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2014年12月の記事一覧

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本年もご訪問いただき・・・・  

今夜で今年のブログの書き込みを終わります。
なかなか皆さんのようにはうまく書けませんでしたが、それでも今年中に10万のアクセスを突破できました。
ご訪問いただいた皆様には深く感謝しています。
ありがとうございました。
来年もあちこち訪ね歩きながら、皆様に追いつき追い越せの気持ちでがんばります。

皆様にも来年が、よりいい年であるように祈念します。

bOmExWfnZIgRtkM1419933728_1419933745.jpg三浦市三浦海岸
rJWNpvAjqAYJHps1419933777_1419933790.jpg三浦市三浦海岸
PQSIq3sQAPH72xw1419933819_1419933830.jpg浦市三浦海岸

なお、来年は1月4日から、始める予定です。






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category: 未分類

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静桜の由縁は・・・鶴岡八幡宮  

静桜
静御前の終焉の地とされる福島県郡山市から寄贈された桜の木で「静桜」と命名されています。
M7lRG28JXDOf1U01419765129_1419765161.jpg寄贈されたことを示す
静御前は、いやいやながらも頼朝・政子の前で舞を演じさせられている、
また静御前には、頼朝に自分の子を殺されたというかなしくも、残酷な話しがのこされている。⇒静御前の悲劇
静御前ホームページ(静御前浪漫紀行)・・・福島県郡山市





category: 鎌倉市

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首の抜ける理由は?・・・西念寺  

9D_Mnzzz4UxcLRR1419583106_1419583124.jpg西念寺
鎌倉市岩瀬にある西念寺に「木屋」というおじいさんの木像が置かれています。
この木屋老人は、あるとき、自分の姿をのちの世まで残したいと思い、顔も手もそのままに彫らせたといわれます。また木屋老人はたいそう信心深い人でした。で、寺にお金や田畑を寄進したりして大変に尽くしました。
木屋老人はまた、大変におしゃれな人でした。
年を経るにしたがって、この木像が変色しないように、同じ容色で残ることを願いました。
そのために、ときどき塗り替えをするために、首が抜けるようにと工夫させました。
それは或る年のことです。
この木屋老人の首は年忌のたびに塗り替えることになっていたので、何回目か法事のとき、村の人がこの首を風呂敷に包んで、塗り替えのため江戸へでかけました。
そしてその夜は品川宿に泊まりました。村の人は宿にわらじを脱ぐと、夕食ののち、海道一の宿場見物に宿を出ました。
そのとき、「これは大切なものだから、見てはいけないよ」と云って、その風呂敷包みを女中にあずけてゆきました。
見てはいけない、と云われると人は誰でもそれに好奇心を持つものです。
そこで宿の女中たちは、これは何でしょうかと触ってみたりしているうちに、開けてみたくなりました。
そこで幾人かが集まって、これは珍しい宝物にちがいないといって、その包みをほどき、箱の蓋を開けたとたん、「あーっ」とたまげて腰を抜かしました。
箱の中には老人の生首があって、じーっと女中たちをにらんでいます。
腰を抜かすもの、気を失うもの、恐ろしさに二階から転げ落ちるものも出て、宿は大変な騒動になりました。宿の主人も番頭も出てきて、眼をまわし声も出ぬ騒ぎとなりました。
村の人は、そんな大事件が起きているとは露知らず、宿場の賑わいをのんびりと見物して宿に帰ってきました。
そしてこの大騒ぎをきいて笑ってしまいました。
しかし、宿の人達は他の客人まで交えて誰も信じようとしません。
村人はついにその生首を二階から持って来て、行燈(あんどん)の近くにおきますと、箱の中の木屋老人は、いかにもにこやかに取り澄ましているではありませんか。主人も番頭も女中たちも、さらに腰を抜かしたり眼をまわしたり、口も聞けずに逃げ出したりしました。
そこで村の人は、この木屋老人の首を箱から取り出して、これはこの通り木で造った首ですよ、といってみんなの前で首の付け根をこつこつとたたいて見せました。
これで宿の人達もやっと安堵の胸をさすりました。
出典 鎌倉案内 小澤 彰
lKFg11WN5t3FVUU1419583168_1419583189.jpg西念寺六地蔵





category: 鎌倉市

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頼朝が禊(みそぎ)のために服をかけた石・・・枇杷島神社  

U6jS6CSB4LxNfze1419411196_1419411213.jpg枇杷島神社から瀬戸神社を望む
二つの神社の間を裂くように、国道が走っている。
vL7C5rnWvQFh1Cn1419411276_1419411291.jpg福石
源頼朝が、瀬戸神社参拝のため、枇杷島神社のある平潟湾で禊(みそぎ)をしたときに、衣類をかけた石なので「呉服石」または「福石」とも呼ばれています。
出典 横浜金沢観光協会

