyZP91415961401_1415961410.jpg芋観音堂
芋観世音縁起(長昌寺観音堂)
その昔、富岡(横浜市金沢区)の北にある鳥見塚に、豊かな水をたたえて一年中芋の葉が茂る一間四方の池がありました。
いつの頃からか、この池の中に小さな観音様が現れるようになり、霊験あらたかなことから、戦国時代末期、時の地頭や村人たちによって池の近くに観音堂が建てられました。この観音様は本来、人々から病苦を抜き去ってくださる恵み深い観音様で、お詣りすればいかなる願い事も叶えられ、また容貌を美しくしてくださるともいわれてまいりました。
この由来から、「芋観世音」または「芋神様」と尊称され人々から絶大な信仰を受けられるようになり、ご開帳日には近郷近在のみならず、江戸や相模の国からも子供を連れた参詣者でにぎわったと古記録に記されています。


耳袋>」(勘定・町奉行を務めた根岸鎮衛が、世間話を随筆風にまとめたもの)での紹介内容
寛政八年冬から翌年春にかけて疱瘡が流行し、我が家の子も感染した。その折、かかりつけの医者がこんな話をしてくれた。「ある患者宅で子供たち全員が感染したのに不思議なほど軽くすんだ。聞いてみると、富岡の芋大明神の水を患部に浸せば症状が軽くなるとのことだった。医者の私が言うのもおかしな話だが、別に害があるわけでもないから一度試してみたらどうか・・・」と。
根岸は早速使いのものに水を取りに行かせた。その者の話によると、芋大明神の祠のそばには小さな池があり、小島に一本の柳が生えていた。周りは一面に芋が茂り、正月というのに葉や茎は青々としている。
池の端に小庵があって、そこの禅僧の話では「疱瘡に良く効くといって、江戸からも水を貰いにくる人が跡を絶たない。とのことだった。
また近くの老婆からは「ある人が池の水がそんなに効くなら、芋を食べればもっと効くだろうと抜き取ったところ、病状は逆に重くなってしまった」という話も聞いた由。
出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄





category: 横浜市

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黄門様はこんなところにも来た?・・・榎地蔵  

榎地蔵の伝説
このお地蔵様は、榎地蔵と申します。
昔、水戸黄門公来遊のときに従者がその霊験を唱え、海より揚げ祀られたものと口碑n残されています。
ところでこの榎地蔵様は永い間社会安全を守りつつ、専らこれが難病苦病を治し、また安全、子授け地蔵さんとして、多数の人々を助け、人助けの地蔵様と愛称広く一般社会の信頼を集められています。
四月十四日、二十四日は地蔵様の命日です。
敬白
出典 榎地蔵案内板
_ZSB43Y4Nr8aa1c1415782663_1415782678.jpg榎地蔵
xxHFUUqEHEZ5cut1415782715_1415782729.jpg
水戸黄門もやってきた・・・そして地蔵を棄てたが。
例によって諸国漫遊の旅に出立した黄門様の一行は、水戸から房総を経て船便で横浜金沢の六浦港に着いた。
早速、金沢遊覧の途中で榎地蔵の前に差し掛かったとき従者が「この榎地蔵は、たいそう霊験あらたかで、願い事は何でも叶えてくれる地蔵様です」と申し上げた。
すると黄門様は一笑し「助さん格さんや、そんなに御利益のある地蔵様がいるはずはありません。村人たちを迷信で惑わすようなことをしてはなりませんぞ!」とたしなめ、地蔵様を乙舳(おっとも)の海へ投げ込ませた。
さて、漫遊を終えて水戸へ帰ったご老公一行、思わず驚きの声をあげた。金沢の海に投げ込んだはずの地蔵さまが、なんと水戸近くの海に打ち上げられていたのだ。
さすがのご老公も、改めて地蔵様の霊験に脱帽し、すぐに地蔵様を金沢に運ばせ丁重にお祭したという。
なお水戸光圀公は延宝二年(1674)の夏、家臣を従えて鎌倉・金沢の名勝旧跡を訪ねた史実がある。

出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄





category: 横浜市

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江戸富岡八幡宮の本宮はここだ・・・横浜・東京  

大江戸三大祭は、神田明神の神田祭、千代田区永田町日枝神社の山王祭り、江東区富岡八幡宮の深川祭りを言います。
その中の富岡八幡宮は横浜市金沢区の富岡八幡宮から分霊されたといわれています。
mTcCNRhbekemkpu1415609826_1415609841.jpg横浜富岡八幡宮

oOdU9xtBCIPs0HV1415609709_1415609720.jpg横浜富岡八幡宮
横浜富岡八幡宮は、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに当って、兵庫県の西宮神社から蛭子尊(ひるこのみこと)を勧請し、富岡の鎮守としたと伝えられています。
この神社の由緒として次のような言い伝えがあります。
縁起によると、それは安貞元年(1227)六月十五日富岡村の祭礼の日だった。
一人住まいの老人の家にどこからか旅の僧が食べ物を乞うて訪れた。老人は貧乏で恵むご馳走もなかったが、お祭に供える麦で作った酒をすすめた。
旅僧は手にした茅の葉で酒をすくい旨そうに飲み干した。
そして老人に向かって「吾は八幡大菩薩の化身である。今日からは吾を祭るべし、信仰すれば必ず村の厄を取り除き、幸せを授けるであろう」と告げる。
老人がハッと気づいたときにはすでに旅僧の姿はなかった。それ以来村人たちはお告げ通りに八幡様をあわせ祭り、社名も八幡宮と改めたといわれています。

