FC2ブログ
歩けば見つかる小さな歴史 ホーム » 逗子市 »幼き命が散った三浦氏滅亡の悲史

[PR]ウィルス感染注意

今すぐ↓クリックして早めに予防を。 30日間無料体験できます。

楽天市場

忍者キャンペーン

幼き命が散った三浦氏滅亡の悲史  

遺狐碑
遺狐碑の由来
この碑に書かれている銘文は「忠臣三浦胤義遺狐碑」である。
これについての話は六代御前が処刑されてから二十二年後の承久三年(1231)頼朝の死後、後鳥羽上皇が兵を集め、執権北条義時打倒をはかった承久の乱のときにさかのぼって始まる。
上皇の計画に加わった三浦義澄の子胤義は朝廷方に味方した幕府の有力者で、兄の三浦義村に仲間入りを勧める密書をおくった。
しかし義村は北条方にこれを内通したため計画は露見してしまった。
こうして上皇軍は大敗し、胤義は自刃し果てたのである。そしてこの乱の後、上皇は島流しになり、上皇の軍に加わった者は容赦なく処罪が行われた。
そのとき胤義には十一歳を頭に五人の子があったので、三浦の矢部に住む義村兄弟の母(祖母)のところに引き取られていた。
ところが北条義時は残酷にも義村に「この子供たちを殺せ」と命令を与えた。
義村は部下の小川十郎を使わして、処刑する子供を連れて行こうとしたが母はそれを知って可愛い孫を手放すわけにはいかず「せめて一番上の子だけは不憫でならず」と泣いて頼み、その代わり母の首を持ち行かれよと願い、ようやく許されて十二歳になる子供だけを残してあとの四人の九歳、七歳、五歳、三歳の子供を無理に連れ出し、田越川畔で切ろうとした。
しかし相手は髪を垂らした十歳にも満たない幼な子たちで、乳人にすがり泣き叫ぶ姿はあまりにも残酷であった。
しかも三歳の末の子は、今殺されることも知らず、乳人の乳房にとりすがり無心な表情を浮かべている様は哀れで兵たちは目も当てられず、陽の沈むのを待ち、子供の顔が見えなくなってから斬り殺したという。
思えば栄枯盛衰は世のならいとはいえ、罪なき幼な子の処刑はあまりにも悲惨である。
その後幾度か春をおくり秋を向え、いつのまにかこの地の人々の記憶からこの悲惨な物語りは消え去って永い歴史の中で風説化したこの史実は誰一人として目を止める者がなくなった。そして流れる川の水面(みずも)にもありし日の悲しみの姿は映ることなく今日では昔を語る術(すべ)を知らない。span>
<出典>「三浦半島の史跡と伝説 松浦豊著

田越川
幼な子の処刑は、この田越川の河原で行われたという

残念ながら、首塚堂は今はありません



powered by 地図Z

地図右下「この地図の詳細」をクリックして下さい。地図のナビゲーションに歩行距離が出ます。
スポンサーサイト



category: 逗子市

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://sgo0213.blog.fc2.com/tb.php/299-db275119
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

コメント・メールお待ちしています。

セブンフリーエリア

自宅で注文、お店で受け取り

セブンネット検索

フリーエリアセブン

このブログのQRコード

健康BMI

カテゴリ

貧血防止に

やわた

カラミーショップ

愛犬用のサプリメント

タニタのグッズ

早いもの勝ち

あなたの口臭大丈夫?

家族葬儀のご提案

フリーエリア

フリーエリア

カード作るなら楽天におまかせ

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

メールはこちらから

▲ Pagetop