横浜金沢観光協会はここをクリックしてください。





category: 横浜市

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豚も牛も迎えてくれます・・・鎌倉小町通  

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以上、いずれも小町通りで迎えてくれてますよ♪
気をつけて、よーく探してください。
探せば他にもあります。





category: 鎌倉市

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「鎌倉」という地名は・・・・鎌足(かまたり)神社  

YrYD2BgSWockbfJ1419067474_1419067489.jpg鎌足神社への石段
「鎌倉」という地名はいつ頃から使われているのだろうか。
諸説あって正確な由縁はわかっていない。
主説を紹介すると、もっとも有力なのが地形から「鎌倉」になったという説。地形の侵食「噛む」とする説。また鎌倉の「かま」はかまどのことであり、鎌倉の地形がちょうど「かまど」に似ているからだという。
「古事記」によると蔵は「谷」のことで「大倉は大きな谷のこと」とある。
したがって「かまどの谷=鎌倉」となったという。
アイヌ語に「山を越えていく」という意味の「カマクラン」という言葉があり、その音(おん)から鎌倉といわれるようになったという説もある。
神武天皇が東夷(あづまえびす)を討伐しようと毒矢を放ったところ死者が一万人出たという。屍(しかばね)が山のように重なっていたことから屍倉(かばねくら)とよばれ、それが鎌倉になったという説もある。
「詞林采葉妙」(しりんさいようしょう)は貞治五年(1366)に成立した万葉集の研究書だが、それによると、藤原鎌足が現在の茨城県の鹿島神宮を参拝したおり、途中油井の郷に泊まり、不思議な夢を見たという。
そのとき愛用していた鎌・槍を大倉の松ヶ岡に埋めたという。そこから「鎌」と「倉」をとり「鎌倉」になったという説もある。
芦や蒲(かば)が生えていたので蒲の蔵(谷)から「鎌倉」、また神倉がなまって鎌倉になったという説もある。
鎌倉の「鎌」には「金」の意味が、「倉」には「人の君」の意味があり、鎌倉とは「金=武備」「人の君=将兵」を表していたのではと解く学者もいる。
いずれにせよ諸説あるのだが、地名学上では「侵食(噛む)による崩壊地(ほうかいち)からついたとする説が有力である。
出典 鎌倉なるほど事典 楠本勝治  

bw_Q2ruIauH650d1419067539_1419067556.jpg鎌足神社

pe3TLhZ4rqQy1RG1419067608_1419067619.jpg鎌足神社小祠

バス利用の場合
JR鎌倉駅前 乗り場5番 : 下車停留所 浄妙寺




category: 鎌倉市

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猫が迎える浄妙寺  

There is English version
Pleas click "---Guide in English---"under this pag-e

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総門のかげで迎える猫

jxZxRncbWQtBACd1418905542_1418905559.jpg総門
源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣・足利義兼(あしかがよしかね)が、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として建立しました。
行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧です。
鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭(たっちゅう)を持つ大寺院でした。現在は総門、本堂、客殿、庫裏が残っています。
茶室・喜泉庵と枯山水の庭は平成三年に復元されました。
じつは、この本堂右側山の中腹に、「鎌倉」の地名になったといわれる神社があります。
次回はこの神社を取り上げる予定です。>→ここをクリック
SnIFCBrtwkXn_SH1418905604_1418905614.jpg

バス乗り場 JR鎌倉駅5番線 : 下車バス停留所 浄妙寺




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category: 鎌倉市

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鹿島大神  

鹿島大神
鹿島大神由緒沿革
祭神:武甕槌命(たけみかつちのみこと)
本神社は鎌倉時代、現在の鹿島田辺りに開墾に入った人々が、今日関東地方で広く知れ渡った鹿島神宮から勧請して創建されたと伝えられています。
やがて開墾が進み水田が出来上がるとこれを村の鎮守貸間大神に寄進した。のちに鹿島田の水田・・・・こうしていつの間にか「鹿島田」という地名が生まれたと言われています。
文献上に初めて鹿島田の地名が見えるのは、鎌倉時代で弘安九年十一月二十九日鶴岡八幡宮に寄進され「武蔵野国鹿島田郷」と記されています。
町名にも由来する鹿島大神は、昭和の始め頃までは「鹿島さま」といわれていて十二月には大きな市がたち、奉納相撲などもあり近隣の村々から大勢の人々が集まり大変賑わったといわれています。
mMfLIzPlatMkifr1418725683_1418725708.jpg鹿島田大神





category: 川崎市

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赤穂浪士討入りの後に・・・  

この記事は、前号の「そろそろ赤穂浪士の時期ですが・・・」にリンクしています。
また銚子塚が、古墳という立場から取り上げられているブログもありますのでリンクします。
リンク先 「川崎の古墳 平間銚子塚」(カメさんと遺跡:Kame naokiさん)
oLbDj060656teDW1418550020_1418550035.jpg銚子塚

