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行合川・・・日蓮、龍の口の奇跡  

行合橋
江の島を目の前にした国道にある細い川が行合川です。
文永八年(1271)九月十二日に、日蓮上人が龍の口で斬られようとしたとき、急に激しい雷雨となり役人が振り下ろそうとした太刀が折れるという奇跡が起こりました。
驚いた役人はこの不思議を鎌倉の幕府に知らせるために使者を走らせました。
一方、幕府の方でもいろいろ不思議なことが起こったので、これは日蓮上人を罪もないのに斬罪にしようとしたためだろうと云うので、上人の斬罪赦免の使者を走らせました。
この両方の使者が、ちょうどこの川のところで行合ったので、行合川という名が生まれたのだと言い伝えられています。
この川は田辺ヶ谷から流れてくるのですが、谷戸の奥にある田辺池は日蓮上人が雨乞いの行をして雨を降らせたと言い伝えられています。
出典 新板鎌倉名所記 沢 寿郎

日蓮龍の口法難龍の口法難へリンクしています。・・・本文中下線部分については、リンク先では太刀は折れてないですが、このブログでは出典元の作者の意図を大切にしていますので御了承願います。

日蓮雨乞いの池田辺ヶ池へリンクしています。

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category: 鎌倉市

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龍と鳩・・・鎌倉円覚寺  

鎌倉円覚寺については鎌倉五山円覚寺をクリックしてください。

円覚寺舎利殿(国宝
snR2lWIv4b6otbz1422439948_1422439962.jpg舎利殿内
円覚寺の開山は、北条時宗の招請によって宋から来朝した無学祖元禅師であることは皆さん御存知の通りです。
ですがそれについては次のような話が残っています。
禅師が円覚寺を開いてからのことです。
或る日、弟子たちに話して云われるには、わしがこの国へ渡って来たのには深い因縁があったのだ。というのは、わしがまだ故国にいた時 
のこと或る日いつものように座禅を組んでいると、目の前に見るからに気高い 神人が現れた。
その人は頭に冠をつけ手には笏を持っていた。そしてわしに向かって、和尚、そなた是非わしの国へ来て仏法を広めてくれぬか、そうすれば、わしが必ずそなたを守護してやろう。というのだ。しかもそれが一度だけでなく幾度も同じようなことが繰り返しあった。だが、その人は自分がどこの何者とも名乗ろうとしない。
また、その神人が現れるときには、いつでも金色の龍と、青い鳩がその人についてくる。そして龍はわしの衣の袖に入り、鳩はわしの膝の上にとまる。いつの時でもそうなのだ。
そのうちに、時宗公の招きでわしはこの国へわたり鎌倉に来ることになった。
ここに来て間もなくある人から、ここには鶴岡八幡という神霊いやちこな社がある。あなたはこれから鎌倉に住むのだからまず鶴ヶ岡に参拝しなさい、と勧められたのでお参りに行ってみると、楼門の梁の上に何百羽とも数え切れぬほどの鳩がいる。人に尋ねると、鳩は八幡の御使いだとのことだった。それを聞いて、さては以前わしのところへ現れた神人はこの鶴岡八幡だったのだと、初めてさとった。
こうした霊妙な因縁によってわしはこの国へ渡り、ここ鎌倉に住むようになった。だから、わしが示寂した後、もしわしの姿を刻むことがあったら、膝の上には鳩、袖のところには龍を添えて、後世までこの尊い因縁を伝えてほしい、と話されました。
円覚寺舎利殿の裏にある開山堂に安置された禅師の木像の椅子に、龍と鳩が刻まれているのは、こういうことがあったからだと伝えられています。
出典 かまくらむかしばなし 沢 寿郎
YVFU3ooNhv8l3XQ1422439902_1422439913.jpg開山堂内部
現在では舎利殿および開山堂は見ることはできません
kcII2EXF7N4iiEL1422439767_1422439787.jpg円覚寺のリス





