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源義経を討つはずが返り討ちに・・・土佐坊昌俊邸跡  

G7zb4uIrLDfUXNa1411379438_1411379461.jpg土佐坊昌俊邸跡碑
鎌倉宝戒寺前

土佐坊は源頼朝の命により、源義経追討にあたった人物である。
平家追討に数々の戦功のあった源義経であったが、頼朝の許可なく任官したため頼朝の不興を買い、また有力御家人の梶原景時と対立することもあって、ますます頼朝から不信の念をもたれることになった。
文治元年(1185)五月には生け捕りの平宗盛父子を伴って鎌倉に下向し、義経にとってはいわば戦勝の凱旋(がいせん)のはずであったが、頼朝から鎌倉入りを拒否され、義経は腰越に止められた。
義経は頼朝の勘気を解くため自らの立場を訴える「腰越状」を記し、大江広元にとりなしを依頼したがついに頼朝の許しを得ることが出来ず、再び宗盛父子を伴い(近江の国篠原にて処刑①)帰洛の途についた。
同年八月に義経は、伊予守に任官し、また京都における義経の動静を探らせた梶原景時が京より帰参するとただちに報告を受けて頼朝は義経追討を決意する。
その討伐の任命にあたって多くの人々は辞退したが、進んで受けたのが土佐坊昌俊であった。
それは同年十月九日のことで、十月十七日には早くも義経を京都六条室町亭に襲うが破れ、十月二十六日捕らえられて六条河原で斬られた。
以上は概ね「吾妻鏡」の記述にしたがっているが、また平家物語(巻十二)、源平盛衰記(巻四十六)さらに当然の事ながら「義経記」(巻四)などに相応の潤色を加えて取り上げられ、古来人々によく知られた話である。

出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫

本文中の①は滋賀県観光情報にリンクしています







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コメント

No title

義経の件ですが、腰越状は史実ではありません。
駿河清重笈焼きの松が片瀬の大磯道(古東海道)に残っていることから、義経は片瀬あたりに留まっていたとみるべきでしょう。
往古は片瀬、腰越は一体の地だったようです。

片瀬の住人 #- | URL
2014/09/23 12:21 | edit

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