銚子塚
この塚は「銚子塚」と呼ばれ、「土人云塚の形銚子に似たれば名くと」と「新編武蔵風土記稿」にも記されています。
また、一説によると、江戸時代中期の赤穂浪士討入りの際、大石内蔵助の一行が平間に滞在し浪士の一人、富森助右衛門が大工の喜右衛門に送った銚子が、この塚の祠にまつられているといわれています。
出典 川崎市史他
noyxOqim6KDK1011418550068_1418550079.jpg銚子塚祠





category: 川崎市

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そろそろ赤穂浪士の時期ですが・・・称名寺  

若い人達は「赤穂浪士」を知ってるんでしょうか・・・・
今回は川崎市称名寺に伝わる「赤穂浪士」の隠れ家について紹介します。
GLLUzUk_wO7fSos1418376430_1418376458.jpg称名寺山門

VPYZ7ziTdolSJD01418376489_1418376498.jpg称名寺本堂

QbZoESvadlqWqLQ1418376526_1418376536.jpg山門脇の石碑
JR南武線(川崎-立川間)鹿島田駅から徒歩10分近くのところにこのお寺はあり、門前には写真のような碑があって、赤穂浪士の隠れ家の伝説がある。
元禄の頃、このあたりに軽部五兵衛がいた。
五平衛は、江戸の鉄砲洲にあった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の屋敷へ出入りして秣(まぐさ)を納めたり下肥をとったりしていた。
そして、堀部弥兵衛、大高源吾らと親しくなっていた。
元禄十四年(1701)三月十四日、かの殿中刃傷事件がおき浅野家は断絶、家臣は浪人の身となって投げ出された。
いく月かたった或る日、堀部弥兵衛、大高源吾、富森助右衛門が五兵衛に浪士の隠れ家を求めてきた。
五平衛は快く引き受けた。また五平衛と親しい平間村の大工、喜右衛門は浪士のために五両という破格の安値で家を建てた。
元禄十五年(1,702)十月七日、京都山科にいた大石良雄は、名を垣見五郎兵衛と変えて江戸に二十六日に五平衛の隠れ家に入った。
十一月四日夜、別れの宴が称名寺で開かれ、大石良雄は五平衛にひと振りの太刀を、富森助右衛門は大工の喜右衛門に銀の*銚子を贈った。

出典 神奈川の伝説 永井路子・萩坂昇・森比佐志
*銚子塚については、次回で紹介します。





category: 川崎市

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日蓮とともに囚人となった四条金吾の屋敷跡・・・収玄寺  

There is English version
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GPjuQfMrpdXYtPM1418203831_1418203850.jpg四条金吾屋敷跡(収玄寺
日蓮聖人四大法難の一つ文永八年(1271)の龍口法難の際、宗祖日蓮とともに殉死の覚悟を決した、四条金吾頼基の屋敷跡で、金吾の没後、捨身護法、法華色読の霊地として一寺を建設したのである。
文政年間(1818~30)の創立。
収玄庵と称したが、大正初期本堂を改築し、寺号を収玄寺とした。
(収玄寺案内板より)
Q4WThQQZ29GYBIG1418203893_1418203910.jpg収玄寺本堂
龍口法難のリンク先 →龍口寺
龍口法難囚人の収容先のリンク先→光則寺





