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わびしく建つ古城の碑  

三崎城跡碑

三崎城跡
このあたり一帯(三浦市市役所・三浦市立三崎中学校等)は城山といい、古城の跡である。三崎城は海にのぞみ丘陵に地の利を得、土塁、空堀を幾重にも組み合わせた中世の城で、築城の年月は不詳であるが永正十五年(1518)七月十一日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壺)に亡ぶとき、三崎城もまた落城した。
その際囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れなお抵抗を続けたという。
その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円に領域を拡げていった、三崎城は三浦一族累代の居城新井城の背後をまもる重要な支城であるとともに水軍の根拠地でもあったといわれている。
落城の後、北条氏はこの城に五代にわたり兵を置いたことからいまに北条山の地名が残っている。
しかし、天正十八年(1590)豊臣秀吉に攻められ小田原北条氏の滅亡にともない三崎城は廃城となった。

三浦市
dOqA50JuNoE7GxB1382012048_1382012073.jpg白い建物は市立三崎中学校

このあたり一帯は「城山」と呼ばれてきましたが、以前は「宝蔵山」または「北条山」「陣屋山」などとも呼ばれていました。今でも土塁(土手)の一部が残っています。
その理由は永正年間(1504~1520)の頃、油壺にあった新井城の城主であった三浦道寸義同の持城(出城・支城)だったことに由来します。
新井城は油壺にあったので、房総方面を望むことは出来ません。そのため、当時房総半島一帯を支配していた里見氏の軍勢の様子を直接見張るため設けられたのが三崎城でした。
永正十三年(永正十五年ともいわれます。)の七月、三浦道寸義同が北条早雲と戦ったときは、養父にあたる時高の弟だといわれている三浦三郎高信がこの城を預かっており、出口次郎左衛門尉と称して道寸親子を応援していたといわれます。
しかし新井城が滅ぼされると出口次郎左衛門尉は、三富実右衛門、亀崎兵部、鈴木某氏等の同志とともに城を捨て、城ヶ島に渡って籠りました。城ヶ島を一名「尉ヶ島」と呼んだのはこうした由来によるものといわれています。のちにこれらの人たちは北条氏と講和を結び「三崎十人衆」として北条氏に従い三崎一帯を守りました。
その後は横井氏がこの城を守り、天文年間(1532~1554)至りました。
弘治二年(1556)に梶原備前守をはじめ富永、遠山氏らは、対岸の安房(千葉県)から攻めてきた里見義弘氏と城ヶ島やこの城で戦いました。
永禄八年(1565)三月上旬に北条氏康はこの城に来て三崎や城ヶ島の桜花を観て楽しみました。
以後、何人かの城主が代わり小田原開城におよんで朝比奈弥太郎に渡して退き、後に廃城となりました。

出典 「三浦こども風土記」 三浦市教育委員会
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