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鎌倉武士の典型、剛勇廉直の畠山重忠邸跡  

畠山重忠邸跡碑
重忠は、源頼朝挙兵の際は平家方についたが、のち源氏に服属。
木曽義仲や平家の追討に大いに活躍し、剛勇廉直の鎌倉武士の典型として、源頼朝の信頼も篤かった。
大蔵(大倉)幕府に近い南御門に邸宅を与えられたのも信頼の表われと思われる。
石碑には正治元年(1199)五月、頼朝(同年一月にすでに没している)も次女三幡姫が病み、その治療のために、当時の名医丹波時長が京より鎌倉へ下ってきたが、止宿先が亀ヶ谷(かめがやつ)であったので、療治のために姫君の住む御所近くの重忠邸にうつった旨の「吾妻鏡」の記事を記し、重忠邸が大倉幕府に近い、しかも信頼のおける配下の邸宅であった趣をしめしている。

畠山重保は重忠の長男である。(赤字は重保の墓へリンクしています。)
重保は元久元年(1204)十一月、三代将軍実朝の御台所(坊門信清の娘)を京都に迎えに行く人数に加えられて上洛したおり、京都守護職の平賀朝雅(北条時政の後妻牧の方の娘婿)と酒宴の席で言い争いが始まった。
それを根にもった朝雅は重保のことを義母牧の方に讒訴(ざんそ)し、牧の方は当然時政の耳に入れる。
時政はこの機をを逃さない。
もともと比企滅亡後武蔵の国において勢力圏の接近する武蔵畠山荘の領主重忠と朝雅との対立が加わったことを好機と捉えて、重忠親子の誅殺を内々謀るにいたる。
時政自身も武蔵国への進出を企図していた。
子息義時と時房がこれを諌めるという経緯もあったが、重忠の謀叛すでに発覚ということで押し切り、元久二年(1205)六月二十二日早朝、まず重保を由比が浜に誘い出し謀殺した。
出典 深く歩く鎌倉史跡散策 神谷道倫





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