category: 鎌倉市

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佐助稲荷と子狐とお坊さん  

「佐助霊社略縁起」の中に記主上人のことが出てきますが、蓮華寺時代のことでしょう。蓮華寺は北条経時の開基し、記主禅師を開山とし仁治元年(1240)に創建したといわれていますが、後に鎌倉材木座に移って光明寺となっている。
あるとき、記主上人が隠れ里付近を通ると、子供たちが一匹の子狐を捕まえて打ち殺そうとしていました。
上人は狐を助けてやりました。
その夜の夢に白狐があらわれて、眷属((けんぞく)を助けてもらった礼を述べ、近く鎌倉に疫病が起こり多くの人々が苦しむが、この種子を蒔き、三日たったらその葉を取って食えば、たちまちに病気は癒えますと告げて消えうせました。
眼を覚ますと枕元に紙包みがあり、中に何か知らぬが種子が入っていました。そのうちに白狐の予言通り、疫病が流行し苦しむ人が多かったので、上人は云われたように種子を蒔き、その葉を与えて病人を治してやりました。
人々が上人の徳をたたえると、上人は、いや、これは佐助稲荷が与えてくださったもので、私の力ではない。
礼には稲荷様に参詣するが良いと教えた話です。
現在光明寺境内に祀られている「繁栄稲荷大明神」はこの伝承に基づいて勧請されたものである。
出典 新板鎌倉名所記 沢 寿郎

上記の光明寺をクリックすると、「繁栄稲荷大明神」の写真もあります。





category: 鎌倉市

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頼朝の夢枕で告げられた旗揚げ・・・佐助稲荷  

佐助稲荷参道
佐助稲荷の縁起
頼朝がまだ伊豆蛭ヶ小島にいたころ、ある晩ひとりの老人が夢枕に立って、「殿は清和の末葉、王氏を出て遠きにあらず、
まさに一天下の権威をしりたまわんの相あり、早く義兵を起こし朝敵を亡ぼし宸襟を安んじたまえ。我は鎌倉に鎮座の稲荷の神霊なり。時節到来を告げ知らしむるなり。」と云ったと思うと消えうせました。
不思議なことと思っていると、それから間もなく以仁王の平家追討の令旨が届き、やがて旗挙げとなり、みごと源家再興の宿願を遂げることができました。そこで頼朝は鎌倉に入ると間もなく、畠山重忠に命じて、稲荷の社を建てて尊崇し、佐殿(頼朝のこと)を助力したという意味で「佐助稲荷」と称したというのです。
以前は佐介と書くのが普通でしたが、現在では佐助と書くのが一般的です。
出典 新板鎌倉名所記 沢 寿郎
edGci2xuy7Vb9nR1422093431_1422093441.jpg佐助稲荷拝殿
o6TBlR956XD8p9B1422093485_1422093494.jpg佐助稲荷本殿
IdNDF_9WUEYioQ51422093544_1422093554.jpg霊狐泉(れいこせん)
佐助の稲荷山は往古より麓の田畑を潤す水源の地なり。生命の基のこの湧水を人々霊狐の神水とたたえ、家々の神棚に供えて稲荷のご神徳を戴くなり。今に至るも絶えず湧き出づる霊狐の泉なり
出典 佐助稲荷案内板





category: 鎌倉市

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石橋山で負けた頼朝はいずこへ  

VMjM5asTV9h4TqF1421918988_1421919010.jpg房総半島から望む三浦半島
治承四年(1180)八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、平家方の大庭景親(おおばかげちか)勢との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。
「吾妻鏡」によれば、「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島に着かしめ給う。
北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の千葉県南房総市鋸南町竜島とされています。
頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んだ理由と考えられています。
房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、九月三日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場(いっせんば)で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り味方を募り、情勢を見極めます。その間、州崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市丸山)などへ足を運び、十三日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。
東国の豪族たちを糾合し、平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。
出典 上陸地案内板 鋸南町教育委員会
ApQZXleQ7B250b91421919061_1421919079.jpg頼朝上陸の碑
pEIVJ480TtXEh8r1421919128_1421919143.jpg鋸南町路傍のお地蔵さんと水仙
YQJ68EUMvUHftSR1421919189_1421919211.jpg鋸南町水仙ロード