-- Guide in English --

category: 鎌倉市

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逸話の残る甘縄神明社  

甘縄神明社
「神明様」と呼ばれている甘縄神明社は、鎌倉開府以前からの古い神社で、言い伝えによれば由比の長者染谷太郎太夫時忠が創建したということです。
「吾妻鏡」に「伊勢別宮」とあるのは、この神社のことで天照大神を祀ってあるのでこの名があるわけです。
甘縄の由来については「あまなう」(協調する。甘んじて受ける)の意味だとする説、縄入が甘い(検地がきびしくない)との意味とする説・「海人縄」(漁夫の地域)の意味だという説など色々ありますが、いずれも定説とはなっていないようです。
ご神体は八幡太郎義家が自分の守護神を納めたと伝えられています。
そうした由縁があるからでしょうか、頼朝はたびたび参詣していますし、政子も実朝も参詣しています。
rV1vv1PrnXZOfZX1418030905_1418030914.jpg安達盛長邸跡
神明社の下、東側のところに伊豆の頃から頼朝に仕え、挙兵にも功あった老臣、安達盛長の邸があり、頼朝はよくこの邸を訪ねています。
二代将軍瀬家が、盛長の息子景盛の愛妾を奪い取った上、景盛を討とうと兵を向けたとき、政子からその無法をきびしくしかりつけられ、しぶしぶ兵を引いた話は世に知られていますが、これも甘縄を舞台にした話の一つです。
この景盛の娘が北条時頼の母松下禅尼で、彼女が障子の切り張りをして倹約を教えた話は有名です。松下禅尼の教え
安達景盛は時頼と計って三浦一族を滅ぼし(宝治合戦)、大いに権勢を伸ばしましたが、次第に権力を誇り、横暴な振る舞いをするようになったためついに弘安八年(1285)十一月、執権北条貞時によって安達一族は打ち滅ぼされ、永続いた甘縄の邸も焼き払われてしまいました。
出典 知られざる鎌倉 沢 寿郎
宝治合戦についてはブログ「鎌倉の石塔・周辺の風景」にリンクしています。宝治合戦→クリックしてください。
53k9J8Zue_P5pFq1418030857_1418030874.jpg北条時宗公産湯の井戸(本殿に昇る階段脇)
北条時宗は安達邸で生まれ育ったといわれます。





category: 鎌倉市

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これは江ノ電、これも「えのでん」?  

ZKR8231lFTqDSj11417858396_1417858528.jpg江ノ電(鎌倉駅

pwarkUobIyeoIZl1417858695_1417858723.jpgえの田(鎌倉駅ホーム脇
江ノ電鎌倉駅そばの古代米を栽培している田んぼ(ホームからの写真です)





category: 鎌倉市

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面掛行列と石上神社・・・御霊神社(2)  

面掛行列
この御霊神社は、俗に「権五郎様」とよばれている。
ここのお祭は九月十八日ですが、そのとき氏子の人達が十人、奇妙なお面をかぶって行列することで知られています。
土地の人達はこの行列を「はらみ」と呼んでいますが、それは行列の中におかめの面をかぶり腹に笊(ざる)を入れて妊婦の格好をした人がくりだすところから名づけられたものだろうと思われます。

2014120203.jpg面掛踊りのお面

2014120202.jpg石上神社
石上神社のいわれ
御霊神社の境内に「石上さま」という小さい祠があります。
これは稲村ヶ崎の沖の海底に大きな岩があって、舟がそれにぶつかって、たびたび沈むことがあったので、江戸時代の末ごろ村の人達が相談してその岩を切り取り、それを祀ったのが「石上さま」です。
この社のお祭は七月二十五日で、この日地元の若者が白木のまげものに、お赤飯を盛って榊の小枝を差したのを片手に奉げて、もと大石があった場所とされる稲村ヶ崎の沖、江の島が見える辺りまで泳いでいってお供物の赤飯を海中に供えて来るんです。
俗に「かっぱ祭り」といって、そのときはみこしを乗せ飾り立てた船もいくつも出てにぎやかにお祭します。
出典 つれづれの鎌倉 沢寿郎
御霊神社(2)←クリックすればリンクしています。




category: 鎌倉市

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左目に矢を射られても、なお屈せず・・・・御霊神社(1)  

御霊神社
当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平治の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政公一柱となる。
源頼朝公始め幕府の崇敬篤く「吾妻鑑」に御霊社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する奇瑞ある神社として有名である。
祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平忠道を祖父とし、父鎌倉権守景成(かまくらごんのかみかげなり)の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方、現在の湘南地域一帯(戸塚・鎌倉・鵠沼・藤沢・茅ヶ崎)を開拓した開発の鎮守である。
景政公は初陣で・・・
十六歳にて奥州後三年役(1083~1087)が初陣であった。
左目に矢を射たてられしも屈せずして答の矢を射て相手を斃し(たおし)陣中に帰り、その矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の剛気と高い志は歌舞伎にもなり、武士の鑑と永く仰がれている。
江戸時代より、上記史実より眼病平癒、除災の神として祈祷多し
出典 御霊神社由緒(案内板)  
47e1FZAWpT43kGp1417515070_1417515095.jpg江ノ電のお通りです

zhjvN9Z18E3joWN1417515009_1417515020.jpg袂石と手玉石
袂石(写真右側:16貫)と手玉石(写真左側:28貫)
ご祭神景政公が手玉に取り袂に入れたと伝えられる。
公の人知を超えた霊才を示す重量の石。
石は神霊を宿す神の依代と考えられる。





category: 鎌倉市

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