この富岡八幡宮の周囲は、今では海岸の埋め立て等で昔の面影はなくなっている。この地域は応長元年(1311)大津波に襲われ一夜にして「長浜千軒」といわれた漁村が海中に飲み込まれたのである。
富岡は八幡宮の山にに守られて何の被害もなかった。
村人たちは八幡様の御加護に感謝し「波除け八幡」と呼んで崇敬の念を篤くしたという。
深川富岡八幡宮の起源
寛永の頃、徳川家光が江戸の都市計画で、深川周辺の埋め立てをした時、数度の高波を受け工事が難航した。そのとき、家光は横浜金沢区の富岡の「波除八幡」に祈願し、分霊を祀って無事に埋め立てを完成させたという。
これが江戸最大の八幡様として信仰を集め、「深川八幡様」として親しまれている富岡八幡宮の起源といわれる。
金沢の富岡八幡宮は、その本宮である。

出典 ぶらり金沢散歩道 楠山永雄






category: 横浜市

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破顔一笑のお宮参り・・・称名寺  

称名寺
正面は金堂、右は釈迦堂(茅葺き)です。
この橋を渡って、金堂前で家族でのお宮参りのご家族に遭遇しました。
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wxbQw6XQHHsCkiB1415438868_1415438881.jpg
旦那さんの破顔一笑と赤ちゃんの寝顔が印象的

参考までに・・・・
この赤ちゃんの守護仏は「勢至菩薩」になります。
もっと詳しく言えばこの勢至菩薩は「慈悲と知力の菩薩で、智慧の光をもって人々を救済する」といわれています。
阿弥陀三尊として、阿弥陀仏の左は観音像、右側に勢至菩薩を配しています。







category: 横浜市

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子供を殺されたのを知らずに・・・・畠山重忠もまた・・・  

畠山重忠公碑
重忠の長男重保は北条時政に由比ガ浜に誘い出された殺されてしまった。
何もしらない重忠は菅谷の館(埼玉県嵐山町)を発ってこの日鎌倉へ向かっていた。武蔵国二俣河(横浜市旭区二俣川)で、北条方の大軍に遭遇しその日の朝の重保誅殺のことと目の前の軍勢は自分を討伐するためのものと聞き知らされる。
覚悟を決めた重忠は主従わずか134騎で大軍に立ち向かい、激闘数刻、ついに愛甲三郎季隆の放った矢に当たり討ち取られた。
42歳であった。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫
Gm1qWPQGAemftxM1415269575_1415269592.jpg二俣川古戦場跡
8pcIcS4FqwnnqFp1415269620_1415269635.jpgさかさ矢竹
さかさ矢竹の由来
鎌倉武士の鑑畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北条勢の大軍と戦って敗れた。
公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの)二筋を地に突き刺した。
やがてこの矢が自然に根つき、年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったという。

出典 案内板 横浜旭ロータリークラブ

W7VxX0fd7Mctsig1415269664_1415269676.jpg横浜市薬王
この寺には重忠以下一族郎党134名を葬ったと伝えられる六つ塚が残されている。





category: 横浜市

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みかん狩り真っ盛り  

Ec1OIpS0999rHp11415086486_1415086549.jpg横須賀市津久井浜観光園で

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UVhHu2gbqtYpIpZ1415086707_1415086717.jpg10月桜

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PDlaZHu7qZ5zgsd1415086432_1415086443.jpgみかん園からの眺め
海を隔てて横たわっているのは房総半島(千葉県
ここ横須賀市津久井地区は、三浦富士、武山のハイキングコースが近くにあり、ハイキングの帰りにみかん狩りを楽しむ人も多いようです。
また、時間が早いようなら、海で疲れた体を癒すのもいいかも・・・・
最寄の駅(京急久里浜線)津久井浜駅からは、みかん園までの無料送迎バスも出ています。
みかん狩りと同時に芋ほりも行われています。

なお、津久井浜駅から海までは歩いて5分という近さです。
詳しくはJAよこすか葉山をクリックして確認してください。





category: 横須賀市

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鎌倉武士の典型、剛勇廉直の畠山重忠邸跡  

畠山重忠邸跡碑
重忠は、源頼朝挙兵の際は平家方についたが、のち源氏に服属。
木曽義仲や平家の追討に大いに活躍し、剛勇廉直の鎌倉武士の典型として、源頼朝の信頼も篤かった。
大蔵(大倉)幕府に近い南御門に邸宅を与えられたのも信頼の表われと思われる。
石碑には正治元年(1199)五月、頼朝(同年一月にすでに没している)も次女三幡姫が病み、その治療のために、当時の名医丹波時長が京より鎌倉へ下ってきたが、止宿先が亀ヶ谷(かめがやつ)であったので、療治のために姫君の住む御所近くの重忠邸にうつった旨の「吾妻鏡」の記事を記し、重忠邸が大倉幕府に近い、しかも信頼のおける配下の邸宅であった趣をしめしている。

畠山重保は重忠の長男である。(赤字は重保の墓へリンクしています。)
重保は元久元年(1204)十一月、三代将軍実朝の御台所(坊門信清の娘)を京都に迎えに行く人数に加えられて上洛したおり、京都守護職の平賀朝雅(北条時政の後妻牧の方の娘婿)と酒宴の席で言い争いが始まった。
それを根にもった朝雅は重保のことを義母牧の方に讒訴(ざんそ)し、牧の方は当然時政の耳に入れる。
時政はこの機をを逃さない。
もともと比企滅亡後武蔵の国において勢力圏の接近する武蔵畠山荘の領主重忠と朝雅との対立が加わったことを好機と捉えて、重忠親子の誅殺を内々謀るにいたる。
時政自身も武蔵国への進出を企図していた。
子息義時と時房がこれを諌めるという経緯もあったが、重忠の謀叛すでに発覚ということで押し切り、元久二年(1205)六月二十二日早朝、まず重保を由比が浜に誘い出し謀殺した。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫





category: 鎌倉市

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