横須賀市久里浜ー千葉県南房総市金谷をカーフェリーが運航されています(片道40分)





category: 南房総市

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鉄観音もう一つの話・・・東京大観音寺と頼朝・政子  

前回前回へリンクでは、鎌倉の「鉄(くろがね)の井」で掘り出された鉄観音が、現在は東京都中央区にある、東京大観音寺の本尊として祭られていることを紹介しました。
今回は「新輯日本橋区誌」に載っている大観音縁起を紹介します。
この縁起によると、頼朝が平家討伐の兵を出している頃、政子が霊感によって井戸の中をさぐらせて古い鉄の観音の仏頭得たので厚く尊崇して諸願成就を祈念しました。
するとまことに霊験あらかたで源氏は勝ち軍(かちいくさ)をつづけ、頼朝はついに天下をつかさどる身となりました。
そこで頼朝は諸将に命じて金銅の丈六観音像を造らせ、新清水寺を建立したということのなっています。
観音像が東京へ移ったいきさつについては、狡猾な商人二人が鉄観音と正観音の二体を廉く(やすく)買取り、一儲けしようと船に積んで東京へ運ぶ途中、にわかに暴風が吹き起こり船は木の葉のように波にもてあそばれ、二人の商人は荒波の中に投げ出されおぼれて死んでしまいました。
しかし不思議にも船は仏像をのせたまま深川海岸に漂着しました。
これを「見聞ノ諸人奇異ノ思ヲナシ暫ク深川区ニ両像ヲ安置シ奉リシニ、往詣利益ヲ蒙ムルモノ挙ゲテ数へガタシ、因茲明治十三年中官許ヲ得テ、人形町ニ仮堂ヲ建立」したとあります。
出典 かまくらむかしばなし 沢 寿郎




category: 東京

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鎌倉の仏頭が東京の寺の本尊・・・東京大観音寺  

鎌倉八幡宮近くに、鎌倉十井のひとつである鉄(くろがね)の井があります。リンク先鉄の井
 この名の由来は、昔この井戸を掘ったとき、地中から大きな鉄の観音の首が出たのでつけられたということです。
そして明治の初めまでは、この井戸の向い側に、その観音を安置した「鉄観音」と呼ばれるお堂があったのですが、例の廃仏毅釈の騒ぎのときに、この観音堂も壊され、本尊の鉄観音は人手に渡ってしまい、今では東京人形町の大観音寺の本尊として祀られています。

出典 新板鎌倉名所記 沢 寿郎

鉄造菩薩頭
この菩薩頭は鋳鉄製で、総高170センチメートル、面幅54センチメートル。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ53センチメートルの後髻(こうけい)があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。
この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鎌倉八幡宮前の鉄の井から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治九年(1876)大観音寺に安置されています。
毎月11日・17日に開帳されています。
中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、都指定有形文化財に指定されています。

出典 大観音寺案内板 東京都中央区教育委員会

lMbkUMwUIG1WNjK1421575842_1421575857.jpg大観音寺
UgU_TUa9LSh6V0O1421575772_1421575787.jpg鉄観音
写真がよくありませんが、観音様の後ろに影のように映っているのが、元々鎌倉にあった鉄観音です。
想像以上に大きくて、少々手が震えてしまったようです(ごめんなさい)


所在地 東京都中央区日本橋人形町1-18-9





category: 東京

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不思議な徳利・・・銭洗弁天で宴会の神様達  

リンク先頼朝の夢枕に立った宇賀福神
リンク先こうして銭洗弁天になった

むかし、鶴岡八幡前の角正(かどしょう:現在の有料駐車場のところにあった旅館兼料理屋で、江戸時代から有名な家でした)へ白髪を長く肩のあたりまで波立たせたひとりの老人が、はくちょう(胴が丸くて首の長い徳利)を持って、酒を一升くれと云って買って帰りました。
次の日、またその老人が同じ徳利を持って、きょうは一升五合入れてくれと云います。店のものは、昨日一升注いでやったとき、たしか口きりいっぱいだったのに、変なことを云うじいさんだなと思いながら、注いでみると、一升五合の酒が一滴もあふれずに入りました。
そしてまた次の日、今度は二升買いにきました。しかも徳利は同じ徳利です。
店のものは、冗談じゃない、二升なんてとても入りませんよと、呆れ顔でいいました。
しかし老人は、なんでもいいから、注いで見なさいと言い張ります。
仕方がないので店のものは、枡ではかってニ升の酒を徳利に注ぎました。すると不思議にもちゃんと入ってすこしもあふれません。
びっくりしている店のものを尻目に、徳利を下げてたちさりました。これはただ人ではないと思った店のものは、そっと老人のあとをついて行ってみました。老人は振り返りもせず、すたすたと馬場小路のほうへ歩いていきます。
そして小袋坂へ曲がると途中の青梅聖天の辺から山へ登り、泉ヶ谷へ降り、それから化粧坂を通って隠れ里の岩窟へ入っていきました。
角正の店のものは、岩窟の入り口からおそるおそる中の様子をうかがいましたが、暗くて何も見えません。
しばらく立ちすくんでいると、岩窟の奥からおおぜいが楽しそうに笑いさざめく声が聞こえてきました。
この話を聞いた人達はみな、それは隠れ里にある銭洗の岩窟に福神たちが集まって酒盛りをしていたのだと噂しました。
そして不思議な徳利を持って酒を買いに来た老人も、もちろん福神の一人にちがいないということになりました。

出典 かまくらむかしばなし 沢 寿郎
古い絵葉書をみると、この地図に示す位置に「角正」があったと思われます(現在は駐車場になっています)







category: 鎌倉市

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宇賀福神社・・・こうして銭洗弁天になった  

前回までのあらすじ・・・リンク先頼朝の夢枕に立った宇賀福神
源頼朝の夢枕に立った宇賀神によって、その場所を探し当てたのが隠れ里と呼ばれる現在地の宇賀福神社である。
今回は、頼朝亡き後の宇賀福神社について記してみたい。

その後、正嘉元年(1257)、北条時頼は、頼朝の心を継いで、この福の神を信仰し、辛巳(かのとみ)の日を選んで人々に参拝させました。
そして時頼は天下の通宝である「銭」をこの水で洗い清めればきれいな福銭となり、その銭は必ず一粒百倍の力を現して、一家は栄え、子孫は永く安らかになるであろうとといって、自ら持っていた銭を洗って祈りました。
時頼の徳を慕って尊敬している人達は、競って時頼にならい、金銀財宝や証書や衣類までも持って来て、この水で洗い清めるようになりました。
すると不思議にも、一度この水で洗い清めた金銭は、どんな場合にもなくなることなく、お金の貸し借りの証文なども無事に済んで、貸借ともにめでたく幸福利益を得るようになったといいます。
それからいつともなく、銭洗いの水と呼ぶようになり、鎌倉五名水の一つとして知られ、巳の縁日には参拝する人が多いのです。
なお、弁天のご神体の宇賀福神は水の神で、体は蛇、頭は人の形をしています。
出典 かまくら子ども風土記

次回は、ここ銭洗弁天に伝わる昔話を紹介します。





category: 鎌倉市

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頼朝の夢枕にたった宇賀福神・・・銭洗弁天  

銭洗弁天への入り口
この宇賀福神社(銭洗い弁天)については、次のような話が残されています。
平安時代の終わりの頃は世の中が大変乱れ、その上飢饉が続いて、人々の苦しみは酷く、目もあてられない有様でした。
源頼朝は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。
巳(み)の年の文治元年(1185)巳の月巳の日の夜中、夢に一人の老人が現れ、「お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに楽しく暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。人々はこれを知っていない。
いま、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い神たちはいつしかいなくなる。そしてお前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこの隠れ里の宇賀福神である。」
といって姿を消しました。
夢から覚めた頼朝が、すぐに家来をやってその場所を探らせると、谷間に小さな川があり、その川をさかのぼると岩の間からきれいな水が湧き出て、夢で知らされたとおりでした。
頼朝はさっそく石工に命じて穴倉を掘らせ、社を建てて、夢に現れた宇賀福神をおまつりした。そして、毎日その水を運んで供えたので、天下はしだいに治まり、盗賊たちもたちまち滅んで、人々は安楽な日々を送るようになりました。
出典 かまくら子ども風土記
RGbr3ah_MBlBDl61421056289_1421056306.jpg宇賀福神社本殿
BJO5M98dk7n9HqB1421056345_1421056356.jpg銭洗いの洞窟

この宇賀福神社が、いつごろから「銭洗い弁天」と呼ばれるようになったか・・・・次回で紹介します





category: 鎌倉市

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これでも鎌倉十橋のひとつです・・・針磨橋  

鎌倉江の電極楽寺駅近く(月影ヶ谷入り口近く)に石の小さな橋があります。
この橋は鎌倉十橋の一つで、針磨橋(はりまばし)といいます。
また我入道橋(がにゅうどうばし)とも呼んでいます。
これは、この付近の極楽寺の塔頭(たっちゅう)に住んでいた「我入道」という坊さんが、針を磨(す)るのを仕事としていたところから、針磨橋や我入道と呼ぶようになったとか、また、針を磨るのを仕事としていたお婆さんが住んでいたからとだとも云われています。
出典 かまくら子ども風土記
その他の鎌倉十橋へのリンク
  十王堂橋
  逆川橋
  歌の橋
eAZ7fDRbgLunamX1420883181_1420883262.jpg橋のたもとに建つ石碑

FQ6sN3P4NZ00eNs1420883318_1420883328.jpg針磨橋





category: 鎌倉市

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お地蔵さんの膝枕は温かい?・・・聖福寺  

M_Jvr7cpCRcUuTd1420709283_1420709298.jpg聖福寺石碑
稲村ガ崎の一の谷(やつ)の奥に、聖福寺(しょうふくじ)と呼ばれるところがあります。この谷戸には、昔聖福寺という寺があったのです。
聖福寺は建長四年(1252)北条時頼が、子供時輔(聖福丸)、時宗(福寿丸)の無事に育つことを祈って建てた寺で、この二人の名をとって聖福寺としたのだそうですが、いつごろか廃寺になってしまいました。
出典 かまくら子ども風土記

お地蔵さんの膝枕で・・・・
昔、鎌倉津村に若いお百姓がいました。
或る日、極楽寺の親類に法事があって夜遅く帰ることになりました。手に引き出物の料理やお菓子の折などをぶら下げて
、ややほろ酔い気分で鼻歌まじりに磯風に吹かれながら歩いていました。
しばらくすると、後ろからすたすたと人がつけて来る気配がするではありませんか。
お百姓は、借りてきた提灯で後を照らしてみましたが、人の姿も犬の姿も見当たりません。そこで、また少し歩きますと、またすたすたと足音がします。そしてその足音は、もうすぐ後まで来て、一人から二人にといつか増えてまいりました。
お百姓はふと、七里ヶ浜に近頃追剥(おいはぎ)が出るという話を思い出しました。
これは大変なことになったと思い、口の中で念仏を唱えて歩きました。
すると前方にかすかに灯影が見えます。
灯影は、小さくゆれて細い道に入り、一軒のお百姓屋に入りました。
お百姓はやれうれしやと、地獄に仏とはこのことかと思いました。
そこでその家の雨戸を叩いて、ぜひ一夜を願いたいと、泣かんばかりに頼みました。
すると家の中から、大変お困りのようですから、なにもありませんが、一夜の宿をお貸ししましょう、というではありませんか。
雨戸をくって入ると、そこに花も恥らう美しい娘さんが坐っていました。
お百姓は、これはありがたいといっていま親類から貰ってきた折り詰めを開いて娘さんに勧めました。娘さんも、こんなご馳走は久しぶりですと喜んで食べました。
しばらくすると、雨戸の外で、誰かがごそごそ家の中を覗いています。
すると娘さんは、きょうはお客さんがいますので駄目ですよ。と云って、お百姓の持って来た料理をぽんと戸外に投げました。そして戸棚から小さい徳利と小さい茶碗をだして、お一ついかがですか。とお百姓に酒をすすめます。
お百姓は酒が入ると元気がでてきました。
月もこんなに美しく出ているし、おいとましましょう、と云いました。
娘さんは、それもよいとは存じますが、今宵は父も留守ですし、淋しいからお泊りになってください、といいます。
そしてうつつに娘さんの膝枕で楽しい夢を見ました。
やがて鶏の鳴く声に眼が覚めました。
春の陽光がまぶしくお百姓さんの顔を照らしていました。
お百姓さんが、どうも娘さんの膝枕で大変なそそうをしたと、恐縮して頭を下げてお辞儀をすると、そこは野原の真ん中ではありませんか。
よくよく見ると、お百姓はそこのお地蔵さんの膝を枕に、どうも一夜を明かしたらしいのです。
昨夜の徳利と茶碗が、そのお地蔵さんの前に供えてありました。
また昨夜の料理の折り詰めは、犬か何かが食い破ったようにちりぢりばらばらに散らばってるではありませんか。
若いお百姓は不思議そうにその膝をさすってみました。
するとお地蔵さんの膝は、若い娘さんのように温かいではありませんか。
通りすがりの村人にここはどこかと聞いたところ、村人は「ここは聖福寺だと答えて・・・昨夜は狼がえらく吠え立てたが・・・・と云いました。

出典 鎌倉案内 小澤 彰
l9TBC6dyX1ONlEm1420709343_1420709364.jpg今は公園となっている聖福寺跡

聖福寺跡にいくには、江ノ電稲村ヶ崎下車、山側へ徒歩15分




category: 鎌倉市

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ホームから見えるお地蔵さま・・・JR鎌倉駅  

JR横須賀線鎌倉駅一番線ホームから、お地蔵さんの背中が見えますよ。
CHQzDdNidfUNn3V1420536243_1420536254.jpg
ホームから見えるお地蔵さんの背中です。
JR横須賀線鎌倉駅一番線ホーム(逗子・久里浜方面)の真ん中辺りから見えますよ。
自転車駐輪場ビルの右端です。

Wx6WLcljZdqW5T61420536303_1420536318.jpg
駐輪場から見たお地蔵さん
大きな岩に坐っています。
後ろは横須賀線のホームです。

aKiI8FhIQfqkL2I1420536359_1420536374.jpg
駐輪場ながら、池もあります。
このお地蔵様について色々調べましたが、いつごろ、誰が、何の目的で作ったかはわかりませんでした。

(教えていただける方がいらっしゃいましたらお願いします)
鎌倉へ電車で行く機会がありましたら探してみてください。
きっと良いことがあるかも知れませんよ






category: 鎌倉市

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東京湾を見下ろす三浦大仏・・・横須賀市  

新年明けましておめでとうございます
今日からブログ再開します。
昨年以上に、今年もよろしくお願いいたします。


三浦大仏
横須賀市久里浜霊園の山の中腹から、東京湾を見つめています。
電車からも京急久里浜線YRP野比駅と京急長沢駅との間で車窓から見ることができます。
1gCvk2_9rnGz12q1420364856_1420364867.jpg五重塔
三浦大仏よりもっと登ったところにあります。
この塔の近くから山に入れば、大蛇伝説の大岩があります。伝説リンク先joVSUMnzmyyn38Q1420364721_1420364741.jpg大仏付近から見た東京湾
MrsrPF9cEDWZdVf1420364910_1420364925.jpg五重塔付近で見かけた犬(名前はあんなちゃん)
3XL2WdtkrqmC3BX1420364966_1420364979.jpg子供みたいに抱っこのだいすきな小太郎ちゃん





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